1044日目・・・「いなめない」・・・「辞めない・否めない」・・・「以名目納意」・・・「因幡・稲場・稲葉」・・・「赤米(あかごめ、あかまい・玄米の種皮、果皮の一方、主に種皮にタンニン系の赤色色素を含む品種の稲米・中国では紅米と呼ばれる・野生種の殆んどは赤米・古代米は赤米種・明治期に石狩平野の泥炭地を開発する際に青森から赤米品種の赤室が持ち込まれた。赤米は下等米で下級階層の食料だった)」、「稲妻(雷電・電光)」、「稲目(蘇我稲目)」、「久留米」、「赤古目」、「赤目」の「シロウさぎ」・・・「知ろう詐欺」・・

 ボクが書いた「小説」は1977、8年頃、アメリカ滞在中の暇な時間に書き始めたモノだが、現地での日本語資料はロスの「ヒノモト文庫図書館」だったが、「松浦武四郎」と言う人物の資料もなく、本屋で人名辞典を立ち読みするまで知らなかった。
 雑ッい「小説、作文」であるけれど、興味があれば、どうぞ以下の「碧き眼の人形」へ
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http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/blue/bluem.htm
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 ボクは北海道、蝦夷地に生まれていたのに・・・アイヌ語だって、小さい頃に「雪村いづみ」さんが唄っていた「ピリカメノコ」ぐらいしか知らなかったが、北海道の「アイヌ語地名の漢字当て字」は殆んどが「松浦武四郎」によるものである・・・美唄(びばい)、光珠内(こうしゅない)、茶志内(チャシュナイ)・奈井江(ナイエ)・・・・1844年、二十八歳のときにから6回も蝦夷地に渡った人物・・・五十二歳、蝦夷地開拓判官・・・
 松尾芭蕉本居宣長も、三重県の人物で、松浦武四郎もきっと「忍者・お庭番の末裔系譜の人物」であろう・・・
 二十八は「稗田阿礼の年齢」、「宿曜経の二十八宿
 六は「陸・陸奥
 蝦夷は「渡島」
 五十二は「五拾弐」、「語重似」
 三重県は「やまとたける(倭建・倭男具名)」
 松尾芭蕉は「俳諧師
 本居宣長は「古事記伝
 ・・・「ウソ・イツワリ・サギ・キョギ」に関する「英語」の類語を「和英辞典」か「英和辞典」を調べればワンサカ、それに「ヨコシマ」の「漢字」を調べればワンサカ・・・である・・・
 イズレの「ショコッカ・カッコク」もコレラのコトバがなくてはイッチもニッチもいかないシステムである・・・目的は「ヌスム」と言う基本、基盤であるから・・・
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 ウイッキペデアを調べれば・・・
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 以下に参考参照を抜粋したモノを添付する
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 山本亡羊に
 本草学を学んだ
 天保九年(1838年)に
 平戸で僧となり
 文桂と名乗る
 弘化元年(1844年)に
 還俗し蝦夷地探検に出発
 探査は
 択捉島
 樺太にまで及んだ
 安政二年(1855年)に
 蝦夷御用御雇に
 抜擢され
 再び
 蝦夷地を踏査
 「東西蝦夷山川地理取調図」を
 出版した
 明治二年(1869年)
 開拓判官となり、
 蝦夷地に
 「北海道」の名を与えた
 アイヌ語の地名をもとに
 国名・郡名を選定
 明治三年(1870年)に
 開拓使
 批判して職を辞す
 明治二十一年(1888年)
 七十一歳で
 東京
 神田
 五軒町の自宅で亡くなる
 明治三年(1870年)、
 北海道人と号して、
 「千島一覧」という
 錦絵を描く
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 明治十八年(1885年)
 六十八歳より、明治七年(1874年)に共に北海道を探索した
 「富岡鉄斎
 (安政二年・1855年・十八歳頃、女流歌人大田垣蓮月尼に預けられる・彼女の実父は伊賀国上野の城代家老藤堂良聖・生後十日で京都知恩院門跡に勤仕する大田垣光古(もとは山崎常右衛門)の養女となった。養父の光古は因幡国出身)」
 からの影響で
 奈良県
 大台ケ原
に登り始め、
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 大台ケ原の
 位置は
 三重県
 多気
 大台町
 北緯
 34度11分07秒
 東経
 136度06分33秒
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 自費で
 登山道の整備、小屋の建設
    ↑
なぜ、奈良県の大台ケ原に登ったのか?
 大台ヶ原山(おおだいがはらやま)は
 奈良県
 吉野郡
 上北山村
 同郡川上村
 および
 三重県
 多気
 大台町旧宮川村に跨って座す山

 「台(ダイ・タイ)=臺=吉+冖+至」は訓読みで「うてな・もと・たかどの・つかさ・よろこぶ・われ・やしなう・あたえる」で、「御史台、尚書省、その高官」、「他人の尊称」、「塔・櫓・砦=塞」「うてな」は「萼」とも書き「花の萼(がく)」である。「臺」を更に分解すれば
 =「十+一+口+冖+一+ム+十+一」
   重る壱の口(口・国)の倭の始めは横島が重一
 「一」=「壱」=「壹」
 「ム」=「私」=よこしま→「邪」
 北海道の「茶志内(チャシ−ナイ)」は「カタカナ現住所」では「チャシュナイ」である。正確に言えば「チャシ・ナイ」であろう。「チャシ」は「砦(とりで)」で、「ナイ」は「川・沢」である。
 「奈井−江(ナイ−エ)」ならば「沢、川」の「エ」だが、アイヌ語では「ナイ」は殆んど「---の内(ナイ=小川)」と付く・・・では、「奈-井江(ナ−イエ→イワ?)」ならば「ナ」の「山・丘」だが・・・「エ」も「ナ」もそれ自体のアイヌ語の単語にはないらしい・・・「音」が先行し、その「音のアイヌ語の意味」を考慮し、意味も重ねるように「同音の漢字」を当てたと思うが・・・多数の「同音異議の漢字」からアイヌ語と同義、同音を選択するのにはそう無理はなかったであろう・・・これは「古代日本語の音」に、その意味の有る同義同音の漢字を選択し重ねたのではないか、と言う考えである・・・
幕末に「アイヌ語辞典=藻汐草」として作ったのはナゼか、その人物の名前が「阿部長三郎」であった。実物も現存する。ブログ検索では早稲田大学図書館所蔵「上原熊治郎 通辞 ; 阿部長三郎 支配・モシオグサ」とある。

 北大の研究ブログには

 一冊本では題に「毛し本草」,序に「藻汐草」とあり,二冊本では題に「蝦夷方言藻汐草」,内題に「蝦夷方言藻汐草」,序に「藻汐草」
 蝦夷方言跋
 蝦夷地東西の諸島を廻るのあいだ蒡午の遑を忍むで方言を書あつめたれども里人の音韻を聞得ざることも少なからず且記すに倭字を用ゆる軌に当らざることも多し極めて誤あるべし訂さんと欲すれど東西千里再問すること甚難し後来同志の友是を正さんことを願ふのみ
 寛政四年五月四日
 通辞上原熊次郎
 支配阿部長三郎

とある・・・これを「日本語の音声」に重ねるのには無理がある。「漢字モ字」の意味を採った「同音漢字」を「一文字一文字」として重ねるなら可能であろうが・・・では「茶志内(チャシナイ)」の「茶の志」が「砦・塞・山城」と重なるだろうか・・・「茶=(サ+ハ+ホ)→(++人十ハ)」の「士(十一)の心(此処賂)」→「狭環保」、「佐輪補」・・・稲城の火責めの中で死んだ「佐波(遅媛)・佐和(知姫)」は「垂仁天皇の妃(后・皇后)」だった。「沢=澤→茶話」・・・「澤」の類字は「訳・譯(ヤク・わけ・とく)」であるが・・・
ボクの「妄想」だけれどね・・・とにかく、日本では「音声が先」にあり、「漢字文字が後続伝播」され、重ねられたのだ。これは「同音同文字の発祥源」とその周辺地域への「異音文字伝播」が「同音同義文字」と使用される必然である。しかも「漢字」は「象形文字」を基本とした目で、その意味を確認できる「表意文字」である。「音声」のアルファベットを組み合わせた「横文字」よりもはるかに理解しやすい。さらに「和漢混合文+カタカナ文(外来語)」とした「日本人」の「理解力」は抜群であるはずだが・・・問題は「アイヌ語」に「漢字」を当てた「松浦武四郎の意識の問題」である。「別=大川」、「内=小川」、「川」が「別(ベツ)・内(ナイ)」と「当て字」されたのは「土地区分の境界線」の「分別・区別」、「領内・区内」、内外の「弁別・内方」でもあるからだ。近世、近代、現代ならば地球区分は地図上の「緯度・軽度」であるのだが・・・万(萬)国地図・・・

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 太安万侶(おお の やすまろ)
 生年不詳〜
 養老七年七月六日
 (723年8月11日)は、
 奈良時代の文官
 名は
 安萬侶、
 安麻呂とも記される
 姓は
 朝臣
 多品治の子とする
 後世の系図がある
 官位は
 民部卿
 従四位下
 贈
 従三位
   ↑
 1979年(昭和五十四年)1月23日、奈良県橿原考古学研究所より、
 奈良県
 奈良市
 此瀬町の
 茶畑から
 安万侶の墓が発見され
 (北緯34度39分55.0秒
  東経135度54分25.0秒)、
 火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土したと発表された。
 墓誌の銘文は
 二行
 四十一字。
 左京の
 四条四坊に居住したこと、
 位階と勲等は
 従四位下勲五等だったこと、
 養老七年七月六日に
 歿したことなど記載。
 墓誌銘全文引用は以下の通り。

 左亰四條
 四坊
 従四位下
 勲五等
 太
 朝臣
 安萬侶
 以
 癸亥年
 七月
 六日
 卒
 之
 養老七年
 十二月
 十五日
 乙巳

911年(明治四十四年)三月十三日
 贈
 従三位
 追陞
(ついしょう)される

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 小治田(おはりだ)
 安萬侶(やすまろ)
 生年不詳〜729年3月13日(神亀六年二月九日没)は蘇我稲目の後裔にあたる
 奈良時代の役人で、文武から聖武まで四代の天皇に仕えた。
 『続日本紀』には
 719年(養老九年)に正五位上に叙されたとの記事があり、亡くなった時の位は従四位下であった。

 1912年
 (明治四十五年)、茶畑の開墾中に偶然木櫃が発見され墓誌三枚が出土した。1951年(昭和二十六年)に改めて発掘調査が行われて火葬墓であることが確認された。

 墓地は
 都祁水分神社がある
 丘陵の
 南斜面につくられており、
 墓誌の他に
 木櫃と副葬品の三彩の壷、銀製の和同開珎、須恵器、土師器が出土したほかに、
 双獣双鳳文鏡1面も同墓の出土品として伝わっている。火葬は墓のすぐ近くで行われ、木櫃は1辺約3.6mの正方形の穴の中に炭と礫が敷かれた上に置かれていた。
ーー
 なお、
 同じく
 墓誌が発見されている
 太安万侶は、
 名前が
 同一であるが
 小治田安萬侶とは
 別人である。
 同時代の文官ということもあって、
 よく混同される。
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 墓誌は金銅製で銘文は以下の通り
 左琴神亀六年二月九日
 右京三條
 二坊
 従四位下
 小治田(おわりだ)
 朝臣
 安萬侶
 大倭國
 山邊郡
 都家郷
 郡里崗安墓
 神亀六年
 歳次
 己巳
 二月
 九日
ー 
 右書
 神亀
 六年
 二月
 九日

 左琴と右書の銘文が内側に向かうように、木櫃の中の両側に立てかけられていたと言い伝わっている。
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 遺骨は、
 武四郎が最も好きだったという
 西大台
 ナゴヤ谷に
 1889年に建てられた
 「松浦武四郎碑」に
 分骨
 生地の
 三重県
 松阪市
 小野江町には
 「松浦武四郎記念館」が建っている
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