1045日目・・・「おわり・なごや」は「シロ」で持つ・・・この「シロ」は「城・白・代」に掛けられ、コトバとしての「詞賂・誌賂・史賂」で、「黒い金属を磨(みがく・マ)いて白(しろ・ビャク・ハク)」にするのは「刀(かたな・トウ)・刃(やいば・は・ジン)」、それとも「写真の乾板」、「軍艦の甲板」、「統帥権の干犯」、そして「孔子の六番目の弟子」、「人名」としての「仲由=子路=季路(五十一歳)に字を季路に改めた」ではないのか?・・・「一本気で勇敢な子路・即断即決の人」・・・

 参考は以下に断りも無く添付させて頂きました。申し訳ありません・・・「疑義のある記録文書解読」のお助けと思って・・・お許しください・・・
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http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/deshiichiran3.htm
(対機説法)先進第十一

子路問、聞斯行諸。子曰、有父兄在、如之何其聞斯行之。
冉有問、聞斯行諸。子曰、聞斯行之。公西華曰、由也問、
聞斯行諸、子曰、有父兄在。求也問、聞斯行諸、子曰、聞斯行之。
赤也惑、敢問。子曰、求也退、故進之。由也兼人、故退之。

(政)子路第十三
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子路問政。子曰、先之勞之。請益。曰、無倦
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 「シロ、トウ」、「シ、イワク」と、更に「人物名」を問いたい、と、考えているのは「おわり・おわりだ」と「やすまろ」に類似する「ナマエ」です・・・前回に「麻呂(まろ)」は「我等・吾等・私等・自分等」の「人称代名詞」であるらしいことをチョット記したが、ボクの学生時代に関西の友人はボクとの会話で「自分・自分等」を連発していたが、会話で「自分」と発する言葉は関西では「二人称」であるらしく、「お前・お前等」を意味していた・・・彼との会話の度に彼自身を指している自称のことなのか、ボク自身を指しているのか随分と混乱したのだが・・・以下はこれもスベテ、ブログを検索して参照、参考にした人名、地名です・・・申し訳ない・・・
 一般的に知られている人物は2、3人であろう・・・
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 尾張(おわり)
 名古屋(なごや)
 小治田(お はりだ)の
 安麻呂(やすまろ)

 小治田安麻呂
 小治田東麻呂
 小治田広耳
 小治田 諸人
 大伴 安麻呂
 太  安麻呂
 出雲 安麻呂
 橘  安麻呂
 蘇我 安麻呂
 阿倍 安麻呂
 板茂 安麻呂

 おはりだ
 小墾田
 小治田
   ↑
 大和の古地名
 現在の
 奈良県
 高市
 郡
 明日香
 村付近
 推古天皇の皇居

 小墾田宮(おはりだのみや)
 飛鳥時代
 推古朝
 および
 奈良時代
 淳仁
 称徳朝の宮殿
 「小治田宮」とも書く。
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 『日本書紀
 天武天皇
 十三年
 十二月
 二日条
 小子部連は
 小子部
 (子部の一つで宮中の雑務を務めた品部)の
 伴造家
 多氏(多臣)の一族を称した
 天武朝において嫡流
 宿禰姓に改姓
ーー
 尾張(おわり)
 小子部 鉏鉤
 (ちいさこべ の さひち・ちひさこべのさひち)
 生年不詳〜
 天武天皇元年(672年七月または八月)
 姓(カバネ)は連
 672年の
 壬申の乱のとき
 尾張 国司
 大海人皇子天武天皇)に味方
 内乱集結後に
 自殺
ーー
 持統天皇
 文武天皇に位をゆずった後の
 大宝二年(702)
 十一月
 十三日
 尾張国
 尾張
 若子麻呂・牛麻呂に
 宿祢性を賜った。
 国守従五位下
 多治比真人水守に
 封一十戸

ーー
 尾張国
 多治
 比
 真人
 水守と
 面会
 『続日本紀

 ・・・「多治比=タジヒ」とは「多くを治め比べる」か、「治」の音を採って異字にすれば「多字比」で「多くの字を比べる」、「多くの慈悲・自費」である。
 「おおはる」と言う地名も愛知にはある。「愛知県海部郡大治町」の「大治(おおはる)」である。名古屋市に隣接している。
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 多治比真人嶋
 多治比真人嶋
 (たじひ・まひと・しま・624〜701)
 嶋の次男
 「水守(みずもり)」
ーー
 「水主」と書いて「かこ」と読ませている場所も名古屋にある。「名古屋市水主町」である。そして「加古」は「過去」で、「賀古←古賀」である・・・「古賀謹一郎」は「蕃書調所(蛮書調所・ばんしょしらべしょ・1856年・安政三年)開所の頭取である・・・
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 多治比(丹比)真人(たじひ・まひと)
 多治比真人嶋(たじひ・まひと・しま)は
 朝廷から
 文武四年(700)正月十三日
 老齢と勲功をねぎらい
 「霊寿の杖」と
 「輿」
 および
 「供人(従者)」を授与される
ーー
  ↑
 人麻呂の「死」に関する歌を「万葉集」に残した?
 多治比真人三宅麻呂の歌?
  ↓
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 万葉集巻二、
 223〜227に
 柿本人麻呂の最晩年の歌
 「鴨山五首」
 一連の歌の四首目
 丹比真人
 名闕(欠)く
 柿本朝臣人麻呂の意に擬へて
 報ふる
 歌一首

 荒浪に寄り来る玉を枕に置き
 吾ここにありと、誰か告げなむ
 226

   ↑
 この歌は
 多治比真人三宅麻呂の
 歌とする説があるらしく
 人麻呂の死は
 和銅二年ごろ
 敢えて名前を伏せる必要があった人物
 流罪になった三宅麻呂の可能性が大
ーーー
 天武十一年(682)〜
 神護景雲二年(768)まで
 86年間に記載される
 多治比真人一族の名
 年代順
 嶋、麻呂、池守、水守、三宅麻呂、県守、夜部、広成、 吉備、吉提、広足、占部、屋主、多夫勢、伯、国人、
 家主、牛養、祖人、木人、犢養、土作、石足、乎婆売、 若日女、犬養、礼麻呂、鷹主、小耳、長野、乙麻呂、
 伊止、古奈祢
 総計三十三人
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 ・・・それにしても、ナマエが「音」からの意味なのか、「文字」からの意味なのか、その双方なのか・・・「誕生地」、「誕生時」、「職業名」は「文字」から推察できるが・・・「小耳」は顔につく「耳の形の大小」なのか、「小耳に挟む」などと言うコトバがあるから「情報通」なのか、とにかく「33人」である・・・
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 万葉集の時代の事件  
 天武元年(672)   壬申の乱
 天武十一年(682)  大津皇子の変
 天平元年(729)   長屋王の変
 天平十二年(740)  藤原広嗣の乱
 天平宝字元年(757) 橘奈良麻呂の変
 天平宝字八年(764) 藤原仲麻呂の乱
ーー  
 最初の人物
 多治比真人嶋は
 「宣化天皇の玄孫・日本書記」
 「三代実録」によると
 宣化天皇恵波皇子−十一王−多治比古王多治比嶋
 系図である
ーー
 読めば、
 えなみ=めぐみなみ=ケイハオウジ
 とあまりひとつ=ジュウイチオウ
 おほはるひこ=タジヒコオウ
 「多治・比古・王」は「多治彦王」であろう。であるならば、「古」を欠落させた「多治比」は「多治の比」である。
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 大宝元年(701)
 正二位左大臣で死亡
 享年七十八歳
 真人の姓
 天武十二年(683)
 六十四歳の時
ー 
 「真人」は
 「天武天皇十三年(684)」に
 「八色の姓」の制定されたモノだが、
 第一真人、第二朝臣、第三宿禰、第四忌寸
 第五導師、第六臣、第七連、第八稲置
 コレ「以前」のものと比較すべきである・・・
ー  
 当時活躍していた者
 池守、水守、三宅麻呂、県守、広成、広足の
 六名
 池守は
 嶋の第一子、
 広成は第五子
 広足は嶋の子
 「続日本紀」の記録
 嶋の子
 水守が第二子、
 三宅麻呂が第三子
 県守は第四子
 らしい・・・
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 多(おおの・おほの)
 品治(ほんじ・ほむじ)
 生年不詳〜
 持統天皇十年 (696年八8月?)
 姓は
 臣、
 後に
 朝臣
 672年の壬申の乱
 大海人皇子天武天皇)側で戦い、
 莿萩野を守った

 「多品治(おほのほんじ)」は「多くの品(ほん)を治む」である。「多くのシナをハル」、これは「多くの本を修む」である。

 壬申の乱が勃発
 多品治は
 美濃国
 安八磨郡(安八郡)の
 湯沐令
 (皇子の生計を支える封戸を管理する役職)
 大海人皇子
 六月二十二日に、
 村国男依、和珥部君手、身毛広の
 三人を美濃国に先行するよう命じた
 任務は
 多品治と接触、連絡し、
 安八磨郡を挙兵させること
 美濃の兵三千が
 不破道を塞ぐ
 美濃国に入った
 大海人皇子は、
 七月二日に軍を
 数万の二手に分け
 一軍を伊勢国の大山越えで大和国へ、
 もう
 一軍を直接近江国に入らせることを命じ
 多品治は、
 紀阿閉麻呂、
 三輪子首、
 置始菟とともに大和に向かう軍を率いた
 この後、
 品治は別に命令を受け取り、
 三千の兵とともに
 莿萩野(たらの)に駐屯する
 莿萩野の位置は、
 伊賀(当時は伊勢国に属す)の北部
 大和、伊賀、伊勢、美濃と続く連絡線のうち
 伊賀を守る位置
 田中足麻呂が
 近江と伊賀を結ぶ
 倉歴道を守る位置についた。

 これに対して
 大友皇子側の将、
 田辺小隅は、
 五日に倉歴を夜襲
 守備兵敗走、足麻呂は一人逃れた
 小隅の軍は翌日莿萩野を襲おうとしたが、
 多品治はこれを阻止し、精兵で追撃
 小隅は一人免れて逃げた
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 日本書紀
 十二月四日に
 勲功の人を選び冠位を増し、
 小山位以上を与えた
 天武天皇十二年(638年)十二月十三日
 多品治は
 伊勢王、羽田八国(羽田矢国)、中臣大島とともに、
 判官・録史・工匠といった部下を引き連れて全国を巡り、諸国の境界を定めた。
 品治の位は
 小錦
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 天武天皇十三年(684年)十一月一日
 多臣など
 五十二氏に
 朝臣の姓を賜う
 天武天皇十四年(685年)九月十八日
 天武天皇は皇族・臣下と
 大安殿で博打
 このとき
 天皇
 大安殿の
 中に、
 皇族と臣下は
 殿の前に位置し
 多品治は
 天皇
 衣と袴を与えられた
 十人中の一人であった
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 持統天皇十年(696年)八月二十五日
 多品治は
 直広壱と
 物を与えられた
 品治を
 太安万侶の父とする説がある
 (『阿蘇家略系譜』)
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