1070日目・・・「フロの日」の次は「フナの日」になるのかな。ナゼ「二ィテン二ィロクのヒ」としないんだか・・・「2・26」はまだオワっていない。コレからだ・・・「29日」まで・・・たった四日間でパンク・・・甘かったのは「決断力が無かった」と言うより・・・「他力本願」だったのだ。青年将校が自ら「政治権力を握る」と言うビジョンを持っていなかった。「近代国家の立憲天皇制の天皇権力(大資本家)に寄りかかったアマちゃん」だった・・・「帝国主義諸国家乱立」の世界状況の中で「革命」が「人種的民族領域の国家エゴの社会主

 ・・・1936年2月16日スペイン総選挙人民戦線派が圧勝・・・1939年2月に「人民戦線政府」は国外に亡命、フランコ軍が首都マドリードを制圧、内乱は終結。人民戦線政府は1976年まで亡命政府としてメキシコで存続・・・POUM・・・人民戦線最左派の政党。指導者「アンドレウ・ニン」は「レフ・トロツキー」の秘書だったが、POUMはトロツキーが指導する「国際左翼反対派」とは一線を画し、CNTと同様に独自の民兵組織を形成。自らの解放地域で地主制廃止を推進。人民戦線政府の主導権を握った「共産党」によって「ファシストの第五列」とされて弾圧消滅。「ニン」は1936年12月に追、1937年6月に誘拐され、バラバラ死体で発見。スペインに潜入した「ソ連共産党の秘密警察(内務人民委員部)」によるものであるらしい・・・
 7月17日スペイン内戦勃発・・・大陸中国で「日本人」に対する「反日中国人」による殺害(上海)事件等が頻繁に勃発。
 ドイツが中国国民政府に武器援助と軍事顧問団派遣。ドイツは中国共産党との「反日統一戦線」を進言・・・
ーーーーー
 二・二六事件・・・・・・・弐点弐拾弐事件
 1936年・・・・・・・・壱千九百参拾六
 昭和十一年・・・・・・・・壱拾壱
 二月二十六日〜
 二月二十九日(閏日)・・・四年に一度の29日・年間366日
 日本の陸軍の青年将校
 1483名の兵を率い
 「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした
 クーデター未遂事件
 事件後は「不祥事件」「帝都不祥事件」とも
ーー
 決(蹶)・・・・・・・・決=蹶=足+厂+屰(ゲキ・逆)+欠
     ・・・・・・・・決(ケツ・きめる)=氵+夬(カイ・ケ・分別)
 起・・・・・・・・・・・起(キ・おきる)=十+ト+人+己
 直後の叛乱軍将兵
 場所 東京府
 日付
 1936年(昭和十一年)
 二月二十六日〜二月二十九日・・・四日間
 兵器 機関銃、拳銃、銃剣、軍刀
 死亡者
 松尾伝蔵
 高橋是清
 斎藤実
 渡辺錠太郎
 負傷者
 鈴木貫太郎
 被害者
 警察官
 五名殉職、
 一名重傷
ーー
 「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンの下
 近衛歩兵第三連隊、
 歩兵第一連隊、
 歩兵第三連隊、
 野戦重砲兵第七連隊らの部隊を指揮

 岡田啓介内閣総理大臣)・・
 鈴木貫太郎侍従長)・・・・重傷
 斎藤實(内大臣)・・・・・・殺害
 高橋是清(大蔵大臣)・・・・殺害
 渡辺錠太郎(陸軍教育総監)・殺害
 牧野伸顕(前内大臣
 
 軍首脳を経由して昭和天皇昭和維新を訴えた
 しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧、包囲して投降
 反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、
 一部は自決
 大半の将校は投降

ーーー26日
 北一輝
 渋川善助
 から電話連絡により蹶起の連絡
 真崎甚三郎大将
 亀川哲也からの連絡
 真崎は加藤寛治大将と
 伏見宮邸で会う旨で陸相官邸へ
 山口一太郎大尉は電話で
 本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた
 本庄繁侍従武官長のもとに
 反乱部隊将校で、本庄の女婿である
 山口一太郎大尉の使者
 伊藤常男少尉が訪れ、
 「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げる
 
 中島侍従武官が
 甘露寺受長侍従に連絡
 昭和天皇も事件を知る
 天皇は直ちに軍装に着替え、執務室に向かった
 甘露寺侍従が天皇の寝室まで赴き報告
 天皇は、
 「とうとうやったか」
 「まったくわたしの不徳のいたすところだ」と言って、しばらくは呆然としていた。
 半藤一利によれば
 天皇はこの第一報のときから
 「賊軍」という言葉を青年将校部隊に対して使用

 襲撃された
 内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で、5時20分頃事件を知った
 木戸幸一内大臣秘書は、
 小栗一雄警視総監、
 元老西園寺公望
 原田熊雄秘書、
 近衛文麿貴族院議長へ電話
 6時頃参内
 湯浅倉平宮内大臣
 広幡忠隆侍従次長と対策を協議
 全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる
 後継内閣や暫定内閣を
 成立させないことで、
 宮内大臣より
 天皇に上奏

 午前5時ごろ、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに、陸相官邸を訪れ、6時半ごろようやく川島義之陸軍大臣に会見して、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古庄次官、真崎、山下を招致するよう命じた。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。斎藤瀏少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古庄次官が到着した。
 また同時刻、石原莞爾陸軍省に到着、青年将校たちに取り囲まれて「今日はお帰りください」と迫られたが、
 石原は
 「何が維新だ、何も知らない下士官を巻き込んで、維新がやりたかったら自分たちだけでやれ!」と一喝され、将校たちはそのあまりの剣幕に引き下がった。石原は皇道派でも統制派でもないので、青年将校たちはどうすべきか悩み、執務室に入った
 石原に
 「大佐殿と我々の考えは違うところもあると思うのですが、維新についてどう思われますか?」と質問すると、
 「俺にはよくわからん。俺の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と答え、
 「こんなことはただちにやめろ、やめないと軍旗をもって討伐するぞ」と再び一喝した。石原の態度があまりに尊大だったため、石原を殺害しようとする将校はいなかった。

 午前8時過ぎ、真崎甚三郎、荒木貞夫林銑十郎の3大将と山下奉文少将が歩哨線通過を許される。真崎と山下は陸相官邸を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた。
 真崎は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、加藤とともに軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。真崎は移動する車中で平沼内閣案などを加藤に話したという。
 参内後、
 伏見宮
 天皇
 「速やかに内閣を組織せしめらること」や
 昭和維新の大詔渙発などを上申したが、
 天皇
 「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」
 「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である」と取り合わなかった。

 午前9時、川島陸相天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる
 川島に対し、
 天皇
 「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」
 「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。
 正午頃、
 迫水秘書官は
 大角岑生海軍大臣
 岡田首相が生存と伝えたが、
 大角海相
 「聞かなかったことにする」と答えた。

 杉山元陸軍参謀次長が
 甲府
 歩兵第49連隊及び
 佐倉の
 歩兵第57連隊を招致すべく上奏。

 午後に清浦奎吾元総理大臣が参内。
 「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、
 天皇
 「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。
 磯部の遺書には
 「清浦が二十六日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。

 正午半過ぎ、荒木・真崎・林、阿部信行・植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王といった
 軍事参議官によって宮中で非公式の会議
 穏便に事態を収拾させることを目論んで
 26日午後に川島陸相名で告示が出された

 一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
 二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
 三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
 四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
 五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

 告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった
 香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられた
 が、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、
 軍事課長村上啓作大佐が
 「蹶起趣意書」をもとにして
 「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、
 将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解。
 正午、
 憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に
 「維新大詔」の草案作成が命令
 午後三時ごろ村上課長が書きかけの草案を持って陸相官邸へ車を飛ばし、草案を示して、維新大詔渙発も間近いと伝えた。

 午後3時
 東京警備司令官
 香椎浩平中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を下令した(7月18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。結果的に、
 蹶起部隊は第一師団長
 堀丈夫中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。
 午後3時、前述の告示が東京警備司令部によって印刷・下達された。
 しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が

 諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム

 と「行動」に差し替えられ
 午後4時、
 戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって
 反乱部隊は
 歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、
 命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。

 一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突ヲ絶対ニ避クルコト
 二、軍事参議官ハ積極的ニ部隊ヲ説得シ一丸トナリテ活溌ナル経綸ヲ為ス。閣議モ其趣旨ニ従ヒ善処セラル

 前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。

 午後になるとようやく閣僚が集まりはじめ、午後9時に後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした。その後、閣議が開かれて午後8時40分に戒厳令施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた昭和天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。行政戒厳であった。

 午後9時、主立った反乱部隊将校は陸相官邸で皇族を除いた
 荒木・真崎・阿部・林・植田・寺内・西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。
 蹶起者に同調的な将校の鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉が列席した。
 磯部は手記においてこの時の様子を親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという『好意的な様子を看取できた』としている。
 「緒官は自分を内閣の首班に期待しているようだが、第一自分はその任ではない。またかような不祥事を起こした後で、君らの推挙で自分が総理たることはお上に対して強要となり、臣下の道に反しておそれ多い限りであるので、断じて引き受けることはできない」と
 真崎はいった。

 夜、臨時の陸軍省参謀本部がおかれた憲兵本部で、
 橋本欣五郎大佐が
 「陛下に直接奏上して反乱軍将兵大赦をお願いし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する」ことを提案すると、
 石原莞爾大佐はこれを受け入れ、ただちに杉山元参謀次長の了解をうけた。

 東京陸軍幼年学校の校長だった
 阿南惟幾は、事件直後に全校生徒を集め、
 「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」
 と、極めて厳しい口調で語った。
ーーー
 ・・・「農民の救済を唱え、・・・・」とは、「阿南惟幾」は「農民の苦しみ」を知っていた、と言うこと、か?・・・「政治の予算と分配」が「軍人」によって左右されていた時期に・・・「軍服を脱いでからにしろ」とは・・・
ーーー27日
 午前一時すぎ、
 石原莞爾、満井佐吉、橋本欣五郎らは帝国ホテルに集まり、善後処置を協議した。
 山本英輔内閣や蹶起部隊を戒厳司令官の隷下にいれることで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えた。

 午前三時
 戒厳令の施行
 戒厳司令部が設立
 東京警備司令官
 香椎浩平中将が戒厳司令官
 参謀本部作戦課長で討伐を主張していた
 石原莞爾大佐が戒厳参謀に任命
 戒厳司令部の命令「戒作命一号」
 反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。

 「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、天皇の怒りはますます高まり、
 午前8時20分
 「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。

 本庄繁侍従武官長は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上したが、これに対して
 天皇
 『朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ』と一蹴した。
 奉勅命令は翌朝5時に下達
 天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただた。
 本庄はこの日だけで
 十三回も拝謁する。

 午後0時45分に拝謁に訪れた
 川島陸相に対して天皇は、
 『朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ』
 『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ、此レガ鎮定ニ当タラン』と
 強い意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を繰り返した。

 午後一時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出。
 午後二時
 陸相官邸で真崎・西・阿部ら三人の軍事参議官が反乱軍将校と会談
 この直前、反乱部隊に
 北一輝から
 「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」
 「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。
 真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ、原隊復帰をすすめた。 相談後、
 野中大尉が
 「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った。
 午後四時二十五分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。
 秩父宮弘前より上京(午後五時上野着)。
 午後七時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として
 小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)。
 夜、
 石原莞爾
 磯部と
 村中を呼んで、
 「真崎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる」
 と言った。
ーーーーー
 ・・・石原莞爾の磯部と村中に云った
 「・・・我々が昭和維新をしてやる」
 の「昭和維新」とは「敗戦」と言うことだったのか・・・?
 「平成維新」はあり得るのか・・・
 「敗戦後」の「日本国憲法」下の「日本国」は
 フランス革命アメリカ市民(南北)戦争、ロシア革を
 ハルかに超えた
 「国際的なプチブル革命」であった・・・
ーーーーー
 「2・26」の翌年
 1937年7月29日(昭和十二年)
 通州事件
 「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)が日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を襲撃
 虐殺の犠牲者は当時の
 支那駐屯軍司令官
 香月清司中将の
 『支那事変回想録摘記』では
 日本人104名と朝鮮人108名であるらしい。
ーー
 ・・・「国家間戦争の発端」とは「利権、権益」の「損得勘定と感情」である。トバッチリを受けて殺される人間はタマランだろう・・・