1043日目・・・今日は「午後の紅茶」でムカシ、MR.島田さんに歌ってもらった演奏のテープをボクの「家頁」に貼り付けました。昨夜から今現在20時まで・・・彼、まだアメリカだと思うんですが・・・サヤミちゃん、どおしているかな?

http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/kiuta/kimitobokuno2.html
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 持統天皇(じとうてんのう)
 大化元年(645年)〜
 大宝二年十二月二十二日(703年一月十三日))
 日本第四十一代天皇
 称制
 朱鳥元年九月九日(686年10月1日)
 在位
 持統天皇四年一月一日(690年2月14日)〜
 持統天皇十一年八月一日(697年8月22日))
 諱
 鸕野讚良(うののさらら、うののささら)
 和風諡号は二つ
 『続日本紀』の
 大宝三年(703年)十二月十七日
 「大倭根子天之廣野日女尊」
 (おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)
 『日本書紀』の
 養老四年(720年)
 諡は
 「高天原廣野姫天皇
 (たかまのはらひろのひめのすめらみこと)
 『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは
 冒頭の
 第四の一書と
 この箇所のみである
 漢風諡号
 持統天皇
 淡海三船
 熟語の「継体持統」から持統と名付た
 とされる
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 ・・・
 「淡海三船(タンカイサンセン→坦懐纂撰・反解纂撰)」
 養老六年(722年)〜
 延暦四年七月十七日(785年8月30日)
 ・・・三船・・・?
 天平年間に
 唐僧
 道センに従って出家
 元開と称す
 751年(天平勝宝三年)正月二十七日、
 三十人ほどの諸王に対し
 臣籍降下および
 「真人」の賜姓が行われた際
 勅命により還俗
 淡海真人の氏姓を賜与
 御船王から淡海三船に名を改めた
 式部少丞
 786年(天平勝宝八年)五月
 朝廷を誹謗したとして
 大伴古慈斐とともに
 衛士府に禁固
 760年(天平宝字四年)正月
 正六位上
 尾張介の時、
 山陰道巡察使
 761年(天平宝字五年)正月
 従五位下駿河
 761年(天平宝字五年)正月
 文部少輔
 764年(天平宝字八年)八月
 美作守
 同年九月
 恵美押勝の乱
 三船は
 造池使として近江国にいたが、
 兵馬調達のための
 押勝の使者を捕縛、
 さらに
 勢多橋を焼き落とし、
 東山道への進路を塞いで押勝の進軍を妨害
 その功によって
 従五位下より正五位上へ昇叙
 勲三等の叙勲
 近江介に任ぜられる
 中務大輔兼侍従に転じ、
 766年(天平神護二年)九月
 東山道巡察使
 地方政治に対する検察厳格
 下野国国司たちの不正に対して、
 介だけに厳しく対処
 767年(神護景雲元年)六月
 解任
 同年八月
 大宰少弐
 道鏡失脚の翌年
 771年(宝亀二年)
 刑部大輔を経て、
 772年(宝亀三年)四月
 大学頭兼文章博士に任ぜられる
 780年(宝亀十一年)
 従四位下に昇叙
 782年(延暦元年
 因幡守を兼ね、
 784年(延暦三年)
 刑部卿に転じる
 785年(延暦四年)七月
 刑部卿従四位下
 兼
 因幡守で卒去
 享年六十四
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 石上宅嗣の卒伝に
 二人が「文人の首」と称されたとある
 『経国集』に
 漢詩五首を載せ、
 現存最古の
 漢詩
 『懐風藻』の撰者とする説もある
 『釈日本紀
 所引「私記」に
 三船が
 神武天皇から元正天皇までの
 全天皇弘文天皇文武天皇を除く)の
 漢風諡号
 一括撰進したことが記されている
 779年(宝亀十年)
 鑑真の伝記
 『唐大和上東征伝』を記した
 『続日本紀』前半の編集にも関与
ーー
 873年(貞観十五年)に
 淡海朝臣姓を賜与された、
 淡海
 浜成
 高主を
 三船の孫とする系図がある
ーー
 らしい・・・