1205日目・・・昨夜はTVで「七人の会議」があったハズだが、結果はドウナッタんだか・・・パッ、キーンと「折れたネジくぎ」の強度・・・TVがイカレチャッているから・・・寂しいくもあるかな・・・
・・・「名は体を現す」・・・人物の「名前」、加えて「記録にある数字」が変だ、可笑しい、と考えない「歴史家」は「ペケ(×)」であるかな・・・
ーー
「六国史の第一・舎人親王撰・養老四年(720年)」の「日本書記」、「続日本紀」等には日本地域に「移住」した、「漢人」、「新羅人」、「百済人」、「任那人」、「腋島(脇島・液島)人」、「耽羅(済州島=チェジュド・サイシュウとう)人」の「漢字の記録」がある。そして、「高麗人」、「渤海人」・・・「陽侯氏(隋の末裔←秦の末裔)←トンボ(秋津・蜻蛉)の幼虫、ヤゴ=水蟣(虫+畿)=水蠆=萬+虫)」・・・「帰化人」、「捕虜」、「人質」、「使節」などとして・・・これらの「漢字」は文字通りの、かって、「日本領土以外」に「居住していた地域人の呼称」である。多分、「移民」して「日本書記時代」の「日本の政治的中枢に存在」していた「末裔」でもある・・・何時の時代でも「知識・技術」を有する移民、渡来人は優遇されるのは当然である・・・そして、中心的な文化、文明、カネは人の移動によって不均等に地方に拡散、波及し、飽和状態になれば、地方からの逆現象も起こす・・・
「源日本人(縄文人?)」が存在してところへ大陸、半島から割り込んで「政治的権力を行使」し、「源日本人」を「日本列島東北」へ押し上げていった「日本列島への先発移民の人々」である・・・そして後続の大陸、半島人の「今木(今来)人」である・・・武力侵攻であれ、交易であれ、地方に波及分散した人々は、その地域からの逆現象も起こす・・・大きな波紋は新たな波紋とぶつかって波形を変え、分散、拡散していく・・・
「桓武天皇の母親」は、
ーー↓
「高野 新笠
(たかの の にいがさ・コウヤシンリュウ)」
生年不詳
養老四年
(720年頃生)
〜
延暦八年十二月二十八日
(790年1月21日))
光仁天皇(白壁王)の
側妾、後に大夫人
「続日本紀」には、
人質として
百済から大和朝廷へと送られた
武寧王の
十世孫とある
ーー↓
武寧王
百済の第二十五代の王
牟大王の第二子
諱は
「斯摩」、
分注で
「隆(三国史記・百済本紀)」
「梁書」では
「余隆」
「日本書紀・雄略天皇紀五年条」では、
「加須利君の弟の
軍君昆伎王の子、名を
嶋君」
「武烈天皇紀四年条・百済新撰引用」として、
「末多王の異母兄の
混支王子の子、名を
斯麻王」
「末多王の異母兄というのは不詳
蓋鹵王の子?」
としている
「三国遺事・王暦」では
「諱を
斯摩」
と記録
・・・「揣摩(シマ)臆測」で、その音「斯摩(シマ)」を採れば、紀元前300年ごろの人物、「蘇秦」があみだした「揣摩(シマ)の術」で「読心術で相手を操る心理戦」、「交渉術(ネゴシエーション)」である・・・「嶋大臣=島大臣」は「蘇我」氏で、その系譜は蘇我石川宿禰→満到→韓子→馬背→蘇我稲目→蘇我馬子(嶋大臣・馬古, 汗麻古・有明子・堅塩媛は姉)→蘇我蝦夷(豊浦大臣・豊浦毛人)→蘇我入鹿(鞍作・林太郎)で、その権勢は「稲目、馬子、蝦夷、入鹿」の四代・・・「嶋(島・シマ)大臣」は「赤紫色の牡丹」である・・・「王辰爾」を遣わして船賦を数えて記録させたのは「稲目」であった・・・「いなめ=否め・辞め」・・・である・・・
ーー↓
桓武天皇の母、「高野 新笠」の
出身一族は
六代前に帰化し
和姓を下賜された
高野朝臣(たかののあそみ)という
氏姓は、
新笠が
光仁天皇(白壁王)の側妾となった際に下賜
ーー
新笠は
和乙継(やまとのおとつぐ)の女(娘)で
母は
土師宿禰(後に大枝朝臣と改姓)
真妹(まいも・シンマイ?)で、
天智天皇の
孫にあたる
白壁王(光仁天皇)の側妾
彼女(新笠)は
天平五年
(733年)に
能登女王、
天平九年
(737年)に
山部王(桓武天皇)、
天平勝宝二年
(750年)頃に
早良(さわら→鰆・砂原)王を生む→ソウリョウ?
ーー↓
新笠の夫
白壁王(光仁天皇)は
天平十六年(744年)
聖武天皇の皇女で
称徳天皇の異母妹にあたる
井上内親王を妃としていた
宝亀元年(770年)
称徳天皇が崩御し
白壁王(光仁天皇)は
六十二歳で
光仁天皇となった
光仁天皇の・・・→後任・後認・誤認?
皇后に
井上内親王、・→いのうえ・イジョウ→異常・異状
皇太子に
他戸親王・・・→ほかこ・タド→補化拠・多度?
がいたが
宝亀三年(772年)・・・ホウキサンネン
井上皇后は・・・意定交合(咬合)
呪詛による・・・受訴・従措
大逆を・・・・・題逆
代逆・第逆
弟(乙)逆→音疑訳
図ったという
罪で
皇后を廃され、
他戸親王も・・・・他の戸(渡・図・徒)
戸籍・戸数・戸主
版籍奉還
ーーーーーー↓ーーー
1869年(明治二)六月
諸藩主が領地と人民を朝廷に
返還した藩解体政策
木戸孝允・大久保利通らの画策
で、薩長土肥の四藩主が奉還
他藩もこれに従った
土地=版・・・木版・版画
活版・フォント
人民=籍・・・書籍・図籍
を朝廷(天皇)に還納
ーー↓ーーーーーー
皇太子を廃された
二年後に
井上内親王と
他戸親王は
幽閉先で死去した
この廃后・廃太子劇は、
藤原百川らによる・・・百川→百撰
陰謀であったらしい?・・・百済の撰、潜
ーー
新笠が生んだ
山部親王が立太子となり
光仁天皇の跡を継いで
桓武天皇となり
延暦二年四月十八8日
(783年5月23日)に、
藤原乙牟漏を皇后・・・
イツムロ・おとむろ
何時務賂・音務洩賂
皇太子には
同母弟の
早良親王・・・・さわら=鰆=魚+春
作和等・詐話等
天平勝宝二年
(750年?
〜
延暦四年九月二十八日
(785年11月8日)
が
立てられたが
藤原種継事件に・・・種継→集計・主計
連座し
淡路へ流刑、(絶食)自殺
ーー
新笠は
桓武天皇即位後に
皇太夫人
延喜九年(790年)死去後に
皇太后を追贈
延喜二十五年(806年)に
太皇太后を追贈
ーー
新笠の
父の
和乙継は
百済系渡来人の子孫
姓(かばね)は
和史(やまとのふびと)と推定されている?
白壁王(光仁天皇)即位後に
高野朝臣と改姓
「続日本紀延暦八年十二月二十八日条」に
「皇太后姓は
和氏、
諱は
新笠、
贈正一位
和乙継の女。
母は
贈正一位
大枝
朝臣
真妹なり。
后の先は
百済
武寧王の子
純陁太子より出ず。
・・・
皇太后曰く、
其れ
百済の遠祖
都慕王は
河伯の女
日精に感じて生めるところなり、
皇太后は即ち其の後なり」と
和氏が
武寧王から出た
百済王族であることが記録
「日本書紀・
継体天皇七年
(513年)
百済太子
淳陀死去」とあり、
純陁と
淳陀が同一人物との説がある
朝鮮側の資料には
武寧王の子として
純陁、
淳陀に
比定できる人物はいない・・・らしい。
淳陀太子の没年と
高野新笠の推定生年(720年頃)に
約二百年の開きがある・・・
天平宝字元年に
「大倭国」が
「大和」に改められた際、
「大倭宿禰」などの字(あざな)も
すべて
「大和」に改められた
「和」氏は元は「倭」氏と名乗っていた?
高野近傍に
土師氏の根拠地である
菅原伏見、
また
秋篠がある
長岡京が
大枝だった。
母方の
土師(大枝)氏一族は貴族
高野朝臣と
改姓した
父方
和氏一族は
ほとんど
知られていない?・・・以前にも書き込んだが、
ーー↓ーーーーー↓「和」氏
王羲之の書の一部を文官の
周興嗣 (470〜521) が
写経し、文章化した
「千字文」を伝来させたのは
応神天皇 (270〜310)
時代の
「和邇吉師」?
「和仁・王仁→王辰爾」?
521−310=211
「千字文」は
応神天皇の時代に存在しない
シロモノである・・・
因幡の白兎が騙した「ワニ」?
話似・和人・倭人
↓
「和氏の璧(カシのヘキ)」
「連城の璧(レンジョウのヘキ)
中国の春秋時代・戦国時代の故事
「韓非子(和氏篇十三)」
「史記」に記録
楚国の「卞和(ベンカ)」の話
・・・「和(ワ)」が「カ」・・・?
「和」の音が「オ・カ・ク・ワ・ヲ」?
「和」の訓が
あい・あえ・あえる・あふ
かず
かた・かつ・かのう
たか
ちか・とし・とも
な・なぎ・なごむ
なごやか・なごやかなり
のどか
ひとし
まさ・ます
みきた
やす・やすし
やはらぎ・やはらぐ
やまと・やわ・やわら
やわらぎ・やわらぐ・やわらげる
よし・より
わたる
ーー↓ーーーー↓卞和が
原石を献上して
窅王(蚡冒)に右足の筋を切断
武王に再度、左足切断の刑
卞和は石を抱いて
三日三晩泣き続けた
文王がその原石を
磨かせて名玉を得、
名玉に「和氏の璧」と命名
後に宝玉は
趙の
恵文王が手に入れ
秦の
昭襄王が「和氏の璧」を欲しがり
交換条件として
十五の城と交換を申し出たが
恵文王は
藺相如にその真意を確かめさせる為派遣
藺相如は
昭襄王がその気がないコトを見抜き
「璧」を無傷なまま持ち帰った
「完璧」由来の話である
完(カン)の訓は
まったい・まっとう・さだ・たもつ
なる・ひろ
ひろし→?順逆←しろひ=白意
まさ・また・みつ・ゆたか
璧(たま)=ヘキ=壁(かべ)は同音で部首の「玉」と「土」が異なるが?
↓
ーー↓白壁王(光仁天皇)
和乙継(おとつぐ・イツケイ)の
女(むすめ・おんな・ジョ)の
高野新笠の誕生年とされる
養老四年(720年)は
「日本書記」の完成
白壁王(光仁天皇)の妻が
高野新笠で
桓武天皇(山部親王)は
その子である
ーー
平野神社と
久度神社は
高野新笠と縁の深い神社であるらしい・・・
平野神社の祭神は
今木神、・・・コンキ・キンキ
久度神、・・・クド・キュウド
古開神、・・・コカイ
比竎神の・・・ヒメ・ビメ・ミメ
四座で、
平安京遷都によって
京都に遷座した
今木神の
今木は
「今来」のことで、
新人の
渡来人を意味する
平城京時代に
田村後宮にあった・・・伝噂後求
今木大神は
高野新笠と
桓武天皇(山部親王)が祭祀していた
久度神は
竃神とされ、・・・・かま・かまど・ソウ
近くには
和乙継の墓もある
平野神社の
久度神は
平城京の
内膳司に祭られていた
王寺町の
久度神社から
平城宮に移り、さらに
平野神社に移った・・・らしい・・・
ーー
八幡信仰
奈良時代、
新羅との関係が緊張し、
八幡神は
神功皇后と
応神天皇を祭ったもので、
三韓平定の説話から、
朝敵や
「異境の毒気=渡来悪疫」を
払うものと考えられた。
神功皇后は母方に「渡来系氏族」の血を引く。それゆえに朝鮮半島を平定する権利があったと信じられていた?・・・桓武天皇らが、「新羅調伏?」のために曖昧な母方の血筋(百済)を強調した・・・?
「(百済系)帰化人」の血筋の有用性が強調されたのは、「井上皇后一派」を失脚・排斥したイメージを払拭するために、桓武擁立派によるものと見るのが自然だろう・・・?・・・ではないだろう。「桓武天皇(山部親王)」は本々「百済系帰化人」で、「井上皇后一派=天武天皇系」は「新羅系帰化人」?・・・「白江村の敗北」後は「天智天皇+百済系」で、「壬申の乱」以後の「天武天皇系」とは「唐人(漢人)+新羅系」である・・・そして、その後の朝鮮半島の「新羅+百済残党」は半島から「唐軍」を追い出したのである・・・日本列島ではドウナッタのか?・・・「新羅人」、「腋島(脇島・液島)人」、「耽羅(トカラ)人」の渡来記事が多い・・・称徳天皇(阿倍)の時代は「則天武后死後の唐」で混乱していた。この時代には「新羅人」の武蔵、四国へ分散させた記事もある・・・「健児(こんでい)」は、地方軍事力の軍団で、天平六年四月二十三日(734年)の勅(天皇の命令)には、「健児・儲士・選士の田租と雑徭を半分免除」とあり、「健児」は「軍団兵士」だった・・・天平十年(738年)に、北陸道と西海道を除く諸道で「健児」を廃止。天平宝字六年(762年)伊勢国・近江国・美濃国・越前国の四ヶ国で「健児」の一部を復活・・・その後、桓武天皇は、延暦十一年六月(792年)、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、「健児の制」を布いて「健児(こんでい)制」を全国に拡大・・・武士軍団の「桓武平家=百済」、「清和源氏=新羅」である・・・そして「藤原=唐」、「橘=耽羅」、「陽侯(楊胡)氏=隋王朝の末裔」で「記録・文書・写経」係り・・・?・・・「健」の漢字は「国字」である・・・何時の時代の「国字」なのか?
ーー↓
「陽侯(ヤコ)史」氏
隋の煬帝の末裔
「続日本紀」に「陽侯・陽胡史」氏の記録
養老四年(720年)
「隼人の乱」
大隅隼人、直坂麻呂が
大隅国守
陽侯史麻呂(ヤコのフミマロ)を
殺害、叛乱
その鎮圧に
征隼人持節大将軍
大伴旅人、
副将軍
笠御室
巨勢真人を派遣し収拾
「養老律の撰定」に係わった
「陽胡史真身(やこのふひとまみ)」の子
「令珍(従七位上)」
「令珪(正八位上)
「令璆(王+翏・従八位下)」
の兄弟が、それぞれ銭壱千貫を寄進
外従五位に昇任
令珍は天平宝字三年(759)に伊賀守
令璆(王+翏)も同年に越後守
人麻呂?は宝亀十一年に豊前介
天平宝字四年(760)二月
「日本から陽侯史玲璆(王+翏)らの
使節が
渤海に向った」・・・との記事があるらしい・・・「人麻呂」とは「陽胡(陽侯・ヨウコウ)・史(シ・ふみ)・真身(シンシン)」=「やこのふひとまみ」のコトなのか・・・「真身(まみ)」→「真人(まひと)」・・・?
ーー↓
「済州島」
朝鮮半島の
西南、
日本海、
東シナ海、
黄海の間にある火山島
十五世紀初め頃まで
「耽羅(タンラ)」という
「独立王国」があった
西洋では、
オランダ統治時代の
台湾から長崎に向かう
途中に難破した
オランダの商船に因んで、
「Quelpart(橘畑=ミカン、蜜柑畑)」と
呼ばれていた
三国志に現れる三世紀の
「州胡」を
「済州島人(耽羅人)」に
比定する説があるらしい・・・
「耽羅国」が成立し、
四世紀頃には、
百済に朝貢
新羅の朝鮮半島統一後は、
新羅に朝貢
日本へも朝貢
日本からも使節が派遣(遣耽羅使)
耽羅国の言語は
朝鮮民族とは言語系統が異なる
とするのが通説である・・・らしい・・・「耽美・耽溺」の「耽」の類字は「沈没で溺れる」の「沈」で、ブログで調べれば「沈丁花(ジンチョウゲ)」である。漢名は「瑞香」で、別名は「輪丁花」。学名は「Daphne(ダフネ)」で、 ギリシャ神話の女神の名で、 「月桂樹(げっけいじゅ) 」の ギリシャ名。「月桂樹に葉の形が似ている?ことから・・・別のブログ説明では、花の香りは「沈香」、花姿がフトモモ科の「丁字(クローブ)」に似ているから・・・らしい・・・「T字形」は「碇」だろう。「瑞香(ズイコウ)」・・・高野長英の号は「瑞皐(ズイコウ)」であったのだが・・・随行、図以降・・・瑞光・・・シーボルト事件の「高橋景保の地図交換事件」以降であるかな・・・
ーー
高麗時代
1105年
耽羅州として直轄領
1214年から
済州と呼ばれる
元に対して抵抗した
三別抄の残党は、
済州島を最後の拠点とした
反乱は元・高麗軍によって平定され、
済州島は元の直轄地に組み込まれた。
元が済州に牧場を設け
以後の済州は
馬産地になり、
元からの移住者およびその子孫は
牧子と呼ばれた
朝鮮王朝の時代
朝鮮八道の一つ、
全羅道に組み込まれた
朝鮮時代には
江華島と並ぶ
流刑地の一つ
政争で負けた
王族や
両班が流刑にされてた
十五世紀の済州には
船に居住して海産物を採る海民がいて、
本土の海岸まで出ていくものがあり、
一部は海賊化した
十九世紀後期
日本漁船の島の周辺海域への進出と
漁民間の衝突が
日朝間の政治問題となった(朝鮮出漁)
1910年
日韓国併合
1945年まで
朝鮮総督府によって統治
1948年4月3日
済州島四・三事件
3万人の島民が韓国軍に虐殺
それから逃れるために
日本に渡って来た
在日韓国・朝鮮人も多
ーー
済州島の特徴を言い表すのに、
「三麗・三多・三無」という言葉がある
「三麗」
「美しい心・素晴らしい自然・美味しい果物」を意味
「三多」
「石と風と女の三つが多い」という意味
「流出した火山岩・台風が度々通過・漁労遭難の男性の死亡」
「三無」
「泥棒が無・乞食が無・侵入を防ぐ門が無」という意味
日本国内各地に点在するコリアタウンでも済州島出身者は、古くから同島出身者を「元流刑地に住んでいた者」「元流刑地に住んでいた者の子孫」として差別してきた。その韓国本土出身者を避けて(東京都荒川区三河島・大阪市生野区桃谷)等に集中居住・・・しているらしい・・・
ーーー
「続日本紀」に
「699年八月十九日
(文武天皇三年七月辛未)に、
多褹(種子島)、
腋久(屋久島)、
菴美(奄美大島)、
度感(とから=吐噶喇列島・徳之島?)」
の人が物を貢いだことが記録・・・
「済州島(チェジュド)」が元「耽羅国」・・・「耽溺」、「耽美」、「虎視眈々」の「耽=耳+冘」の類字は「冘(イン・ユウ・ユ)」の部首合字だが・・・「冘」は、
ためらふ・うたがふ・ためらう・うたがう
行くさま・定まらない・決断しない
「説文解字・巻七(段注本)」には
「冘冘として行くさまなり」とある
「広韻」には
「冘豫、定まらざるなり」とある
「字形」は「人+冂」の会意
「説文」に
「人の
冂(ケイ・キョウ
境構=けいがまえ→経が前
牧構=まきがまえ)→巻が前
より出づるに
从(従・ジュウ・シュウ)ふ」とあり、
「境界から人が出る意」とある・・・
「耽溺」は「夢中、熱中、浸(ひた)る」って溺れる
「沈(しずむ・チン)」は「沈没、撃沈」
「鴆(チン)」は
「猛毒の鳥・鷲の緑色の羽毛、銅色の嘴(口ばし)を持ち、毒蛇を常食・体内に猛毒・耕地の上を飛べば作物は全て枯死・その威力は鴆が飛んだ跡は作物が全て枯死し、獲物を咥えれば唾液に含まれる毒で獲物が溶け、排泄物が石にかかれば石が溶け、その毒気のあまりの威力から毒の代名詞」・・・「鴆殺」と言えば「毒殺」、「鴆を市する」と言えば「毒物の闇取引」、「鴆杯」と言えば「毒を盛った杯」・・・そして、
「枕(まくら)」である・・・枕頭・枕元・腕枕・北枕・草枕・氷枕・水枕・膝枕・・・「漱石枕流」、「円木警枕」、「臥高枕・枕を高くして臥す・To be able to sleep on both ears」、「枕戈待旦之兵」、「枕木」は「鉄道(丘、岡、陸蒸気のレール)を「犬釘(Railroad Spike・レイルロードスパイク)で留めて敷く砂利の上の長方形の木」・・・最近、世界中で「列車事故」の大惨事が多発・・・北海道は毎日のように「列車事故の連続、続発」・・・「車両、鉄道、電気配線の点検整備」、コレ、「変」だな・・・ネグレクト・・・?
・・・「七人の会議」・・・ネジ釘・・・
ーーーーー
枕草子
(九八段)・・・九十八段・九拾八段・玖足捌段
9+8=17=壱拾七=足漆
9×8=72=七拾弐=漆足弐
うへの・・・得経埜・上野・上埜
御・・・音
局の・・・曲乃
御・・・音
簾の・・・すだれの→諏拿例之
前・・・真得
にて、・・・爾出
殿上人・・・添乗比渡・点状比図・典上訊・転帖訊
日・・・爾知
ひと・・・比渡・等
日、・・・比
琴、・・・言・事・糊塗
笛・・・譜得・附絵
吹き・・・附記
遊び・・・蛙蘇備
くらして、・・・句等詞出
まかで・・・真化出・摩訶出
別るる・・・解る留
ほど、・・・程・歩度
まだ・・・真拿
格子を・・・「講師・行使・公私」緒
まゐ・・・真意・間意・馬位・舞・毎
らぬ・・・等奴・等濡・羅濡
に、・・・爾
おほ・・・太・大・於補
と・・・図
なぶらを・・・名分等緒
さし・・・サシ・作詞
出で・・・意出・異出
たれ・・・他例
ば、・・・葉
戸の・・・拠之・胡廼
開き・・・比等記
たる・・・多留
が・・・臥
あらは・・・蛙等葉
なれば、・・・名例葉
琵琶の・・・備話
御・・・音
琴を・・・言・事
ただ・・・他拿
ざま・・・差間・作真
にも・・・似摸
たせ・・・足せ・他施
給・・・多摩・他真
へり。・・・経理
紅の・・・
御衣の・・・
いふも・・・
世の・・・
常・・・
なる、・・・
袿又・・・
はり・・・
たる・・・
も・・・
數多・・・
たて・・・
まつりて、・・・
いと・・・
黒く・・・
つややか・・・
なる・・・
御・・・
琵琶に、・・・
御衣の・・・
袖を・・・
うち・・・
かけて、・・・
捕へ・・・
させ・・・
給・・・
へる・・・
めで・・・
たき・・・
に、・・・
そば・・・
より・・・
御・・・
額の・・・
ほど・・・
白く・・・
けざやか・・・
にて、・・・
僅に・・・
見え・・・
させ・・・
給・・・
へる・・・
は、・・・
譬ふ・・・
べき・・・
方・・・
なく・・・
めで・・・
たし。・・・
近く・・・
居・・・
給・・・
へる・・・
人に・・・
さし・・・
寄りて、・・・
「半・・・
かくし・・・
たり・・・
けん・・・
も、・・・
え・・・
かうは・・・
あらざり・・・
けん・・・
かし。・・・
それは・・・
ただ・・・
人に・・・
こそ・・・
あり・・・
けめ」・・・
と・・・
いふを・・・
聞きて、・・・
心地・・・
も・・・
なきを、・・・
わり・・・
なく・・・
分け・・・
入りて・・・
啓すれば、・・・
笑はせ・・・
給・・・
ひて、・・・
「われは・・・
知り・・・
たり・・・
や」・・・
と・・・
なん・・・
仰せ・・・
らるると・・・
傳ふる・・・
も・・・
をかし。・・・
ーーーーー
・・・