1194日目・・・ナガイなぁ〜ッ、「八七段」→「捌足漆談」の文・・・「マクラのソウシ」だけれど・・・ボクが「ボクテキ」に「翻訳」するのは・・・「長井雅楽(ながいうた・チョウイガラク)」・・・が「長州藩」に居たけれど・・・不本意に「詰め腹」・・・「世の中の組織の常」だけれど・・・

ーー↓ナガイ
 長井家
 松坂湊町の豪商
 先祖は武士で、
 永正八年(1511)
 京都船岡山の合戦で討ち死
 後、商人となり、
 大名貸しや
 郷貸し
 木綿を商った
 屋号は
 「大和屋」
 江戸
 大
 伝馬町に
 長井惣兵衛店
 松坂
 御為替組にも加入
 長井家に
 本居宣長
 次女
 美濃
が嫁ぐ
 夫は尚明
 夫婦は
 長井の同族
 大泉家を嗣ぎ、
 後
 同族の
 小津家に移る
ーー↓
 来迎寺(ライゴウ)に
 「長井家
  先祖
  暦(歴)
  代聖霊」碑
 「草のはら
  思ひこがれて 
  たづぬれば 
  跡はきえせぬ 
  船岡の露
  宣長
 定規居士
 永正八年
 船岡山の戦に
 討死せられし事など
 曾祖父翁
 此歌の詞書に
 委しく
 物
 し置れたれど
 事
 長ければ
 ここに
 はぶきつ、
 万延元年八月、
 長井道孝
 主の求によりて、
 本居信郷書」
 万延元年=西暦1860年
 本居信郷は
 本居宣長から
 四代目・・・?・・・
ーー↓ナガイ
 出羽
 長井氏
 鎌倉幕府
 別当
 大江広元
 次男
 時広を祖に持つ
 長井氏(永井氏)
 承久三年(1221年)
 「承久の乱」の際に
 時広の兄の
 親広(寒河江氏の祖)が
 後鳥羽上皇方に味方
 以後、
 大江氏の
 惣領となって繁栄
 後に執権北条氏が台頭し
 評定衆の一人
 備後国守護にも任じられた
ーー
 長井泰秀の代
 宝治元年(1247年)
 「宝治合戦」で
 泰秀の叔父
 毛利季光
 三浦氏に味方し、
 一族はほぼ滅亡
 泰秀は
 北条氏に味方して
 所領を安堵
 親族の
 毛利氏の救済を
 懇願し、
 生き残った
 毛利経光に
 越後国
 佐橋荘と
 安芸国
 吉田荘の
 地頭職の
 安堵で奔走し
 結果、
 毛利氏は
 両荘の
 地頭職を
 安堵
 その後
 長井氏は
 米沢城を築き
 置賜郡
 長井荘
 地頭職を代々務めた
 長井広秀の代に
 鎌倉幕府
 滅亡(1334年)・・・イザミヨ
          兼務の中項の念(賭し)
 執権北条氏を見限り、
 後醍醐天皇方について
 関東廂番の一員となった
 建武二年(1335年)
 足利氏の執事に就任
 長井広秀の
 長井荘に
 隣接する伊達郡
 伊達氏が
 後醍醐天皇方に
 味方し
 対立するが
 伊達氏も
 北朝に転じて
 長井氏と
 和解
ーー
 伊達宗遠
 信夫郡等を
 支配下
 収めた
 後に、
 置賜郡長井荘にも進出
 南朝:天授六年
 北朝:康暦二年
 (1380年)
 伊達宗遠
 茂庭行朝らを率いて
 置賜郡に侵入し、
 一部を占拠
 高畠城を・・・・「畠」=はたけ・はた=「畑」
ーーー↓      ↓
         「畑」も「畠」も「国字」
         「畑」=火+田=焼畑
          (ひ・カ)+(た・デン)
           秘伝・掛他・日田・飛騨・肥田
           比太・樋田・氷田・飛田
           襞→しわ(皺)→史話・詩話・史和
             瓜田・家伝・掛傳・歌傳
         「畠」=白+田=開墾田・新田
             白田・白伝・曰伝・百伝
           「鼻」から「廾」を除去した漢字
            畠=鼻−廾(キョウ・ク
                  こまねく=拱く)
                廾=サ←十+ナ
                艸=草冠の「++・サ」
                丱=カン・ケン・コウ
          「丱」=童の「あげまき」=おさげ
              ワラベのカミガタ
              揚巻=傾城→三浦屋揚巻(歌舞伎)
              歌舞伎舞踊長唄
              五変化舞踊
             「助六姿裏梅
             (すけろくすがたのうらうめ)」の通称
              総角(あげまき)=角髪(つのがみ)
          和製漢字=国字(コクジ)
          中国以外の国で作られた
          漢字体の文字
          広義では
          方言文字・職域文字
          個人文字や
          仮名合字も含む
           ↓
          何時の時代の「国字」なのか?
          その「国字」の使用目的は何か?
          1872年(明治五)
          「国民皆学」
          1902年(明治三十五)
          国語調査委員会発足
          1909年(明治四十一年)
          臨時仮名遣調査委員会
          仮名づかい改定案
          森鴎外(林太郎)
          徳富蘇峰(猪一郎)など
          1921年(大正十年)
          臨時国語調査委員会
          森鴎外徳富蘇峰
          有島武郎島崎藤村(春樹)
          1946年(昭和二十一)
          アメリカ教育使節団が、
          GHQ(占領軍)、
          連合国軍最高司令官
          マッカーサーに提出
          米国教育使節団報告書
          ・・・江戸中期、末が
         「国字」の発生源か・・・?
          国字の数
         「異体字弁」89字
         「同文通考」81字
         「国字考」119字
         「倭字考」168字
         「諸橋大漢和」141字
         「国字の字典・飛田良文
          1553字
         発生時期は不明・・・?
         ハッキリしているのは
         「出版漢字活字」であろう
         幕末の「木版」
         ・・・「木刻版」、
         明治以後の
         意図は
         「部首漢字」の
         「音訓」と、
         その「音」を採って
         漢字の中に
         「隠字・隠事」した
         「合字の意味」である
         ・・・「なまり=鉛・訛・鈍」
ーーー↓
 長井荘進出の
 橋頭堡とした
 長井氏は幕府の支援を受け
 伊達氏を退却させたが
 南朝:元中二年
 北朝:至徳二年
 (1385年)
 宗遠の跡を継いだ
 伊達政宗の攻撃によって、
 出羽
 長井氏は滅亡
ーー
 備後
 長井氏
 鎌倉幕府より
 備後国の守護として任命され栄えた。
ーー
 長井貞広の死後、
 同族の
 毛利元春の子の
 広世を養子として迎え、
 福原氏と名を変え
 子孫は
 毛利氏の家臣として存続
 幕末に
 長井時庸(長井雅楽を出した
 長井氏は
 この福原氏から分かれた一族
 ・・・やっと、出てきた・・・ながいうた・・・
ーー↓原文はスベテ、「ウイッキペデア」
長井雅楽 - Wikipedia
ーー↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E9%9B%85%E6%A5%BD
ーー↓長井時庸(長井雅楽
 長井 時庸
 文政二年五月一日
 (1819年6月22日)
   〜
 文久三年二月六日
 (1863年3月24日)
 別名 雅楽・与之助・与左衛門
    隼人、右近
 戒名 庸軒誠義英剣居士
 墓所 海潮寺(山口県萩市
 主君 毛利敬親
 藩  長州藩
 氏族 大江姓長井氏
 父は長井泰憲(長井次郎右衛門泰憲)
 母は福原利茂の女
 子は貞子
ーー
 藩校の明倫館で学ぶ
 藩主・毛利敬親の小姓
 奥番頭
 敬親の世子である
 毛利定広の後見人
 安政五年(1858年)
 長州藩
 直目付
 開国論者
 文久元年(1861年)
 公武一和に基づいた
 「航海遠略策」を藩主に建白
 十一月
 藩主・敬親と共に江戸入り
 老中
 久世広周安藤信正と会見
 十二月
 正式に建白し公武の周旋を依頼
 当時藩内であった
 尊皇攘夷派とは対立関係
 井伊直弼
 安政の大獄のとき、
 吉田松陰の江戸護送を制止も弁明もしようとしなかった
 松陰の弟子である
 久坂玄瑞
 前原一誠らに命を狙われる
 文久二年(1862年)
 公武合体を進めていた
 安藤や久世らが
 「坂下門外の変」で失脚
 藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、
 長井の排斥運動
 文久二年三月
 再度入京
 尊攘激派の
 久坂らの
 朝廷工作によって
 長井の説は
 朝廷を誹謗するものとして
 敬親により
 帰国謹慎を命じられた
 六月に免職、帰国
 文久三年(1863年)
 雅楽
 長州藩の責任を全て取る形で
 切腹、自害
 享年四十五歳
 国司親相
 切腹
 検視役正使
 長女
 貞子は後に
 富岡製糸場で勤務
ーー
 高杉晋作の父・高杉小忠太とは
 世子付の同役を務めた
 友人同士
 切腹の前日、
 小忠太へ
 潔白を訴え、
 遺児の庇護を依頼する
 長文の手紙を出し、
 末尾に
 「ぬれ
  衣の
  かかる
  うき身は
  数ならで
  唯
  思はるる
  国の
  行く
  末」
 と辞世の歌
ーー↓他の辞世句
 今さらに
 何をか
 言わむ
 代々を
 経し
 君の
 恵みに
 むくふ
 身なれば
ー↓
 君
 が
 ため
 身を
 捨つる
 命は
 惜し
 から
 で
 ただ
 思はるる
 国の
 ゆく
 すえ
ー↓
 君恩に
 報いん
 として
 業
 いまだ
 央ならず
 自羞す
 四十五年の
 狂
 即
 今
 成仏は
 予が
 意に
 非らず
 願わく
 は
 天魔を
 帥いて
 国光を
 輔けん
ーー↓
 長州藩
 路線変更とそれを
 画策した
 久坂玄瑞
 最終的には
 長井雅楽を死に追いやった・・・
 久坂玄瑞らも
 禁門の変で討死
 その明治新政府の政策は
 「尊皇攘夷」ではなく
 「開国和親」、
 長井雅楽の唱えた航海遠略策
 明治新政府の中心に座ったのは、
 松下村塾の卒塾生であり、
 吉田松陰
 仇敵と
 目された
 長井雅楽
 評価を
 不当に貶めた・・・
 吉田松陰の「大攘夷」
 実行論において
 対極の
 長井は松陰の行動主義を批判し
 「寅次(松陰)は破壊論者なり。国益を起こすの人にあらず」
 松陰は、長井を奸臣とし「青面の鬼」と呼んで憎悪
 松陰を江戸へ送れという幕府の命令を
 直目付の
 長井が藩へ伝えたことが
 松下村塾系の藩士から
 逆恨みを買った。
 長井雅楽
 外に
 真意を
 漏らさなかったが、
 松陰の江戸護送が
 断腸の思いであることを
 家族に伝えている・・・
 後に
 長井雅楽
 真意を知った
 松下村塾卒塾生の
 一部は、
 長井の家族を庇護・・・
ー↓ー
 575年
 第三十代敏達天皇(訳語田渟中倉太珠敷尊)
 百済大井宮の跡に「訳語田(おさだ)」に宮を造る
 これを
 「幸王宮(さきたまのみや)」と言う
 奈良県
 桜井市
 戒重(カイジュウ)の
 春日神社近辺
 「686年(朱鳥元年九月)天武天皇崩御
 「686年(朱鳥元年十月二日、親友の川島皇子の密告で、謀反の意有り、とし「大津皇子」を・・・死に追いやる・・・
 「持統天皇朱鳥元年(686年)冬十月二日(日本書紀)」
 ・・・「皇子大津を訳語田の舎に賜死む」・・・妃の「山辺皇女」は殉死・・・
ー↓ー長田(おさだ)→訳語田(おさだ)→長=おさ=訳語
 長
 チョウ・チャウ・・・音訓のスベテのコトバ・・・
 ながい→名臥意→永井・長居
 たける→多懸留→・健・猛・武・焚ける・炊ける
 おさ→嗚差→緒作・尾作・御詐→訳語田(おさだ)
 つかさ→通掛作→司・宰・典・官・士・曹・束作
ーー↓
 有間皇子
 有馬皇子・・・?
(ありまのみこ)
 舒明天皇十二年(640年)
   〜
 斉明天皇四年
 十一月
 十一日
 (658年12月11日)
 蘇我赤兄中大兄皇子に密告し
 守大石・坂合部薬たちと捕らえられ
 孝徳天皇の皇子
 母は
 左大臣
 阿倍内麻呂天智天皇の父方の従兄)の娘
 小足
 明日香皇女、
 新田部皇女の
 姉妹とは母方の従兄妹
 後世に
 有馬皇子と表記される例が多い・・・?
ー↓和歌
 磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む
 磐白乃濱松之枝乎引 結 真幸 有 者亦 還 見武
 「万葉集・巻二・141」
ー↓
 家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
 家 有 者笥爾盛 飯乎草枕旅爾之有 者椎之葉爾盛
 「万葉集・巻二・142」
ー↓
 有間皇子処刑後
 「大宝元年(701年)」
 長意吉麻呂
 や
 山上憶良らの
 追悼歌が「万葉集」に残されている・・・?
 江戸時代の「百人一首・注釈書」などで「後即位」となっている・・・
 「磐代」も平安時代以後、「紀伊国」の「歌枕=名所・旧跡」とされた・・・ならば、「キイのコク」で「記紀の拠句」、「記意の語句」であるカナ・・・
 「歌枕」は歌を詠むのに典拠とすべき「枕詞・名所」などを記した「書物」。もともと和歌に用いる言葉、歌詞(うたことば=歌語)を歌枕といい、それらを記した書物も歌枕と呼んでいた・・・「能因歌枕」など・・・「歌語の解説書」といった意味・・・
 能因(ノウイン)
 永延二年(988年)
  〜
 永承五年?(1050年)、康平元年?(1058年)
 僧侶
 「後拾遺和歌集(三十一首)」
 「勅撰和歌集に六十七首」が入集
 歌集に「能因集」
 私撰集「玄々集」
 歌学書「能因歌枕」がある。
 ・・・「伝能因所持本(デンノウインショジホン)、通称・能因本(のういんぼん)は、「枕草子」の「写本」の系統の一つ・・・
ーーーーー↓能因
 枕草子
 (八七段)・・・八十七段・八拾七段・捌足漆段
         8+7=15=十五=壱拾五=壱足伍
         8×7=46=四十六=四拾六=肆足陸

 かへる
 年の
 二月
 二十五日に、
 宮、
 職の
 御曹司に
 出で
 させ
 給ひし。
 御供にまゐらで
 梅壼に
 殘り居たりし
 又の日、
 頭中將の
 消息とて、
 「きのふの
  夜
  鞍馬へ
  詣
  で
  たり
  し
  に、
  こよひ方の
  塞がれば、
  違に
  なん
  行く、
  まだ
  明けざらんに
  歸りぬ
  べし。
  必
  いふべき
  事あり、
  いたく
  たたかせで
  待て」との
 給へりしかど、
 「局に
  一人は
  などてあるぞ、
  ここ
  に
  寐よ」とて
 御匣殿めしたれば參りぬ。久しく寐おきておりたれば、
 「いみ
  じう
  人の
  たたかせ
  給ひし。
  辛う
  じて
  起きて
  侍り
  しかば、
  うへに
  かたらば
  斯く
  なんと
  の給ひしかども、
  よも
  きかせ
  給
  は
  じ
  とて
  臥し
  侍り
  に
  き」と語る。心もとなの事やとて聞くほどに、主殿司きて、「頭の殿の聞えさせ給ふなり。只今まかり出づるを、聞ゆべき事なんある」といへば、「見るべきことありて、うへになんのぼり侍る。そこにて」といひて、
 局はひきもやあけ給はんと、心ときめきして、わづらはしければ、
 梅壼の
 東おもての半蔀あげて、「ここに」といへば、めでたくぞ歩み出で給へる。
 櫻の直衣
 いみじく花々と、うらの色つやなどえもいはずけうらなるに、
 葡萄染の
 いと濃き指貫に、
 藤の
 をり枝ことごとしく織りみだりて、
 紅の
 色擣目など、
 輝くばかりぞ見ゆる。次第に白きうす色など、あまた重りたる、狹きままに、片つかたはしもながら、少し簾のもと近く寄り居給へるぞ、
 まことに
 繪に書き、
 物語の
 めでたきこと
 に
 いひたる、これにこそはと見えたる。
 御前の
 梅は、
 西は白く
 東は紅梅にて、
 少しおちかたになりたれど、猶をかしきに、うらうらと日の氣色のどかにて、人に見せまほし。簾の内に、まして若やかなる女房などの、髮うるはしく長くこぼれかかりなど、そひ居ためる、今少し見所ありて、
 をかし
 かりぬ
 べき
 に、
 いと
 さだ過ぎ、
 ふるふる
 しき
 人の、
 髮
 なども
 我には
 あらねばや、處々わななきちりぼひて、大かた色ことなるころなれば、あるかなきかなる薄にびども、あはひも見えぬ衣どもなどあれば、露のはえも見えぬに、おはしまさねば
 裳も著ず、
 袿すがたにて居たるこそ、
 物ぞ
 こなひに口をしけれ。
 「職へなんまゐる、ことづけやある、いつかまゐる」などのたまふ。さても昨夜あかしもはてで、されどもかねてさ言ひてしかば待つらんとて、月のいみじう明きに、西の京よりくるままに、局をたたきしほど、辛うじて寐おびれて起き出でたりしけしき、
 答の
 はしたなさ
 など語りて
 わらひ給ふ。「無下にこそ思ひうんじにしか。などさるものをばおきたる」など實にさぞありけんと、いとほしくもをかしくもあり。暫しありて出で給ひぬ。
 外より見ん人はをかしう、
 内にいかなる人のあらんと思ひぬべし。
 奧のかたより
 見いだされ
 た
 らん
 うしろ
 こそ、
 外に
 さる人やともえ思ふ
 まじ
 けれ。

 暮れぬればまゐりぬ。御前に人々多くつどひゐて、物語のよきあしき、にくき所などをぞ、定めいひしろひ誦じ、仲忠がことなど、御前にも、おとりまさりたる事など仰せられける。
 「まづこれは如何にとことわれ。
  仲忠が
  童生の
  あやしさを、せちに仰せらるるぞ」などいへば、「何かは、琴なども天人おるばかり彈きて、いとわろき人なり。
  みかどの
  御むすめや
  はえ
  たる」といへば、仲忠が方人と心を得て「さればよ」などいふに、  「この事ども
  よりは、
  ひる
  齋信が
  參りたりつるを見ましかば、
  いかに
  めで
  惑はましとこそ覺ゆれ」と仰せらるるに、人々「さてまことに常よりもあらまほしう」などいふ。「まづそのことこそ啓せめと思ひて參り侍つるに、物語の事にまぎれて」とて、
 ありつる事を語り聞えさすれば、
 「誰も誰も見つれど、
  いと
  かく
  縫ひ
  たる
  絲針
  目
  までやは
  見
  と
  ほし
  つる」とて笑ふ。
 西の京といふ所の荒れたりつる事、
 諸共に
 見る人あらましかばとなん覺えつる、
 垣なども
 皆破れて、
 苔
 生ひてなど
 語りつれば、
 宰相の
 君の、
 「かはらの
  松は
  あり
  つや」と
 答へたりつるを、いみじうめでて、
 「西のかた
  都門を
  去れる
  こと
  いくばくの
  地ぞ」と
 口ずさび
 に
 し
 つる
 事など、
 かし
 がましき
 まで
 いひし
 こそ
 をかし
 かり
 しか。
ーーーーー
 ・・・