1206日目・・・アブラヤ(阿武等埜)・・・油(脂・膏=軟膏)屋・・・差異等同纂・・・斎藤道三・・・歳等同纂・・・斎藤義龍・・・再投与史多通・・・差異到達於記・・・斎藤龍興・・・帰蝶(濃姫→納秘目)・・・記帳・基調・・・帰朝・・・祖父(道三)→父(義龍)→子(龍興)=一色・・・お市・・・十市・・・壬申の乱・・・天武天皇・元年六月二十四日〜七月二十三日、(グレゴリオ暦・672年7月27日〜8月24日)・・・「布勢(布施)氏」=「阿倍御主人」・・・阿毎王朝・・・熊本阿蘇山麗近辺・・・
ーー↓阿毎王朝←阿倍←阿武←虻←蚊
開皇二十年(600年)
倭王
姓
阿毎
字多利思比孤
號
阿輩雞彌
・・・
高祖曰
「此太無義理」
於是
訓令
改之。
王妻
號
雞彌
後宮
有
女
六七百人。
名太子
為
利歌彌多弗利。
ーー
・・・
有
阿蘇山・・・麻生サン?
其・・・・・その
石・・・・・意思・意志・遺志・頤使
無・・・・・なく
故・・・・・故に
火起
接
天者
俗
以為異
因行・・・・原因の行(所行・諸行・書行)
禱祭。
有
如意寶珠
其色
青
大
如
雞卵
夜則有光
云
魚眼精也。
新羅、百濟
皆
以倭
為
大國
多珍物
並
敬仰之
恒
通使
往來。
ーー↓
大業三年(607年)
其王
多利思北(比)孤・・・太の理、思い比べる拠
遣使
朝貢
使者
曰
聞
海西菩薩天子
重
興
佛法
故
遣朝
拜
兼
沙門
數十人
來
學
佛法
ーー「隋書」改変の文字
俀(タイ)=「イ+妥(タ・ダ)」←倭
妥(タ・ダ・やす・おだやか
多利思北(比)孤・・・北←比
婦入夫家,必先跨犬(火)・・・犬→火
犬を跨ぐのは門戸を守る忠犬に
新婦(嫁)が家族であることを
認めさせる儀式だった・・・
跨=コ・またぐ・またがる・また
猿がマウンテンする行為と同義だろう
亦・又・股・復・叉・俣・・・架け橋
裴清→「裴世清」の「世」を省いた
裴(ハイ・ベ)
裴=だらりと垂れた長衣
裴=非(ヒ・あらず)
+
衣(イ・ころも)
異字に「亠+裴」があるらしい?
「亠」は「音の字の略字」
ーー↓裴
裴鉶(金+刑)
中国で唐末の小説集、
裴鉶(ハイケイ)の著「伝奇・三巻」であったが散逸し、「太平広記・二十四編」の物語に収録
「聶隠娘(ジョウインジョウ」
「崑崙奴(コンロンド」
「神仙怪奇」の短編物語
ーー↓裴
裴頲(廷+頁)
渤海(ボッカイ)
元慶(がんぎょう)六年(882)
寛平(カンピョウ)六年(894)
大使として来日
詩作にすぐれ
鴻臚(コウロ)館で
菅原道真
島田忠臣らと詩文の贈答をおこなった
子の
裴璆(きゅう)も渤海使として
三度来日し、
大江朝綱らと詩をかわした
作品は「文華秀麗集」、「菅家文草」などにおさめられている・・・
ーー↓
「裴璆(キュウ)」の「璆」の漢字は「陽侯=陽侯=陽胡」氏の「玲璆」の人物の名前にも使用記録され、彼、「玲璆」は奈良時代の官吏で
「天平感宝(てんぴょうかんぽう)元年(749)東大寺大仏造営のため兄弟三人が各々、銭壱千貫を寄進し、従八位上から外(げ)従五位下にのぼった。
「天平宝字(てんぴょうほうじ)四年=760年」、渤海(ぼっかい)国使の送使として渡海する。藤原仲麻呂の乱で失脚したらしいが、宝亀(ほうき)九年にゆるされ、尾張守(おわりのかみ)などを歴任した。名は「令璆」ともかく・・・
760−749=11
ーー↓宝亀の乱(ほうきのらん)
20年後の
宝亀十一年(780年)
陸奥国の一部地域(陸前国、宮城県地域)で、大和朝廷に対し、「俘囚(服属蝦夷)」が叛乱、首謀者「伊治呰麻呂(これはりのあざまろ・これはるのあざまろ)とも呼ばれる・・・らしい・・・
「呰」の音読みは「シ・サ・セキ」で、訓読みは「せめる・そしる・きず」とあり、ここでは「呰」を「あざ」とヨマセテいる・・・音読みなら「イジシマロ」だろう・・・「維持詞真賂」・・・「呰」の類字は「砦(とりで・サイ)」である。「此」の下の部首漢字が「口」と「石」で異なっている・・・てっきり「砦」と勘違い・・・
ーー↓抜粋記事(ウイッキペデア)では
夷俘(隷属蝦夷)の出身で陸奥国府に仕える俘囚(服属蝦夷)の指導者であった伊治呰麻呂は、陸奥国は上治郡(此治郡の誤記として「これはりぐん」あるいは「これはるぐん」と読む見解が有力)の大領となり、蝦夷征討の功を認められて、
宝亀九年六月二十五日 (旧暦)(778年7月24日)には
外従五位下に叙されていた。『続日本紀』には、陸奥国按察使・紀広純は、初め呰麻呂を嫌ったが、のちには大いに信頼を寄せるようになったこと、しかし、同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は(卑しい)夷俘の出であるとして呰麻呂を見下し、侮ったため、呰麻呂は大盾に対して深い恨みを抱いていたことが記載されている。このことから、乱の原因については一般に怨恨説が採られている・・・?・・・ウラミですカネ・・・
ーー↓
兎に角・・・「陽侯=陽侯=陽胡」氏の「令璆」にも使用されていた・・・類字は「誤謬」の「謬」・・・例としての「誤謬」か?・・・
・・・ブログ記事、スゴイねッ、ナンでも教えてくれる・・・ケレド・・・
ーー↓阿倍
景行天皇の妃の一人である
高田媛の父が
阿部木事・・・キジ→記事・生地・木地・雉
また
継体天皇の妃に
阿倍波延比売・・・・・・はえ・葉得・生縁
名視を延ばす
宣化天皇の大夫(議政官)の
阿倍大麻呂・・・対真賂→太安萬(万)侶
(火麻呂)が・・・比真賂
初見・・・書見・所見・諸賢
大麻呂は・・・ダイマロ
代(題・第・弟=乙=音)
真(ま)の音のスベテ
呂(ろ)の音のスベテ
大伴金村・・・代版筋存
物部麁鹿火・・・モノ述べ、新改
蘇我稲目・・・読替える話例、否目、辞目
に次ぐ
地位の重臣
推古天皇時代
推古天皇
欽明天皇十五年・・・金欠明らか
(554年)
〜
推古天皇三十六年三月七日
(628年4月15日)
(戊子年三月十五日・古事記)
第三十三代天皇
在位
崇峻天皇五年十二月八日
(593年1月15日)
〜
推古天皇三十六年三月七日
(628年4月15日)
(古事記は三十七年)
幼名は
額田部皇女・・・「額=客+頁」の「伝」
欽明天皇と
蘇我稲目の娘
堅塩媛の間の皇女・・・かたし・犬猿・倦厭
堅塩媛→岩塩秘
ガンエン→元年
豊御食炊屋姫天皇・・・豊国の音の初句の
推憶の緒句の
秘め、転向
ーー↓
蘇我馬子の側近として
阿倍麻呂が登場
阿倍内麻呂(あべ の うちまろ)
生年不詳?
〜
大化五年三月十七日(649年5月3日)
日本書紀で
阿倍麻呂?
阿倍倉梯麻呂と記される人物と同一?
姓は臣
阿倍鳥子の子
大化の改新(645年)で
左大臣
ーー↓
阿倍御主人
生没年=635〜672(壬申の乱)〜703
父=左大臣
阿倍内麻呂
(倉梯麻呂)
別名=布勢臣御主人
布勢朝臣御主人・・・御布施
臥施・伏施
附施・付是
694年 正広肆
694年 阿部朝臣
694年 阿部の氏上
700年 正広参
701年 従三位
701年 中納言
701年 大納言
701年 右大臣
701年 従二位
ーー
阿倍広庭
生没年=659〜732年
父=右大臣 阿倍御主人
709年 正五位下
709年 伊予守
711年 正五位上
713年 従四位下
715年 従四位下
715年 宮内卿
718年 従四位上
721年 正四位下
721年 左大弁
722年 参議
724年 従三位
727年 河内和泉国事
727〜732年 中納言
ーー↓阿倍
安倍吉人
生没年?
父=中納言 阿倍広庭
民部大輔
右大弁
東宮学士
陰陽頭
従四位下
ーー↓
阿倍房上
阿倍大家
ーー↓
阿倍嶋麻呂
天平宝字五年三月十日
(?〜761年4月19日)
名は島麻呂とも記される
父=中納言 阿倍広庭
748年 養役夫司
752年 伊予守
752年 大仏開眼師迎引
760年 従四位下
760年 参議
762年 従四位上
ーー
安倍粳蟲(ぬかむし)
粳虫・糠虫・糠蟲
生没年?
父=参議 阿倍嶋麻呂
従五位上
男子=阿倍道守
女子=阿倍古美奈(?〜784)
内大臣
藤原良継の室、
皇后
藤原乙牟漏の母
贈正一位 古美奈
ーー↓阿倍皇女
第十五代
応神天皇
誉田別尊(ほむたわけ)
去来紗別尊(いざさわけのみこと)
の
妃
弟姫(おとひめ)が産んだ
長女=阿倍皇女(あべのひめみこ)
次女=淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ)
三女=紀之菟野皇女(きのうののひめみこ)
ーー↓阿倍皇女
阿倍内親王(あべのひめみこ)
生没年
718(養老二年)〜770(神護景雲四年)
聖武天皇の第二皇女・母は藤原光明子
ーー↓
孝謙天皇
(養老二年・718年
〜
神護景雲四年八月四日・770年8月28日)
第四十六代天皇
在位
天平勝宝元年七月二日
(749年8月19日
〜
天平宝字二年八月一日
758年9月7日)
父は聖武天皇
母は藤原氏出身の光明皇后(光明子)
史上六人目の女帝
天武系の最後の天皇
即位前の名
阿倍内親王
生前に
宝字称徳孝謙皇帝の尊号
続日本紀では
高野天皇
高野姫天皇
倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)
とも呼ばれた
淳仁天皇を経て重祚し、
第四十八代
称徳天皇(稱紱天皇)
在位
天平宝字八年十月九日
(764年11月6日
〜
神護景雲四年八月四日
770年8月28日)
天平勝宝四年閏三月
酒肴を
入唐使
藤原清河等に賜う歌(19/4264〜4265)
同年四月九日
東大寺大仏開眼供養会終了後の夕、
藤原仲麻呂の
田村第に還御し、御在所
同年晩秋にも
光明皇太后と共に仲麻呂邸に幸し、
この時の歌が万葉に残る(19/4268)
ーー↓
安倍道守
生没年=?
父は安倍粳蟲
ーー
安倍兄雄
生没年=?〜808年
父は安倍道守
800年 従五位下
803年 少納言
806年 中衛少将
806年 内膳権正
806年 正五位下
806年 従四位下
806年 右京大夫
806年 大膳大夫
806年 近江守
806年 山陰道観察使
806年 参議
806年 右兵衛督
807年 左近衛中将
808年 春宮大夫
808年 正四位下
808年 畿内観察使
808年 東山道観察使
ーー
安部男笠(あべ の おがさ)
753年
〜
天長三年五月一日
(826年6月9日)
父=安倍道守
参議・安倍兄雄の弟
娘に
藤原冬嗣の室
官位は従四位上・主殿頭
経歴
延暦十七年(798年)
従五位下・右兵衛佐
ーー
安倍春材
生没年=?
父=東山道観察使 安倍兄雄
淡路守
ーー
安倍益材
生没年=?
父=淡路守 安倍春材
大膳大夫
ーー
安倍晴明
生没年
921年〜1005年
父=大膳大夫 安倍益材
父=淡路守 安倍春材?
948年 大舎人
960年 天文得業生
天文博士
主計権助
左京権大夫
穀倉院別当
播磨守
従四位下
ーーーーー
枕草子
(九九段)・・・九十九・九拾九・玖足玖
9+9=18=十八=壱拾八=足捌
9×9=81=八十一=八拾壱=捌足壱
御・・・・音
乳母の・・めのと=ニュウボ=入模・入簿
大輔の、・・代附・題附・他意附
けふ・・・・懸得
日向へ・・・カコウ=加工・ジッコウ=実行
くだる・・句拿留
に、・・・爾
賜は・・・他真話留葉
する
扇どもの
中に、
片つ・・・片通
かた・・・形・化他
には、・・爾葉
日
いと
花やか
に
さし
出でて
旅人の
ある
所、
井手の・・・意出の
中・・・・・名化
將・・・・・まさに
の・・・・・之
館・・・・・漢字・埜化他
など・・・・等・名度
いふ・・・・異附・委付・移付
さま・・・・佐真
いと・・・・意図
をかしう・・可変詞得・可笑詞得
書きて、
今
片つかた
には、
京の
かた
雨
いみじう
降り
たる
に、
ながめ
たる
人
など
かき
たる
に、
あかね
さす日
に
むかひ
ても
思ひ
いでよ
都は
晴れぬ
ながめ
すらん
と
ことばに
御手づ
から
書かせ
給ひし、
あはれ
なり
き。
さる
君を
おき
奉りて、
遠く
こそ
え
いく
まじ
けれ。
ーーーーー
・・・