1150日目・・・六月四日・・・サッカー、オーストラリア(濠太剌利)戦・・・今現在午後18時50分・・・ホンダ、ヤッタッ!・・・21時23分・・・「アジア帝国主義の曙」の原点は「明治維新」である・・・欧米の侵略からナンとか免れたのは「帝国日本」が欧米の「帝国主義・植民地主義」を摸倣し、それに「帝国」としての「軍事力の国家」として対抗しえたからである。だが、20世紀(1900〜2000年)、国家間戦争で信じられないような「数字の命」が、「膨大な赤い血」が、「戦場」、「戦場以外」でも流れた。そして、一発、二

 「中華人民共和国」の「帝国主義覇権主義?」の原点は「孫文」であった・・・孫文の「三民主義」は現実には「明治維新」を観、「欧米諸国」を観、その「帝国主義」諸国家の理不尽の中で「三民主」にならざるを得なかった・・・彼は「国家枠の資本主義」を目指したのサッ・・・帝国主義的国家間の利害関係での中で現実は「武力妥協」、「外交妥協」で、それが出来る「国家建設」でしかありえなかった・・・彼は「中国革命」のプロセスで「帝国日本」に自国の権益を譲渡しようとしていた・・・
 当然、彼は「明治維新の日本人」と「同時代の人間」である。そして当然にも「明治国家」に憧れていたのだ。
 兎に角、この同時代の彼らの「生年月日」と、それに附随する「履歴」の「年月日」は「日本歴史」がナニを語ろうとしているかの「カギ」である・・・
ーーー↓参照、引用原文は以下
三民主義 - Wikipedia
ーー
孫文 - Wikipedia
ーーー↓
  孫文・・・「孫の文」とは「馬子の文」
 孫文
 (ソンブン)・・尊分・噂聞・存蚊
 1866年・・・壱千八百六拾六
 11月・・・・・壱拾壱
 12日・・・・・壱拾弐
  清国
  同治五年・・・同字語撚(捻・念)
  十月・・・・・壱拾・足
  初六日)・・・書陸比
   〜
 1925年・・・壱千九百弐拾五
 3月・・・・・・参
 12日
 (民国十四年)・・視武拠句壱拾四
  三月・・・・・・参=參=ム+ム+ム+人+彡
  十二日・・・・・壱拾弐=足二
 初代
 中華民国・・・・・中和罠拠句
 臨時・・・・・・・隣字・輪字・綸旨・麟児
 大総統
 中国国民党総理
ーー
 中華民国
 初代臨時大総統
 任期
 1912年
 1月
 1日
 〜
 1912年
 4月
 1日
 中華民国
 中国国民党総理
 任期
 1919年
 10月
 10日
  〜
 1925年
 3月
 12日
 辛亥革命の・・・・心外・侵害・新改
        カノトのイ→北北西・22時
        掛能登の意・河之図の位
 中心的人物
 孫中山の・・・・・孫(馬子)の中の纂
 名称が一般的
 譜名は徳明・・・・匿名
 字は載之・・・・・載せる史
 号は日新、・・・・比新
   逸仙 (Yìxiān)
   逸=イツ・イチ・そらす・それる
      逸脱の仙人
      免れ辶(進入)、イのサン
      反(ソ)れる戦
      何時戦・伍撰→誤撰・語撰
   または
   中山・・・「註・注」の纂
 幼名は帝象・・用明(用命・陽明)は綴証
 他に
 中山樵、・・・樵(きこり・ショウ・ジョウ)
        樵=木+焦(こける・こがす)
            焦(あせ)る・焦燥
 
 高野長雄・・→高野長英・高野天皇高野山

 欧米では・・・負う米・追う米→亜米利加
        あまねし米国の利(理)を加える
 孫逸仙(Sun Yat-sen)
 ポルトガルの植民地の・・・葡萄牙
 マカオでは・・・澳門
 医師・・・・・意志・意思・遺志・遺子
        頤使(イシ)→おとがい+つかい
     頤指=頤使=あごで指図して
           思いのままに人を使うこと
           顎で人を使う
          頤=臣+頁
          顎=口+一+口+一+丂(コウ)+頁
          丂=亡父の敬称・・・考の略字
         「頤=顎」は上、「頷」は下あご
          頷=含+頁=今口一ノ目ハ
           ↓
    「公子二人は美服しているのに、温は独り汚れ
     垢ついた衣を着ていて、兎角公子等に
     頤使せられるので、妓等は初め
     僮僕ではないかと思った。
     (森鴎外)の著作「魚玄機」の文章
 日本滞在中は
 中山 樵(なかやま きこり)」
 1935年〜1948年までの
 発行法幣
 (不換紙幣)の・・・俯瞰史(詞)併
 肖像画・・・・・・・章三・昭蔵・昭造
           捷造→捷(はやい・かつ)
      
 (ウィキペディア
 誕生地は
 広東省
 広州府
 香山県
 翠亨村(中山市)・・・
−−↓−−−−−−翠亨↓
         スイコウ・スイキョウ
         推考・推敲・酔狂・粋狂
  翡−翠(ヒスイ)・・・比推
    亨=とおる・うける
ー−−−↓亨
  星 亨(ほし とおる)
  嘉永三年四月八日(1850年5月19日)
    〜
  明治三十四年(1901年6月21日)
  江戸の左官屋に生まれ、
  維新後に横浜税関
  渡英して弁護士資格を取得
  明治十五年(1882年)自由党に入党
  「自由新聞」で藩閥政府批判
  明治十六年(1883年)
  福島事件の
  河野広中を弁護
  明治十七年(1884年)
  官吏侮辱の罪に問われ
  明治二十年(1887年)
  保安条例発布で東京追放
  明治二十一年(1888年)
  出版条例違反で入獄
  明治二十五年(1892年)
  第二回総選挙に当選して衆議院議長
  第四次伊藤内閣で
  逓信
  東京市疑獄事件で辞職
  明治三十四年(1901年)
  伊庭想太郎に刺殺された
ーーー↓
  明治維新の後に
  陸奥宗光の推挙で明治政府に入り、
  横浜税関長となるが、
  英国のクイーンを「女王」と訳し、
  「女皇」と訳すべしとする
  イギリス公使パークスの抗議に、
  自説を譲らず、
  「女王事件」で引責辞任
  辞任後、法律研究のためイギリスに渡り、
  日本人初の法廷弁護士資格を取得
  帰国後は国内で
  司法省付属代言人(弁護士)の第一号
  となって活躍した。
  明治26年(1893年)に
  相馬事件の収賄疑惑
  議長不信任案が
  166対119で可決され
  12月5日に星の登院停止一週間処分決議
  登院停止が切れた
  12月12日に星はまたも議長席に座ろうとした。
  12月13日に懲罰
  185対92で除名要件、三分の二で
  除名処分
  衆議院議員の資格を失って
  議長を解任された
  その後も
  非藩閥
  陸奥宗光の庇護で
  朝鮮政府の法律顧問や
  駐米公使を務める
  第四次伊藤内閣において
  逓信大臣
  明治三十三年(1900年)
  立憲政友会に参加
  東京市議会議長であった
  明治三十四年(1901年)
  伊庭想太郎(心形刀流剣術第10代宗家)に
  市庁
  参事会室内で刺殺
  満五十一歳没
  蔵書は
  大正二年(1913年)に
  慶應義塾大学に寄贈
  「星文庫」として保管
ー−−−↓亨
  正力亨(しょうりき とおる)
  1918年10月24日
    〜
  2011年8月15日
  読売新聞グループ本社社主
  寺尾 亨(てらお とおる)
  1859年2月1日(安政五年十二月19日)
    〜
  1925年(大正十四年)9月15日)
  法学者・アジア主義
−−−↓亨
  元亨・・・年号
  元応三年二月二十三日
  (1321年3月22日)
  辛酉革命に当たるため
  元亨に改元
    〜
  元亨四年十二月九日
  (1324年12月25日)に
  正中に改元
  「周易」の
  「其徳剛健而文明、
   応乎天時而行、
   是以
   元亨」
  元年十二月
  後宇多法皇院政停止
  後醍醐天皇が親政開始
  記録所の再興、新関の廃止
  二年
  八月
  虎関師錬
  「元亨釈書」撰進
  津軽
  安東氏と
  蝦夷の争い激化

ー−−−↓亨
  白井亨(しらい とおる)
  1783年(天明三年)
    〜
  1843年12月5日(天保十四年十一月十四日)
  天真一刀流二代目
  天真伝兵法(天真白井流)の開祖
  一説に白井流手裏剣術の開祖
  諱は義謙
  号を鳩洲
  中西派一刀流弟子
ー−−−↓亨
  羽田亨(はねだ とおる)
  1882年(明治十五年)5月15日
    〜
  1955年(昭和三十年)4月13日)
  東洋史学者
  文学博士(京都帝国大学・1922年)
  京都府
  峰山町京丹後市)生まれ
−−−ーー↓孫文・翠亨村誕生・・・
 死没地は北京市
 政党は中国国民党
 配偶者は
 宋慶齢 (1915年〜1925年)
 大月薫 (1903年〜1906年)
 盧慕貞 (1885年〜1915年)
 子は孫科
ーーー
 清仏戦争
 (1884年8月〜1885年4月)
 ベトナム(越南)領有を巡る
 フランスと清との戦争
 これを切っ掛けに
 孫文
 1894年1月
 ハワイで
 興中会を組織
 1895年
 日清戦争終結
 武装蜂起(広州蜂起)を企てたる
 密告され日本に亡命
 1897年
 宮崎滔天の紹介で
 政治団体
 玄洋社
 頭山満と出会う
 頭山を通じて
 平岡浩太郎から活動費と生活費の援助を受る
 早稲田鶴巻町
 二千平方メートルの屋敷は
 犬養毅が斡旋
 1899年
 義和団の乱が発生
 1900年
 孫文は恵州で再度挙兵
 失敗
 1902年
 日本人の
 大月薫と結婚
 アメリカを経てイギリスに渡り、
 一時清国公使館に拘留
 その体験を『倫敦被難記』として発表
 1904年
 「1870年
  11月
  ハワイの
  マウイ島生まれ」として
 アメリカ国籍取得
 1905年
 ヨーロッパから帰国
 宮崎滔天らの援助で
 東京池袋にて
 興中会、
 光復会、
 華興会を糾合し
 中国同盟会を結成
 留学中の
 蒋介石と会う
 1911
 10月
 10日
 共進会と同学会の指導下、
 武昌蜂起
 各省がこれに呼応して
 辛亥革命に発展
 当時、孫文アメリカに滞在
 12月25日
 上海に帰着
 1912年
 1月
 1日
 臨時大総統として
 南京に
 中華民国政府を
 樹立

 1913年(大正二年)
 3月
 国会議員選挙
 中国同盟会を発展させた、
 国民党が
 870議席の内
 401議席獲得
 宋教仁を総理とした
 袁世凱は自身の権力拡大を計り、
 宋教仁を暗殺し、国民党弾圧
 7月
 袁世凱打倒の第二革命
 1914年
 孫文は中華革命党を組織
 袁は議会解散を強行
 1915年
 共和制を廃止、帝政を復活
 袁世凱
 中華帝国大皇帝に即位
 反袁・反帝政の
 第三革命が展開
 1916年
 袁は病死
 段祺瑞が後継者になる
 1917年
 広州で
 広東軍政府を樹立
 広西派の
 陸栄廷を攻撃
 第一次護法運動は失敗
 第二次護法運動は
 陳炯明との路線対立で
 広州を追われた

 孫文は一時、日本へ亡命
 「明治維新は中国革命の第一歩であり、
  中国革命は明治維新の第二歩である」との
 書簡を
 犬養毅へ送った
 宋嘉樹の
 次女の
 宋慶齢と結婚
 梅屋庄吉が資金面で支援

 1915年
 第一次世界大戦中の
 日本が
 対華21ヶ条要求を北京政府に要求
 1917年
 ロシア革命
 第一次世界大戦後の
 1919年1月
 パリ講和会議によって
 ドイツから
 山東省権益が日本に譲渡
 中国全土で
 「反日愛国運動(五・四運動)」
 陳独秀毛沢東
 孫文
 「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換
 ロシアから
 コミンテルン代表の
 ボロディン
 国民党最高顧問に迎え、
 国民革命軍と軍官学校を設立
 1922年
 広東駐在武官
 佐々木到一は
 孫文
 陳炯明追放要請を受け、
 孫文の軍事顧問となる
 1923年1月26日
 孫文
 ソビエト連邦代表
 アドリフ・ヨッフェの
 「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表
 中国統一運動に対する
 ソビエト連邦の支援を誓約
 2月21日
 広東で
 孫文
 大元帥就任(第三次広東政府)
 1923年
 6月
 中国共産党第三回全国代表大会
 コミンテルン代表
 マーリン指導で、
 国共合作が方針
 コミンテルン
 工作員
 ミハイル・ボロディンは、
 孫文の軍事顧問・国民党最高顧問
 1924年
 1月
 20日
 第一次国共合作が成立
 黄埔軍官学校設立
 国民革命軍の組織を開始
 1925年
 中国人革命家育成機関
 モスクワ中山大学が設立
 1924年
 10月
 孫文は北上宣言
 11月
 日本の神戸で
 「大アジア主義講演」
 日本に対して
 「西洋覇道の走狗となるのか、
  東洋王道の守護者となるのか」
 東洋の王道・平和の思想を説き、
 日中の友好を訴えた。
ーーー

ーーー↓カタカナ・・・ウイッキペデアから参考抜粋
 吉備真備が片仮名を作ったという説
 片仮名の起源は9世紀初め
 奈良の古宗派の学僧たちの間で
 漢文を
 和読するために、
 訓点として
 借字(万葉仮名)の
 一部の
 字画を省略し付記したものに始まる
 記号的・符号的性格が強い
 十世紀中頃までは異体字が多く見られ、
 字体の整理は
 十二世紀
 『うつほ(宇津保物語)物語』の
     ーー↓ーー
     ウツボ(鱓=魚+單)は、
     ウナギ目ウツボ亜目
     ウツボ科 (Muraenidae) に分類される魚類
     日本では「Gymnothorax kidako」の
     標準和名として使用
     ーー↓ーー
     うつぼ(ウツボ・靱・靫・空穂・打保)
     靫=矢を入れる筒型の容器
       箙(えびら)とも。
     靱=大阪府の地名。靱蹴球場
     打保=岐阜県飛騨市宮川町打保
     ーー↓ーー
     空穂=古空穂=妖怪
     鳥山石燕の妖怪画集『百器徒然袋』に
     描かれた妖怪
     「古空穂」は元は那須野の原で
     「野干」を射た
     三浦介義明の「靫=空穂」に付喪神が憑いて
     妖怪の古空穂になった・・・らしい
     三浦介は
     上総介広常とともに那須野の原で
     九尾の狐を仕留めた人物でもある。
     ーー↓ーー
     ウツボカズラ(靫葛)は、
     壺のような形で、落とし穴式の
     捕虫器を有する
     食虫植物で、蔓(つる)性
     蚊の幼虫でウツボカズラ
     袋の中の液体に生息する種がある
     蔓はロープとして使用
     得ツボ(壺・壷・坪)
     ーー↓ーー
      要点・要所
      漢方の経絡・経穴・つぼ
  ーー↓ーー
   経絡(けいらく・Meridian)の
   経は経脈を、
   絡は絡脈を表し、
   古代中国の医学の
   人体中の
   気血榮衛(気や血などの代謝物質)の
   通り道として考え出された
   経脈は縦の脈
   絡脈は横の脈の意。
   経脈は
   十二の正経
   八の奇経でなる
   正経は
   陰陽で分類され、
   陰は太陰、少陰、厥陰の三陰
   陽は太陽、陽明、少陽の三陽
   手、足それぞれに三陽三陰の属する経脈があり
   計十二脈
   陰経は臓に属し
   陽経は腑に属する
   奇経の
   任脈と
   督脈が
   独自の経穴を有し
   この二脈に気を循環させる功法を
   「周天功」とし、
   小周天、大周天に区別される
   経脈には
   経別もある
   絡脈は
   十五絡脈とその他の絡脈、
   さらに細分化された
   孫絡がある
   五臓六腑を
   纏わない
   経筋もある
ーー↓ーー
 「国譲上」の巻において
 「書の手本」の中に
 片仮名があげられている
 江戸時代の学者
 伴信友は、平安時代後期に成立したと見られる
 『堤中納言物語』の
 「虫めづる姫君」に、
 虫愛づる姫君が男から送られた恋文に対して
 「仮名(平仮名)は
  まだ書き給はざりければ、
  かたかんな(片仮名)に」返事を書いた
 戦前は正式な文字とみなされ、
 法令全書
 その他の
 公文書で用いられ、
 教育面でも
 平仮名に先行して教えられた
 現代の片仮名では
 明治三十三年(1900年)の
 小学校令施行規則で
 一音一字の原則に従い、
 標準とされた字体だけが普及
ーー↓片仮名・カタカナ
 漢文訓読における添え仮名
 文章の表記に用いる場合
 仮名交文
 音を示すことを目的とする場合
 外来語、
 漢字文化圏の国を除く
 外国の人名・地名などの固有名詞
 擬音語・擬態語
 漢字の音(音読み、固有名詞の特殊な読み、日本語以外の言語での発音、常用漢字外の文字の仮名表記)
 一般と異なる表記による効果を目的とする場合
 学術用語
 生物の和名(イヌ、キジ、サクラなど)
 意図をもって表記するとき
 日本語で砕けた表現をする場合
 会社名や商品名などの表記
 漫画等において
 外国人の
 片言での会話を表現するとき
 技術的な理由から
 使用可能な文字が限られている場合
 1988年8月以前の
 電報
 日本語以外では、
 アイヌ語表記にも使われる。
 日本統治時代の
 台湾語の表記に使われた
ーー↓字源由来・・・ウイッキペデアから 
「イ」「エ」を180度回転させた文字が、ヤ行の「イ」「エ」として用いられたことがある。これは江戸時代の音韻学において、「ヤ行やワ行の『イ』『エ』にも独自の文字を当てるべきではないか」という考えが生じたために作られた記号であり、一般に通用する文字ではない。用いられた記号も、学者によって異なる場合がある。
「キ」については「幾」の草体の変形、ならびに平仮名「き」の変形とする説がある。
「ケ」については「箇」の異体字である「个」の変形とする説がある。
「ツ」については「州」の草体、「門」の草体、または「津」の一部とする諸説がある。
「ト」については「外」の旁を採ったとする説がある。
「ユ」については「弓」の最初の2画を採ったとする説も以前からある。
「ヰ」「ヱ」は、現在歴史的仮名遣においてのみ用いられる。
「ヰ」は「井」の草体を変形させたものである。
「ヱ」については「慧」の草体の一部を採ったとする説もある。
「ワ」については「輪」の意の記号「○」を「()」と2画で書いたところから生まれたとする説がある。
「ン」については漢字でなく撥音を表す記号(V)の変形とする説もある。
ーー↓↑
 部首の合体の漢字を壊して「カタカナ」にあわせて「字形」を取り出さなくても「・(点)」と「|(縦線)」、「ー(横線)」、「/(斜め線)」、「\(斜め線)」を基本とする「漢字」には
 片仮名が示す「部首漢字」、それ自体が「漢字の字形」として存在している。意味はソレ字体の意味である・・・「カナ一字、一音の訓音」は「日本語の意味するモノ」だろう・・・カナ・・・
 アイウエオ→
 カキクケコ→
 サシスセソ→
 タチツテト→
 ナニヌネノ→
 ハヒフヘホ→
 マミムメモ→
 ヤイユエヨ→
 ラリルレロ→
 ワン   →
ーーー
 枕草子
 (四三段)・・・四拾参・四十三・四参・肆足参
         4+3=7=七=漆
         4×3=12=十二=壱拾弐

 七月
 ばかり、
 いみじく
 暑ければ、
 よろづの
 所
 あけながら
 夜も
 あかす
 に、
 月の
 ころ
 は
 寐起きて
 見いだす
 も
 いと
 をかし。
 闇も
 また
 をかし。
 有明
 たいふも
 おろか
 なり。

 いと
 つややか
 なる
 板の
 端
 近う、
 あざやか
 なる
 疊
 一枚
 かり
 そめに
 うち
 敷きて、
 三尺の
 儿帳、
 奧の
 かたに
 押しやり
 たる
 ぞ
 あぢき
 なき。
 端に
 こそ
 立つ
 べけれ、
 奧の
 うしろ
 め
 たからん
 よ。

 人は
 出で
 に
 ける
 なる
 べし。
 薄色の
 うら
 いと
 濃くて、
 うへは
 少し
 かへり
 たる
 ならず
 は、
 濃き
 綾の
 つやや
 かなるが、
 いたく
 はな
 えぬを、
 かしら
 こめて
 ひき
 著てぞ
 ねためる。
 香染の
 ひと
 へ、
 紅の
 こまやかなる
 すずしの
 袴の、
 腰
 いと
 長く
 衣の
 下より
 ひかれ
 たるも、
 まだ
 解け
 ながら
 な
 めり。
 傍の
 かたに
 髮の
 うち
 たたなはりて
 ゆららか
 なるほど、
 長き
 推し
 はかられ
 たるに、
 又
 いづこ
 より
 にか
 あらん、
 朝
 ぼらけの
 いみじう
 霧
 滿ちたる
 に、
 二藍の
 指貫、
 あるか
 なきかの
 香染の
 狩衣、
 白き
 すずし、
 紅の
 いと
 つややか
 なる
 うちぎぬの、
 霧
 に
 いたく
 しめり
 たるを
 ぬぎ
 垂れて、
 鬢の
 少し
 ふくだ
 み
 たれば、
 烏帽子の
 押し
 入れら
 れたる
 けしき
 もしどけ
 なく
 見ゆ。

 朝顏の
 露
 落ちぬ
 さきに
 文
 書かんとて、
 道の
 ほども
 心もとなく、
 おふの
 下草
 など
 口ずさびて、
 わがかたへ
 行くに、
 格子の
 あがり
 たれば、
 御簾の
 そばを
 いささか
 あげて見るに、
 起きて
 いぬらん
 人も
 をかし。
 露を
 あはれと
 思ふ
 にや、
 しばし
 見たれば、
 枕
 がみの
 かたに、
 朴に
 紫の
 紙はりたる
 扇、
 ひろごり
 ながら
 あり。
 檀紙の
 疊紙の
 ほそやか
 なるが、
 花か
 紅か、
 少し
 にほひ
 うつり
 たるも
 儿帳の
 もとに
 散り
 ぼひ
 たる。

 人の
 けはひ
 あれば、
 衣の中より
 見るに、
 うち笑みて
 長押に
 おしかかり
 ゐたれば、
 はぢ
 など
 する人
 には
 あらねど、
 うち
 とくべき
 心ばへ
 にも
 あらぬに、
 ねたうも
 見えぬる
 かなと
 思ふ。
 「こよなき
  名殘の
  御あさ
  いか
  な」とて、
 簾の
 中に
 半ばかり
 入りたれば、
 「露より
  さきなる
  人の
  もどか
  しさ
  に」
 と
 いらふ。
 をかしき事
 とりたてて
 書くべきに
 あらねど、
 かく
 言ひ
 かはす
 けしき
 ども
 にくからず。

 枕
 がみなる
 扇を、
 我
 もちたる
 して
 およびて
 かき
 寄するが、
 あまり
 近う
 寄り
 くる
 にやと
 心
 ときめき
 せ
 られて、
 今
 少し
 引き
 入らるる。
 取りて
 見など
 して、
 疎く
 おぼし
 たる事
 など
 うち
 かすめ
 恨み
 など
 するに、
 あかう
 なりて、
 人の
 聲々し、
 日も
 さし
 出でぬ
 べし。
 霧の
 絶間
 見えぬ
 ほどにと
 急ぎ
 つる
 文も、
 たゆ
 みぬる
 こそ
 うしろ
 め
 たけ
 れ。

 でぬる
 人も、
 いつの
 程に
 かと
 見えて、
 萩の
 露
 ながら
 あるに
 つけて
 あれど、
 え
 さし
 出でず。
 香の
 かの
 いみじう
 しめたる
 匂
 いと
 をかし。
 あまり
 はした
 なき
 程に
 なれば、
 立ち
 出でて、
 わが
 き
 つる
 處も
 かくやと
 思ひ
 やらるるも
 をかし
 かり
 ぬべし。
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 ・・・