1208日目・・・今日の収穫はキュウリ(究理・胡瓜)がニホン(日本・二本・似本・爾本)・・・?・・・

ーーーーー
 枕草子
 (一〇一段)・・・百一段・壱百壱段・佰壱段
          1+0+1=2=弐=仁
          1×0×1=0=零
 かたはら
 いた
 き
 もの
ーー↓
  かたはらいた
 「傍(かたわ)ら痛し」の歴史的仮名遣
 「かたはら」を「片腹」と解した
  他人が実力以上のことを行っているのが、
  滑稽で苦々しく感じる
  笑止千万・・・である・・・カナ・・・
  ・・・「片葉等(過多葉等)意他史」であろう・・・
 「傍」は「イ+旁(かたわら・ホウ・ボウ)」である。漢字部首の「左側」の漢字である・・・
 「偏旁冠脚垂構繞」・・・歌舞伎なら「変貌観客遂行の場」の「段」のシナリヲである。漢字研究者なら「変謀閑却推考(推敲)の條(定・帖)」である・・・
 「繞」は「もとうる・まとう・めぐる・ジョウ・ニョウ」である。「ニョウ」は「女得」で「おんな(音名)」を「う(得)」である・・・「もとうる=摸問留・摸唐留・摸答留・母等留」・・・日本歴史の母系血統系譜の記録は「蘇我・唐→阿毎→阿倍→安陪・安倍・安部」の「則天武后」である・・・これに「幕末・明治」の「官吏」が纏わり付いて絡んでくるのだ・・・?
 「繞」は「ニョウ(ネウ)=(呉音)・ ジョウ(ゼウ)(漢音)」 で[和訓]は「まとう・めぐる・かこむ・まつわる」、「纏繞(てんじょう)」、「纏足=てんそく=天測=転即=典則」、「囲繞」・・・
 「右繞(ウニョウ)」
 仏教の敬礼法の一・古代インドの風習・尊者・仏像などのまわりを、右回りに歩く作法・・・
ーー↓
 「辶」=しんにょう・しんにゅう
 「道・進・迷・・・」
 道や歩く事に関する意味の部首
 「之(の・これ・シ)の字に似ているので
 「之繞(シニョウ)」、訛って「しんにょう」、更に訛って「しんにゅう」
 「辶」の源字は「辵(チャク)」
 「巡(ジュン)」は「之繞」に含めず、
 「まがりがわ」の部に含める・・・?・・・「巡」=「辶」+「巛」で、「巛(かわ・セン)」が「まがりがわ=曲がり川」を云っているらしい。「曲」とは「ヨコシマ(邪)」とも訓じる。「曲者(くせもの)」である。「邪(よこし)マナ・セン」とは「横縞の線」である。緯度経度の「横縞=緯度線」の「異土の線」である。
 地図を調べれば、「福岡、北九州(日本・北緯33度」あたりで、「阿蘇山山頂−会稽山頂」の緯度線である。
ーー↓緯度
 地球の赤道を0度とし南北を90度毎に目盛った座標
ーー↓経緯度の発想、発明
 紀元前190年頃〜紀元前120年頃
 ヒッパルコス・・・引っ張る拠(弧)洲
 地球を360に分割した
 経線と緯線で表し、・・・経書・緯書
 さらにその分割した
 一つの区間(一度)を60分、
 さらにその
 一分を60秒で表す等間隔の
 経緯線網を考案・・・軽易譫妄
ーー
 83年頃〜168年頃
 プトレマイオス
 英称は「トレミー ・Ptolemy」
 「アルマゲスト」の著者・・・亜留真客
             阿留真解諏図
 古代ローマの・・・羅馬
 天文学者、数学者、地理学者、
 占星術師。・・・カルデアン→軽出案
 エジプトの・・・埃及・絵字附図
 アレク・・・・・蛙例句
 サンドリアで・・纂努理亜
 活躍
 ヒッパルコスの方法で
 経度記入の地図を作成
ーー
 張衡(78年〜139年)→朝衡
 102年(永元十四年)
 南陽郡守の幕僚(南陽郡主簿)
 107年(永初元年)
 洛陽を描いた「東京賦」
 長安を描いた「西京賦」を著
 これらを総称して「二京賦」
 111年(永初五年)
 京官の郎中
 116年(元初三年)
 暦法機構の太史令
 122年(建光二年)
 公車馬令に出任
 128年〜136年
 (永建三年〜永和元年)
 再度、太史令
 後には尚書
 天文を学び、
 「霊憲」
 「霊憲図」
 「渾天儀図注」
 「算網論」を著作
 順帝の時代の
 宦官政治を嫌い朝廷官職を辞して
 河北に去る
 138年
 南陽に戻り、朝廷に招聘
 139年
 死亡
 文学作品
 「帰田賦」
 「四愁詩」
 「同声歌」
 発明
 117年
 水力渾天儀
 132年
 水時計、候風の
 地動儀(地震感知器)
 円周率の計算
 2500個の星々を記録
 「霊憲」で
 月の輝きを記録
 月を球形と論じ、
 月の輝きは
 太陽の反射光とした
 月光生于日之所照
 魄生于日之所蔽
 当日則光盈
 就日則光尽也。
 月食の記録 
 当日之冲
 光常不合者
 蔽于地也
 是謂暗虚
 在星則星微
 遇月則月食
ーー
 裴秀(224年〜271年)
 毌丘倹の
 推挙で曹爽に取り立てられる
 244年
 黄門侍郎
 249年
 曹爽が処刑され免職
 後は
 司馬昭に取り立てられ
 散騎常侍に任命
 裴秀は曹髦(高貴郷公)とも親しく、
 曹髦に
 「儒林丈人」と呼ばれた
 曹髦は
 司馬望
 裴秀
 王沈
 鍾会らと
 東御殿で討論会を行い、
 文学論を書いた
 裴秀は
 諸葛誕の反乱鎮圧に
 陳泰や鍾会と参謀として参加
 晋の時代には文官として仕え、
 晋の礼法や官制の制定に功を挙げ、
 「禹貢地域図・十八篇」を作って
 縦横の線で位置を示す方法を提案
 二つの座標にそれぞれ
 「経」、「緯」
 という文字をあてた
 官職は司空
ーー
 1406年
 プトレマイオスの地理書が
 ラテン語に翻訳
 「コスモグラフィア」と呼ばれる
 書物が多く出版
 1524年
 ペトルス・アピアヌスの
 コスモグラフィアでは、
 世界各地の緯度と経度が記載
 地球儀も多く作製
 現存する最古の地球儀
 マルティン・ベハイムの地球儀
 経線はないが、
 赤道上に360度分の経度の
 目盛が振られている
 クリストファー・コロンブスは、
 プトレマイオスの地図では
 経度で
 177度分の広さだった
 ユーラシア大陸
 48度引き伸ばし、
 マルコ・ポーロの記述を元にさらに
 28度広げ、そのうえ
 中国から日本の東岸まで
 30度あると計算したため、
 ヨーロッパの西端から日本までは
 283度と見積もった
 緯度
 北極星の高度を測れば、
 それがほぼ現在地の緯度を示す
 太陽の高度を測定しても
 緯度を求めることができた
 アストロラーベ
 十字桿、
 背面桿、
 赤緯表といった、
 緯度を測る道具も発明
 これでコロンブス
 1492年
 緯線に沿って西へと移動
 新大陸を発見
 ヴァスコ・ダ・ガマ
 喜望峰に到達は、
 目的地の緯度が分かっていたため、
 その付近まで真っ直ぐ
 船を南下させ、
 後に東へ舵を取った
 経度
 船の進行速度を測定して、
 それを元に進んだ距離を計算
 この時代の航海は
 経度に関する新しい条約を生んだ
ーー
 1493年
 スペイン(西班牙)の
 アレクサンデル6世は
 ヴェルデ岬諸島から西へ100リーグの子午線(西経38度線付近)を基準にして、そこから東で見つかった新領土をポルトガル領、西をスペイン領とすることに決めた。
 1494年
 ポルトガルは境界線を西に270リーグ動かし(西経46度30分)、
 トルデシリャス条約を結んだ
ーー
 1600年
 スペインのフェリペ2世は経度を正確に求めた者には賞金を出すと宣言
 オランダ政府も同様の態度を示した
 1655年
 ドイツ語の航海術の教科書には、
 経度を緯度と同じような
 精度で測定できれば、
 航海術は完成すると記録
ーー
 経度は太陽の
 南中時刻を異なる
 二点で観測し、
 その時間差で求めることができる
ーー
 1530年
 フランドルの天文学者
 ゲンマ・フリシウスは
 持ち運べる時計があれば
 経度を測定できるとした
 1559年
 英国のウィリアム・カニンガムも1
 同様の提案をした
 1656年 
 クリスティアーン・ホイヘンス
 振り子時計を発明
 1658年に、
 自分の時計を使えば
 経度が測定できると述べた
 1664年
 ホイヘンスの時計は
 船に載せられてテスト
 経度を正しく測定
 ホイヘンス
 振り子時計の代わりに
 ヒゲゼンマイを使用した時計を考案
ーー
 1610年
 ガリレオ
 木星に衛星があることを発見
 木星の衛星食が起こる回数は、日食や月食と比べて非常に多く、たとえば衛星イオは年間約1,000回の食が発生
 地上で経度を測るには有効
 ガリレオの死後の
 1650年代ごろから
 経度測定に使用
 1668年
 ジョヴァンニ・カッシーニ
 長年の観測を元に
 新しい木星の運行表を作成
 木星の衛星を使った
 経度の求め方を天文学者に伝え、
 実践を呼びかけた
 1679年
 ジャン・ピカール
 フィリップ・ド・ラ・イールは
 三角測量を使って
 フランス海岸線の測量を始めた
 この時の経度の確定も
 木星の衛星を観測ぢてのことだった
ーー
 「経度を発見する
  (finding the longitude)」
 という言葉自体が、
 不可能という意味で使われてた
ーー
 1714年
 ジェレミー・サッカー(en:Jeremy Thacker)が
 クロノメーター発明
 1735年
 時計職人のジョン・ハリソン
 クロノメーター「H-1」を完成
 81日間の航海でH-4の誤差は5.1秒であり、経度法の定める規定を達成できていた。しかし委員会はこれに納得せず、もう1度試験航海を行う必要があると結論した
ーー
 1725年
 グリニッジの初代天文台長フラムスティードによってまとめられた「ブリタニカ星表」が出版
 1731年
 ジョン・ハドリーが八分儀を発明した
 1752年
 ドイツの
 トビアス・マイヤーは
 月と太陽の運動に関する
 表(月行表)発表
ーー
 1770年
 ハリソンは
 H-4の複製品「H-5」を完成
ーー
 時計職人
 ラーカム・ケンドールによっても
 複製「K-1」が作製され
 この時計は、
 ジェームズ・クックによる
 二回目の航海に携行
 1779年
 ジョン・アーノルド
 「ナンバー36」と呼ばれる
 クロノメーターは高い性能を示し、
 1785年に工場を開設、大量生産
 1833年
 報時球はグリニッジ天文台に設置
 1884年
 グリニッジを基準とした子午線
 国際子午線会議で決められた。
ーー
 無線を利用して時間を知らせるようになった。アメリカのアーリントン海軍電信所では1904年から試験運用を始め、1905年から正式に運用が開始された。フランスでは1909年、ドイツでは1910年・・・
 無線、1911年は日本での開始であった・・・「巡」は「巡洋艦」の「巡」で、遠洋航海能力が高く、艦砲を主装備とする艦。明治時代後半以後第二次世界大戦の終了後まで、戦艦と駆逐艦の中間サイズの艦としてと再定義された。「重巡洋艦(Heavy Cruiser)」は、巡洋艦の大型のもの。
 1930年のロンドン海軍軍縮条約で定義された艦種、6.1インチを超え8インチ以下の艦砲を搭載する」の「巡」である・・・「重準用」だろう・・・
ーー↓「巡」=「辶」+「巛(セン)」
 「巛」・・・「横縞の線、縦縞の線」・・・経緯度の発想、発明の長い発想履歴の説明である・・・
 もっと読み込めば、「巛=よこしまのせん」は「与(余・預・誉)胡史・真名・之・撰」で「辶=しんにゅう・シンニョウ」は「新入・審女」である・・・
 「張巡(景雲三年(709年)〜至徳二載(757年)」は中国・唐代の武将で、字は「巡」であった・・・その履歴は・・・忠臣だが篭城と、そのプロセスと最期は悲惨である・・・時期は「安禄山+史思明」=「安史の乱」、安禄山の最期は「大燕聖武皇帝」・・・安禄山の最初は「六蕃語(六ヶ国語)」を操る「互市牙郎(貿易官)」・・・時期は「聖武天皇」、後の「孝謙、称徳女帝・高野天皇=阿部皇女」・・・
ーー↓
 「辵・辵(チャク)」を「そうにょう(走繞)」や「きにょう(鬼繞)」などのような表し方をしていたのだが、
 後に今で言う
 「二点(ゝゝ)之繞」の形になった
 戦後、当用漢字字体表が公表されてから
 現在では、「活字」においてのみ
 「一点(ゝ)之繞」で表される
 込 辺 迅 近 迎 返 述 迭
 迫 逆 送 退 追 逃 迷 逝
造 速 逐 通 逓 途 透 連
逸 週 進 逮 運 過 遇 遂
達 遅 道 遍 遊 違 遠 遣
遮 遭 適 遺 遵 選 遷 還
避 遡 遜
辻 迂 迄 辿 迪 迦 逅 這
逍 逞 逗 逢 迸 遁 逼 遥
邁 遼 邂 遽 邏 など
ーー↓
 「凵(カン・コン)」=かんにょう・うけばこ
 「凶・出・凹」など
 「繞の形」をしていないが、
 便宜上
 「繞扱い」にされる
 「脚」に見做される場合もある
 「凶・凹・出・凸」
 「函」など
ーー↓
 「廴(イン)」=えんにょう・いんにょう
 「建・延・廷」など
 伸びる事や進む事に関わる意味
 「えん」は「延」から
 「廴」の字音から「インにょう」
 「廷・延・建」
 「廻」など
ーー↓
 「走」=そうにょう
 「起・越・趣」など
 走る事に関する意味
 「赴 起 越 超 趣」
 「赳 趙 趨」など
ーー↓
 「鬼」=きにょう
 「魅・魁」など
 「鬼、物の怪」に関する意味
 「魅」
 「魁・魃・魑・魍・魎」など
ーー↓
 「麦」=ばくにょう
 「麺・麩」など
 「麦、麦」加工品に関する意味
 「麺」
 「麩・麹」など
 ふうにょう
 「颱・颶」など
 風に関する意味
ーー↓
 夊=すいにょう=「処」など
 爪=そうにょう=「爬」など
 爪に関する意味
 毛=け=「毬」など
ーー↓かたはらいた
 客人・・・・もろうど・まろうど・まれびと
       もろ独活・毛呂宇土
       唐土人・胡人・外国人→欧米人
       古人→古人大兄皇子
          振る比の渡の覆えの往事
          胡 人 於 補重の王事
  ・・・「まろうど」って「聖書」では「旅人・彷徨人」・・・「迷える人」・・・だったか・・・チムール帝国の「康(サマルカンド・Samarkand)」・・・1369年、「西チャガタイ‐ハン国」を滅ぼし建国、1507年に滅亡・・・古代ギリシャ人たちはサマルカンドを「マラカンダ」と呼びました。中国では「康国」と漢字 で書きます。サマルカンドの語意は「人びとが出会う場所」・・・「ウズベキスタン共和国(月即別・月祖別・烏茲別克斯坦・烏茲別克)」の「康(サマルカンド・Samarkand)」の別名が「青の都」・・・「ウズヘキ=渦碧(辺規)+スタン=諏毯・洲淡」かも・・・住民はトルコ(土耳古)・・・
ーーー↓土耳古(トジコ)
 蘇我「刀自古」郎女
 聖徳太子の妃
 父は蘇我馬子
 母は物部氏の女
 兄は蘇我蝦夷
 姉は河上娘(崇峻天皇嬪)
 妹は法提郎女(舒明天皇夫人・古人大兄皇子の母)
 子は
 山背大兄王
 財王
 日置王
 片岡女
  ↓
 「刀耳胡(古)」→刀自古郎女(とじこ の いらつめ)
ーーー↓
 トルコ(土耳古)系のウズベク人。ウズベキスタン
 綿花の大産地→海神(わたつみ・棉積・棉摘)
 首都「タシケント」は→足建都(渡・賭・途・徒)
 前一〜二世紀には
 城塞都市
 古代史では「タシ、チャチ、ビンケント」などと
 ・・・・・「多氏・知也地・紊(鬢)建都」?   
 呼ばれた。
 中国では
 「達矢干」・・・・・・・・伊達也観
 「石国」と記されている・・・岩国・磐国・違和国?
ーー↓堅塩(ケンエン・かたしお・かたじお)=岩塩
 蘇我堅塩媛(そが の きたしひめ)
 欽明天皇の妃
 用明天皇推古天皇の母
 父は蘇我稲目
 妹は
 蘇我小姉君(欽明天皇の妃)・・・姉(あね・シ)
    姉の異体字は「姊(古字)」→第の略字?
    大姉は「比丘尼(びくに)」
    女性の法名の称号
    男性の居士(こじ)に対する文字
    ならば「小姉」は?・・・腰・越・輿・古史
                虎視・虎史・胡史?
 蘇我石寸名(用明天皇の嬪)
    石(いわ・いし・セキ)の
    寸(約30.303mm)=「き・す・スン」
   「寸」は平安時代の記録で「す」
    訓は「き」
    の
    名
   「寸」近世の遊里で、
      局女郎(つぼねじょろう)の
      揚げ代
      一寸が一匁、または百文
   「石寸名」→いわきな→「岩城・岩木・磐木」名
 弟は
 蘇我馬子
 境部摩理勢・・・境(さかい・キョウ)
       境=土(十一)+立+日+儿
          十+一+立+兒?
          十+一+立+皃?
      皃=訓読=かお・かたち・かたどる
        呉音=マク・ミョウ(メウ)
        漢音=バク・ボウ(バウ)
 相貌に・・・惑わされてはイケナイ・・・コジキ・ニホンショキの「ニホンだてのヂナリヲ」で・・・贋作は明治「文化文明」開化の「摩の理の勢い」である?・・・朦朧と彷徨(さ迷)う・・・妄想人・・・沙流(さる=猿・然・申)間感度(巻度)・・・
ーー↓まろうど
 客・賓・客人
 「まらひと」→古くは「まろうと」
 訪問客・訪ねて来た人・きゃく・きゃくじん
 まろうどがみ
 客神・客人神
 その土地で信仰されるようになった神
 きゃくじん
 「客実・賓実」
 まろうどざね
 主たる客・正客・主賓
 まろうど
 「まらひと」の転
 近世まで「まらうと」
 よそから訪れる人・客・客人・まれびと
 「まろうど」は稀に来る人の意
 「珍客」、「賓客」
 「招かれて来る者」
 「不意に来る者
 「まらひと」の音変化
 古くは「まろうと」
 ・・・・真漏徒・・・麻漏徒・・・馬廊徒・・・?
ーー↓もろこし
  唐土(たうど)・・・多雨土・問う十の一
  モロコシ=玉蜀黍・蜀黍・唐黍(とうきび
  高粱(コウリャン・コウリョウ・コウロウ)
    (たか−はり・たか−やな)の異名
ーー↓もろこし
 日本から中国を呼んだ名・唐・唐土
 中国から伝来したモノ
 中国南方の越(エツ・浙江・セッコウ省付近)の
 諸国・諸族の「諸越(もろこし)」の訓読
 その土地から諸物が渡来した意 
ーー↓枕草子の続きです     
 などに
 あひて
 物
 いふに、
 奧の方に・・・・奥州・欧州・応酬・押収
 うち
 解け
 ごと・・・・・・語徒
 人の・・・・・・比渡
 いふを、・・・・移付・意附・委付・異附
 制せで・・・・・おさせで→訳語施出
 聞く・・・・・・訊く・聴く・起句・効く・利く
         規矩
         菊→花・華
         麹→こうじ=公示・公字・好事
         掬→すくう=救う・巣食う・素句得
         鞠→まり=真理・萬理・麻里・毬
         記句・紀句
 心地。・・・・・新知・真字
 思ふ・・・・・・想う・重う・主得・面胡
 人の
 いたく・・・・・依託・異多句・意他句・委他句
         板句→おおいた
           →大分・豊後・豊前・豊国
            宇佐→国東(くにさき)
 醉ひて・・・・・與委手
 おなじ・・・・・おなじ・於名字→同字
 事・・・・・・・字・時・次・児・自→こと=言
 したる。・・・「詞他・史多」留・至たる
 (たる)・・・・足・垂
 聞き・・・・・・危機・記紀
 ゐたる
 をも
 知らで
 人の
 うへ
 いひたる。
 それは
 何・・・・・・・名爾
 ばかり・・・・・秤・測り・謀り
 ならぬ・・・・・名等奴(濡=氵+需)
         氵(水)
       サンズイ(纂隋)・視ず
          +
         需=求める・ジュ・シュ
 つかひ
 人
 なれど、
 かた
 はら
 いたし。

 旅
 だち
 たる
 所
 ちかき所
 など
 にて、
 下衆
 どもの
 ざれ
 かはしたる。
 にくげ
 なる
 兒を、
 おのれが
 心地に
 かなしと
 思ふままに、
 うつくしみ
 あそばし、
 これが
 聲の
 眞似にて
 いひける
 事など
 語り
 たる。
 才ある
 人の前
 にて、
 才なき
 人の
 物
 おぼえ
 がほに
 人の
 名
 など
 いひたる。
 殊に
 よしとも
 覺えぬ
 わが歌を
 人に
 語り
 きかせて、
 人の
 譽めし
 事など
 いふも
 かた
 はら
 いたし。
 人の
 起きて
 物語
 などする
 傍に、
 あさましう
 打ち
 とけて
 寐たる人。
 まだ
 音も
 彈き
 ととのへぬ
 琴を、
 心一つ
 を
 やりて、
 さやうの
 かた
 知りつる
 人の
 前にて
 彈く。
 いと
 ど
 しう
 住まぬ
 聟の、
 さる
 べき
 所
 にて
 舅に
 あひ
 たる。
ーーーーー
 ・・・