1223日目・・・「1223」年=「壱千(阡)弐百(陌)弐拾(念)参」歳・・・1+2+2+3=8・・・1×2×2×3=12・・・「犬や猫」にも「仏性」はあるか、だって?・・・「フランスで飼われている犬猫?」・・・真面目に、「仏性」?・・・「生きとし生けるものは、みな仏陀(完成された覚者?)と成り得る資質を持っている」・・・可能性の問題なんだ・・・ならば、「生きとし生けるものは、みな仏陀には成り得ナイ資質」でもあるんだ・・・「解釈の違い」ですか?・・・イイ質問だね・・・「覚者」とは「意識された自覚のヒト」

 さまざまに解釈されるらしい「仏性」の「悟り」はいらない。必要なコトバは唯、一つ、「公平」・・・現実的な「衣食住」の「公平な社会生活」への希求への「意識化」・・・「あるがママ=自然」の「生活」でない。だが、「自然界の枠内」で「共存」を目指す意識化された「社会生活」・・・「仏性」は「人間社会」での「現実的な物性」を無視し、その実現を「浄土」に求めた。そして、生きている人間の「教義の理解度」に「階級」をつくり「序列」を配し、尚且つ、逝ってみなければ経験できない「死後の世界」にも「階級序列」を創ってしまった・・・反面、思想的に「無防備(無殺生)」になり、現実的にも優しい「仏教国家」になってしまっては、現実的な「回教徒の聖戦(ジハード)」に滅ぼされざるをえなかった。「ホトケへの他力本願」ではダレもが生きては救われなかった。「自力本願」でも「個人の心身能力の開発」であったからダレも救わず、自身の「即身成仏=ミイラ化」を目指した・・・兎に角、「涅槃」の先よりも、今現在である・・・「だます・だますな・だまされない」、「ぬすむ・ぬすむな・ぬすまれない」、「殺傷・殺傷するな・殺傷されない」、「差別・差別するな・差別されない」の対人社会相互関係である・・・
ーー
 1223年
 干支=癸未・・・ミズノトのヒツジ
         水の都の比通字
         癸未=キミ→紀視・キビ→紀備
               紀伊尾張・吉備
ミズノは「水野忠邦」だろう?
         ト(徒)は「鳥居耀蔵」だろう?
 天保年間
 文政十三年・1830年(庚寅)〜天保十四年(癸卯)・1843年
 文政十三年十二月十日(1831年1月23日庚寅)天保改元
 天保 二年(1831年辛卯)
 天保 四年(1833年癸巳)
 天保十四年(1843年癸卯)
 天保十五年十二月二日(甲辰1845年1月9日)弘化に改元
ーー↓ウイッキペデア
 「欽崇天道、永保天命」(『尚書』)
 この元号平安時代後期
 仁平四年(1154年)の改元の際にも最終候補に挙げられた
 当時の
 左大臣
 藤原頼長
 「天保」を
 「一大人只十」と漢字分解し
 「付き従う臣民がたった十人」と読めるので
 縁起が悪いと猛反対した
 「久寿(キュウジュ)」に差し替えられたという故事がある・・・らしい・・・「仁平」の後、「保元」の前の元号で、1154年〜1155年までの期間・・・「久寿」も「音」を採れば「クジュ→口授」か「句受・苦従」である・・・久寿元年(1154年)八月十日に、「越中国・新川郡・新治村が海嘯のため陥没」・・・であった・・・
 「海嘯(カイショウ)」は河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象である。「潮津波(しおつなみ)」とも呼ばれる。
 昭和初期までは「地震津波も海嘯」と呼ばれていた。
 中国銭塘江の
 「海嘯」は「銭塘江潮」と呼ばれる
 「钱(銭)塘江大潮」、
  中国語の「海啸」は、「津波」の意味
 毎年八月十九日、
 旧暦で「十五夜」の時に、発生
ーー↓天保年間1830年〜1843年
 1830年
 7月27日フランス「7月革命」勃発
 11月29日ロシア帝国支配下
       ポーランドワルシャワで蜂起
 元年(1830年)庚寅
 セイヴァリーら
 小笠原諸島に移民
 二年(1831年)辛卯
 安治川の浚渫工事・天保山の築造
 六年(1835年)乙未
 天保通寳発行
 七年(1836年)丙申
 天保騒動(甲斐国
 三河加茂一揆
 八年(1837年)丁酉
 八月
 大塩平八郎の乱
 生田万の乱
 モリソン号事件
 徳川家慶が将軍に就任
 七月 保字金発行
 十一月 保字銀発行
 九年(1838年)戊戌
 十年(1839年)己亥
 蛮社の獄
 渡辺崋山高野長英らが処罰
 十一年(1840年)庚子
 アヘン戦争
 十二年(1841年)辛丑
 水野忠邦天保の改革開始
 奢侈禁止令・株仲間解散令
 十三年(1842年)壬寅
 七月
 日本三名園のひとつ、
 水戸偕楽園が造園
 十四年(1843年)癸卯
 十五年(1844年)
 天保暦に改暦
 天保の大飢饉
 伊勢お陰参り流行
 長州藩天保一揆
 村田風を登用して藩政改革
 天保の改革
 天保十二年(1841年)
 大御所家斉が死去
 水野忠邦
 林・水野忠篤・美濃部ら西丸派や大奥に対する粛清
 同年五月十五日
 将軍
 徳川家慶
 享保寛政の改革の趣意に基づく幕政改革
 水野は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じた
 大奥は
 姉小路ら数人の大奥女中に抵抗され、改革の対象外
 同年に町奉行には忠邦腹心の
 目付
 鳥居耀蔵が着任
 問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制や公定賃金を定め
 没落旗本や御家人向けに
 低利貸付や累積貸付金の棄捐(返済免除)
 貨幣改鋳をおこなった
 政策は流通経済の混乱を招き、不況が蔓延
 天保十四年
 人返令が実施
 上知令を開始
 上知令の実施は反対があり、
 中止
 天保十四年閏九月十四日
 水野は老中職を罷免失脚
 し、諸改革は中止
ーー↓1223年
 日本
 貞応二年・・・・ジョウオウ→女王(女負)似念
 皇紀1883年
 中国
 南宋=嘉定十六年・・・箇条、壱拾陸、撚
 金=元光二年・・・・・「現行・言行・原稿」爾念
 大真国=天泰九年・・・「天体・転貸・典他意」玖念
 中国周辺
 西夏=光定十三年・・・「公定・行程・校訂・孝綴」拾纂撚
    乾定元年旧十二月〜・・・「鑑定」願念
 モンゴル帝国
    太祖(チンギス・ハーン)十八年
        成吉思汗    拾捌念
 大理国=天開十九年・・・・・「天海・展開・転回」拾玖念
 朝鮮
 高麗=高宗十年・・・・・・・・構想壱拾念
 檀紀3556年・・・・・・・・段記纂撰語比訳後拾録
 ベトナム
 李朝=建嘉十三年・・・・懸架・県下・献花・堅果・喧嘩
 仏滅紀元=1765年〜1766年
 イスラム暦=619年〜620年
 ユダヤ暦=4983年〜4984年
ーー↓1223年
 高陽院が放火により焼失・・・・紅葉・甲陽・効用・公用
 高陽院(かやのいん)・・・・・蚊帳音・掛埜因
 平安京にあった里内裏
 賀陽院(かやのいん)ともいう
 西洞院大路の西・・・・・・・・政道・正道・作移動・西道
 大炊御門大路の北に位置・・・・代水語文他意字、記拿
 南北四町の大邸宅
 桓武天皇
 第七皇子
 賀陽親王の邸宅
 保安二年(1121年)
 摂政 関白・藤原頼通
 敷地を倍に広げて豪華な寝殿造の建物を造営
 頼通は、宇治平等院に引退した後は、
 その所有権は摂家当主に継承させるものの、
 邸宅自体は里内裏として提供
 後冷泉天皇以後・・・・・・語例正転向
 五代の天皇がここに居住し
 「累代の皇居」と呼ばれた。
 鳥羽上皇の皇后となった
 藤原泰子(頼通の曾孫にあたる摂政関白・藤原忠実の長女)に
 「高陽院」の女院号が与えられたのも、
 ここに居住していたことに由来。
 その後、
 長暦三年(1039年)・・・・超歴纂年
 天喜二年(1054年)・・・・転記似念
 承暦四年(1080年)・・・・証歴史年
 天永三年(1112年)・・・・典(顛・槇)洩纂撚
ーー↓         テンエイ  ↓
           「顛(テン)」=真+頁
            てっぺん・物の先端・顛末・山顛
            逆さになる・ひっくり返る
           「顛倒・顛沛(テンパイ)・顛覆・動顛」
           「転」を代用字とすることがある
           「顚」は正字
           「槇(シン・テン)」=まき・こずえ
            イヌマキコウヤマキの別名
            よい木、木材のスギやヒノキの総称
            まき=巻・真紀
            ↓
            テンエイ
            添「江井(エイ)」
                 ↓
                 兵庫県
                 淡路市
                 江井
                 鍵之町
            ↓エイ
            英・・・英語・英国
            頴(ほ)・洩(もらす)
            ↓エイ
            頴娃
            ↓          
            頴娃町(エイちょう)
            鹿児島県(離島部を除く)の南部に
            あった町で、揖宿郡に属していた
            ブログ記事の「武家家伝」によれば
             ↓
            寛仁三年(1019)
           「刀伊の乱」に活躍した武士に
            平為賢の一族に九州総追捕使を務めた
            伊佐平次がい、その子孫から
            川辺氏・給黎氏・薩摩氏・別府氏
            揖宿氏・知覧氏・阿多氏など、
            伊佐平氏と呼ばれる一族が派生し
            頴娃氏もその一族
            家紋は「十文字」
            伴氏流肝付氏族
           「十字」紋は島津氏から賜ったもの
            それ以前は
           「雁(かり・がん)」紋を用いていた・・・
              借・仮・元・含・贋・・・眼・願・・・?
           「頴」=ヒ+示+頁
               ほさき・すぐれる・エイ
               ほ・かい・成り立ち
           「娃」=女+圭(十一十一)
               うつくしい・ア・アイ
               美女・少女・子供・子供の動物
               丸く窪んだ目
               深い、窪み
ーーー↓高陽院が
 天永三年(1112年)
 に
 焼失したがその都度再建された。鎌倉時代に入ると
 後鳥羽上皇が院御所として院政の拠点とし、
 承久三年(1221年)に「承久の乱」につながる
 鎌倉幕府打倒の謀議を行ったのもこの高陽院だった。
 承久の乱後の
 貞応二年(1223年)放火、焼亡
 以後
 再建されることはなかった
 今日では
 丸太町通
 堀川東入ルに
 「高陽院邸跡」の銘板がある・・・らしい・・・
ーー↓1223年
 従容録の成立・・・・・・・・重要賂句
 従容録(しょうようろく)・・証要録
 中国宋時代の仏教書
 万松行秀編・六巻
 万松老人評唱天童覚和尚頌古従容庵録
 曹洞宗で重んずる公案
 宏智正覚の
 頌古百則に、
 序論的批評(垂示)、
 部分的短評(著語)、
 全体的評釈(評唱)を加える。
ーー
 無門関(むもんかん、無門關)
 中国宋代に
 無門慧開によって編集された公案
 宋時代(1125年)に
 圜悟克勤によって編された
 雪竇重顕選の公案百則に、
 垂示(序論的批評)、
 著語(部分的短評)、
 評唱(全体的評釈)を加えたもの。
 「趙州狗子(狗子仏性、趙州無字)」の
  公案は、
 「犬にも仏性はあるか」に対し、
 「無」と答えた
  禅者が最初に与えられる課題であり、
  これを解くのに三年はかかるといわれている難問・・・?
  狗子仏性(くしぶっしょう)は・・・句詞部通章
 「従容録・第十八則」では
 「趙州狗子」、・・・・・召集・小州・正宗
 「趙州無字」とも言う。・・・・「長州・上州」武事
 「趙=チョウ・ジョウ」
ーー
 碧巌録(へきがんろく)・・・碧眼賂句
 仏果圜悟禅師碧巌録
 碧巌集とも呼ばれる
 臨済宗において尊重される
 代表的な公案集・全十巻
ーー1223年
 誕生
 一条実経鎌倉時代の公卿
 エリナー・オブ・プロヴァンス
 イングランド王ヘンリー三世の王妃
 死去
 2月28日
 貞応二年一月二十七日
 慶円、平安時代鎌倉時代の僧
 3月25日=アフォンソ2世、第3代ポルトガル
 6月14日
 貞応二年五月十四日
 守貞親王、皇族
 7月14日=フィリップ2世
       フランス王国カペー朝第七代国王
 9月13
 貞治二年八月十七日
 覚海、平安時代鎌倉時代真言宗の僧
 12月20日
 貞応二年十一月二十七日
 大友能直鎌倉時代の武将、御家人、大友氏初代当主
 宣宗、金の第八代皇帝
 ムカリ、モンゴル帝国の武将
ーーーーー
 枕草子
 (一一七段)・・・百十七段・壱百壱拾七段・佰拾漆段・陌足漆段
          1+1+7=9=九=玖
          1×1×7=7=七=漆
 
 湯は・・・・「ゆ・トウ」は
       「湯=水+昜(ヨウ・トウ・チョウ)」
        開く
        昜=日+一+勿(モチ・フツ・なかれ=否定)
        一に曰く、飛揚(ひよう) す
        一に曰く、長なりと
        一に曰く、彊(つよ)き者
             衆(おお)き皃
        (説文解字
        ・・・はじめに「いわく」なかれ(莫れ・毋れ)・・・
       「日(ひ)」か「曰(いわく)」のどちらかは
       「陽・揚」の「昜」であるから「日(ひ)」である。
       「曰(いわく・いはく)」は物事の由来説明である
       「物」の「勿」であるから「存在」で
       「人間の感覚で把握できる形をもつ認識対象」
       「人間の認識思惟思考で形成された心象形をもつ対象」
       「人間の妄想空想で形成された虚妄対象」
        でもある・・・
        日本語の「いわく・ゆわく」は「結わく・結ぶ」でもある
       「イワクありげな」、とは「怪しい・疑わしい」である
        ↓昜
        台上に玉(日)をおき、その玉光が下方に放射する形。
        もと玉光をいう字・玉を揚げて魂振りの儀礼に用いた
        「飛揚」の意(字通)
        ↓
        易=日+勿(勹+〃→々・仝・同)
        易(かえる・やさしい・エキ・イ・ヤク→訳)」
        勿=勹(つつむ・ホウ・ヒョウ)
          +
          〃(おなじ・々・仝・同)
        同じ日はない、同じ日のナカレ(名借れ)・・・
        同じヒではナイ・・・
ーー↓ーーーーー↓湯は
        喩葉・諭葉・由葉・油葉・輸場
 七久里・・・
 (ななくり)・・・名納句理・名拿繰(操)
 の・・・
 湯。・・・
 有馬・・・結う葉・遊場・熊場・結う頗(よこしま)
 の・・・
 湯。・・・
 玉造・・・・・・・・「多摩・多磨・弾・霊・珠」通句理
 (たまつくり)・・・他真通句理
 の・・・・・・・・・之
 湯。・・・・・・・・喩・諭
ーーーーー
 ・・・「ユ」で「さとす」のはムズカシイ・・・「古事記垂仁天皇」では「玉造部」とは没収された・・・「作玉人等、皆奪其地」・・・「日下部(秦氏)」の地であった・・・?・・・、戦国時代の大名、越前朝倉氏は「本姓、日下部氏」、「彦坐王の子孫」と称する「但馬国造家」の流れ・・・?
ーー
 難波の玉作部の話し(仁賢天皇六年九月の条)
ーー
 五伴緒(いつとものを)
 天児屋命・・・・・屋名→展示屋・典字屋
 布刀玉命・・・・・玉名→不当・不等・譜等
 天宇受売命・・・・売名→転得従
 伊斯許理度売命・・売名→伊(藤)斯を許す理の度、売名
 玉祖命・・・・・・禦句素名→玉名
ーー
 玉作部 広目(たまつくりべ の ひろめ)
 奈良時代の防人・駿河国静岡県)の人
 玉作部(たまつくりべ)
 勾玉などの製作を生業とした部民
 天平勝宝七歳(755年)二月
 防人として筑紫に派遣される
 我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻悲しも
 (万葉集20-4343)
 玉名は熊本・・・岱明町横島町天水町対等合併
ーー↓玉造部
 ・・・以下の「欠落文字」は旧漢字・・・あしからず・・・「本文」は「古事記全文」と「日本書記全文」のブログ記事です・・・
 古事記
 前略・・・
 爾天皇詔之吾殆見欺乎、乃興軍擊沙本毘古王之時、其王作稻城以待戰。
 此時沙本毘賣命、不得忍其兄、自後門逃出而、納其之稻城。
 此時其后妊身。於是天皇、不忍其后懷妊及愛重至于三年。
 故、廻其軍不急攻迫。如此逗留之間、其所妊之御子既產。
 故、出其御子、置稻城外、
 令白天皇、若此御子矣、天皇之御子所思看者、可治賜。
 於是天皇詔、雖怨其兄、猶不得忍愛其后。
 故卽有得后之心。
 是以選聚軍士中、力士輕捷而宣者、取其御子之時、乃掠取其母王。
 或髮或手、當隨取獲而、掬以控出。
 爾其后、豫知其情、
 悉剃其髮、以髮覆其頭、
 亦腐玉虬、三重纒手、且以酒腐御衣、如全衣服。
 如此設備而、抱其御子、刺出城外。
 爾其力士等、取其御子、卽握其御祖。
 爾握
 其御髮者、御髮自落、
 握其御手者、玉虬且絶、
 握其御衣者、御衣便破。
 是以取獲其御子、
 不得其御祖。
 故、其軍士等、還來奏言、
 御髮自落、御衣易破、
 亦
 所纒御手
 玉虬便絶。
 故、不獲御祖、取得御子。
 爾
 天皇悔恨而、
 惡
 作玉人等、
 皆奪
 其地。
 故、
 諺曰
 不得地
 玉作也。
ーーー
 「日本書記・垂仁天皇
 前略・・・
 於是、皇后悲之曰、吾雖皇后、既亡兄王、何以面目、莅天下耶、
 則抱王子
 譽津別命、而入之於兄王稻城。
 天皇更﨟軍衆、悉圍其城。
 卽勅城中曰、急出皇后與皇子。
 然不出矣。
 則將軍八綱田、放火焚其城。
 於焉、
 皇后令
 懷抱皇子、
 踰城上而出之。
 因以奏請曰、妾始所以逃入兄城、若有因妾子、免兄罪乎。
 今不得免、乃知、妾有罪。
 何得面縛。自經而死耳。
 唯妾雖死之、敢勿忘天皇之恩。
 願妾所掌后宮之事、
 宜授好仇。
 其丹波國有五婦人。志並貞潔。是丹波道主王之女也。
 道主王者、
 稚日本根子太日々天皇之孫、
 彦坐王子也。・・・彦坐命=日子坐王=彦今簀命=開化天皇第三皇子
 一云、
 彦湯産
 隅王之子也。
 當納掖庭、以盈后宮之數。天皇聽矣。
 時火興城崩、軍衆悉走。
 狹穗彦與妹共死于城中。
 天皇、於是、美將軍八綱田之功、
 號其名謂倭
 日向武日向彦八綱田也。

 七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言、
 當麻邑・・・タマのクニ(むら)
 有勇悍士。
 曰
 當摩蹶速(たいまのけはや・たぎまのけはや・タエマクエハヤ)。
     「蹶(ケツ・つまずく・たおれる・顛蹶
      はね起きる・蹶起・蹶然」・・・蹶→蹴
      ・・・玉を蹴る速い・・・サッカー(蹴鞠・蹴球)?
 其爲人也、强力以能毀角申鉤。
 恆語衆中曰、於四方求之、豈有比我力者乎。
 何遇强力者、而不期死生、頓得爭力焉。
 天皇聞之、詔群卿曰、朕聞、當摩蹶速者、天下之力士也。
 若有比此人耶。
 一臣進言、臣聞、
 出雲國有勇士。
 曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。
 卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰
 於是、
 野見宿禰自出雲至。
 則
 當摩蹶速
 與
 野見宿禰
 令捔力。
 二人相對立。
 各舉足相蹶。
 則
 蹶折
 當摩蹶速之脇骨。
 亦
 蹈折其腰而殺之。
 故
 奪
 當摩蹶速之地、
 悉賜
 野見宿禰
 是以
 其邑
 有
 腰折田之縁也。
 野見宿禰
 留仕焉。
ーーー
 ・・・玉造・玉名・當摩・野見・・・諺曰、不得地、玉作也・・・
ーーー
 子曰、
 吾
 十有五而志乎學、
 三十而立、
 四十而不惑
 五十而知天命、
 六十而耳順
 七十而從心所欲、
 不踰矩。(論語
 ・・・・・踰(ユ・ヨウ)=こえる・超える・越える