1178日目・・・ナニを云いたいんだか・・・「政治屋ども」・・・エジプト(埃及)はシナリヲ通りだが・・・

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 「東京新聞 ‎- 2 時間前
 【カイロ=今村実】
 反モルシ政権デモが拡大したエジプトで、軍最高評議会のシシ議長は三日夜、国営テレビを通じ、憲法を停止して暫定政府を樹立すると宣言した。モルシ大統領の権限を剥奪し、最高憲法裁判所のマンスール長官に移す」・・・
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 「(民主的?)国民投票」で選ばれた「穏健派イスラム原理主義組織ムスリム同胞団」の「理屈」のドコが「ワルイ」んだか?・・・「政治(立法・行政)と宗教(思想)分離」で「いのち」を賭ける「カチ」はアルのか?・・・「経済(私有財産)システムと宗教分離」・・・「イスラム法シャリーア)」は「宗教=民族(同胞)思想の枠内」だからだろう・・・「個々人の人間思想」が「成熟」していない「格差社会地域」では「暴動」は「支配階級の宗教思想」に集約されていく・・・ロシア革命時のロシア周辺「アラブ系諸国家のヒトビト」は「革命(思想)万歳」ではなく、「ジハード(聖戦思想)万歳」を唱えて「武装革命」に参加していった・・・「社会革命の構築思想」ではなく、目の前にある現実生活の「衣食住の飢餓」からの「解放(思想)」は「組織化された革命思想」でなくてもヨカッタのである・・・「スローガン」は「人参」であった・・・そして「食える場所」は「階級序列社会の軍隊」であった・・・そして、スベテの事象が「カミ」であっても結果、イイのである。「人間自身の克ち取ってきたモノ」と考える余裕は「餓死寸前、餓死に怯えているヒトビト」にはない・・・だろう・・・「衣食住足って」の「秩序(礼儀)」は「ダレのモノ」であるのか?・・・
 「ムハンマド(Muḥammad・570年頃〜632年6月8日)」はナニを望んでいたのか?・・・人々が食糧不足に陥ったとき、「富者からの略奪」・・・?
 「メッカの2000世帯の移住は、メディナに食糧不足をもたらした。マホメットはこの問題を、飢えた人々がするのと同じようにして解決した。すなわち、得られるところから食糧を略奪したのである(世界の歴史・デュラント=ウィリアムジェームズデュラント・1885年11月5日〜1981年11月7日)・アメリの作家・学者・哲学者?)」・・・直接的で、ストレートなコトバではあるな・・・
 ボクはこの「世界の歴史・デュラント」を読んだことも、聞いたコトがなかった。今回、ブログで初めて知った・・・
 「暴動」はナゼ起きるのか・・・「富者からの略奪」としての「暴動」は「革命」に直結はしないが「切っ掛け」にはナルである・・・だが、そもそも「略奪」される「富者」なるモノがナゼ存在するのか?・・・
 「富者からの略奪」が「ザカート」と「サダカ」・・・ですか・・・宗教的な「施し・喜捨」の観念のもと一体化して「イスラム共同体の社会福祉システム」・・・「宗教的」でなくても「イイ」だろう、「人間的」であり、「自然界の動物たち」も時折、その行動を「異種間」でとる・・・ハラがヘッテいては如何ともし難いが・・・
 「自由な喜捨」・・・「預言者ムハンマドは「サダカ」という名で、神に仕える者の徳目として自由な喜捨を推奨していたが、義務ではなかった」・・・個々人の「自由」だった、のだ。
 630年以後・・・新たに従った部族に対する「喜捨の義務化」がおこなわれ、初代カリフ、「アブー・バクル」以降、現在につながる定義が「ウラマー」らにより策定・法制化・・・
 「ザカート」と「サダカ」、二つの混用が見られ、「サダカの性格」を「サダカ・アッタタッウー(自発的サダカ)」という二重化した言い回しが用いられた・・・「サダカ」→「定か(差拿掛・佐堕化)」、「アッタ・タッウー」→「あった他通迂得」・・・?
 「義務としての喜捨」を「ザカート」、
 「自発的喜捨」を「サダカ」としたらしい・・・「日本語」では「定かとはシナイ」であろう・・・
 「おぼつかない(覚束無い)」とは・・・
 物事の成り行きが疑わしい。うまくいきそうもない。
 はっきりしない。あやふやである
 確かでなくはっきりしない。ぼんやりしている。
 うまく行く見込みがない。疑わしい。だめだろう。
 uncertain
 doubtful・dubious
 unlikely
 almost hopeless
 見込み薄・たどたどしい
 生半可・不可能
 乏しい
 あやふや
 不如意・儘ならない
 しっか(確)りしない・・・不確定・不確証
 しっか(聢)りしない・・・不聢
         未(非)+「定木・定規」?
 「聢=耳+定」は「国字」
 正確さまたは精密度を示す
 丁度・きちんと・きちんきちん・きちっと
 正に・ちょうど・ぴたっと
 将に・かっきり・ちゃんと
 堅いか押えられたさま
 ぎゅうっと・ぴしっと・ぴっちりと
 しっかと・犇と・きゅうきゅうと
 ひしひしと・ぎっしりと・ぴたっと
 certainly・for sure
 distinctly・clearly・exactly
 firmly
 蹌踉めく
 弱い・危ない
 儚=顭(はかない・ボウ・くらむ)
 くらい、はっきりしない
 「昏昧」という意味で、
 〔爾雅・釈訓〕に「儚儚、佪佪、惛なり」とある
 「段注本」では儚の字の注に
 「爾雅」を引いて儚は𠐿だろうとしている
 「集韻」は懜の本字が儚であるとしている
 「段注本
   ↓
 の「段玉裁」が著した
 「説文解字注・三十巻(段注本)
ーーーー↓おぼつかない(覚束無い)
 枕草子
 (七一段)・・・七拾壱段・七十一段・漆足壱段
         7+1=8=八=捌
         7×1=7=七=漆

 おぼ
 つか
 なき
 もの
 十二年の
 山籠の
 法師の
 女親。
 知らぬ
 所に
 闇
 なるに
 行き
 たるに、
 あらは
 にも
 ぞ
 ある
 とて、
 火も
 ともさで、
 さすがに
 なみ
 ゐ
 たる。

 今
 いで
 來る
 ものの
 心も
 知らぬに、
 やんごと
 なき
 物
 もたせて
 人の
 許
 やり
 たるに、
 遲く
 かへる。
 物
 いはぬ
 兒の、
 そ−り
  (り-くつがへり)
 くつがへりて
 人にも
 抱かれず
 泣きたる。
 暗きに
 覆
 盆
 子
 食ひたる。
 人の
 顏
 見しらぬ
 物見。
ーーーーー
 ・・・「人の顏見しらぬ物見」とは「傍観主義者・客観主義者」なんだろう・・・
ーーー
 そもそも「アラブ」と「ユダヤ」の「対立関係」は・・・
 「ユダヤ教徒」が「マホメット喜捨(?)思想」を「拒否」した・・・ところから始まった・・・?・・・「マホメット」は「旧約聖書(排外主義)・新約聖書(非合理主義)」を「誤解」したのでは無く、その「本質」に「人間」としての「現実主義的」な「異議=意義」を唱えた・・・のだろう・・・「初期の宗教思想」は、いずれも「経済的(生活=衣食住)格差」からの「解放」からはじまった・・・?
 初期の「キリストの活動」と「ローマ(羅馬)」での「ペテロ=シモン(?〜67年?・漁師)」、「パウロ=サウロ=パヴロス(?〜65年?・テント職人)」の活動は「ローマ領内の貧困層(市民権を有する人々)」の賛同を得てその勢力を拡大していった。パウロは「ローマ市民権」を有するギリシャ(キリキアのタルソス=現在はトルコのアダナ)を出生地とする「ローマ市民」であった。「渾名・婀娜名・仇納」・・・「ユダヤ(猶太)」も「ローマ(羅馬)」も「階級社会の底辺」のヒトビトが蔓延していた・・・「ローマ」はコロッセオの殺人見世物で狂喜し、「ユダヤ」は「モーゼの立法(地上の生活圏の場での十戒律)」を疎んじ、堕落し、双方の底辺の人々は「重税」と「労役」で困窮していたのだ・・・救いの「逝き場」は「天国」であった・・・地上に無くても「天国(観念・夢想・妄想)」には「平等な身分・平安な生活」があったからだろう・・・現実には財産の多寡があれ、生活環境の貧富の格差があれ、産まれ方、生き方、死に方の相違があれ、「人間の死」は生きている人間に「確実に万人にやって来る」のである。「人間」ノミならず、「生物の宿命」である。「宇宙のリサイクルの塵」になるのだ・・・「一神との契約」で略奪した「地上の蜜の国」は「紀元66年から74年までのエルサレム攻囲戦でローマ帝国軍に滅ぼされ、崩壊した。「生き残りのユダヤ人」は「ローマ帝国内に離散(ディアスポラ)」したのだ。ローマ支配階級は、ユダヤ王国の地を「パレスチナ」という地名つけ「領土」としての「王国」を消滅させた。「ペテロ」は67年、「パウロ」は65年の死亡で、「ユダヤ王国」は彼等の生存中は存在し、その滅亡は「74年」である。この戦争が「第1次ユダヤ戦争」であるが、「ハドリアヌス帝」治世下の「132年〜135年」に再び「バル・コクバ」を指導者とする「バル・コクバの乱」が起こり、これを「第二次ユダヤ戦争」と云う。
 鎮圧後、ローマ帝国は、ユダヤ教徒に改宗を迫り、エルサレムも「アエリア・カピトリナ」と変更。パレスチナには穀物が実らぬよう「」をまいた。
 「ユダヤ人」が「ユダヤ教徒」として徹底的に差別されたのは「132年〜135年」以降であろう・・・
 トバッチリを受けた「キリスト教ユダヤ人」だが、「キリスト教」は亡国「ユダヤ人迫害」の「緩衝材」ではなかったのか・・・差別されたユダヤ人にとってはローマ社会のスベテの「底辺の貧困層・奴隷」が解放されれば、「人種的に差別されたユダヤ人」もその中で「解放」されるであろうから現実的な「一神、カミのナの下」での「国際的人種平等」は当然な「戦略」であった。だが「ユダヤ人種の差別化」が徹底されたのは「ユダヤキリスト教徒」にではなく、頑なに「一神=ユダヤ人だけの神」としたユダヤ人にである。「ローマ帝国の地上」では「市民権」を有していても「神々の序列階級」を反映する「格差社会・貧富社会」の「政治的権力構造」であったから、この「政治権力」を「経済力」の影響下に、載せれば解決するハズであった。だが、「ユダヤ人社会」が、そもそも、その国家の枠内で「階級序列搾取社会」だったのだ。初期キリスト教は「ユダヤ国内」での「ローマ・ユダヤ」の「二重の支配層」から搾取されていた「貧困層」の「救済」であった。そして、殆んどキリスト教徒は「ユダヤ戦争の埒外」に存在していた。「国家の繁栄」とは「階級格差・貧富格差」の代名詞である。ダレの「繁栄」なのか?・・・かっての西班牙、英吉利、独逸、現今の大陸中国、亜米利加、伯剌西爾・・・伯剌西爾の「中間層」になった人々は「サッカー」がナンであるかを「気づいた」のだろう・・・「バビロンの繁栄」に・・・
 ヘロデ大王(紀元前73年頃〜紀元前4年)の死後、ユダヤ属州はローマ総督直轄領であったが、大王の孫、アグリッパ1世が41年にユダヤ王として統治を委ねられたが、44年に病死。再びユダヤ地方はローマの直轄地となった。ユダヤが「王国」として存在しえたのは財政力であろう。
 だがローマの直轄支配になってから金融、商業でのローマとの利害関係が複雑化したのだ。「ユダヤ国内支配階級の経済力」はあったのか?・・・第一次ユダヤ戦争の発端は「ユダヤ属州総督フロルス」が「ユダヤ神殿の宝物を持ち出したこと」にあった、といわれている・・・ユダヤ人は「神殿」を「金融機関」として、当時の国際的な地中海貿易での影響力を有していたのだ・・・そしてヘロデ王はソロモンを超える規模の「エルサレム神殿」の大改築で神殿参拝者で潤っていた。「神殿税」は「金融資本として運用」されたのだ。ダレのタメに?・・・だが、ヘロデの曾孫アグリッパ二世が、第一次ユダヤ戦争のでローマ帝国と同盟し、「エルサレム神殿」を破壊させた・・・ナゼ?・・・外国と結ぶも結ばないも国内支配者の権力闘争、身内の利害関係からである。国を売るのも身内の利害関係からである。「ユダヤ戦記」を書いた歴史家「ヨセフス」は「ガリラヤ戦」の最中にユダヤを裏切ってローマに投降したユダヤ人武将・・・である・・・タダ単に「歴史」を書きたかったワケではあるまい・・・自己保身・・・国家支配層のエゴは「国家エゴ」である・・・幻想で「国民(?)」を操り、犠牲にするのさ。
ーー↓
 キリスト(基督)誕生から
 613年頃
 ムハンマド(馬哈黙)は
 アラビア人伝統の
 多神教の聖地であった
 「マッカ(メッカ)」の人々に「教え」説き始めた
 だが、
 マッカ(メッカ)の支配層たちは、
 ムハンマド
 その信徒(ムスリム)たちに
 迫害を加えた
 伯父
 「アブー=ターリブ」は
 「ハーシム家」を代表して
 ムハンマドを保護していたが
 619年頃死亡し、
 同じ頃
 妻
 「ハディージャ」も死亡
 622年
 ムハンマドは、
 ヤスリブ(マディーナ=メディナ)の住民から
 アラブ部族間の
 調停者として招かれ
 これをきっかけに、
 マッカで迫害されていたムスリム
 ヤスリブに移住
 マッカの支配層が、
 刺客を放って
 ムハンマド暗殺を企てたが
 彼は
 甥の
 「アリー」の協力で、
 新月の夜に
 「アブー・バクル」と共にマッカを脱出
 ムハンマドらは
 10日ほどでヤスリブに無事到着
 この事件を
 「ヒジュラ(聖遷、遷都)といい
 「ヒジュラ暦元年」と定め
 「ヤスリブ」の名を
 「マディーナ(預言者の町)=メディナ」と改めた
 ・・・「ヒジュラ」が「遷都(セント)・移住(イジュウ)」ならば、「撰賭・撰渡」で、「意拾・異重」だろう・・・幕末明治の「歴史研究家」は「回教」が何であるかを知っていた・・・「アレキサンダー歴山山府・亜歴散大)」、「コンスタンチノープル(君府・君士担丁堡)」、 「アラブ(亜剌比亜・亜拉比亜・亜刺伯・亜蘭比亜」、「アラビアンナイト開巻驚喜暴物語・亜拉比亜夜話)」、「マホメット馬哈黙)」、「ペルシャ(波斯・比耳西亜・爾耳西亜)」、「ダリウス」の漢字は「跎雄斯 (ダリウス) Dareiosz 」・・・「足臼(たりうす・あしうす)→股・肢・脚・脛・亦・俣・復・又・叉→脚堆(小堆)・股渦(鳴戸)・大理薄→内裏胡諏・俣垂胡主・駄利烏主」?・・・漢式、漢風諡号が「垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇日本書紀・伊久米伊理毘古伊佐知命古事記)」、大和の纏向の「珠城宮」、しかも「漢風諡号」を付けた人物が「淡海三船(天武の玄孫=やしゃご=孫の孫で、曾孫の子)→夜児」?・・・「御生み(合う三)の視付音」?・・・「タンカイ(淡海)」→「坦懐(タンカイ)=「わだかまり」?・・・「誰(ダレ・足・脚・股・芦・葦)に・委(ユダ)ね・推(オ)す」・・・ダリウスはペルシアの人名。ペルシア語で「ダーラヤヴァウシュ」、ラテン語で「Darius(ダリウス)」、ギリシア語で「Δαρειος(Dareios ダレイオス)」と転写・・・
 「パラダイム(根本命題)」、「デコンストラクション(解体構築)」、「パロール(音声言語)」、「ポリセミー(多義的、複合的意味・多義性)」
 マディーナでは
 マッカからの移住者(ムハージルーン)と
 ヤスリブの入信者(アンサール)を結合し
 ムハンマドを長とする
 「イスラーム共同体」=「ウンマ」を結成
 「ウンマ」勢力増大に反発する
 ユダヤ教徒などを排除し
 「ウンマイスラーム共同体」の基礎を築く
 「ウンマイスラーム共同体」は
 「ベドウィン(アラブ遊牧民)」の
 諸部族と同盟を結び
 「バドル」で戦った
 バドルの戦いで多くの戦死者を出した
 「マッカ=メッカ」支配層は報復戦として
 再び
 「マディーナ=メディナ」に侵攻
 マディーナ軍は戦闘前に離反者を出し
 マッカ軍の別働隊に大敗
 ムハンマドも負傷した(ウフドの戦い)
 ムハンマド
 「マッカ=メッカ」支配層と通じていた
 「ユダヤ人」らを追放した
 627年
 マッカ軍と、その諸部族の大軍が
 ムスリム勢力圏を狙って侵攻
 塹壕を築いて防戦
 「塹壕(ハンダク)」の戦い
 マッカ軍を撃退したイスラム軍は
 武装を解かずマッカと通じて
 マディーナのイスラーム共同体と
 敵対していた
 マディーナ東南部の
 ユダヤ教徒
 クライザ族の集落を
 包囲襲撃し、
 無条件降服させ
 成人男子を
 全員処刑虐殺
 女性や子供は捕虜として
 奴隷身分に落とし、財産を没収
 「クライザ族虐殺事件」
ーーー
 2012年〜2013年・・・アラブ(亞剌比亞・亜剌比亜・亜拉毘亜)諸国家の指導者は「食糧不足に陥ったヒトビト」を救うのか・・・「富者からの略奪」で・・・?
 ・・・日本はドウだ?・・・TPPで「国民」を救えるのか・・・憲法改正で「国民」を救えるか・・・原発を外国に売って「世界」を救えるか・・・莫大なカネを手にした「山中 伸弥(1962年9月4日)」教授は「IPS細胞」で「ダレ」を救おうとしているのか・・・
ーーーー↓「現存・古事記原文」より部分抜粋
 「故、伊邪那美藭者、
    因生火藭、
    遂
    藭
    避坐也」
 「故爾、
  伊邪那岐命
  詔之、
  愛我
  那邇妹命乎(那邇二字以音)
  下效此。
  謂
  易
  子之
  一木乎、
  乃
  匍匐
  御
  枕方、
  匍匐
  御
  足方
  而
  哭時、
  於
  御淚
  所
  成藭、
  坐
  香山
  之
  畝尾
  木本、
  名
  泣澤女藭。
  故、
  其所
  藭避
  之
  伊邪那美藭者、
  葬
  出雲國
  與
  伯伎國
  堺
  比婆之
  山
  也」
 「於是、
  伊邪那岐命
  拔所
  御佩之
  十拳劒、
  斬
  其子
  迦具土藭之頸」
 ・・・
 「最後
  其妹、
  伊邪那美命
  身自追來焉。
  爾
  千引
  石
  引塞
  其
  黃泉比良
  坂、
  其
  石置
  中、
  各對立而、
  度事戸之
  時、
  伊邪那美命
  言、
  愛我
  那勢命、
  爲如
  此者、
  汝國
  之
  人草、
  一日
  絞殺
  千頭
  爾、
  伊邪那岐命
  詔、
  愛
  我
  那邇妹命、
  汝
  爲然者、
  吾
  一日
  立
  千五百
  產屋。
  是以
  一日
  必
  千人死、
  一日
  必
  千五百人生也。
  故、
  號其
  伊邪那美藭命
  謂
  黃泉津大藭。
  亦云、
  以
  其追
  斯伎斯(此三字以音)。
  而、
  號
  道敷
  大藭。
  亦
  所
  塞
  其
  黃泉坂
  之
  石者、
  號
  道反
  大藭、
  亦
  謂
  塞坐
  黃泉戸大藭。
  故、
  其所
  謂
  黃泉比良坂者、
  今謂
  出雲國
  之
  伊賦夜坂
  也。
 是以
 伊邪那伎大藭
 詔、
 吾者
 到於
 伊
 那志許米
 上志許米岐(此九字以音)。
 穢國
 而在
 祁理。(此二字以音)。
 故、
 吾者
 爲
 御身之禊而、
 到坐
 竺紫
 日向
 之
 橘
 小門
 之
 阿波岐(此三字以音)。
 原而、
 禊祓
 也。
ーーーーー
 ・・・・?・・・