1212日目・・・アメがシトシト・・・本日の収穫はキュウリ三本、トマト一個・・・鬼百合満開・・・寄り添ってくるモノ・・・蝿が一っ匹、ニャンコが二匹・・・体調不良・・・体重55キロ・・・息はしているし、心臓も動いている・・・「意気(イキ)」ですか・・・「域・閾・行・位記・遺棄・委棄・壱岐・異記」・・・

 意気・・・事を成し遂げようとする積極的な気持ち・気概・いきごみ・気だて・気性・気前・意地・いきじ・・・‎意気揚揚・‎意気相投ずる・‎意気が揚がる・‎意気天を衝く・・・意気軒昂・奮い立つさま・元気や勢力が盛んなさま・威勢のいい様子・・・原動力・生気・精根・精魂・ヴァイタリティ・精力・ 気力・血気・バイタリティ・精気・神気・活気・エナジー・気勢・・・どうやら漢字の「文字道理」には理解できないシロモノがニホンゴらしい・・・カンジである・・・
 「生意気な言動」って「生きている者の心意気」なのかな?・・・「What (a) nerve!」・・・「What cheek!」・・・
 「何」を云ってるン、ダロウかネ、ッ・・・?
 ・・・アヘン(阿片・鴉片)禁止論を唱えた・・・今に始まったコトではない、「アベの変・カラスの変」・・・そして、林則徐の志し・・・「臨即駆除」・・・
 林則徐
 1811年(嘉慶十六年)、二十七歳、科挙に合格、進士・・・
 北京の「翰林院」で多くの
 行政資料を目の当たりにしてその研究に励んだ・・・
 1837年(道光十七年)
 湖広総督(湖北省湖南省の長官)
 所轄管内で
 阿片根絶に行跡、業績で実績
 黄爵滋の
 「阿片厳禁論」に賛同し上書
 道光帝は
 1838年
 林則徐を阿片禁輸の
 欽差大臣に任命
 1839年(道光十九年)
 林則徐は、イギリス商人の阿片を
 全て没収し、処分
 イギリス東洋艦隊が天津で恫喝
 清の上層部は狼狽し、慌てて
 林則徐を解任
 後任の
 蒅善は、
 清が大幅に譲歩した
 南京条約を結ぶ
 穆彰阿によって
 欽差大臣を解任された
 林則徐は新疆に左遷
 林則徐はここで農地改革
 善政を布いた
 1849年(道光二十九年)に隠棲
 太平天国の乱の勃発で
 太平天国に対する
 欽差大臣に任命
 任地に赴任の道中
 普寧で病死
 両広総督兼南洋大臣などをつとめた
 葆腊(1820年〜1879年)の
 妻は、
 林則徐の娘の
 林普晴(1821年〜1873年)である
 現今の・・・大陸中国、韓国、そして、日本には「林則徐」は存在しない・・・
ーー↓ウイッキペデアより抜粋添付
 欽差大臣
 Imperial Commissioner
 High Commissioner
 清朝皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官
 その中でも特に三品以上のもの
 本来は臨時官だが、時代の変遷と共に常設化したものもある。
 1838年 林則徐(一回目)・アヘン問題解決のため英吉利(イギリス)との交渉を担当
 1840年 蒅善・アヘン戦争講和交渉を担当(講和完了前に罷免)
 1842年 耆英南京条約締結
 1850年 林則徐(二回目)・太平天国鎮圧を担当(途中病死)
 1852年 葉名琛南京条約後の貿易問題の交渉を担当(アロー号事件の対処も担当)
 1852年 向栄
 1858年 耆英(二回目)・天津条約締結交渉を担当(成功せず)
 1860年 恒福・天津条約調印後の英仏の武力行使を止めるための交渉を担当
 1860年 親王載垣・恒福の交渉が決裂に終わったため交代
 1860年 恭親王奕訢・怡親王載垣の交渉も決裂に終わったため交代(北京条約を締結)
 1871年 沈葆腊・日本軍台湾占拠の牡丹社事件への対応交渉を担当
 1875年 左宗棠(一回目)・ヤクブ・ベクの乱により清朝の支配力が弱体化した新疆の軍務を担当
 1885年 左宗棠(二回目)・清仏戦争終結のためにフランスと講和交渉を担当
 1895年 李鴻章日清戦争の講和交渉を担当(下関条約を締結)
 1896年 李鴻章(二回目)・ロシアの吉林黒龍江両省での鉄道建設権を譲渡する「中ロ密約」を交換
 1911趙爾巽・東三省の治安維持のため、東三省総督と兼務
 1911袁世凱・「武昌起義」を鎮圧するため、湖広総督と兼務・・・
 コレラの年号と、その名前は、何を意味しているのか?・・・意味字句も・・・である・・・
 「欽(キン・うやまう)」は「欽明天皇」の「欽」だけれど「臨時・暫定」の「天皇」?・・・「欽=金+欠(かく・ケツ)」の漢字分解からはチョット考えあぐねるからだが「金」は貴重だとしても、「欠」は「体を曲げ、がっかりした様・あくび(欠伸)・かける・足りない・かりる・欠債・缺の代字の欠(かける)・歇の代字として(やむ・やめる・とまる・欠片(かけら)・間欠泉」で・・・音読みは「呉音= コン・漢音=ケン・慣用音=ケチ」・・・「金の欠伸を明らかにする天皇」・・・財政赤字を明らかにする「天皇・転向」?・・・ならば「欽差大臣」の「差」の説明は・・・「禾」+音符「左」とあるが、「差」は書き順からして「羊+エ」?である・・・「羊」は「禾」ではない・・・「刈り取るために穂を左手でまとめるの意・支えた手と刈り取る刃物が交叉」・・・「禾の穂」ではなく、「羊の毛」である。「羊」は食肉としても織毛としても財産で、「工」は「技術者」で、羊の群れの数の増減を見極める牧師(牧童)か、羊毛を刈り取る職人であろう・・・金銭の較差、格差(収支=収入と支出)の引き算で「国家財政の収支計算の差」を見極める「大臣」であろう・・・
 文欽(?〜258年)は、既に引用して書き込んだが複雑な人物である。問題にしたいのは「名前」である。三国時代の武将で、
 字は仲若
 父は文稷
 子は文鴦、文虎
 譙国譙県出身
 「三国志魏志・毋丘倹伝」とそれが引く「魏書」の他、魏志・呉志 の各所に記録された人物
 魏で恩寵を受け出世したが失脚し、
 「毋丘倹」と共に
 揚州で反乱を起こすが敗れて
 呉に亡命
 後に
 諸葛誕が反乱を起こすと
 その援軍に送られた
 魏の追討軍に包囲される中で
 諸葛誕と仲違いを起こして
 殺害された人物・・・
 卑弥呼の時代である・・・
ーーーーー
 枕草子
 (一〇五段)・・・百五・壱百五・壱佰伍
          1+0+5=6=六=陸
          1×0×5=0=零

 御・・・音
 かたがた・・・方々→方法
 公達・・・きんだち→筋立て
 上人・・・常人→常任→常陸
      かみひと→化視比通
 など、・・・名度・納土・等
 御・・・音
 前に・・・全爾
 人・・・比途
 多く・・・対句・他意句→太(おほの)句
 侍へば、・・・はべらへば
        葉部等経葉
 廂の・・・ひさしの→比差詞之
      ソウ(創)・ショウ(唱・証・章)
 柱に・・・はしら→葉詞等
 よりかかりて、・・・与理可借氐(弖)
          て→で・出(弟→乙→おと)
 女房と・・・おんなふさと
       音名附作渡(賭)
 物語して・・・摸之臥他理史氐(弖)
 ゐたるに、・・・意他留爾
 物を・・・ものを→摸之於(緒・嗚)
 なげ・・・名解
 賜はせ・・・たまわせ→他真把施
 たる。・・・他留
 あけて・・・亜懸出
 見れば、・・・視例葉
 「思ふ・・・於摸附
  べしや・・・部詞哉(也)
  いなや、・・・意(異・委・位)名哉
  第一・・・だいいち→拿意異知
       代位地(位置)
  ならずば・・・名等事葉
  いかが」・・・意化臥
 と・・・賭
 問はせ・・・とわせ=賭和(話・把)施
 給・・・たま→他真
 へり。・・・経理

 御前・・・音全
 にて・・・爾出
 物語など・・・
 する・・・
 序・・・ついで→対で・接いで・継いで
 にも、・・・爾摸
 「すべて・・・
  人には・・・
  一に・・・はじめに→葉字目爾
  思はれずば、・・・主葉例事葉
  さらに・・・作(差)等爾
  何に・・・名爾似
ーーー↓
   象形
   甲骨文字、金文から
   物を担いだ人を象ったものと判断される
   「荷」の原字
   形声文字
   「人」+音符「可」とも解される
   喉を詰まらせて出す音
   「呵」→「歌」 、「喝」
   人を呼びとめたりすることを表す
   「誰何」、そこから、対象に関する疑問
   疑問代名詞→なに
   形容詞→なんの
   副詞→なぜ、どうして
ーー
  幕末、明治の「歴史的裏事情」の説明は、以下の「人名」を有する「経歴の重なり」である・・・カナ・・・
ーーー↓何
   人名→中国人の姓
      百家
      姓
      第二十一位・・・対念委知意
ーーー↓何
   何進(カシン・ナンシン)
   ?〜光熹元年(189年8月29日旧暦)は、
   後漢末期の武将
   字は遂高(ツイコウ・スイコウ)
   南陽河南省南陽)宛の人
   霊帝の皇后・・・・例綴の交合、咬合
   「何」氏の異母兄
   父は
   何真
   継弟(義理の弟)は・・・継続の音
   何苗(朱苗)・・・・・・何描・何秒
       朱苗(あかいね)→亜解音(値)
   孫は
   何晏・・・・・・晏(くれる・アン・エン)
             暮・刳・繰・呉
   ー↓晏の名の人物
   丁晏(テイアン)
   1794年〜1875年)
   字は柘堂
   末の儒学者
   江蘇省山陽出身
   1821年
   挙人
   1853年
   江南・江北に
   太平天国の勢力が及ぶと、
   総督・巡撫の呼びかけに応じて、
   団練を率いて戦った
ーーー↓
   団練
   清代の地方民兵制度
   白蓮教徒の乱で地方の郷紳に
   武装自衛集団を作らせた
   太平天国の乱や
   捻軍の蜂起に対して、
   正規軍である
   八旗や緑営が機能せず
   清朝は再び地方の地主たちを中心に
   組織化
   アヘン 戦争時の仏山団練局
   団集練丁は
   壮丁を招集訓練するの意
   唐以来地方部隊の呼称に用いられた
   清朝では
   郷村自衛の
   臨時武装自警組織
ーーー↓
   丁晏は
   1860年
   再び団練を率いて
   淮河一帯で
   捻軍と戦い、
   侍
   読
   銜内閣
   中書
   加
   三品銜を
   授けられた
   アヘン(阿片・鴉片)禁止論を唱えた
   「尚書」を研究し
   梅賾の
   「古文尚書」を
   王粛の偽作と断じた
   鄭玄の学問を好み、
   「三礼注」や
   「毛詩鄭箋」を研究
   「毛鄭詩釈」
   「鄭氏詩譜考正」
   「三礼釈注」などを著した
   漢学(考証学)と宋学のどちらも
   尊重する態度をとった。
   著作
   「周易述伝
   「孝経述注」など
   四十七種・百三十六巻
   「颐志斎叢書」として
   編集されている
ーーー↓何進
   何氏の家は元は
   屠殺業
   十常侍の一人、
   同郡出身の
   宦官
   郭勝
   後押し(推薦)があって
   異母妹
   何氏が
   霊帝
ーーー↓ー↓
    霊帝(レイテイ)
    ↓
    諱は宏
    諡号
    孝霊皇帝・・孝霊天皇(第七天皇
    ↓     ↓在位
    ↓     孝霊天皇元年
    ↓     一月十二日〜
    ↓     同七十六年二月八日)
    ↓     大日本根子彦太瓊尊
    ↓     大倭根子日子賦斗邇命
    生年
    永寿二年(156年)
    没年
    中平五年(189年)
    後漢
    第十二代皇帝
    父は
    解瀆亭侯・・・解読綴交(項・考)
    劉萇(建)
    母は
    河間董氏・・→カマ(釜・鎌・窯)訓詞
    ↓
    解瀆亭侯・・・解読綴行(項・考)
    劉淑の孫・・・・・・孫(文)
    ↓         1866年
    ↓         11月12日
    ↓          〜
    ↓         1925年
    ↓         3月12日
    河間王
    劉開の曾孫・・・・・曾の孫(文)
    章帝の玄孫・・・・・玄の孫(文)
    皇帝直属の
    常備軍を創設
    ↓
    先帝の・・・・・・・選定・撰綴・潜綴
    桓帝(劉志)には・・桓公
    ↓         ↓
    ↓       (?〜紀元前719年)
    ↓        衛の第十三代君主
    ↓        荘公の子
    ↓        姫完=桓公
    ↓       「桓公」の名を有する
    ↓        人物は
    ↓       「斉・魯・秦・秦」国
    ↓        に存在した
    ↓・・・スベテの「桓公」の重なりである
    ↓        平安京を造営した
    ↓        桓(武)天皇
    ↓         (帝)?
    ↓        桓武綴?の母名は
    ↓           高野新笠
    ↓      劉志→リュウシ→笠視
    子がなく
    同じ
    河間王家
    出身であったことから、
    建寧元年(168年)に
    桓帝の皇后の
    竇氏、
    大将軍
    竇武、
    太尉(後に太傅)
    陳蕃らにより擁立
ーーー↓何進
   宮中に入り
   貴人となった
   取り立てられ郎中
   虎賁
   中郎将を経て
   潁川太守に転じた。
   光和三年(179年)に
   宋皇后が廃され
   妹が皇后に立てられる
   何進
   中央に戻り
   侍中となり、
   将作大匠、
   河南尹となった。
   中平元年(184年)
   太平道
   張角による
   黄巾の乱が勃発
   何進は大将軍となり、
   近衛兵を率いて
   首都の洛陽を守備し、
   兵器を修繕し軍備を整え
   密偵
   馬元義を捕らえ
   慎侯に封じられた
   皇甫嵩朱儁盧植董卓らの働きにより
   黄巾の乱は鎮圧
   ーー↓
   中平五年(188年)
   霊帝による軍制改革
   西園三軍(西園八校尉)を設置
   霊帝自身が
   無上将軍と称し、
   上軍校尉に寵愛する宦官の
   蹇碩を据えて、
   ↓ーー
   蹇(ケン)=あしなえ(跛)
   ↓碩(セキ・シャク・おおきい)=石+頁
   ↓碩学・・・「遺志・意思・意志」の頁
   ↓碩(シャン)は隠語で金銭の総称
   蹇 
   足に障害があって歩行不自由なこと
   寒さに足が凍えて
   進めない状態→日本建の跛→タギたぎしい
   ↓      三重の脚跛(萎・綯)
   ↓      あしなえ(跛)
   蹇卦(易経
   蹇蹇匪躬
   忠義を尽くすさま
   ↓ーー
   蹇々録(ケンケンロク・蹇蹇録)は、
   明治時代の
   外務大臣
   陸奥宗光が執筆した外交記録
   1895年(明治二十八年)成立
   1929年(昭和四年)刊
   陸奥宗光の晩年の
   1892年(明治二十五)以降執筆
   外務省の機密文書を引用しているため
   長く非公開とされた

   ーー↓霊帝ーー
   司隷校尉以下を総領する権限を与えた。
   この総領の対象には、
   大将軍の
   何進自身も含まれていた。
   ーー↓
   霊帝の後継をめぐり
   劉弁
   皇后何氏派の
   中軍校尉の
   袁紹は・→袁(世凱)の紹介?
ーーー↓ーーーー↓
        袁世凱
     (1859年9月16日
      咸豊九年八月二十日〜
      1916年6月6日)
      中国清末の軍人
      北洋軍閥の総帥
      大清帝国第二代内閣総理大臣
      1911年(宣統三年)〜
      1912年(民国元年)の
      辛亥革命では
      第二代中華民国臨時大総統
      初代中華民国大総統
      甲申事変(1884)
      朝鮮に武力介入し、日本と対立
ーーー↓ー
   何進に結びついて
   ー↓VS↑
   劉協の
   霊帝
   母董氏派の
   上軍校尉
   蹇碩
   董重と組み
   対立
   ↓
   中平六年(189年)四月
   霊帝の臨終時、
   蹇碩は劉協を後継とするように
   霊帝から遺詔を与えられた
   蹇碩霊帝崩御後、
   董重と組んで何進の誅殺を企てたが、
   司馬の
   潘隠が何進と親しく、
   計画を密告
   五月に
   劉弁が「少帝」即位
   十常侍
   趙忠を初めとする
   宦官の主流派は
   蹇碩を見捨て、
   何進に与し、
   蹇碩ならびに
   董氏一党を排除
   六月
   董太后
   河間に戻され、死去
   少帝の即位後
   何進は宦官の排除に乗り出し、
   袁紹ら幕僚たちを
   集めて積極的に諮ったが、
   何皇后や
   弟の車騎将軍・・・・音の写記、将に群
   何苗は・・・・・・・何描(写)
   宦官を擁護し
   何氏同士で対立
   何進が争いに消極的(及腰)になったので
   袁紹は地方の諸将を都に呼び寄せて
   太后らに対する圧力を提案
   盧植
   主簿の
   陳琳が反対し、
   典軍校尉
   曹操も反対した
    (王沈の「魏書」の記述)
   ↓ オウ、沈の類字→枕・耽・眈・躭・魫
   ↓   負枕・姶枕・凹枕・墺枕・澳枕
   再三の
   袁紹の催促の結果、
   何進はこれを容れ、
   王匡、橋瑁、鮑信、張楊張遼曹操
   兵士や兵糧を集めさせると共に、
   丁原
   董卓
   地方の将軍を呼び寄せ
   袁紹が大将軍の命と偽って
   各地に指令を出した。
   ↓
   袁紹
   何進に対して
   宮中に軽率に入るべきではないと忠告
   八月
   何進は無警戒に宮中に参内
   宦官の
   段珪
   畢嵐が率いた兵によって
   張譲に罵倒されながら
   嘉徳殿の前で殺害された。
   ↓
   張譲らは、詔を偽造し、
   宦官らに親属していた
   少府
   許相と
   太尉
   樊陵を利用し都の兵を握ろうとした
   命令を疑う尚書に対し、
   何進の首を示した。
   だが
   激怒した何進の部下達の反攻に遭う。
   虎賁
   中郎将の
   袁術が兵を挙げ、
   何進
   部曲
   呉匡らとともに宮中に突入し、
   何太后の身柄を確保したが、
   皇帝と
   陳留王(劉協)の身柄は
   宦官に奪われた。
   ↓
   袁紹は叔父で
   太傅の
   袁隗ならびに
   盧植とともに、
   許相らをおびき出して斬り、
   何苗と協力して
   趙忠を捕らえ斬って
   宮中から宦官の
   勢力は一掃
   ↓
   皇帝と
   陳留王の身柄を奪って逃走した
   宦官の残党達は
   上洛してきた
   董卓に追い込まれ自殺
   皇帝と陳留王は
   董卓に保護され都に帰還
   この混乱の中で、
   何苗も呉匡により殺害され、
   何氏は大きく勢力を弱めた
   ー↑↓
   皇帝の選択・宣託
   肯定・コウテイ
   some・something
   サム・サムスイング
   作務・差務諏音 具(愚・句)
   ↓
   否定, 疑問
   any・anything
   エニ・エニスイング
   重爾・得爾諏音 具(愚・句)
   ↓
   なにを、ッ!
   What (a) nerve!
   nerve(ナァヴぁ)
   神経・歯髄・歯の)経・神経過敏
   神経質・いらいら(苛苛・苛立ち)
   ↓
   生意気な、ッ!
   What cheek!
   cheek(チィィク)
   頬(ほお)
   無礼・図々しい
   生意気な言動
   失礼な事を言う
   ーー↓
    「何鹿」の読み方
   「伊加留我(倭名抄)」
    イカルカ
    イカルカの郡名
    按スルニ此郡
    鵤(イカルカ)=斑鳩
    多ク産栖ス
    因テ
    号シ
    文字ヲ
    転セラレタルカ」
    「丹波志・総国
        何鹿郡の条」・・・
    ・・・「怒る我」の「臥「か、あるいは
       「好かる我」か、あるいは
       「生かる我」であろう・・・
ーーー↓枕草子のツヅキ
  か・・・化
  せん。・・・撰(選)
  唯・・・ただ→他拿・ユイ→結い
  いみじう・・・意味字得
  にくまれ、・・・似句真例
  惡しう・・・亜詞得
  せられて・・・施等例出
  あらん。・・・阿蘭→阿蘭陀
  二三・・・爾纂・・・→弐拾参
  にては・・・爾出葉
  死ぬ・・・詞(史・示・視・市・士)奴
  とも・・・共(供・友・伴・徒も)
  あらじ、・・・亜(阿・蛙)等字
  一・・・はじめ
  にてを・・・爾出於
  あらん」・・・和蘭→阿蘭陀
 など・・・名度・納土
 いへば、・・・意経葉
 一乘の・・・「一条・一定・一帖・一嬢」之
 法・・・のり→則・糊・矩・憲・之理
     海苔→かいたい
        解体・拐帯・懐胎・改代・改題
 なり・・・納理・名理・拿理
 と・・・
 人々・・・ひとびと→比途々(同)
 わらふ・・・話等附
 事の・・・「言・糊塗」之
 すぢ・・・筋→素字・諏字・主字・州字
 な・・・名
 め・・・目
 り。・・・理

 筆紙・・・
 たま・・・
 はり・・・
 たれ・・・
 ば、・・・
 「九品・・・
  蓮臺の・・・
  中には・・・
  下品と・・・解本途
  いふ・・・異附・委付・移付・意附
  とも」・・・伴
 と・・・
 書きて・・・
 まゐらせた・・・
 れば、・・・
 「無下に・・・「ム(シ・私)解・務解」解
  思ひ・・・
  屈・・・かがむ→化臥ム→掛咬(噛)
  じに・・・字似
  けり。・・・懸理
  いと・・・意図・異途・伊都
  わろし。・・・話賂史
  い・・・異
  ひそめ・・・潜目・顰目・秘目
        ひ→比
        そめ→染め・初め
  つる・・・通留→脈・筋・層
  事は、・・・
  さて・・・
  こそ・・・
  有らめ」・・・
 と・・・
 の・・・
 たま・・・
 は・・・
 す・・・
 れば、・・・
 「人に・・・
  隨ひて・・・したがひて
        史違いて
        詞互いて
        隋臥比出→随画意出
        隋書
  こそ」・・・胡蘇・拠措
 と・・・
 申す。・・・
 「それが・・・
  わろき・・・
  ぞ・・・
  かし。・・・
  第一・・・
  の・・・
  人に、・・・
  又・・・
  一に・・・
  思は・・・
  れん・・・
  と・・・
  こそ・・・
  思はめ」・・・
 と・・・
 仰せ・・・
 らるる・・・
 も・・・
 いと・・・
 をかし。・・・
ーーーーー
 ・・・いと、をかし・・・意図、犯し・・・