1198日目・・・「七人の会議」・・・「折れたネジクギ」・・・「ねじ=螺旋(ラセン)・螺子(ラシ)・捩子(レイシ・レツシ)・捻子(ジュウシ・ニョウシ)」・・・「螺旋(になめぐり)・螺子(になこ・になね)・捩子(ねじるこ・ねじりこ)・捻子(ジュウシ・ニョウシ・よじるこ・よじこ)」・・・「夢中になっている時が一番、危ない」・・・「一生懸−命」、「一所−懸命」とは「夢中・集中」なのか?・・・「だましゑ歌麿」・・・「漆(七・うるし)認(忍・ジン=訊・壬・仁・ひと=比渡)」の「快技・懐疑・掛意義・改義・甲斐疑・魁

ーー
 「喜多川 歌麿
 宝暦三年〈1753年頃?
   〜
 文化三年九月二十日〈1806年10月31日)
 浮世絵師
 姓は北川、後に喜多川
 幼名は「市太郎」、のちに勇助(または勇記)
 名は信美
 初めの号は
 「豊章」といい、
 歌麻呂、
 哥麿とも号す
 通常は
 「うたまろ」と読むが、
 秘画本には
 「うたまる」としているものもある
 俳諧では
 「石要」、「木燕」、燕岱斎
 狂歌名は
 筆の
 「綾丸」、
 「紫屋」と号
 蔦屋重三郎とともに
 吉原連に属した
 法名
 秋円了教信士・・・
ーーー
 ・・・「コジキ」、モゥ、これは「江戸時代のモノ」・・・「だまし文字・安萬麿(麻呂)」・・・念入りに「青銅の墓標」まで造った・・・?・・・和銅五年・・・
 歌麿の作品に
ーー↓
 「かくれんぼ図」
 「万才図額」
 「婦人相学十躰」
 「風流七小町」
 「当時全盛美人揃」
 「歌枕
 「針仕事」
 「山東京伝遊宴」
 「音曲比翼の番組」
 「小むら咲権六」
 「橋下の釣」、
 絵本に
 「画本虫撰
 「潮干のつと」・・・がある・・・絵を視ると「巻貝・鮑(鰒・あわび)・蛤(はまぐり)」が描かれてある・・・
ーー↓潮干のつと
 ・・・潮干(しほひ・しほひる・しほほし・チョウカン)=潮干狩・・・鳥瞰(チョウカン)・・・
 「つと」は「エソ・グチ・トラハゼ・スケトウダラなどの生すり、生ねりの「蒲鉾(かまぼこ)」、あるいは、その原料に地魚の生すり身を使用した「かまぼこ」である。
 ブログで調べてみると「潮干のつと(しおひのつと)」は「喜多川歌麿画・朱楽菅江編・江戸・蔦屋重三郎〔寛政初頃〕刊」とあった。
ーー↓
 彩色摺狂歌絵本
 「潮干のつと」とは「潮干狩りのみやげ」という意味。36種の貝と、初めと終わりに付した関連美人風俗図を、朱楽菅江(1738-98)と彼の率いる朱楽連の狂歌師たち38名が1名1首ずつ詠む。
 画工は喜多川歌麿(?-1806)
 本書には
 波模様や
 「貝合せ図」の
 障子に映る
 手拭いの影の有無等、
 摺りが異なるものが数種存在
 本書は
 安永から寛政にかけて
 蔦屋重三郎が刊行した
 狂歌絵本の代表的なもので、
 空摺りや
 雲母などが施され、
 華美で贅沢な作品
ーーー↓
 「つと」
 ある動作をすばやく、または、いきなりするさま。さっと。急に。不意に
 動かないである状態を続けるさま。じっと
 「つと」の意味
 そのまま。ずっと。じっと。
ーー↓
 昔(むかし)は、卵(たまご)を持(も)ち歩(ある)くため、わらでつくった「つと」と呼(よ) ばれるわら細工(ざいく)に入(い)れていた
ーー↓つと=簀巻き
 簀巻き(すまき)かまぼこ
 原料魚・白身魚
 エソ・グチ・トラハゼ・スケトウダラほかエソ、トラハゼなどの地魚の生すり身やスケトウダラ等の冷凍すり身を筒状に成形し、
 その周りに
 定寸の麦藁(ストロー)を
 均一につけて蒸した製品
 表面には
 波形が付き、
 独特の弾力と
 魚の旨味を生かすために
 やや
 塩味がかかっているのが特徴
 四国の今治市や中国地方で生産
 地域によっては
 「つと巻き」と呼ばれている
ーー↓
 平安時代の「類聚雑要抄」に
 藤原忠実が永久三年(1115年)に
 転居祝いに
 宴会を開いた時の
 串を刺したかまぼこが載っている
ーー↓
 「つとかまぼこ」
 「苞(つと)」は
 「麦わら」のことではないかと解釈
 最近「ストかまぼこ」(島根県ではこう呼ばれています)と呼ばれているのは、
 この
 「苞(つと」が
 「すと」と訛ったものかも
 あるいは
 「ストロー(麦わら)」からきているものなのかも・・・
ーー↓
 「簀巻き(すまき)蒲鉾(かまぼこ)」=「つと」・・・通渡・通渡・通賭・・・だろう・・・
 調べると・・・「かまとと(カマトト)」、「かまとと振り」とは「かまぼこのことを『これは魚(とと)か?』と訊く」ということから、「無知・世間知らずを装ってかわいらしく見せる人(特に女性)を指す」。
 江戸時代に遊女が世間知らずを装うため、蒲鉾を指してこれが「魚(とと)」なのかと問うたことに由来・・・とあった。「魚」が「とと」との訓読みは初耳・・・
 また、「かまぼこ」とは相撲の隠語で、稽古を「さぼること」を意味する。土俵に上がらずに稽古場の板塀に背中をくっつけたまま稽古をしない様子が、蒲鉾を連想して「板についている」とのシャレ言葉に由来している・・・?
 「板につく」
 「板」は板張りの舞台
 「つく」は見事に合うこと
 経験を積んだ役者の芸は、
 舞台にしっくりと調和されていることから
 役者が経験を積んで、演技が舞台によく調和する
 経験を積んで、動作や態度が
 地位・職業などにしっくり合う
 板についている
 板につくの言い換えは、
 手慣れる・ぴったり・ちょうどよい・さまにあう・堂にいる・熟達する・手際よい・馴染む・慣れる・習熟する・しっくり・落ち着く・・・
ーーーーー
 枕草子
 (九一段)・・・九十一段・九拾壱段・玖足壱段
         9+1=10=十=壱拾
         9×1=9=九=玖
 職の
 御曹司に
 おはします
 ころ、
 西の
 廂に
 不斷の
 御讀經
 あるに、
 佛
 など
 かけ
 奉り、
 法師の
 ゐたる
 こそ
 更なる
 事
 なれ。

 二日
 ばかり
 ありて、
 縁のもとに
 あやしき
 者
 の
 聲
 にて、
 「なほ
  その
  佛具の
  おろし
  侍り
  なん」といへば、
 「いかで
  まだ
  き
  に
  は」と答ふるを、何のいふにかあらんと立ち出でて見れば、老いたる女の法師の、いみじく煤けたる狩袴の、筒とかやのやうに細く短きを、帶より下五寸ばかりなる、衣とかやいふべからん、同じやうに煤けたるを著て、
 猿のさま
 にて
 いふなりけり。「あれは何事いふぞ」といへば、聲ひきつくろひて、「佛の御弟子にさぶらへば、佛のおろし賜べと申すを、この御坊達の惜みたまふ」といふ、はなやかにみやびかなり。
 「かかる
  もの
  は、
  うち
  くんじ
  たる
  こそ
  哀なれ、うたても花やかなるかな」とて、「他物は食はで、佛の御おろしをのみ食ふが、いとたふとき事かな」といふけしきを見て、「などか他物もたべざらん。それがさふらはねばこそ取り申し侍れ」といへば、菓子、ひろきもちひなどを、物に取り入れて取らせたるに、無下に中よくなりで、
 萬
 の
 事を
 かたる。

 若き人々いできて、「男やある、いづこにか住む」など口々に問ふに、をかしきこと、そへごとなどすれば、「歌はうたふや、舞などするか」と問ひもはてぬに、「よるはたれと寐ん、常陸介と寐ん、ねたる膚もよし」これが末いと多かり。また
 「男山
  の
  峯
  の
  もみぢ
  葉、
  さぞ
  名は
  たつたつ」と
 頭をまろがしふる。いみじくにくければ笑ひにくみて
 「いね
  いね」
 と
 いふもいとをかし。「これに何取らせん」といふを聞かせ給ひて、「いみじう、などかくかたはらいたき事はせさせつる。えこそ聞かで、耳をふたぎてありつれその衣一つとらせて、疾くやりてよ」と仰事あれば、とりて「それ賜はらするぞ、きぬすすけたり、白くて著よ」とて投げとらせたれば、伏し拜みて、肩にぞうちかけて舞ふものか。誠ににくくて皆入りにし。
 後
 に
 は
 ならひたる
 にや、
 常に見え
 しら
 がひて
 ありく。
 やがて常陸介とつけたり。衣もしろめず、同じすすけにてあれば、いづち遣りにけんなどにくむに、

 右近の内侍の參りたるに、「かかるものなんかたらひつけて置きためる。かうして常にくること」と、ありしやうなど、小兵衞といふ人してまねばせて聞かせ給へば、
 「あれいかで見侍らん、
  かならず見せさせ給へ、
  御得意ななり。
  更に
  よも
  かたらひ
  とら
  じ」
 など笑ふ。

 その後また、尼なるかたはのいとあてやかなるが出できたるを、又呼びいでて物など問ふに、これははづかしげに思ひてあはれなれば、衣ひとつたまはせたるを、伏し拜むはされどよし。さてうち泣き悦びて出でぬるを、はやこの常陸介いきあひて見てけり。その後いと久しく見えねど、誰かは思ひ出でん。

 さて
 十二月
 の
 十
 餘
 日
 のほどに、雪いと高うふりたるを、女房どもなどして、物の蓋に入れつついと多くおくを、おなじくば庭にまことの山をつくらせ侍らんとて、侍召して仰事にていへば、集りてつくるに、主殿司の人にて御きよめに參りたるなども皆よりて、いと高くつくりなす。宮づかさなど參り集りて、こと加へことにつくれば、所の衆三四人まゐりたる。主殿司の人も二十人ばかりになりにけり。里なる侍召しに遣しなどす。
 「今日
  この山
  つくる
  人
  には禄
  賜
  はすべし。
  雪山に
  參らざらん
  人には、
  同じ
  から
  ず
  とどめん」
 などいへば、聞きつけたるは惑ひまゐるもあり。里遠きはえ告げやらず。作りはてつれば、宮づかさ召して、衣二ゆひとらせて、縁に投げ出づるを、一つづつとりに寄りて、をがみつつ腰にさして皆まかでぬ。袍など著たるは、かたへさらで狩衣にてぞある。

 「これいつまでありなん」と人々のたまはするに、「十餘日はありなん」ただこの頃のほどをあるかぎり申せば、「いかに」と問はせ給へば、「正月の十五日まで候ひなん」と申すを、御前にも、えさはあらじと思すめり。女房などは、すべて年の内、晦日までもあらじとのみ申すに、あまり遠くも申してけるかな。實にえしもさはあらざらん。朔日などぞ申すべかりけると下にはおもへど、さばれさまでなくと、言ひそめてんことはとて、かたうあらがひつ。

 二十日
 の
 ほどに
 雨など
 降れど、
 消ゆべくもなし。
 長ぞ
 少し
 おとりもてゆく。
 白山の
 觀音、
 これ
 消させ
 給ふな
 と
 祈る
 も
 物狂ほし。

 さてその山つくりたる日、式部丞忠隆御使にてまゐりたれば、褥さし出し物などいふに、「今日の雪山つくらせ給はぬ所なんなき。御前のつぼにも作らせ給へり。春宮弘徽殿にもつくらせ給へり。京極殿にもつくらせ給へり」などいへば、
 ここにのみめづらしと見る雪の山ところどころにふりにけるかな
 と傍なる人していはすれば、たびたび傾きて、「返しはえ仕うまつりけがさじ、あざれたり。御簾の前に人にをかたり侍らん」とてたちにき。歌はいみじく好むと聞きしに、あやし。御前にきこしめして、「いみじくよくとぞ思ひつらん」とぞの給はする。

 晦日がたに、少しちひさくなるやうなれど、なほいと高くてあるに、晝つかた縁に人々出居などしたるに、常陸介いできたり。「などいと久しく見えざりつる」といへば、「なにか、いと心憂き事の侍りしかば」といふに、「いかに、何事ぞ」と問ふに、「なほかく思ひ侍りしなり」とてながやかによみ出づ。
 うらやまし足もひかれずわたつ海のいかなるあまに物たまふらん
 となん思ひ侍りしといふをにくみ笑ひて、人の目もみいれねば、雪の山にのぼり、かかづらひありきていぬる後に、右近の内侍にかくなんといひやりたれば、「などか人そへてここには給はせざりし。かれがはしたなくて、雪の山までかかりつたひけんこそ、いと悲しけれ」とあるを又わらふ。
 さて雪山はつれなくて年もかへりぬ。ついたちの日また雪多くふりたるを、うれしくも降り積みたるかなと思ふに、
 「これは
  あい
  なし。
  初
  の
  をば
  おきて、
  今
  の
  をば
  かき棄てよ」
 と仰せらる。
 うへにて局へいと疾うおるれば、侍の長なるもの、柚葉の如くなる宿直衣の袖の上に、青き紙の松につけたるをおきて、わななき出でたり。「そはいづこのぞ」と問へば、「齋院より」といふに、ふとめでたく覺えて、取りて參りぬ。まだ大殿ごもりたれば、母屋にあたりたる御格子おこなはんなど、かきよせて、
 一人
 ねんじて
 あぐる、
 いと
 重し。
 片つ方
 なれば
 ひしめくに、
 おどろかせ給ひて、「などさはする」との給はすれば、「齋院より御文の候はんには、いかでか急ぎあけ侍らざらん」と申すに、「實にいと疾かりけり」とて起きさせ給へり。御文あけさせ給へれば、五寸ばかりなる
 卯槌
 二つを、
 卯杖の
 さまに頭つつみなどして、
 山たちばな、
 ひかげ、
 やますげ
 など美しげに飾りて、
 御文
 は
 なし。
 ただなるやう有らんやはとて御覽ずれば、卯槌の頭つつみたるちひさき紙に、
 山と
 よむ
 斧の
 ひびきを
 たづぬれば
 いはひの
 杖の
 音に
 ぞ
 ありける
 御返しかかせ給ふほどもいとめでたし。齋院にはこれより聞えさせ給ふ。御返しも猶心ことにかきけがし、多く御用意見えたる。御使に、白き織物の單衣、蘇枋なるは梅なめりかし。雪の降りしきたるに、かづきて參るもをかしう見ゆ。このたびの御返事を知らずなりにしこそ口惜しかりしか。
 雪の山は、誠に越のにやあらんと見えて、消えげもなし。くろくなりて、見るかひもなきさまぞしたる。勝ちぬる心地して、いかで十五日まちつけさせんと念ずれど、 
 「七日
  を
  だに
  え
  過
  さじ」
 と猶いへば、いかでこれ見はてんと皆人おもふほどに、
 俄に
 三日
 内裏へ
 入らせ給ふべし。いみじうくちをしく、この山のはてを知らずなりなん事と、まめやかに思ふほどに、人も「實にゆかしかりつるものを」などいふ。御前にも仰せらる。同じくはいひあてて御覽ぜさせんと思へるかひなければ、御物の具はこび、いみじうさわがしきにあはせて、
 木守といふ者の、
 築地のほどに
 廂さしてゐたるを、
 縁のもと近く呼びよせて、
 「この
  雪の
  山
  いみじく
  守りて、
  童などに
  踏み
  ちらさせ
  毀たせで、
  十五日
  まで
  さふら
  はせ。

 よくよく守りて、その日にあたらば、めでたき禄たまはせんとす。わたくしにも、いみじき悦いはん」など語らひて、常に臺盤所の人、下司などに乞ひて、くるる菓子や何やと、いと多くとらせたれば、うち笑みて、「いと易きこと、たしかに守り侍らん。童などぞのぼり侍らん」といへば、「それを制して聞かざらん者は、事のよしを申せ」などいひ聞かせて、入らせ給ひぬれば、七日まで侍ひて出でぬ。其程も、これが後めたきままに、おほやけ人、すまし、をさめなどして、絶えずいましめにやり、七日の御節供のおろしなどをやりたれば、拜みつる事など、かへりては笑ひあへり。
 里にても、明くるすなはちこれを大事にして見せにやる。
 十日の
 ほどには五六尺ばかりありといへば、うれしく思ふに、
 十三日の
 夜雨
 いみじく降れば、これにぞ消えぬらんと、いみじく口惜し。今一日もまちつけでと、夜も起き居て歎けば、聞く人も物狂ほしと笑ふ。人の起きて行くにやがて起きいで、下司おこさするに、更に起きねば、にくみ腹だたれて、起きいでたるを遣りて見すれば、「圓座ばかりになりて侍る。木守いとかしこう童も寄せで守りて、明日明後日までもさふらひぬべし。禄たまらんと申す」といへば、いみじくうれしく、いつしか明日にならば、いと疾う歌よみて、物に入れてまゐらせんと思ふも、いと心もとなうわびしう、
 まだくらきに、大なる折櫃などもたせて、「これにしろからん所、ひたもの入れてもてこ。きたなげならんはかき捨てて」などいひくくめて遣りたれば、いと疾くもたせてやりつる物ひきさげて、「はやう失せ侍りにけり」といふに、いとあさまし。をかしうよみ出でて、人にもかたり傳へさせんとうめき誦じつる歌も、いとあさましくかひなく、「いかにしつるならん。昨日さばかりありけんものを、夜のほどに消えぬらんこと」といひ屈ずれば、「木守が申しつるは、昨日いと暗うなるまで侍りき。禄をたまはらんと思ひつるものを、たまはらずなりぬる事と、手をうちて申し侍りつる」といひさわぐに、内裏より仰事ありて、「さて雪は今日までありつや」との給はせたれば、いとねたくくちをしけれど、
 「年のうち
  朔日まで
  だに
  あらじと
  人々啓し給ひし。昨日の夕暮まで侍りしを、いとかしこしとなん思ひ給ふる。今日まではあまりの事になん。夜の程に、人のにくがりて取りすて侍るにやとなん推しはかり侍ると啓せさせ給へ」と聞えさせつ。
 さて
 二十日に
 參り
 たる
 にも、
 まづ
 この
 事を
 御前にてもいふ。
 「みな消えつ」
 とて
 蓋の
 かぎり
 ひ
 き
 さげて持てきたりつる。帽子のやうにて、すなはちまうで來りつるが、あさましかりし事、物のふたに小山うつくしうつくりて、白き紙に歌いみじく書きて參らせんとせし事など啓すれば、いみじく笑はせ給ふ。御前なる人々も笑ふに、「かう心に入れて思ひける事を違へたれば罪得らん。まことには、四日の夕さり、侍どもやりて取りすてさせしぞ。かへりごとに、いひあてたりしこそをかしかりしか。その翁出できて、いみじう手をすりていひけれど、おほせごとぞ、かのより來らん人にかうきかすな。さらば屋うち毀たせんといひて、左近のつかさ、南の築地の外にみな取りすてし。いと高くて多くなんありつといふなりしかば、實に二十日までも待ちつけて、ようせずば今年の初雪にも降りそひなまし。
 うへにも聞し召して、いと思ひよりがたくあらがひたりと、殿上人などにも仰せられけり。さてもかの歌をかたれ、今はかくいひ顯しつれば、同じこと勝ちたり。かたれ」など御前にもの給はせ、人々もの給へど、「なにせんにか、さばかりの事を承りながら啓し侍らん」などまめやかに憂く心うがれば、うへも渡らせ給ひて、
 「まことに
  年ごろは
  多くの人
  な
  めり
  と見つるを、
  これ
  に
  ぞ
  怪しく思ひし」
 など仰せらるるに、いとどつらく、うちも泣きぬべき心地ぞする。
 「いで
  あはれ、
  いみじき
  世の中
  ぞ
  かし。
 後に降り積みたりし雪を
 うれしと思ひしを、
 それは
 あいなし
 とて、
 かき捨てよ
 と
 仰事
 はべり
 し
 か」と申せば、
 「實に
  かた
  せ
  じ
  と
  おぼし
  ける
  らん」
 とうへも笑はせおはします。
ーーーーー
 ・・・