1204日目・・・「略字(りゃくじ)とは漢字などの文字について本来の字体から点や画を省略したもの、あるいはある文字に代わって用いられる字画を省略した文字のことである」・・・簡略、概略、戦略、策略、攻略、謀略、略奪、粗略、略式、略称、略図、略画、略字・・・困ったなぁ〜ッ・・・お袋の友人から来る手紙の「字」がアマリにも達筆で巧くてヨメない・・・ブログなどで江戸時代の「絵入り双紙(草子)」なども視るのだが、ナカナカ、読めない・・・「くずし字」・・・「偽掠」、「疑裏訳」、「魏略」、「義略」、「戯吏役」・・・兎に

ーー↓
 「草子(双紙・草紙・冊子)」
 室町時代から江戸時代初期にかけて
 流布した
 絵入りの短編読み物
 絵入りの
 そうし
 御伽(おとぎ)草子
 草(くさ)双紙・・・艸・++・廾・サ
 仮名草子
 紙を
 綴(と)じ合わせた
 形式の書物
 綴じ本
 物語・日記・歌書など、
 和文で記された
 書物(本)の総称
 「さくし(冊子)」の
 音変化か・・・錯視?
 漢籍・和本などで、
 紙を
 綴(と)じ合わせた
 形式の書物(本)
 綴じ本
 物語・日記・歌書
 など、
 和文で記された
 書物(本)の総称
 絵入りの
 通俗的
 読み物(本)の総称
 草双紙(くさぞうし)とは、
 江戸時代
 中頃から
 江戸で
 出版された
 絵入り娯楽本
 赤本・黒本・青本黄表紙・合巻の総称
 「草」は、草競馬・草相撲・草野球などの
 「草」と同じで
 「一般の・・・」という
 意味合いを含むもの
 とじ本・帳面
 紙をとじて作った
 本の総称
 出典は
 枕草子
 御前にて人々とも
 「この
  紙を
  さうし・・・創始・相思・壮士・宗氏・躁詞・装視
  に
  作り
  など
  もて
  騒ぐ
  に」
 書物・・・古文・・・
 室町時代以降の
 絵入りの
 通俗的
 読み物(本)の略称
 ・・・書籍を「本(ほん)」としたのは何時の時代からなのか?「本(ほん)」の由来は何か?・・・巻物は「巻」である。「品(ヒン・しな)」を「ほん」と呼んだのは「経典」が日本に伝来してからだろう。「品(ヒン・ピン)」は「シナもの(品物)」で、位階の「階級」呼称である・・・
ーー↓↑「ウイッキペデア」から抜粋し参照、参考にしたモノ・・・
 九品(くほん)
 物質や人の性質を
 3×3で分類したもの
 三三品(さんさんぼん)
 上品(ジョウヒン)
 下品(ゲヒン)の
 語源とされる
 中国の貴族社会の
 下等の家柄や地位を下品と呼ぶ
 また、
 九品浄土(九の等級に分けられた浄土)
 参考は箇所↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%93%81
ーー
 九品(くほん)
 仏教の経典を翻訳した際に、
 中国の「九品」分類を用いて充当した
 日本語では
 仏教の
 サンスクリットのVargaを「品」と訳した
 仏教の「九品」は「くほん」と
 濁らずに読む
 「上品・下品」などは
 「じょうぼん・げぼん」と
 連濁する
 浄土教
 衆生の機根の違いによって、
 同じ極楽浄土へ往生するにも、
 九つのパターンがあると
 「観無量寿経」に説かれている
 これを
 「九品往生」ともいう
 九品のそれぞれは
 「○品○生」(○は上・中・下)
 「○生」は
 上生(じょうしょう)、
 中生(ちゅうしょう)、
 下生(げしょう)と読む
 善導は九品皆凡といい、
 一切衆生は本質的にみな迷える存在である
 また上下の差は
 大乗・小乗の
 乗教や悪などとの接触による
 相違に帰すると解釈は
 法然親鸞などに
 影響を与え、継承された
ーー
 九品蓮台(九の等級の蓮台)を
 単に九品と呼ぶ
ーー↓
 九品官人法(キュウヒンカンジンホウ)
 中国
 魏晋南北朝時代に行われた官吏登用法
 三国時代
 魏の文帝の
 220年に始められ、
 隋の文帝の
 583年に廃止
 代わって
 科挙が採用された
ーー↓九品官人法
 尚書(省)の
 陳羣の建議により、
 曹丕
 曹操から
 魏を継承したすぐ後に施行
 220年に
 後漢から
 禅譲され、
 曹丕が皇帝位に就いた
ーー
 この法は官僚を
 最高一品官から最低九品官まで
 九等に分類(官品と呼ぶ)
 同時に
 郡ごとに
 中正官(チュウセイカン)と呼ばれる
 役職を設定
 任命は
 管内の人物を
 一品から九品までに評価
 人物の評価を
 郷品と呼ぶ
 後に
 中正官は
 司馬懿により
 郡の一つ上の行政区分である
 州にも置かれた(州大中正)
 郷品を元に官僚への推薦が行われ、
 最初は郷品の
 四段階下から始まる
 郷品が二品ならば
 六品官が官僚の出発点(起家官)
 その後、順調に出世していけば
 最終的には
 郷品まで出世し、
 それ以上の官位は無い
 後漢に仕えた官僚たちの
 能力と
 魏に対する
 忠誠度で人材を採用吸収
 漢代の
 郷挙里選制では
 地方の有力者の主導で
 官僚の推薦が行われていた
 これを
 政府主導に漢代の
 徳行主体の人事基準から
 能力主体の基準へと移行させた
 魏代には能力重視の理念を保持
 だが、
 夏侯玄が
 司馬懿にその弊害を指摘し
 中正官権限の縮小を主張
 249年
 司馬懿
 魏の実権を握り
 中正官の上に、
 権限の強い
 州大中正を導入
 郷品は才能ではなく、
 親の郷品と、本人の性格が重視され
 時代が下がるにつれ親の郷品が重視
 郷品の世襲が始まり、貴族層を形作
 郷品の内、
 一品はほとんど選ばれることが無く、
 二品が最高
 郷品二品の家柄は
 門地二品・甲種などと呼ばれ、
 最高の家格とされた
 郷品二品以上になると
 中正の
 選任に意見が出来るようになり、
 事実上
 官僚の任命権は
 貴族の手にゆだねられる事になった
 西晋
 劉毅(リュウキ)の批判言葉に
 「上品に寒門(低い家格)無く、
  下品に勢族無し」
 六朝時代
 清官と
 濁官
が生じた
 最終的な官位である六品官の
 同官位でも差別され
 起家官の出発官位の
 郷品が上の者が就く役職を清官
 郷品が下の者が就く役職を濁官
 この区分には
 権力の有無と同時に
 監察官や
 地方王国の官は嫌われた
 清官は任期が短くなり
 腰掛け的役職になった
 九品官人法は
 主に
 南朝で採用された制度だが
 北魏
 孝文帝も部分的にこの制度を取り入れ
 貴族層の形成を図った
 北魏滅亡後の
 北斉
 試験制度が部分的に取り入れら、
 隋代に
 科挙制度が成立し
 九品官人法は完全に廃止
 九品に官僚を分ける制度は
 その後も受け継がれ、
 日本にも影響を及ぼした・・・
 イヤァ〜ッ、人間を「階級」に分けるコトは「実力区別」なんだか、「実力差別」なんだか・・・「宿命」なんだか、「運命」なんだか・・・「清濁併せ呑む」・・・「生活格差」、「階級差別」、「資産家・ヤクザ・乞食」なんて詳細なことはとやかく言わず、一まとメで・・・「日本人」、「国民・市民」だからね・・・それにしても「階級序列の最高位、一品」はあるけれど、「二品」が「実質最高位」だとはネッ・・・漢和辞典や古語辞典には「尹(イン・おさ・ただす)」に「次官」、あるいは「長官」と説明されているのを見るけれど、「九品」が理解されていないと混乱するよな、学生は・・・「一品」は目標位なんだ。ぶら提げられている「人参」なんだ・・・それに「忠誠度」と「実力」の基準はナンなんだろうね・・・当時の「国家」は「王=君主=領主」の私有物だから、その領有権枠を維持している「王個人」への個々人の「忠誠度」である・・・「実力度」は「戦争技術」、「行政技術・管理技術」である・・・「一品」であっては「王=君主=領主」にとっては拙い・・・「臣下・臣民」は「二品に限る」、で、ある・・・で、権力を命令、行使する「王=君主」は居なくなった・・・だが「地主」がいる・・・個々人の「土地の売買」は「自由」であるらしいが、「法治国家の法の売買制約」がある。そして「国家管理の土地」もある・・・「税金」での管理であるらしい・・・大陸中国では「地主」はいないらしい。「国家地主との賃貸契約」で「農地」が耕されている・・・「人民公社のヤル気のない農地経営」は失敗に帰し・・・賃貸契約は官僚の裁量であるらしい・・・当然、「契約」に際しては「贈収賄」が起こると云うものだ・・・
ーー↓本の紙
 610年
 日本書紀
 曇徴が来朝し、
 絵具・紙・墨を作ったと記録
ーー↓印刷本
 天平宝字八年(764年)
 「藤原仲麻呂の乱」平定後
 称徳天皇は、戦死した将兵の菩提を弔うと共に、鎮護国家を祈念するために、
 六年の歳月を掛けて
 宝亀元年(770年)
 『無垢浄光大陀羅尼経』に基づいて、
 「陀羅尼」を
 百万巻印刷
 型の塔に納めて
 十万基ずつ
 大安寺・元興寺法隆寺
 東大寺西大寺興福寺
 薬師寺四天王寺・川原寺
 崇福寺
 の
 十大寺に奉納
 現在、法隆寺
 四万数千基が残っている
 他に博物館や個人に数基所蔵されている
ーー
 陀羅尼を
 版(木製か金属製かは不明)に
 凸状に彫り、
 その上に幅4.5cm、長さ15cm〜50cmの
 虫食い防止のために
 黄檗で染められた紙を載せて印刷
 紙を下にして捺印方式で印刷した説もある
 現在、確認出来る世界最古の印刷物
 複数の版を使って印刷した
 その際に
 複数の
 木版を彫ったのではなく、
 鋳造で
 複製した
 金属活版を用いて印刷した
 可能性も指摘されている
 陀羅尼を納める塔は、
 小さな三重の塔で、
 中国より伝来した
 ロクロを使用した
 木製で、
 白い染料が塗布
ーー↓本の漢字
「本」=「木+ー」
 漢語
 「太い木の根」・「草木の根」
 日本
 「物事の根本、基本」から
 「手本」・「模範とすべきモノ」
 「物事の基本」という
 意味から転じて書物を指すようになった
 古くは「文(ふみ)」、
 別に「書籍、典籍、図書」
 文字通り根元を綴じた「本」
 この
 「写し」に対する
 「原著作物、原稿本」が
 「ほん」の
 もともとの意味
 「写し」の
 末尾には
 「・・・
  とぞ
  ほん
  に」
 (以上、元の書物にありました)
 一行が付け加えられた・・・らしい・・・
 「ほん」ということばは
 「原典」→「写本」→「書物一般」
 という意味で「本」となった・・・
ーー↓以下「ウイッキペデア」の全文・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A5%E5%AD%97
略字 - Wikipedia
 以下は「ウイッキペデア」の抜粋を参照、参考にした・・・
ーー↓略=田+各→多角・多核・他掛句・他書く
 「略字」と似たような使われ方をする言葉に
 「俗字」がある。
 「俗字」は世間で通用するが
  正格ではない字体の文字
  正式に通用しない文字を指す
  漢和字典では
  正統とされている
  文字に対する
  異体字を指す
ーー↓
 「拡張新字体
  表外漢字に
  新字体に倣った
  簡略化
  祇(示+氏)→ネ氏
  摑(扌+國)→ 掴
  啞(口+亞)→ 唖
  などの字体が合字として
 「祇(くにつかみ・ギ)」=「示(ネ)が氏」
 「摑(つかむ・カク)」=「扌・手(テ・弖・氐)の國」
 「唖(おし・ア)」=「口(コウ・ク)の亜」
  なのは部首の意味から解る 
ーー↓
 「奌」は古字として元々(本々)、存在しており、
 「魚」にも同様の字形「灬=大」が見られる
 「魚」の訓が「まな・さかな」で、
 「真名(仮名)」、
 「肴(コウ・ギョウ)=メ(×・乄)+ナ+月(つき・ゲツ・ガツ)」で、その意味することが理解できる・・・
 「点」に関しては、
  旧字
 「點」の略字として、
 「占」の下に
 「灬(れんが)」とするものと
 「大」にするものとが併存していた
 「點(テン)」は明らかに「黒の占」で「灬」=「大・太」ならば「太陽の黒点を観察した占い(九年周期の観察→九星学)」の示唆だが、更に分解して「田(口十)の土(十一)の烈火のトの口」である。「灬」を「れんが」と読ませるのは「煉瓦(レンガ)」に音が重ねたモノで「赤煉瓦」は明治時代以降のモノであるだろう。単純に「點」の分解文字を読めば「田の土を烈火で焼いた結果の占い」である・・・「点=點=黒+占」・・・「テン」とは烈火で焼く占いである。「黒子(ほくろ)→黒い染み・黒い出来物→點子(テンシ)」であろうかな。直接に太陽を観察したら結果は「メクラ」である。煤ガラスか、太陽の影を他のものに映し出して観測するしかない。しかも反射鏡が無ければ、チャンスは「日食」の時期である。最近の皆既日食の景(ひかり)は幅広い木の葉の上にも映し出され、観察されていた・・・「卑弥呼」が「銅鏡」を欲しがった理由は太陽観察?・・・「灬」は本々「烈火」の「炎」である。それ以前に「赤煉瓦」に似たものは「屋根の焼瓦(甍・いらか)」であるが日本の木造建築の「壁の建築材」としてはほとんど使用されなかったであろう。だが古代中国の発掘された「磚=甎」に「倭」の漢字が刻まれたモノが発見されているらしい。ブログ記事を調べれば、「安徽省(アンキショウ)にある魏の閱祖である曹操の先祖の墓(紀元一七〇年ころ)、曹一族の墓から出た字磚に『有倭人以時盟不』という文字が刻まれていたという」・・・焼く前の「磚(セン)」に「文字」を刻み、その焼かれた「磚(セン)の文字の変化」を「易占」としたのではないのか?・・・漢字の造りの横線が異常に長いらしい・・・
 兎に角、「磚(セン)=石+専」=「甎(セン)=専瓦」は、中国における「焼成煉瓦」を意味する語である・・・
ーー↓
 「朝臣(あそみ・あそん)は、684年(天武天皇十三年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する」。「朝臣」と「真人」の「位階」が入れ替わった理由は「天武天皇」の「諡(おくりな)」に「真人」が挿入されている」・・・「阿倍仲麻呂」が「玄宗皇帝」から賜った姓は「朝臣」で、「官位・位階」ではない・・・
ーー↓
 「臣」の部分を「リ」と書くもの
 「監」、「緊」、「堅」、「賢」、「竪」、「藍」、「籃」、 「臨」などは
 「臣」を
  片仮名の
 「リ」のように書く(监・紧・坚など)
 「臣」の部分の
 「草書」が片仮名の「リ」のようになるため、
 それを用いた「略字」である
 「与」の旧字体
 「與」の上の部分を
 片仮名の
 「リ」と
 「ホ」に書く「略字」は
 草書を「楷書化」したもの
 ・・・ではないだろう・・・片仮名の「リ」は本々「刀」である。「ホ」は「保」か「木」である。
ーー↓
 「応」の旧字体「應」の略字は「応神天皇
 「弥」の旧字体「彌」の略字は「弥生三月」
 「齢(年齢)」・「令(律令)」
 「歳(歳星・歳月)」・「才(才能・才女・才媛)」はそれぞれ独立した「別個の漢字」である。
 ・・・いずれも「漢字の字形」も、その音訓の「コトバ」も問題になるのは「明治以降」の問題で、その時代的な背景を踏まえなければ「古文?」なんだか、ドウなんだか・・・ダイタイカラして「漢文」を「東北弁」で読み下したらどんな「発声音」になるのか?・・・「八重さん」に訊いてみたい・・・ウンダ、ベッ・・・「鹿児島弁」での読み下しは・・・ドゥナ、ッペかな・・・「捨松さん」にも・・・旦那、「大山巌」との日常会話は共通語の「英語・米語」だったんだべッ・・・東北遠征軍には奈良時代のムカシから「通訳が必要」だった・・・他の地域以外も「京都弁」では無理だった・・・記録されたモノの「文字研究」に、この「方言」が殆んど考慮されていない・・・?・・・もっとも、「記録文」が遺されているのは「中央官吏」の「官製記録」が殆んどだけれど・・・
ーーー
 明治四年(1871)十一月
 岩倉遣外使節団四十八名
 大使
 岩倉具視
 副使、四名
 大久保利通木戸孝允、伊東博文、山口尚芳
 が横浜港を出発
 使節団の
 五十八名は留学生
 その中の
 五名が
 少女
 ↓
 静岡県士族
 永井久太郎の養女
 繁子(十歳)
 ↓
 東京府貫属士族
 津田仙の娘(女)
 梅子(六歳)
 ↓
 青森県士族
 山川弥七郎(大蔵・浩)の妹
 捨松(十一歳)
 ↓
 東京府貫属士族(外務中録)
 上田蔲の娘(女)
 悌子(十六歳)
 ↓
 東京府貫属士族同府出仕
 吉益正雄の娘(女)
 亮子(十四歳)
 ・・・なぜか、「捨松」が「十一歳」・・・「津田梅子」が「六歳」・・・初名は「うめ(むめ)」で、1902年(明治三十五年)に「漢字表記」に改めて「梅子」とした・・・
 いずれにしても五人娘の歳は「6(陸)・10(壱拾・足)・11(壱拾壱・足壱)・14(壱拾肆・足肆)・16(壱拾陸・足陸)」である・・・(6+10+11+14+16)=57(五拾七)→(5+7)=12(拾弐)→(1+2)=3(参)・・・伍を拾う漆、拾う弐、參(サン・シン・まいる)である。「十=拾」は「足(たりる・あし・ソク・ショク)」である。そして「十=壱拾」とも記される・・・「選抜留学五人女(娘・嬢)」・・・
ーー↓
 津田梅子
 明治四年(1871年)、父親の「津田仙」は明治政府の事業である北海道開拓使次官の黒田清隆」の嘱託となり、津田家は麻布へ移住し、「梅子」はアメリカ留学。
 明治十一年(1878年)
 コレジエト校を卒業
 私立女学校の
 アーチャー・インスティチュートへ進学
 明治十四年(1881年)に帰国命令
 在学中の
 山川捨松と
 梅子は延長を申請し、
 明治十五年(1882年)
 七月に卒業
 同年
 十一月に日本へ帰国
ーー
 ・・・「黒田隆」は北海道開拓使次官・開拓長官・・・枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任・・・
 明治二年(1869年)
 十一月二十二日
 中山(せい)と結婚
 明治十一年(1878年)
 三月二十八日
 肺を患っていた妻のが死亡・・・黒田が酒に酔って妻を惨殺したという噂が流れた・・・?
 明治三年(1870年)
 五月
 樺太専任の開拓次官・・・
ーーーーー
 枕草子
 (九七段)・・・九十七段・九拾七段・玖足漆段
         9+7=16=十六=壱拾六=足陸
         9×7=63=六十三=六拾参=陸足参

 無名と
 いふ
 琵琶の
 御琴を、
 うへの
 持て
 わた
 ら
 せ
 給へる
 を、
 見
 などして、
 掻き
 鳴し
 など
 す
 と
 言へば、
 ひく
 には
 あらず、
 緒
 などを
 手
 まさぐり
 に
 して、
 「これ
  が
  名よ、
  いか
  に
  とか
  や」
 など
 聞え
 さ
 するに、
 「ただ
  いと
  はかなく
  名
  も
  なし」
 との
 給
 はせ
 たる
 は、
 なほ
 いと
 めでたく
 こそ
 覺え
 しか。
 淑景舎
 など
 わたり
 給ひて、
 御物語の
 ついでに、
 「まろ
  が
  もと
  に
  いと
  をかし
  げ
  なる
  笙の
  笛
  こそ
  あれ。
  故殿の
  得させ
  給へり」
 と
 の給ふ
 を、
 僧都
 君の
 「それは
  隆圓
  に
  たうべ。
  おのれが
  許に
  めで
  たき
  琴
  侍り、
  それに
  かへさせ
  給へ」
 と
 申し
 給ふ
 を、
 きき
 も
 入れ
 給はで、
 猶
 他事を
 の
 たまふ
 に、
 答
 させ
 奉
 らんと
 數多
 たび
 聞え
 給ふ
 に、
 なほ
 物の
 たまはねば、
 宮の
 御前の
 「否
  かへ
  じ
  と
  おぼい
  たる
  もの
  を」
 と
 の給はせ
 ける
 が、
 いみじう
 をかしき
 事
 ぞ
 限
 なき。
 この
 御笛の
 名を
 僧都
 君も
 え
 知り
 給は
 ざり
 ければ、
 ただ
 うらめし
 と
 ぞ
 おぼし
 ためる。
 これは
 職の
 御曹司に
 おはしまし
 し
 時の
 事
 なり。
 うへの
 御前
 に、
 いな
 かへじ
 と
 いふ
 御笛の
 さふらふ
 なり。
 御前に
 侍ふ
 者どもは、
 琴も
 笛も
 皆
 めづらしき
 名つきて
 こそ
 あれ。
 琵琶は
 玄象、
 牧馬、
 井上、
 渭橋、
 無名など、
 また
 和琴
 など
 も、
 朽目、
 鹽竈、
 二貫
 など
 ぞ
 聞ゆる。
 水龍、
 小水龍、
 宇多
 法師、
 釘打、
 葉二、
 なに
 くれと
 多く
 聞え
 しかど
 忘れに
 けり。
 宜陽殿の
 一の
 棚にと
 いふ
 ことぐさは、
 頭
 中
 將
 こそ
 した
 ま
 ひ
 しか。
ーーーーー
 ・・・