1060日目・・・「動物たちとの2万年(15:30)」、北海道蝦夷の円形黒曜石・・・以下はウイッキペデアから「テン(貂、黄鼬、 Martes melampus)は、哺乳綱ネコ目(食肉目)イタチ科テン属に分類される食肉類」、三重県伊賀地方では「狐七化け、狸八化け、貂九化け」といい、テンはキツネやタヌキを上回る変化能力を持つという伝承がある。秋田県や石川県では目の前をテンが横切ると縁起が悪いといい(イタチにも同様の伝承がある)、広島県ではテンを殺すと火難に遭うという。秋田県北秋田郡地方では、モウスケ(猛助)

 「鳥山石燕」の妖怪画集『画図百鬼夜行』には「鼬」と題した絵が描かれているが、読みは「いたち」ではなく「てん」であり、イタチが数百歳を経て魔力を持つ妖怪となったものがテンとされている。画図では数匹のテンが梯子上に絡み合って火柱を成しており、このような姿に絡み合ったテンが家のそばに現れると、その家は火災を遭うとして恐れられていた。
 「キテン」の毛皮は特に優れていて、最高級とされる。そのため、「テン獲りは二人で行くな」ということわざが猟師に伝わっている。
 ・・・高価で売れるので、一方がもう一方を殺しかねないという意味である・・・「人間」って、欲張りであるナッ・・・「鹿の駆除」も人間の勝手だがネッ・・・実際に「鼬(いたち)=鼠+由」も「てん(貂=糸+刀+口、黄鼬=廿+田+ハ+鼠+由)」も見たこともないが・・・語源は何か?・・・当て字の「カンジ」仮名だろう・・・
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 ・・・前回「獺・川獺・かわうそ」からだったが、「ラッコ」は漢字では「海獺、猟虎」と記される。「海(うみ・カイ)の獺(かわうそ・ラン・ライ)」、「猟(かり・リョウ)の虎(とら・コ)」である。以下は例の如く「ウイッキペデア」からの抜粋であるが、この「文章」と「数字」を「現存古事記」と「対比」して考えてみたい・・・のだが、その前に以前にも記したが「カンガルー」とは「知らない(gangurru)」の現地人のコトバであったカナ・・・面白いのだが「カンガルーという語がはじめて記録されるのは、ジェームズ・クック(James Cook・1728年10月27日〜1779年2月14日)は、英国の海軍士官、海洋探検家、海図製作者・、1755年に英国海軍に水兵として志願、七年戦争に参加。1757年に士官待遇の航海長に昇進・クックは南方大陸探索の命を受けて、英国軍艦エンデバー号を指揮し、1766年に第一回航海に出帆・第3回航海途上、ハワイ島先住民との争で1779年死亡・通称キャプテン・クック(Captain Cook)」の最初の航海について記述したジョセフ・バンクス(王立協会会長を務めた貴族)の文章で、このときは「Kangaru」と綴られた。元々はグーグ・イミディル語で灰色のカンガルーの意味であったが、すぐにカンガルー全体を示す英語として使われるようになった」とある・・・「カンガルー(kangaroo)は、もともとカンガルー(跳ぶもの)を指した現地語 gangurru が変化したもの」であるとの説明もあった。「グーグ・イミディル語」は、ボク的には「偶有具・遇有虞」の「意味出意(異)留」であるのだが・・・「カンガルー(英語: kangaroo)・有袋類カンガルー目・カンガルー科に分類される」が、「別の分類ではネズミカンガルー科 Potoridae をカンガルー科カンガルー亜科 Macropodinae(先の分類でのカンガルー科)とネズミカンガルー亜科 Potorinae に分ける・オーストラリア大陸タスマニア島ニューギニア島に生息・大型の(狭義の)カンガルー、小型のワラビー、樹上性のキノボリカンガルーなどがいるが、同じカンガルー属 Macropus にオオカンガルーもアカクビワラビーも中間サイズのワラルーもおり、大型カンガルーとワラビーの区別は分類学的なものではない」・・・この「ワラビー」も語源はナンだろう。これもボク的には「蕨(わらび・和良比・話等備・話等尾)の意」となるのだが・・・「倭等備」、「薇=ぜんまい=発条」、本、当・・・「こうじき」・・・カンガルー、ワラビーの「嬰児」は、マルで生きている「勾玉・まがたま」である。「御玉杓子」は「カエルのコ」であるが、「アラビア数字」の字形、「6」と「9」で、「69→六九→陸玖」は「蟹座のサイン」で「蟹=解+虫」である。「6+9=15=壱拾五→一足伍」で、「6×9=54=五拾四→伍足肆」である。「肆(四)」は「つらねる・つながる・みせ」である・・・「四」に類字なのは「罒(あみ・モウ)=網・羅」と「皿(さら・ベイ)」だが、「罒」を立てた漢字が「目」である・・・回りくどい「目」への到着だが、「目クジラを立てる」の「目クジラ」の「クジラ」は「クジル」の変化らしい。ボク的には本、書籍、辞書、辞典、字引の頁(ページ)を「捲る(めくる)」の「メクジル」である。そして「女鯨(めくじら)」とは「鯢=魚+兒(臼+儿)」である。「臼の儿(人・ひと・ジン・ニン)」で、「杵(きね)」と、ペァの「臼(うす・キュウ)」が「窪(くぼみ・凹・♀・牝・雌・U)を有する」からである。では「鯨=魚+京」の「京=亠+口+ハ+亅(J)」が「牡(雄・男・♂)クジラ」なのかは「分解の字」が示すとおりである。そして「目クジラを立てる」とは「些細のことで文句タラタラ」の「状態、表情」で英語の「トリフル(?)trifleの意味」は「つまらないもの・ささいな事・stick at trifles つまらない事に拘泥(こうでい)する.The merest trifle makes me angry. ごく些細なコトに怒る」であった。「mere(メレ)」は「mer・est」は「比較級なしの形容詞で、ホンの、単なる、マッタクの、只(タダ)の…にスギない」である。「the merest」は「ホンの些細な、愚にもつかない」であり、「a mere conjecture→単なる推測」であるらしい・・・
 辞書「globe」の「グロベ?」は「球・球体・地球儀・天体儀・地球・天体・太陽・惑星・球状のもの・ランプの傘(かさ=笠・暈・嵩)であった。「グロビウス=Globius」とは「高橋景補保」の「洗礼名?」であった、カナ・・・夜に目が利くトリはフクロウ(梟・蚯蚓句)で、夜行性のケモノはムササビ(鼺鼠)とモモンガ(鼯鼠)。ネズミ目(齧歯目)リス科モモンガ亜科に属する。「野臥間、野衾(のぶすま)」という異名があるらしい。どちらにしても「齧(カジ)る歯(ハ)の目(メ)」である・・・「鼺=鼠+三田(田+田+田)」と「鼯=鼠+吾(五+口)」で漢字が異なる・・・三田と云えば「慶応大学」、吾(われ)とは「我」で「我妻」か「蘇我」の示唆であろう。「吾の妻」にしたいのは「津田英学塾(1933年の名称)」の英語堪能な女性であろう・・・だが、「我妻榮(わがつま さかえ・1897年(明治三十年)四月1日〜1973年(昭和48年)10月21日・山形県米沢市出身・民法学者・従二位・勲一等旭日大綬章・法学博士(東京大学)」と言う・・・あやしいネズミがいた・・・
 兎に角、「目」は「分類上の区別」として「科目」である・・・カンガルーもワラビーも「有袋類(ユウタイルイ)」である・・・「ゆうたい」の「たぐい」・・・
 で、「クック船長の航海目的(1768年英国出帆、南米大陸南端ホーン岬を東から西に周航、太平洋横断して西進、天体観測の目的地タヒチに1769年4月13日到着)」は、「金星の日面通過(6月3日)」の観測であった。
 観測は、天文学者チャールズ・グリーン。金星の太陽からの距離をより正確に算出するための測定。金星の日面通過の観測当日、クックの「タヒチ」での記録は
 「6月3日土曜日・・・ソランダー博士とグリーンと私は同時に観測したが、それぞれが観測した接触時刻は思っていたよりもかなりズレていた」で、あった・・・「ズレた」のさ・・・「ズレ」ないで、執着して「年代月日の数字記録」しているのは「日本の歴史記録」である・・・「11」、「22」、「33」、「44」、「55」、「66」、「77」、「88」、「99」、「10」・・・
 「ラッコ(うみうそ)」、「かわうそ」もズレる・・・時代が・・・最初の上陸の際に、クック一行はオーストラリア先住民の「アボリジニ」と接触したのは
 1770年6月11日
 グレートバリアリーフの浅瀬に
 エンデバー号が乗り上げ大破
 砂浜で修理が行われ
 航海は
 七週間の遅れを生じた
 エンデバー川の河口(クックタウンの船着き場の近く)
 その間、バンクス、スペーリング、ソランダーは
 オーストラリアの植物の最初の大規模な採集
 乗組員と当地のアボリジニの人々との遭遇はおおむね平和的であった
 アボリジニが話した
 オオカンガルーを指す
 Guugu Yimidhirr語
 方言
 gangurru から、
 「カンガルー」が英語の仲間入りをした
  既に日本人は日本語で「考える」と言うコトバを有していた。
 1770(明和七年庚寅)年6月11日とは
 1770年〜1827年は、
 第十代将軍・家治と
 第十一代将軍・家斉
 老中・田沼意次
 やその後
 松平定信
 幕政
 五月二十三日(四月二十八日)
 第117(壱百壱拾七)
 後桜町天皇(女帝)が
 在位九年後、
 甥である後桃園天皇に譲位して上皇となった
 第118(壱百壱拾八)
 後桃園天皇即位
 宝暦八年七月二日(1758年8月5日)〜
 安永八年十月二十九日(1779年12月6日死去)
 十一月九日(12月16日)譲位日
 諱は英仁(ひでひと)
 記録上の在位日が急逝で、崩御後も続く
 「尊号一件
 第119(壱百壱拾九)
 光格天皇明治天皇は曾孫=曾孫=ソウソン・ひいまご→非違孫?)は
 典仁親王の子であったが、
 後桃園天皇に皇子がいなかったので養子となって即位
 実父よりも上位なってしまった
 禁中並公家諸法度における
 親王の序列が摂関家よりも下であり、
 天皇の父が臣下である摂関家を目上としなければならない事に天皇は不満
 光格天皇は実父典仁親王に対して太上天皇上皇)の尊号を贈ろうとした
 1788年(天明八年)
 公家の中山愛親らが幕府に通達
 老中
 松平定信は皇号を贈るのは先例が無いと反対
 朝幕間の学問的論争に発展
 1791年(寛政三年)12月
 天皇は「群議」を開き、
 参議以上
 40名の公卿のうち
 35名の賛意を得て尊号宣下の強行を決定
 鷹司輔平は兄の典仁親王の身にも危険が及ぶと考え、
 典尊号を断念し仁親王の待遇改善を求めた
 定信も典仁親王
 1000石の加増をする等の
 待遇改善策を行うことで
 尊号の代償とした
 七月七日(六月十五日)
 鈴木春信死去、浮世絵師・1725年誕生
 ・・・・この時代に日本人が「かわうそ=獺→ラッコ=lutris」のコトバを知っていたのは「蘭学者」であろうが「Lutra→ル・トラ」、「lutris→ル・トリ・ス」・・・「虎(寅(イン)→捉)を留める」、「鳥(酉(ユウ)→取)の巣」・・・
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 原文添付
ラッコ - Wikipedia
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 ラッコ(海獺、猟虎、学名:Enhydra lutris、英語名:Sea otter)は、食肉目(ネコ目)- イヌ亜目- クマ下目- イタチ科- カワウソ亜科- ラッコ属に分類される、中型の海棲哺乳類(1種)。本種のみでラッコ属を形成する。イタチ科のうちで水棲に進化したのがカワウソ類(カワウソ亜科)であるが、その中から海洋に進出して、陸に依存しないでも棲息可能なまでの本格的な適応を遂げた唯一の現生種が、ラッコ属であり、ラッコである。
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 学名ラッコ
 最初の学術的な記録は、
 博物学者ゲオルク・シュテラーの
 1751年の
 フィールドノートに記されており、
 学名は
 1758年
 博物学者カール・フォン・リンネ
 『自然の体系 (Systema Naturae) 』に記載された
 元々の学名は
 Lutra marina (海のカワウソ)
 転々と有効名を変えた後、
 1822年
 Enhydra lutris が
 受け入れられた

 属名
 Enhydra は
 古典ギリシア
 εν 「〜の中で、中に」 + ὕδωρ 「水」の合成
 種小名
 lutris はラテン語で「カワウソ」を意味する
 lutra
 「カワウソのような水中のもの」
 といった意図の命名であると思われる。
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 日本語名
 現在の標準和名
 「ラッコ」は、
 近世の日本における標準的な
 「本草学名」に由来し、
 さらにそれは
 アイヌ語で本種を意味する
  "rakko"
 にまで起源を辿れる。

 日本語以外の
 諸言語名
 英語では
 sea otter(海のカワウソ)の名が一般的慣用
 1655〜1665年初出)
 学術的に用いられることが多いのは
 sea beaver(海のビーバー)
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 分布
 日本の
 択捉島東部、
 千島列島、
 アラスカ、
 カリフォルニア州などの
 北太平洋沿岸に生息
 分布の
 北限は北極海の氷域
 南限はカリフォルニアの
 オオウキモの分布の南限と一致
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形態
 ラッコの前肢
 体長約55〜130cm、
 尾長約13〜33cm、
 体重約15〜45kg
 イタチ科最重量種
 尾は短く扁平
 尾の基部には臭腺(肛門腺)を持たない
 体毛密度が高く、哺乳類のなかでも最も高い
 八億本もの体毛が全身に生え
 これは
 6cm²の皮膚に
 ヒトの
 頭髪すべてが生えているのと
 同等
 「綿毛」と呼ばれる柔らかい
 下毛が1cm²あたり10万本以上密生
 背面は濃褐色、
 頭部は淡褐色の体毛
 吻部には洞毛が密生
 幼獣は全身が
 黄褐色、
 亜成獣は全身が
 濃褐色の体毛で被われる
 前肢は短く、
 後肢は大型
 指趾の境目は不明瞭で、
 後肢は
 鰭状になる
 大臼歯は大型で丸みを帯び、
 固い獲物を噛み砕くことに適している
 水分は海水を飲むことで補い、
 浄化のため
 腎臓の大きさは
 カワウソ類の平均的な大きさの
 2倍にもなる
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海岸から10km以内の沿岸域に生息する。陸上に上がることは稀であるが、天候が荒れた日には上がることもある。数十頭からなる群れを形成し、生活する。昼行性で、夜間になると海藻を体に巻きつけて海流に流されないようにして休む。防寒効果を維持するため、頻繁に毛繕いをし、毛皮を清潔に保っている。幼獣の毛繕いは母親が行う。

食性は動物食で、魚類、貝類、甲殻類、ウニなどを捕食する。海中で獲物を捕らえ、水面まで運んでから食べる。貝類を食べる際には胸部に石や別の貝類を乗せ、それらに貝殻を打ちつけ叩き割ってから下顎の門歯で中身をこじ開けて食べる。サル目を除いた哺乳類では本種のみ道具を使う例が報告されている。亜種カリフォルニアラッコでは道具を使い貝類を割る行動が比較的確認されているものの、主に柔らかい獲物を食べる亜種アラスカラッコでは道具を使って貝類を割ることは稀とされる。なお、動物園などで飼育されているラッコの場合は自然界には無い道具を使用するほかに水槽のガラスに貝殻を叩きつけることも確認されており、日本の豊橋総合動植物公園では強化ガラスを叩きつけすぎて強化ガラスにヒビが入った例も確認されている。また貝類を食べる際の石等の道具や食べ切れなかったアサリ等はわき腹のたるみをポケットにして、しまいこんでおく癖がある。

ラッコが長く生息する海域ではウニが食い尽くされて、主に貝類を捕食するようになるといわれる。そういった生態から漁業被害を訴えられることもあるが、ウニが増えるとコンブなどの海藻が食い尽くされる弊害があり、ラッコが生息することでそれを防ぐ効果もある
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 毛皮が利用されることもあった。18世紀以降、ロシア人が極東に進出してきた理由の一つに本種の毛皮採集が挙げられる。 毛皮目的の乱獲により、20世紀初頭にはラッコの個体数は絶滅寸前にまで減少した。アラスカではカリフォルニアアシカが乱獲などによって激減したことで、それを主要な捕食対象としていた当海域のシャチが食うに困って対象をラッコにシフトし、これによって90%近くを捕食してしまうという事態も起きた。 その後、野生生物に対する意識が保護へと大変換する時代に入ると、ラッコは1911年に締結された国際的な保護条約(猟虎及膃肭獣保護国際条約)の対象となり、以後は生息数を徐々に回復していった。
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 日本における人間との関係日本では平安時代には「独犴」の皮が陸奥国の交易雑物とされており、この独犴が本種を指すのではないかと言われている。陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。江戸時代の地誌には、三陸海岸の気仙の海島に「海獺」が出るというものと、見たことがないというものとがある。かつて千島列島や北海道の襟裳岬から東部の沿岸に生息していたが、毛皮ブームにより、H・J・スノーらの手による乱獲によってほぼ絶滅してしまった。このため、明治時代には珍しい動物保護法「臘虎膃肭獣猟獲取締法(明治四十五年四月二十二日法律第二十一号)」が施行されている。
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