1197日目・・・今日の収穫はキュウリが三本・・・スゴイ、ッ、成長力・・・雨がショボショボ・・・「社会民主党」の組織がガタガタになったのは、かって、「自民党」と臆面も無く、その「信条」を曲げて「土井」と「村山」が「結託」した問題だろう・・・その後の「神戸地震」、5000人の犠牲者・・・アレが彼らの「行政力」だった・・・今回の、地震、津波、「原発事故」での「民主党政権下」での「行政指導力・外交指導力」の貧弱、貧困・・・汚染地域への現地住民の誘導、「村山・土井」以下・・・「民主党政権」との「連立」をキッパリ

 だが「信念・思想」をカタッても、現実的な「人間関係(義理と人情・脅しと懐柔)」が薄い「人間」が「他人」を動かせるか、ドウかは別問題である・・・そもそも「一般労働者」が「労働組合員」から「組合職」、そして会社側から引き抜かれて「管理職」になった途端に「プチブル根性丸出し」にして、その「職務」に励むようになる・・・「大陸中国の指導部には賄賂、収賄、特権」、「亜米利加合衆国の指導者には献金、見返り、ドリ−ム」、「自民党に利権配分と水戸黄門」・・・何時の時代でも、「給料の多寡」と「身分保障維持と昇進」に励むのが現実だ・・・「生活の安堵」は自分自身の「権利の枠外」から「与えられるモノ」であったし、「奪われるモノ」であった。今現在も「意識」は同じであろう・・・そして、職種は問わず、職種に「貴賤は無い」である。「自由選択」だからね・・・洗濯するにも着替えが無い、洗濯機が無い・・・それ以前に水が無い、電気が無い・・・ネコのエサが無い、食い物が無いって・・・ワケではないから、今現在のボクは・・・
 「労働」は「美徳」って、ダレのタメの「美徳」だったのか・・・昨夜の「クローズアップ現代」は「共感」、アンタの気持ちは「ヨォ〜クわかる」、ってか・・・ワカッテも「立場」を忘れるなョなッ・・・他人に「ヨイしょ」されれば何時でもガンバル人々・・・いつの間にやら「労働者」の概念が「サラリーマン」に呑み込まれていった時代、名目の店長、次長、主任、係長、係長代理がワンサカ・・・「帝国日本軍隊組織」では「一兵卒」が「伍長」、「軍曹」になった時の「心情」である・・・「戦争」がなけれ「二等兵」でも喰いっぱグレはない。ボクの既に亡くなった伯父さんは北海道開拓入植者、貧農の次男、「軍隊生活が一番よかった」って云っていた。ビルマ戦線で終戦を迎えた最高階級は「軍曹」・・・
 一般労働者がガンバル時、「労働組合幹部」に引き抜かれたり、「会社管理職」になった時である・・・その「裏切り」の見返りは「一般労働者」への「懐柔工作員」、「オレもソウだった」・・・「アンタの気持ちはヨォ〜クわかる」・・・
 今現在、それ以前に「働く場所が無い」・・・あっても、殆んどがテイのいい「ルンペン労働者」である・・・
 交通整理の「JDポリス」には賛成だけれどネッ・・・「職場内」での「理不尽」はどうなんだろう・・・
ーー↓土井
 ・・・以前にも書き込んだけれど参照全文は「ウイッキペデア」から・・・
 土井晩翠
 進学を阻まれたが、のち許されて
 第二高等中学校(東北大学の前身校の一つ)に入学
 吉野作造と交友
 1894年(明治二十七年)
 帝国大学英文科
 「帝国文学」編集、詩を発表
 卒業後、
 1898年(明治三十一年)
 カーライルの
 「英雄論」を翻訳出版
 1899年(明治32年)
 第一詩集
 「天地有情」刊行
 東京音楽学校東京芸術大学)から
 中学唱歌用の歌詞を委嘱
 「荒城月」作詩
 楽曲に
 滝廉太郎の曲が採用
 1901年(明治三十四年)
 「荒城の月」として発表
ーー↓
 1902年(明治三十五年)八月
 晩翠が欧州遊学
 前年四月にライプツィヒ音楽院に留学した
 滝廉太郎が肺結核
 帰国するため、
 ベルギーの
 アントワープから日本郵船の客船
 「若狭丸」に乗り
 イギリス・ロンドン郊外の
 ティルベリー(テムズ川河口港)に寄港した際、
 晩翠は
 姉崎正治と共に
 滝と最初で最後の対面
 1924年(大正十三年)
 バイロン没後、百周年を期して
 「チャイルド・ハロウドの巡礼」翻訳刊行
 1934年(昭和九年)
 二高を定年退職
 名誉教授
 1941年(昭和十六年)
 戦陣訓の文体作成について
 島崎藤村
 佐藤惣之助とともに参画
 1952年(昭和二十七年)
 急性肺炎で死去
ーー↓ー
 妻子に次々と先立たれたことで
 心霊学に関心
 1946年(昭和二十一年)
 財団法人
 日本
 心霊科学協会設立、顧問
 ・・・自分自身が「無意識」に「コトバ」でやって来たコトに「自覚」がない奴は「取り憑かれる」のさ・・・「霊は自覚を促している(無意識の意識が許さない)」んだろう・・・
ーー↓
 1903年(明治三十六年)一月〜四月
 フランス(フランス第三共和政)の
 ソルボンヌ大学で仏文学研究
 1904年(明治三十七年)十一月
 帰国
 1934年(昭和九年)
 三月
 第二高等学校を定年退官
 九月
 随筆集
 「雨の降る日は天気が悪い」刊行
 同本の序文に
 「つちいの姓をどいと改称する」と記録
 1937(昭和十二年)六月
 第七詩集
 「神風」刊行
 1945年(昭和二十年)七月十日
 仙台空襲で住居と蔵書約三万冊を失う
ーー
 ・・・彼の「ウタ」に煽られた?学生たちは「靖国」に定住した・・・
ーーーーー
 枕草子
 (九〇段)・・・九十段・九拾段・玖足段
         9+0=9=九=玖
         9×0=0=零

 さてその
 左衞門の
 陣に
 いきて後、
 里に
 出でて
 暫し
 あるに、
 「疾く
  參れ」
 など
 仰事の
 はしに、
 「左衞門の
  陣へ
  いきし
  朝
  ぼらけ
  なん、
  常に
  おぼし
  出でらるる。
  いかで
  さ
  つれなく
  うち
  ふりて
  あり
  し
  ならん。
  いみじく
  めでた
  からんと
  こそ
  思ひ
  たり
  しか」
 など
 仰せられたる
 御
 返事に、
 かしこまり
 の
 よし
 申して、
 「私には
  いかでか
  めでたし
  と
  思ひ
  侍ら
  ざらん。
  御前にも、
  さり
  とも、
  中なる
  をとめ
  とは
  おぼし
  めし
  御覽じ
  けん
  と
  なん
  思ひ
  給へし」と
 聞えさせたれば、
 たち
 歸り
 「いみじく
  思ふべ
  かめる
  なり。
  誰が
  おもて
  ぶせ
  なる
  事
  をば、
  いかでか
  啓し
  たる
  ぞ。
  ただ
  今
  宵の
  うちに
  萬の
  事を
  すてて
  參られよ。
  さらず
  ば
  いみじく
  にく
  ませ
  給はん
  と
  なん
  仰事
  ある」と
 あれば、
 よろし
 か
 らん
 にて
 だに
 ゆゆし。
 まして
 いみじく
 と
 ある
 文字には、
 命
 も
 さながら
 捨てて
 なん
 とて
 參り
 にき。
ーーーーー
 ・・・