1134日目・・・櫻の蕾(つぼみ)、水仙の蕾、チューリップの蕾、黄色の花の蕾・・・黄色の花弁4枚なのだが名前が判らない。「山吹の花」と思ったが「花弁が五枚」で、「花弁が四枚」の「黄色花」とは異なる・・・ブログで調べてみたら、どうやらを「レンギョウ・レンギョウウツギ」と言う名前らしい。名前の由来は、漢名の「連翹」の音読みだそうだが、「中国名では黄寿丹で、日本で誤って呼んだ連翹とはトモエ草、オトギリ草のコトである」とあった。その「連翹」だが「雉(きじ)が尾羽を広げて飛ぶ様子」らしい。尾張の本居宣長の「古事記

 「トンボ(蜻蛉、とんぼ、英語=dragonfly・ damselfly=・分類上は蜻蛉目、トンボ目、Odonata)という分類群」=「秋津(安芸津)」=「蜻蛉」=カゲロウ=「蜉蝣」の「翅」とは、節足動物門・昆虫綱・カゲロウ目(蜉蝣目)のEphemeropteraに属する昆虫の総称。昆虫類で最初に「翅」を獲得したらしい・・・幼虫はすべて「水生」・・・トンボ(秋津島安芸津島・安芸対馬)の「揣摩・縞・志摩・死魔」の幼虫は「ヤゴ(隋王朝帰化人、陽侯氏)」だろう・・・ 「damselfly」の発音をブログ辞典で聴いてみたが、ボクには「ダングルライ(男声)」、「ザンザルプライ(女声)」と聴こえる・・・ボクがこれをスペルどおりにヨメば「ダンセルフリィ・ダンセリフラィ」で、「段科白理意・段競り(糶り)の等意(位)」で、「歌舞伎のセリ(上下に移動する舞台装置)」は「宝暦期(1751〜1764)に始まったらしい・・・「damselfly=イトトンボ(糸蜻蛉、豆娘)は、トンボ目(蜻蛉目)・イトトンボ亜目(均翅亜目<きん−し−あ−も−く>、Zygoptera)に分類される昆虫の総称。イトトンボ科、モノサシトンボ科、アオイトトンボ科など多くの科を含むが、日本で「イトトンボ」と呼んだ場合は比較的大型のカワトンボ類を除くことが多い」
 とにかく「蜻蛉・蜉蝣」は「不完全変態」で、「幼虫→亜成虫→成虫」の「半変態」で、成虫は「長い尾」を有し、寿命が短い。学名はギリシャ語の原義は「epi = on, hemera = day (その日一日)であり、カゲロウの寿命の短さに由来する・・・たった一日ぽっきりの命・・・ナニを言いたいのか?「蜻蛉日記」・・・
 「翹」の漢字名を有する「翹岐(ギョウキ)」は「百済の王族で義慈王の甥、又は子と謂われている人物」であり、「皇極天皇元年(642)に義慈王の母の死亡と同時に島流し(流刑)となったが、同年、来日し「大使として参内」し、「蘇我蝦夷」の邸宅に招かれた人物である・・・「翹岐(ギョウキ)」は「行基」か「行記・行紀」?・・・「戴詞(史)として纂名(納)意」だろう・・・「戴(タイ)」は「いただく・頭の上にのせる」・・・「戴冠式・不倶戴天・うやうやしく上にささげて持つ・推戴・頂戴・奉戴」である・・・「タイ・トル」は「ナンだん」だか?・・・ねッ・・・
 兎に角、ハナバナの「蕾み」が弾(はじ)けて花が咲き出した・・・
 以前にも同じようなことを書き込んだが、
 「咼(カ・カイ・ワ・くぼむ・うずまき・渦巻く)」
 「冎(カ・わける・さく・えぐる・骨肉分離の刑罰)=剮の源字→咼の上は頭蓋骨、下は四肢の胴体の骨」・・・
 「咼(カ・カイ・よこしま・くちがゆがむ・ゆがむ)」・・・?
 「かたつむり」の殻の形、巻貝、アンモナイト・・・
 蝸牛(カギュウ)
 鍋(なべ)
 堝(カ・るつぼ=坩堝)・・・鋳鉄炉
 萵(ワ)・・・・チシャの葉. キク科の野菜
 窩(カ・ワ・むろ)・・・あな・あなぐら
             くぼみ・凹
             腋窩(エキカ・エキワ)
             眼窩(ガンカ・ガンワ)
             蜂窩(ホウカ)
             窩主(ケイズ)
   陥凹の場所(側頭下窩・犬歯窩・腋窩・卵円窩)
   中心窩(fovea, fovea centralis)は
   目の網膜の黄斑部の中心に位置する。
   中心窩は、高精細な中心視野での視覚機能に寄与
 渦(カ・うづ)
 禍(カ・わざわい)
 過(カ・すぎる)
 猧(ワ・ちん)
 撾(タ・うつ)
 媧(カ)
 檛(タ・テ・つえ)
 マイマイ・・・
 啚(ヒ・ト・おしむ・はかる)・圖(ズ・ト・はかる)=図・・・図太い・図々しい・・・
 「咼(カ・カイ・ワ・よこしま)」の訓は「口が歪(ゆが)む・ゆがむ」ではなく、「口をツボム=つぼむ・莟む・窄む・蕾む」結果の「窪んだ部分」だろう・・・「笑窪(えくぼ)」、なるほど、惚れた人は「痘痕(あばた)も笑窪」であるナ、ッ・・・「咼」は「つぼんだ形」の「容器」である。なぜ「よこしま・ヨコシマ・横嶋・横島・横縞・邪」なんだか?・・・それは「窪んだ形の地形」からの他のコトバの示唆、連鎖である。阿蘇山は三重輪の窪んだ九州の中心にある。熊本玉名には「横島」が存在する。もちろん、「横書きの文字は横縞」だろう・・・「落窪物語」・・・落とし穴かも・・・そして、蕾の芽の如く「螺旋形」に重ねられた花弁の「ツボマリの形」と「溝に見える重なり」である。「鳴門海峡の渦潮、渦巻き」で、「竜巻(トルレード)、台風(タイフーン・ハリケーン)の目」である。「メ螺旋(ねじ)」の螺旋のクボミの線条である。オス螺旋を捩じ込まれた穴(孔)と、その溝アトである・・・「坩堝(るつぼ)=十+一+甘+十+一+咼(冎+口)」・・・鉄を鎔かす「熔高炉」である・・・
 ボクは「二七、八歳」の時期に二年間ほど愛知県の東海市にある「新日鉄」の溶鉱炉が凛々しく起立していた現場で仕事をした経験があるが・・・あの頃一緒に働いてくれた皆に感謝・・・コークス工場・・・台風のレンチャンだった・・・そして、既にあの世だが、友人の「ヒデ」と・・・溶鉱炉の天辺まで登ったョ、ナッ・・・ボクも含めて全然危険な場所だなんて皆、思っても、自覚もしていなかったのかな・・・?・・・
ーー↓
 日本における最初の近代高炉
 釜石市
 大橋高炉
 大島高任が設計・操業
 安政四年(1857年)
 十一月
 二十六日
 火入れ、
 十二月一日初
 出銑
 大島は
 オランダ人
 ヒューゲニンの著作を
 「鉄熕鋳鑑」として翻訳し
 「hoog oven」 を「高炉」と翻訳
 「hoog(オーグ)」は阿蘭陀語で「高い」で、英語は「high(ハイ)」・・・「オォ(ゥ)グ」の日本語発音なら「王(皇)の愚(具・虞・倶・句・狗)」、「嗚ゥのグ」・・・「凹の具」・・・「姶の倶」・・・「奥羽の苦(区・宮・工・功)」・・・「櫻(桜・サクラ)の具」・・・
 「You are high tension(テンション)」は和製英語で、
 「You are hyper(ハイパー)」が英語・・・「tension(テンション)」は「緊張・引張力=張力が、弦、ケーブル、チェーン等の伸(延)び縮みの度合いの強弱度」だが、「天書務(夢・無・武・牟)」で、「ム=己=私=よこしま」である・・・
 「Hooge (prince)・ホーゲ=豪格」は「満州語」で、
 1609年〜1648年
 の
 「清の
  太宗ホンタイジ(皇太極)」の
 「長子」のコト・・・である。「ほんたいじ」は「本、対、字」
かな・・・とにかく、「hoog oven」 、「鉄高炉」である・・・英語の「hood(フード)」は、「hoog」のアルファベットの尻尾の「d」と「g」が異なるが「food(フード)=食料」は同音で、日本語なら「風土記」の「風土」は・・・「几+ノ+虫(中ム)+十一」であるな・・・「記紀の中の横嶋(邪・四個島)が重なりの葉字目」・・・である・・・
 「高炉」
ーー↓
 「反射炉の設置」は天保年間の長崎の高島秋帆、江川坦庵の「蘭書」研究の結果である。
 嘉永六年(1853)のペリー来航
 江川坦庵に対して、反射炉の建造を許可
 建造予定地は下田港に近い
 賀茂郡本郷村(下田市高馬)
 嘉永六年十二月
 基礎工事開始
 安政元年三月末
 ペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に進入
 反射炉建設地を移転
 韮山代官所に近い
 田方郡中村(現伊豆の国市中)に決定
 反射炉は、
 連双式(溶解炉を二つ備える)の2基
 直角に配置
 四つの溶解炉を同時に稼働可能な設計
 安政二年正月
 坦庵が病死
 後継の
 江川英敏は、
 蘭学を導入し反射炉建造も行っていた
 佐賀藩に応援を求め技師の派遣を要請
 佐賀藩は、
 杉谷雍助ら
 十一名を
 韮山(にらやま)に派遣
 安政四年(1857)
 十一月
 反射炉は着工から
 三年半の歳月をかけて完成
 目的は大砲の製造
 元治元年(1864)に使用が中止
 大砲は台場の備砲として用いられた
 ・・・らしい・・・鍋も製造したのだろうか・・・
 幕府の近代産業化の出頭指揮者は
 「小栗上野介」であった・・・ボクの遠い親戚で、縁戚である・・・カナ・・・この「近代国家産業」を見据えていた「権力者」は河原で「打ち首」にされた・・・「無念・残念」である・・・「20=弐拾=念=今のココロ」・・・で、アルカナ・・・
ーーー↓
 小栗忠順
 文政十年六月二十三日(1827年7月16日)
   〜
 慶応四年閏四月六日(1868年5月27日)
 改名 剛太郎、忠順
 別名 又一
 戒名 陽寿院殿法岳浄性大居士
 墓所 東善寺 雑司ヶ谷霊園 普門院
 官位
 安政六年(1859年)
 従五位下
 豊後守に叙任
 文久三年(1863年)
 上野介に遷任、以後
 小栗上野介
 江戸幕府要職
 西の丸書院番→使番→目付→外国奉行→寄合席→小姓組番頭→勘定奉行南町奉行→歩兵奉行→講武所御用取扱→寄合席→陸軍奉行並→勤仕並寄合→軍艦奉行→寄合→海軍奉行並→陸軍奉行並→勤仕並寄合
 主君 徳川家慶→家定→家茂→慶喜
 氏族 三河小栗氏
 父 小栗忠高
 母 小栗くに子(小栗忠清の娘)
 正室 建部政醇の娘・道子
 子 国子(小栗貞雄妻)
 養子 鉞子、忠道
ーー↓
 鍋(なべ)・・・菜を煮る瓮(へ)
         ナべる=名部留
             「な」音のスベテの部に留る
         名・納・拿・那・奈・茄・菜・南
     納部留
     なべて(並べて)=「な(並)ぶ」の
              連用形+接続助詞「て」
              全体が同じような状態・程度
              総じて・おしなべて
     なべる=なべて・おしなべて
         総じて、大体
     なぶる=嬲る・弄る・名振る・名古
     肯る=うなべる・肯く・頷く・なるほど             ノべる=の部留
             「の」音のスベテの部に留る
         野・之・廼・乃・埜・能
     野辺留→ハナ(花・華・塙・洟・鼻)
     のべる(述べる)
             述べる・陳べる
             延べる・伸べる
 鍋
 播磨の方言。尻。転じて女根の義。
 女の陰部のこと
 尻のことを「かま(釜)」、前尻を「なべ」
 釜=父+金=(ハ+乂+金)は?・・・鎌足=金+兼+足・・・「おかま」・・・
ーーー↓釜次郎
 榎本武揚
 天保七年八月二十五日
 (1836年10月5日)
   〜
 明治四十一年
 (1908年)十月二十六日)
 安政三年(1856)
 長崎海軍伝習所に入所
 文久二年(1862)オランダ留学
 明治元年(1868)海軍副総裁
ーー↓
 父は
 箱田良助
 備後国
 安那郡
 箱田村(広島県福山市神辺町箱田)出身
 榎本武由(武兵衛)の
 娘みつと結婚
 榎本武規(円兵衛)と改名
ーー↓ 
 榎本武揚
 幼少から
 昌平坂学問所儒学・漢学、
 ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ
 十九歳で箱館奉行・堀利煕の従者
 蝦夷
 箱館(北海道函館市)に赴任
 樺太探検に参加
 幕府新設の長崎海軍伝習所に入所
 慶応三年(1867年)
 徳川慶喜大政奉還
 戊辰戦争
 榎本の旧幕府艦隊は
 大坂の
 天保山沖に停泊
 鳥羽・伏見の戦い旧幕府軍敗北
 大坂城慶喜らは、旗艦「開陽」で江戸へ逃げた
 江戸城無血開城
 榎本は抗戦派の旧幕臣とともに
 開陽、回天、蟠竜、千代田形、
 神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の
 八艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出
 途中暴風により
 清水沖に流された咸臨丸は新政府軍に拿捕
 新選組奥羽越列藩同盟軍、
 桑名藩主・松平定敬らを収容し
 蝦夷地(北海道)へ移動上陸
 箱館五稜郭を拠点に
 明治元年(1868年)末に
 「蝦夷共和国」を樹立
 入札(選挙)で総裁となる
 明治二年(1869年)二月
 局外中立であった米国が新政府に加担し
 最新鋭の
 装甲艦「ストーン・ウォール」を新政府に売却され
 「甲鉄」と命名
 宮古湾海戦で敗戦
 明治二年五月(1869年6月)
 榎本は降伏
 江戸
 辰の口の牢に投獄
 明治五年(1872年)一月六日
 特赦出獄
 新政府に登用
 同年
 三月八日
 黒田清隆開拓使次官の
 四等出仕仕官
 北海道
 鉱山検査巡回を命じらる
 明治七年(1874年)一月
 駐露特命全権公使
 樺太・千島交換条約を締結
 マリア・ルス号事件で
 日本は
 ペルー政府によって国際法廷に提訴され
 榎本は海軍中将として
 ロシア皇帝
 アレクサンドル二世
 調停の
 サンクトペテルブルクでの裁判で勝訴
 榎本は帰国後
 外務省二等出仕、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐清公使、条約改正取調御用掛等を歴任し、内閣制度の成立後は
 六つの内閣で逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任した(文相・外相の前後に枢密顧問官就任)
 農商務大臣時代
 足尾鉱毒事件で予防工事命令
 国が対応すべき公害であるとし
 大隈重信らにその重要性を説諭し
 鉱毒調査委員会を設置し、引責辞任
 明治二十三年(1890年)
 子爵に叙
 大日本帝国憲法発布式で
 儀典掛長
 通称
 釜次郎、号は梁川
ーーー↓榎本釜次郎→キの夏(頁夂)の本、
      かまじろう=掛、真字、賂、得
ーーー↓記紀の頁の夂(チ・おくれる)の本
 枕草子
 (二七段)・・・弐拾七段・二十七段・弐七段・念漆段
         2+7=9=九=玖
         2×7=14=十四=壱拾四=壱足肆

 ふみ
 ことば
 なめき
 人こそ、
 いと
 ど
 にくけれ。
 世を
 なのめに
 書き
 なしたる、
 詞の
 にくきこそ。
 さる・・・・・申・猿・沙流・去る・然る・作留
        猿田彦溺れた海軍提督(底度玖)
        猿女(宇受女・鈿女
ーー↓古事記
 故爾
 詔
 天宇受賣命、
 此立
 御前
 所仕奉、
 猨田毘古大藭
 者、
 專所
 顯
 申
 之
 汝、送奉。
 亦
 其藭御
 名者、
 汝負仕奉。
 是以
 猨女君等、
 負其
 猨田毘古之男
 藭名而、
 女呼
 猨女君
 之
 事
 是也。

 故、其
 猨田毘古藭、
 坐
 阿邪訶(此三字以音)。
 地名。
 時、
 爲
 漁
 而、
 於
 比良夫貝(自比至夫以音)。
 其
 手
 見
 咋
 合
 而、
 沈溺
 海鹽。
 故、
 其
 沈居
 底之時名、
 謂
 底度久御魂(度久二字以音)。
 其
 海水之
 都夫多都
 時名、
 謂
 都夫多都
 御魂(自都下四字以音)。
 其
 阿和佐久
 時名、
 謂
 阿和佐久御魂(自阿至久以音)。
ーー枕草子
 まじき・・・・真字記(漢字の記録)・交字記・混字記
        馬路記
 人の・・・・・訊埜
 もとに、・・・本爾
 あまり・・・・海部理・海士里・亜真理
 かし・・・・・瑕疵・菓子・歌詞・下肢・掛詞・可視
 こまり
 たるも、・・・多留模
 實に
 わろき事ぞ。
 されど
 我
 えたらんは
 理、
 人のもと
 なる
 さへ
 にくく
 こそあれ。
 大かた
 さし
 向ひても、
 なめきは、
 など
 かく
 言ふらんと
 かたはら
 いたし。
 まして
 よき人
 などを
 さ
 申す者は、
 さる
 はを
 こ
 にて
 いとにくし。
 男
 しうなど
 わろくいふ、
 いとわろし。
 わが
 使ふものなど、
 おはする、
 のたまふ
 など
 いひたる、
 いと
 にくし。
 ここ
 もとに
 侍る
 といふ
 文字を
 あらせばやと
 聞くこと
 こそ
 多かめれ。

 「愛敬なくと、
  詞しなめき」
 などいへば、
 いはるる人も
 聞く人も笑ふ。
 かく
 覺ゆればにや、
 「あまり
  嘲哢する」など
 いはるるまで
 ある人も、
 わろきなるべし。
 殿上人
 宰相などを、
 ただ
 なのる名を、
 聊
 つつましげ
 ならず
 いふは、
 いと
 かたは
 なるを、
 げに
 よく
 さいはず、
 女房の
 局なる人をさへ、
 あのおもと
 君などいへば、
 めづらかに
 嬉しと
 思ひて、
 譽むる事ぞ
 いみじき。
 殿上人
 公達を、
 御前より
 外にては
 官をいふ。
 また
 御前にて
 物をいふとも、
 きこしめ
 さん
 には、
 などてかは、
 まろがなど
 いはん。
 さ
 いは
 ざらん
 にくし。
 かく
 いはんに、
 わろかる
 べき事かは。
ーーーーー
 ・・・「ムラサキシキブ」の「源氏物語」をも兼ねた「コジキ」への批判であったとしても「セイショウナゴン」の「イト」とは、いとど、おかし、あやし・・・明治、文明の開花のサクラ仮名・・・