1186日目・・・「選挙」とは「妥協の選択」は「数で決める」と言うコトですか・・・「妥協・妥当・妥結・妥決・妥帖・不妥」の「妥」の音訓は「やすい・おだやか・ダ・タ」である・・・「俀=イ+妥」・・・「隋書」の「多利・思・北孤」・・・あわせて「俀(イ+妥→人、妥協→拿)」とは「多くの利、北の孤を思(おもへ)」・・・「北孤」とは「北極星」である。「コレと併せて思え」である・・・この文書を書いた、あるいは編纂したのは「唐の魏徴」と「長孫無忌」らが唐の「太宗の勅を奉じて勅撰」・・・編纂には「顔師古」や「孔穎達」ら

ーー
 「妥」は、「妥明」と言う人物がいたらしい・・・駄目の意・・・?
ーー↓原文は「ウイッキペデア」
 妥 明(ダメイ・Tuo Ming・1788年頃〜1873年)
 字は「得璘」
 「」末の
 「東トルキスタン」のムスリム蜂起の指導者・・・
 甘粛省
 西寧
 妥家溝出身
 イスラム教の中でも
 ジャフリーヤ教団
 (哲赫林耶、Jahriya)に属す
 金積堡の
 馬化龍
 西寧の
 馬桂源
 粛州の
 馬文禄らと交わった
ー↓妥 明
 1862年
 妥明は嘉峪関を出て東トルキスタンに入り、
 ジャフリーヤの布教を行うかたわら
 ウルムチ参将の
 索煥章とともに
 反清蜂起の計画を練った
 当時のウルムチでは
 都統
 平瑞が重税を課しており、民衆の不満が高まっていた。その機に乗じて1864年6月12日、
 妥明と
 索煥章は
 ウルムチ漢城で蜂起した。
 ウルムチ漢城を占領した蜂起軍は妥明を王、索煥章を元帥、馬陞を先鋒としてウルムチ満城を包囲した。
 9月3日
 満城は陥落し
 平瑞以下一万余人の
 満州人が死亡
 さらに蜂起軍はサンジ・グチュン・フトビ・マナス・ウス・トルファンなどを占領
 1865年2月
 「真王国」を建立し、ウルムチに王宮を建設
 妥明を王とする
 真王国は東トルキスタン北部を支配したが、
 1868年7月
 妥明と元帥の馬陞が対立し、
 馬陞が殺害され勢力衰退
 さらに
 コーカンド・ハン国のヤクブ・ベクがカシュガルに入って勢力を拡大し、1870年にトルファンは陥落、ヤクブ・ベク軍はウルムチに迫った。このときは和議が成立したが、翌年再びヤクブ・ベクがウルムチを攻撃したため、妥明はマナスに逃れ、清真王国は崩壊した。その後、妥明はマナスで病死した・・・
ーー↓妥
 「説文解字」にはなく
 「段注本・巻十二」に追加され
 「安んずるなり」とある
 「爾雅・釈詁」には
 「妥、坐なり」、「妥、止なり」とある
 「爪(つめ・ソウ・ショウ)+女(おんな・ジョ)」の会意
  女の上に手を加えて、安んずる
  安んずる、落ち着いた、適合した
  くつろいで座る
  「堕」と通じて「落ちる」の意味がある・堕落(ダラク
ーー↓妥
  女を手で押さえてなだめる様を示す
 「妥」を声符とする漢字に
 「挼・桵」
 「妥」を意符に持つ会意字に
 「綏(やすんずる・スイ・タ
    タイ・ズイ・キ・ニ・テ)
 「車に昇る時に持つ垂れ紐・
  新夫が新婦を迎える親迎のとき、
  車上から綏を授ける儀礼に使用」
ーー↓
 綏靖天皇神武天皇二十九年〜綏靖天皇三十三年五月十日)
 第二代天皇(在位・綏靖天皇元年一月八日〜三十三年五月十日)
 神渟名川耳尊日本書紀
 ・・・「音」を採れば
 かんながわじみこと
  ↓
 神奈川県
 神沼河耳命(古事記
  ↓
 神奈川県

 「綏」も「靖」も「やすらか」の意→靖国神社
ーー↓
 「綏子内親王」は
 宇多上皇
 同母妹の・・・同簿真意之
 釣殿の皇女
ー↓釣殿
 釣殿=金+勺+展+几+又
 ↓
 欽定訳聖書(キンテイヤクセイショ)は、
 英国国王の命令によって
 1607〜1611年の間に
 完成した英訳聖書
 単に「欽定訳」と言った場合は、
 「ジェイムズ王訳
  (King James Version
   Authorized Version)」
 1611年刊行の英訳聖書を指す

ーー↓
 陽成上皇後宮(釣殿皇女)で
  母は「班子(はんし)女王」
ーー↓
 綏嬪朴氏(1770〜1822)
 息子の純祖の即位後
 22年間を共に暮らした
 正祖大王
 「イサン(李氏朝鮮二十二代国王」の
 側室(後宮
ーー↓
 綏遠事件(1936年・昭和十一年)
 徳王麾下の内蒙軍、
 李守信や王英などの部隊が
 関東軍の後援依頼
 綏遠省を攻撃
 同省主席の
 傅作義軍に撃退された事件
 中国側では
 綏東事件
 ・・・「イサン」は「遺産・違算」で、「胃酸」だろう・・・腹痛・・・は毎度のことだけれど・・・「胃酸過多」・・・?
ーー
 「谈妥」の中国語
 「谈妥」は決定する・物事をはっきり決める
ーー↓俀(イ+妥)
 隋書
 「俀王・多利思北孤」は
 大業三年(607年)
 第二回遣隋使派遣
 煬帝はその国書に立腹し
 大業四年(608年)
 文林郎
 裴世
 「世」の漢字は太宗(唐朝二代目皇帝・李世民)の諱「世民」のため省かれた(避諱)
 「答礼使」として派遣
 大海の都
 斯麻國(対馬)、
 東に
 一支國(一支国)、
 竹斯國(筑紫)、
 そして東に進み、
 秦王國(辰王国?)に着いた
 人々は
 「華夏人(中国人)」と
 同じで、
 「蛮族」ではない
 竹斯國から
 東はすべて
 「俀」である
 「俀王」は
 「小徳(冠位十二階の位)」の
 「阿輩臺」が数百人で迎え、
 十日後に
 「大礼」の
 哥多が
 二百騎で警護
 王と会った
 
 王の歓迎の
 ことばに
 皇帝の命を
 伝えた
 その後
 は使者とともに帰国
ーーー↓原文「隋書」
 明年
 上遣
 文林郎
 裴清使
 於
 俀國
 度
 百濟行
 至
 竹嶋
 南望
 (身+再)羅國
 經
 都
 斯麻國
 迥在
 大海中
 又
 東至
 一支國
 又
 至
 竹斯國
 又
 東
 至
 秦王國
 其人
 同
 於
 華夏
 以
 爲
 夷州
 疑
 不能明也
 又
 經
 十餘國
 達
 於
 海岸
 自
 竹斯國
 以東
 皆附庸
 於
 俀
 俀王
 遣
 小�噐
 阿輩臺
 従數百人
 設
 儀仗
 鳴鼓角
 來迎
 後十日
 又
 遣
 大禮
 哥多
 従二百余騎
 郊勞
 既
 至
 彼都
 其王
 與
 清
 相見
 大悦
 曰
 我聞
 海西
 有
 大隋
 禮義之國
 故遣
 朝貢
 我
 夷人
 僻在
 海隅
 不聞禮義
 是
 以
 稽留
 境内
 不即
 相見
 今
 故
 清
 道飾
 館
 以
 待
 大使
 冀
 聞
 大國
 惟新之化
 清
 答曰
 皇帝
 �噐並二儀
 澤流
 四海
 以
 王慕
 化故
 遣
 行人
 來
 此
 宣諭
 既而引
 清
 就館
 其後
 清
 遣
 人
 謂
 其
 王曰
 朝命
 既達
 請即戒塗
 於是
 設
 宴享
 以
 遣
 清
 復
 令使者
 隨
 清
 來
 貢
 方物
 (「隋書・卷八十一・列傳第四十六・東夷・俀國)
ーー
 「三国史記・卷第二七・百済本紀・第五
  武王九年三月」
 「九年春三月
  遣使入隋朝貢
  隋
  文林�欖
  裴�徑
  奉使
  倭國
  經
  我國南路」
ーー
 「日本書紀推古天皇条」
 即
 大唐使人
 裴世清
 下客十二人
 従
 妹子臣
 至於筑紫
 遣
 難波
 吉士雄成
 召大唐客
 裴世清
 等
 為唐客更造新館於難波高麗館之上
 (中略)
 六月
 壬寅
 朔
 丙辰
 客等泊于難波津 是日 以飾船三十艘 迎客等于江口 安置新館 於是 以中臣宮地連烏磨呂 大河內直糠手 船史王平為掌客
 (中略)
 秋
 八月辛丑
 朔
 癸卯
 唐客入京是日 遣飾騎七十五匹 而迎唐客
 於海石榴世衢
 額田部連比羅夫
 以告禮辭焉
 壬子
 召唐客於朝廷 令奏使旨
 時
 阿倍鳥臣
 務部
 依網連抱
 二人為客之導者也 於是大唐之國信物置於庭中
 時使主
 裴世清
 親持書 兩度再拜 言上使旨而立之 其書曰
 皇帝
 問
 倭皇
 使人
 長吏大禮
 蘇因高
 等
 至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘�噐化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺
 掌客
 裴世清
 等 旨宣往意 并送物如別
 時
 阿倍臣
 出進 以受其書而進行 大伴囓連迎出承書 置於大門前机上而奏之 事畢而退焉
 (中略)
 丙辰 饗唐客等於朝
 九月辛未朔乙亥 饗客等於難波大郡
 (中略)
 使主
 裴世清
 親持書 兩度再拝 言上使旨而立之
 (中略)
 辛巳
 唐客
 裴世
 罷帰
ーーー↓裴世
      清書得納言?
 枕草子
 (七九段)・・・七拾九・七十九・漆足玖
         7+9=16=十六=壱拾六=足陸
         7×9=63=六十三=六拾参=陸足参

 まして、
 臨時の・・・綸旨・隣字
 祭の・・・・紀和・岐波
 調樂・・・・調臥句
 などは。・・等葉
 いみじう・・意味字得
 をかし。・・置化詞
 殿主の・・・出ん塗師之・「伝取・典諏」之
 官人・・・・漢訊
 などの・・・等之
 長き・・・・名臥記
 松を・・・・「章・証」緒・「省尾」
 高く・・・・多角・他書
 とも・・・・共
 して、・・・史出
 頸は
 ひき
 入れて
 行け
 ば、
 さきは
 さし
 附け
 つ
 ばかり
 なるに、
 をかしう
 あそび
 笛ふき
 出でて、
 心
 ことに
 思ひ
 たるに、
 公達の
 日の
 裝束
 して
 立ち
 とまり
 物
 いひ
 など
 するに、
 殿上人の
 隨身
 どもの、
 さきを
 忍び
 やか
 に
 短く、
 おのが
 公達の
 れうに
 おひたる
 も、
 あそびに
 交りて、
 常に
 似ず
 をかしう
 聞ゆ。
 夜更け
 ぬれば
 猶
 あけて
 歸るを
 待つに、
 公達の
 聲にて、
 あらたに
 生ふる
 とみ草の
 花と
 歌ひ
 たる
 も、
 この
 たびは
 今
 少し
 をかしき
 に、
 いかなる
 まめ
 人に
 か
 あらん、
 すぐ
 すぐ
 しう
 さし
 歩みて
 出で
 ぬる
 も
 あれば、
 笑ふを、
 「暫しや、
  など、
  さ夜を
  すてて
  急ぎ
  給ふ、
  と
  ありて」
 など
 いへど、
 心地
 などや
 あし
 からん、
 倒れぬ
 ばかり、
 もし
 人や
 追ひて
 とら
 ふると
 見ゆる
 まで、
 まどひ
 出づる
 も
 あン
 めり。
ーーーーー
 ・・・