1168日目・・・訪ねて来るのは白黒の「たま?」と、トラ縞の「マイケル?」、ヨモギの「ヨモ」。恰幅もいいし、毛並みもいい・・・「タマ」と「マイケル」、「ヨモ」はボクが勝手にそう呼んでいるのだが・・・いずれも「雄猫」で近所の飼い猫らしい・・・猫の世界に「国家」も「国境」も無いとは思うが、守るべき「テリトリイー=縄張り」があると考えているらしいのは、「ブブ」である。この辺では「新サン者」のボクとボクの家族で、はるばる名古屋くんだりからこの地にやってきて住み着いている黒猫の母猫「もも」と、その息子の「ブブ」の

 だが、「ブブ」には「家」を守る義務意識があるらしく、ボクと「もも」、「ブブ」の私有地である庭と、家の中に御近所の「猫タチ」が勝手に侵入してくるのを許さない・・・だが、相手は頻繁に、入れ替わり立ち代り、日にち、時間をたがえて波状的にやってくる。しかも「実力」では体格のいい「侵入者」には及ばない・・・のが「ブブ」である。侵入者がやってくるとモモは二階の隅に逃げ、「ブブ」が猫専用通路の出入り口で睨み合い、唸り合い、そして、取っ組み合いの決闘がはじまる。当然にもボクは公平な第三者の立場に立つワケにはいかない。「ブブ」の家族であるからして、「ブブ」に加勢するタメに出て行って加担するのだ。侵入者はボクの登場とその威嚇で逃げだす。加勢を得て「ブブ」が逃げる相手を追う・・・「猫好き」といっても「家族の猫」を、で、ある。「平和的」に、と言っても、「もも」も「ブブ」も極端に人間に人見知りで、同類の猫族の侵入者に対して更に嫌いなのだ。ボクもイイ顔をしてはいられない。「ブブ」の頭や頸、それに脚の毛も、侵入者の牙や爪で引っ掛けられ、抜け、生傷も絶えない・・・この小さな町には「獣医病院」は存在しないし・・・致命的な大怪我でもされたらタイヘンである・・・好きなのは「家族であるネコ」である・・・喧嘩には首輪を着けている「ブブ」には不利のようである・・・「ブブ」にはガールフレンドになってくれる相手はいない様である。
 時たま道端で「侵入者」に出会うのだが、相手は物怖じもせず一瞥を投げかけて歩いていく・・・なるほど、余裕があって格が違うようである・・・が、ボクも「ブブ」も、その「テリトリー」を侵入者に「解放」するワケにはいかない・・・
 それでも、執拗にやってくる・・・「ブブ」もタイヘンである・・・「棲息」するって、何処にいても、それなりに現実は厳しい・・・
 ・・・「詐欺事件」ですか・・・「アイ」がナインだろうなッ、「教授」・・・「国家」が「原発」を詐欺まがいのセールスしているんだから・・・いや、相手もシタタカに欠陥商品として「リコール」でフンダクル算段なのかも。それ以前に「契約違約金」をフンダクルつもり、カモ・・・ 
ーーーー
 枕草子
 (六一段)・・・六拾壱・六十一・六壱・陸足壱
         6+1=7=七=漆
         6×1=6=六=陸

 よろづ・・・万・萬・満・慢・鰻・蔓・幡
       万=バンの漢字のスベテ
 よりは、・・与理葉
 牛飼・・・・ギュウシ=牛脂・義雄志
       疑有史・偽有史・欺有史
       宜憂思・魏有史・伎諭詞
 童の・・・・ワラベ之→話等部埜
 なり・・・・名理
 あしくて・・足句出
 もたる・・・模多留
 こそ・・・・故措
 あれ。・・・亜例・阿礼・蛙例
 他・・・・・他・多・太
 物・・・・・者・摸之
 どもは、・・奴母者・努模葉
 されど・・・去れ土・作例度
 後に・・・・廼恥邇・語爾
 たちて・・・絶ち出・汰質出
 こそ・・・・拠措・呼蘇
 行け、・・・威懸・意懸・行化
 先に・・・・左記爾・撰爾
 つと・・・・通渡・都徒
 まもられ・・守等例・真模等例
 行く・・・・往く・好く・異句・行句
 もの、・・・模之・摸之
 穢げ・・・・きたなげ
       ↓
       記(紀)棚(店)解
       汚名解・・・和気清麻呂←汚麻呂

ーーーーーーー↓
       北名解・記他名解
       北海道=蝦夷アイヌ
           蝦夷=カイ=甲斐
       喜多方・カイ=解・改・会→会津
       き   たなげ
       記(紀)汰薙げ
       喜多名解→弥次(野次)
            喜多珍道中
    「弥次キ夛道中記
        多=夛=彐(ケイ・針鼠、猪の頭)
            +
            夕(ゆう・セキ・ジャク)

     小唄時代劇
     コメディ(喜劇)
     1938年(昭和十三年)の
     日活京都撮影所製作
     十返舎一九滑稽本
     「東海道中膝栗毛」を
     小国英雄が脚本
     マキノが映画化

     片岡千恵蔵遠山金四郎
     杉狂児=鼡小僧次郎吉
     1969年(昭和十四年)の
     オペレッタ(歌劇)時代劇の
    「鴛鴦(エンオウ・おしどり)歌合戦」の原型
ーーーーーー↓キタナゲ
     弥次喜多
  「東海道中膝栗毛
   十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)
   明和二年
   (1765年)
     〜
   天保二年八月七日
   (1831年9月12日)
   江戸時代後期の
   戯作者・浮世絵師
   駿河国府中(駿府静岡市葵区)で
   町奉行
   同心の子として生まれた
   葵区
   両替町
   一丁目に、生誕地の碑
   本名は重田貞一(さだかつ)
   幼名は市九
   通称に与七、幾五郎
   号は酔翁・十返舎

   天明三年(1783年・十九歳)
   大坂で町奉行
   小田切
   土佐守に勤仕
   浪人し、義太夫語りの家に寄食し、
   浄瑠璃作者となり
   志野流の香道を学んだ
   寛政元年(1789年・二十五歳)
   「近松与七」の名前で
   浄瑠璃
   「木下蔭狭間合戦
    (このしたかげはざまがつせん)」を
   合作
   名香
  『黄熱香』は十度焚いても
   香を失わないところから、
  『十返しの香』とも呼ばれる。
   後の筆名
  『十返舎』はここから、
  『一九』は幼名の「市九」から
   初めは
  『十遍舎一九』であったが、
  『十偏舎』
  『十偏斎』
  『重田一九斎』なども用い、
   享和ころから
  『十返舎一九』に定まった
   寛政六年(1794年・三十歳)、
   江戸へ戻り、
   通油町(中央区日本橋大伝馬町)の
   出版商、
   蔦屋重三郎方に寄食
   用紙の加工や挿絵描きなどを手伝った
   寛政七年(1795年)
   黄表紙
  『心学時計草』、
   他二部を出版
   毎年20部前後の新作を書き続け
   挿絵を描き、版下も書く
   狂言謡曲浄瑠璃、歌舞伎、
   落語、川柳などに詳しく、
   狂歌寛永期に修業し、作品の素材にした
   黄表紙、洒落本、人情本、読本、
   合巻、狂歌集、
   教科書的な
   文例集まで書いた
   寛政から文化期
  「行列奴図」や、
   遣唐使
   吉備真備を描いた
  「吉備大臣図」などの肉筆浮世絵
   大坂時代、
   材木商の家に入婿、離婚
   寛政八年(1796年)頃
   江戸、
   長谷川町
  (東京都
   中央区
   日本橋
   堀留町
   二丁目)の
   町人の入婿
   享和元年(1801年)に離婚
   文化元年(1804年)
   お民を娶って
   通油町
   鶴屋裏の地
   本問屋の
   会所に暮らし、
   一女が育った
   この時期、
  『駿河屋藤兵衛』と称した
   享和二年(1802年)
  『東海道中膝栗毛』で
ーーーーーーー↓
       ひざ→膝=月(肉)+桼
        ↓類字
    桼(うるし・シ・ツ)→漆(七)
  玉蜀桼=生薬名
     =南蛮毛=玉蜀桼蕊
    黍(きび・ショ)→禾人(入)水(雫・滴)
    沗(もおえる・もおう
      そえる・そう・もえる・テン)
    忝(かたじけない・テン)→添
    沗は〔字彙〕に「添」と同じとある異体字
      「忝」とは別の字。
      「滂」の異体字と同形で、
      〔字彙補〕に「沗=滂」と同じとある
      「滂(ボウ)」=水の湧き出るさま
       日本では、
      「泰」と、「黍」とが混同され
       異体として扱われる場合がある
      「滂」の類字は「傍(かたわら・ボウ」
      「偏旁・扁旁」は左右の部首漢字の作り
       漢字の「偏旁冠脚繞」
      「繞(ニョウ・ジョウ)」=漢字の構成部位の一
       左から右下にかけて囲む部分
       辶(しんにょう)や、廴(えんにょう)
       まとう・めぐる
       かこむ=囲繞(イニョウ)
       まつわる=纏繞(テンジョウ)
    添削=他人の詩歌・文章・答案などを、
       書き加えたり削ったりして、
       改め直すこと
ーーー↓十返舎一九
   一躍流行作家
   文政五年(1822年)まで
   二十一年間、次々と
  「膝栗毛」の続編を書き継ぎ、
   頻繁に取材旅行に出かけ、
   山東京伝式亭三馬
   曲亭馬琴、鈴木牧之らと交友
   並行して出した
  『方言修行・・・方言=むだ
    金草鞋』
  (むだしゅぎょうかねのわらじ)も
   広く読まれた。
   当時の庶民文化として
   寺子屋が増加し
   人々の
   識字率
  (読み書き
   算盤=十露盤)が
   増加し、
   十返舎一九
   日本初の
   「職業作家」の生活を支えた
   文化七年(18100年・四十六歳)
   眼を病み、しばしば再発
   文政五年(1822年・五十八歳)
   中風を患い、
   その後は
  「名貸した」と疑われる
   天保二年(1831年八月七日)
   六十七歳で死没
   辞世の句
  「此世をば
    どりや
   おいとまに
    せん香と
   ともに
    つひには
   灰
   左様
   なら」・・・
ーーー↓
   野次る(やじる)
   …を野次る・他人の言動に、
   冷やかしや非難の言葉を浴びせる
   弥次る・・・・イヤサカのジの留
          厭 さか
          嫌 さか
          否 さか
          いやさか(彌榮)
           弥=彌=弓+爾
           やさか(彌榮)
           八坂
   「野次馬」の
   「馬」を・・・司馬遷
   省略し・・・・史記・識・志紀
          子規・指揮・士気
   動詞化・・・・同士・同視・同詞
   された
   言葉
   「野次る」や「弥次る」と表記
   やじること・「ヤジを飛ばす・ヤジの応酬」
   「野次馬」の略
   「…を口ぎたなくヤジる」
   「下品なヤジ」・・・下品=ゲホン=解本
   「ヤジを飛ばす」
   「大声でヤジる・盛んにヤジる」
   「ヤジの応酬」
   「人の言動に非難や
    カラカイの言葉を浴びせ、相手の言動を妨害し、
    ハヤシ立てること」
    「おヤジ馬、の略」で、・・・?
     父馬・老いた牡馬・老馬・暴れ馬
     自分とは無関係なことに関わろうとすること?
    「おやじ馬」の略とも
    「やんちゃ馬」の略とも
    自分に関係のないことに、
    興味本位で騒ぎ立て、
    見物すること
    人のシリについて騒ぎ回ること
    また、その人々
    父馬・老いた牡馬・また、気性の強い馬
    出典は「松の葉」?・・・
        「針葉樹」→シンヨウジュ
         ↓    信用・新陽・瀋陽
         ↓  針の言葉→三浦按針?
         ↓はり→播磨・播州・梁・鍼・張・貼  
    江戸中期の歌謡集・五巻
    秀松軒(しゅうしょうけん)編
    元禄十六年(1703)刊
    当時の
    上方で伝承・演奏されていた
    三味線歌曲の
    歌詞を分類・集成したモノ
ーーーー↓
 「やじ=野次」は「ヤジを飛ばす」だから「矢の次」を「飛ばすモノ」は敵に「襲いカカレ(掛かれ)」の「喊声」であろう。あるいは、「ツギ」が「継(接)ぎ」ならば、「飛び道具」の弓矢の次代は発射音、「バーン」の伴なう「火縄銃=鉄砲=種子島」である。この道具は戦争の戦術を変えた・・・それとも「矢の次」は戦術としての足軽歩兵、兵馬騎兵の繰り出し・・・?
ーー
 「長篠の合戦天正三年五月二十一日(1575年6月29日)」である。前哨戦は長篠城を死守させた「鳥居強右衛門すねえもん→臑重文・脛得文→足重文)」のハナシである。合戦は「織田・徳川連合軍が馬防柵を構え、敵の騎馬隊を防ぎ、3000挺の鉄砲を三段階に交代させ武田騎馬軍団を破った」と云うものだが、最近ではこの戦術に「疑問」が出されているらしい。では「三段戦法の根拠」の出所は何処にあるのか?・・・「長篠合戦図屏風」には「鉄砲隊の三段構え」は描かれていない・・・「信長公記」では「鉄砲奉行五人に指揮させた」との記録だけで、「三段撃ち」の記述はない・・・記述の初見は江戸期に出版された小説・・・「明治期陸軍」の教科書に史実として記載(「大日本戦史・1942年出版)されているらしい・・・
 その後の「関が原(慶長五年九月十五日・1600年10月21日)」、「大坂の陣(慶長十九年=1614年十一月十九日、冬・慶長二十年=1615年四月二十六日〜五月七日夏)」で、「三段戦法」はあったのか?・・・昔、英国がインドのムガール帝国の軍隊を「三段構え」で銃を撃つシーンを白黒映画で見たことがあるが、タイトルは忘れた・・・銃を持つ兵数のではなく、戦場が狭くても「単発銃」の「戦法」としては「状況的」にはありえた・・・だろう。だが、「明治」だろう・・・なんせ、「三段」と言う「三(参・參)」と、「十(拾・足)」の「文字」に「明治のダレか」が拘り過ぎであるらしい・・・から・・・数字に関しては個々の「零〜壱〜玖」と。その組み合わせ「数字」のスベテであるのだが・・・
ーー↓野次
 大勢で突撃するときなどにあげる叫び声。鬨(とき)の声。「喊声を発して突入、突撃、突貫」・・・「吶喊」?
 突撃する時などに発する喚(わめ)き声
 鬨(とき)の声
 鯨波(ゲイハ)
 戦闘中の兵士を奮い立たせるための叫び鬨の声
 鬨(とき)の声・雄叫・雄叫び
 戦争の雄たけび・突撃の合図
 鯨波(ゲイハ)はクジラが上げる声
 「鬨・時・鯨波
 合戦で、士気を鼓舞し、敵に対して
 戦闘の開始を告げるために発する叫び声
 大将が「えいえい」と発声して全軍が「おう」と
 声を上げて和し、
 これを三度繰り返す
 戦勝の喜びの表現
 鯨波(とき・ゲイハ)
 大波や 鬨の声「えいえい おうおう」をあらわす
 「とき」という大和言葉
 「鯨波・鬨・時」という字が充てられた
 時間や間合いや機会といった意味で使い分けられていた
 鯨波(くじらなみ)
 鯨涛 (げいとう)も大波を意味
 「鯨吼」・・・鯨=くじら(牡)=魚+京
        鯢=くじら(牝)=魚+兒(児)
        鯱→クジラの天敵
          魚の京を睨む虎
 「潮吹き」・・潮=氵(水)
          +
          朝(十早月)→足早月=師走
 「潮柱」・・・しをばしら・チョウチュウ
  ↓     鹽=塩・潮・汐・志雄
  ↓     許(キョ・コ)々
  ↓     袁(エン・オン)々
  ↓     呂(ロ・リョ)々
  ↓     邇(ニ・ジ)
 古事記・・・・↓
 故、
 二柱藭立(訓立云多多志)。
 天浮橋而、指下其沼矛以畫者、
 鹽許々袁々呂々邇(此七字以音)。
 畫鳴(訓鳴云那志)。
 而、引上時、
 自
 其
 矛末
 垂落
 之
 鹽累積、
 成嶋。
 是
 淤能碁呂嶋。(自淤以下四字以音)。
ーー↓ヤシのヤジ→椰子の香具師、野師
   野史→野次
      野字←野蛮・野人
      冶事(ヤジ)←鍛冶(カジ)
         火事・加地・加字
      谷治←野(里+予)を取り次ぐ「次」
ーーーーーー↓
      谷 干城(たてき・カンジョウ)
      天保八年(1837年)
      二月十二日(新3月18日)
        〜
      明治四十四年(1911年)5月13日)
      土佐藩
      通称は申太郎・守部
      号は隈山
      第二代学習院院長
ーー↓野史
 官命によらず在野の人が編纂した歴史書
 私撰の歴史
 外史・私史・野乗(ヤジョウ)
 正史は「大日本史
 野史は「大日本野史
 国学者で勤王家の
 飯田忠彦の編
 水戸藩の「大日本史」の後
 後小松天皇(在位1392〜1412)より
 仁孝天皇(在位1817〜1846)に至る
 420年余を記録
 二百九十一巻
 嘉永五年(1852)完成
 漢文の紀伝体で記述
 本紀二十一巻
 列伝二百七十巻
ーーー↓
ーーー↓枕草子
 なるは
 心憂し。
 車の
 しりに
 殊なる
 こと
 なき
 男
 どもの
 つれ
 だち
 たる、
 いと
 見ぐるし。
 ほそら
 かなる
 男
 隨身
 など
 見えぬ
 べきが、
 黒き
 袴の
 末
 濃なる、
 狩衣は
 何も
 うち
 なれば
 みたる、
 走る
 車の
 かた
 などに、
 のど
 やかにて
 うち
 添ひ
 たる
 こそ、
 わが
 物とは
 見えね。
 なほ
 大かた
 樣子
 あしくて、
 人
 使ふは
 わろかりき。
 破れなど
 時々
 うちし
 たれど、
 馴れ
 ばみて
 罪
 なきは
 さるかた
 なりや。
 つかひ
 人などは
 ありて、
 わらはべの
 穢げ
 なる
 こそは、
 あるまじく
 見ゆれ。
 家に
 ゐたる
 人も、
 そこに
 ある
 人とて、
 使に
 ても、
 客人
 などの
 往き
 たる
 にも、
 をかしき
 童の
 數多
 見ゆるは
 いと
 をかし。
ーーーーー
 をかしき、童の、數多、見ゆるは、いと、をかし
 可変史記、同之、趨多、視喩留葉、意図、犯可示
     ワラベノ   ミユルハ イト ヲカシ
     話等部之   未諭流者 伊都 嗚掛詞