1139日目・・・「中国広東省のコメのカドミウム汚染」・・・中国汚染米の「外食ファミレ」にはいかないけれど・・・花梨等、煎餅、オカキ、「駄菓子・おかし」が食べられなくなる・・・いやぁぁ〜、いと、おかし、あやしい・・・モノども・・・放射能汚染食品も・・・イタイは覚悟して喰う、か・・・

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 本居 長世(もとおり ながよ)
 1885年(明治十八年)
 四月四日
  〜
 1945年(昭和二十年)
 十月十四日)
 男性童謡作曲家
 晩年は
 長豫と称す
ーー↓
 1885年(明治十八年)
 東京府
 下谷区
 御徒町に生まれる
 本居宣長
 六代目の
 義理の
 子孫

 生後1年で母と死別
 養子であった父が家を出たため、
 国学者であった祖父、
 本居豊穎(もとおり とよかい)に養育
 1908年(明治四十一年)
 東京音楽学校本科を首席で卒業
 日本の伝統音楽の
 調査員補助として母校に残る
 同期に
 山田耕筰
 1909年(明治四十二年)
 器楽部のピアノ授業補助
 1910年(明治四十三年)
 ピアノ科助教
 教え子
 中山晋平・弘田龍太郎
 1918年(大正七年)
 「如月社」結成
 如月社で本居長世の作品を独唱したのが
 バリトン歌手
 藤山一郎東京音楽学校声楽科出身)
 本居 長世は
 宮城道雄や吉田晴風らの
 新日本音楽運動に参加、
 洋楽と邦楽の融合を模索

 鈴木三重吉による
 児童雑誌
 『赤い鳥』が創刊
 1920年(大正九年
 中山晋平の紹介によって
 斎藤佐次郎による
 児童雑誌
 『金の船』より
 『葱坊主』発表
 新日本音楽大演奏会で
 『十五夜お月さん』は、
 長女
 「みどり」
 歌によって一躍有名となる
 以後
 「野口雨情」等と組んで
 次々に童謡を発表する
 (「みどり」は童謡歌手の第1号で、
  童謡歌手のレコード吹き込み第1号)
 その後、・・・
 長女
 「みどり(緑・翠・嬰・碧・美土里・水鳥)」
 ・・・
 次女
 「貴美(きみ)子」
 (後に三女
    「若葉(わかば)」も)等とともに
ーーーーー↓「三姉妹」
    三姉妹→宗方(宗像・宗形・棟方)三姉妹神
    信長の妹の子供の「三姉妹」
    シーボルトが乗ってきた
    船の名前「三姉妹号」

ーー↓
 日本各地で公演
 1923年
 (大正十二年)
 関東大震災
 日系米国人を中心に多くの援助物資が贈られ、
 その返礼として日本音楽の演奏旅行が企画され、
 本居長世
 二人の娘等とともに参加し、
 アメリカ合衆国各地で公演
 1945年
 (昭和二十年)肺炎で死去
 代表作
 『七つの子』
 『青い眼の人形』
 『赤い靴』
 『十五夜お月さん』
 『めえめえ児山羊』
 『汽車ぽっぽ』(作詞も本居が手がけた)
 『國學院大學校歌』
ーーー↓
 野口雨情(のぐち うじょう)
 1882年
 (明治十五年)五月二十九日
  〜
 1945年
 (昭和二十年)一月二十七日
 本名
 英吉
 詩人、童謡・民謡作詞家
 北原白秋
 西條八十とともに、
 童謡界の三大詩人
 廻船問屋を営む
 名家
 (楠木正季が先祖?)の
 長男として
 茨城県
 多賀郡
 磯原町北茨城市)に生まれる
 父
 量平
 母
 てる
ーー↓野口雨情
 四年制小学校・四年制高等小学校を終了後上京
 東京専門学校(早稲田大学)入学
 坪内逍遥に師事
 1年余りで中退
 詩作を始める
 1901年、十九歳
 1904年、父死亡
 故郷に帰り、家督を継ぐ
 栃木県の資産家の
 同年齢(二十三歳)の
 娘
 「高塩ひろ」と結婚
 1905年
 (明治三十八年)
 処女民謡詩集
 『枯草』を
 水戸から自費出版
 1906年
 長男の
 雅夫誕生
 事業で一旗揚げる名目で
 樺太に渡るが、失敗
 一緒に
 コルサコフまでともなった
 芸者に金を持ち逃げされて、
 残った金で
 林檎を貨物列車の一両分、
 東京に送って売ろうと
 目論んだが腐って失敗
 東京にとどまり詩人になると宣言
 1907年
 (明治四十年)一月より
 『朝花夜花』なる民謡月刊を発行
 同年、
 三木露風
 相馬御風らと共に
 早稲田詩社(月二回会合する会)を結成
 1906
  〜
 1909年、
 北海道に渡って新聞記者
 『小樽日報』に勤め、
 同僚の
 石川啄木と交友
 雨情は当時の
 主筆に対する
 排斥運動を起こし
 敗れて退社
 啄木とは1ヶ月足らず机を並べただけ
 1907年
 10月
 妻が女児
 みどりを出産したが、一週間ほどで死亡
 のちの
 『シャボン玉』は、
 このとき
 夭折した娘のことを歌ったらしい・・・
 
 雨情は、北海道で
 六つの新聞社を転々とした後、
 1909年
 (明治四十二年)
 一旦帰郷するが、また上京
 1911
 母死亡
 帰郷し、家の植林や農地財産の管理に従事
 1914年
 雨情は、痔の湯治のために
 岩木湯本温泉を訪れる
 このとき
 置屋
 「柏屋」の
 おかみ、
 小すみ(明村まち)と愛人関係
 三年半をここで暮らす
 1915年
 5月
 夫人との協議離婚
 雨情は、二児をひきとる
 1918年
 (三十六歳)
 水戸にいき、
 「中里つる」と再婚
 1919年
 (大正八年)
 詩集
 『都会と田園』で詩壇に復帰
 斎藤佐次郎により創刊された
 『金の船』より童謡を
 藤井清水や
 中山晋平
 本居長世と組んで
 作品を次々と発表
 「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、
 1935年
 (昭和十年)
 日本民謡協会を再興、理事長に就任
 同年一月、
 仏教音楽協会設立、
 評議員に推薦され
 仏教音楽の研究に加え、
 新仏教音楽の
 創作や発表、普及に尽くした。
 1943年
 (昭和十八年)
 軽い脳出血
 1945年
 (昭和二十年)
 疎開先の
 宇都宮市近郊で死去
 代表作
 『十五夜お月さん』
 『七つの子』
 『赤い靴』
 『青い眼の人形』
 『シャボン玉』
 『こがね虫』
 『あの町この町』
 『雨降りお月さん』
 『証城寺の狸囃子』など・・・
 他に
 『波浮の港
 『船頭小唄』など・・・
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 ・・・イヤァァ〜、いと、あやしい・・・
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 枕草子
(三二段)・・・参拾弐段・三十二段・参弐段
        3+2=5=五=伍
        3×2=6=六=陸

 檳榔毛は・・・「びろうげ=檳榔毛」の車
        牛車の一。
        白く晒(さら)した
        檳榔の葉を細かく裂いて
        車の屋形を覆(おおった)モノ
        上皇親王・大臣以下、
        四位以上の者、女官・高僧などが乗用
        檳榔=ヤシ(椰子)科の常緑高木
           香具師・野師
 のどやかに
 やりたる。
 急ぎたるは
 輕々しく見ゆ。・・・「カル」の名前を有する
           スベテの歴史上の男女
           カルデアン→軽(カル)出案

 網代あじろ)は
 走らせたる。
 人の門より
 渡りたるを、
 ふと見る
 ほどもなく
 過ぎて、
 供の人
 ばかり
 走るを、
 誰ならんと
 思ふ
 こそ
 をかしけれ。
 ゆるゆると
 久しく
 行けば
 いと
 わろし。
ーーーーー
 ・・・いと、ワロシ・・・