1038日目・・・「広開土王」と「好太王」・・・391年十八歳即位、在位二十二年、412年に死去、諡号「国・岡上・広開土・境・平安・好太王」・・・「諡号」が何処に記されているんだか・・・

 好太王碑(こうたいおうひ)
 高句麗
 第十九代の王である
ーーーーー
 好太王=広開土王の業績石碑
 碑は
 好太王の業績を称えるために
 息子の
 長寿王が
 414年
 旧暦九月二十九日
 (碑文・甲寅年九月廿九日乙酉)に
 建てたもの
ーー
 1880年
 (明治十三年・光緒六年)頃に
 清の集安(中華人民共和国吉林省通化地級市集安市)
 で発見
ーー
 1881年
 関月山より
 拓本が作成された
ーー
 1884年
 (明治十七年)
 陸軍砲兵
 大尉
 酒匂景信
 (1850年(嘉永三年)〜1891年(明治二十四年))
 が参謀本部に持ち帰り解読
ーー
 1961年(昭和三十六年)
 洞溝古墓群の一部として、
 全国
 重点
 文物保護単位に指定
 好太王
 吉林省
 集安市
 好太王陵の近くに位置
 高さ約6.3メートル
 幅約1.5メートルの
 角柱状の石碑
 その四面に
 総計
 1802文字が刻まれ
 漢文での記述
 碑文は風化によって判読不能な箇所も存在
ーー
 碑文の
 墨水廓填本
 1882年頃作成
 東京国立博物館蔵碑文は
 三段から構成され、
 一段目は
 朱蒙による
 高句麗の開国伝承・建碑の由来
 二段目に
 好太王の業績
 三段目に
 好太王の墓を守る
 「守墓人烟戸」の規定が記されている
ーー
 倭に関する記述
ーー
 辛卯年条
 以下
 399年
 百済は先年の誓いを破って
 倭と和通
 王は百済を討つため
 平譲に出向いた
 そのとき
 新羅からの使いが
 「多くの
  倭人新羅に侵入し、
  王を倭の臣下としたので
  高句麗王の救援をお願いしたい」と
 願い出たので、
 大王は救援することにした
ーー
 400年
 五万の大軍を派遣して新羅を救援した
 新羅王都にいっぱいいた
 倭軍が退却したので、
 これを追って
 任那加羅
 迫った。
 ところが
 安羅軍などが逆をついて、
 新羅の王都を占領した
ーー
 404年
 倭が
 帯方地方(黄海道地方)に
 侵入してきたので、
 これを討って大敗させた
ーー
 碑文では好太王の即位を
 辛卯年(391年)とするなど、
 干支年が
 後世の
 文献資料
 (『三国史記
  『三国遺事』では
 壬辰年(392年)と記され
 紀年との間に1年のずれがある
ーー
 『三国史記』の
 新羅紀では、
 「実聖王元年(402年)に
 倭国
 通好す
 奈勿王子
 未斯欣を質となす」と
 新羅
 倭へ
 人質を送っていた
 記録等がある
 他の史料と碑文の内容がほぼ一致
ーー
 碑文からは、
 好太王の時代に
 永楽という
 元号が用いられたことが確認
 碑文では、
 高句麗と隣接する
 国・民族はほぼ
 一度しか出てこず、
 遠く離れた
 倭が
 何度も出てくることから、
 倭国
 高句麗
 「十七年戦争」と称する研究者も存在している
 倭の古代朝鮮半島における戦闘等の活動は
 日本の史書
 『古事記
 『日本書紀
 『風土記
 『万葉集』、
 朝鮮の史書
 『三国史記
 『三国遺事』、
 中国側の史書
 『宋書』においても記録
ーー 
 辛卯年条
 碑文のうち、
 欠損により判別の出来ない
 記述のある
 二段目の部分
    ↓
 百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民
    ↓
 の解釈がしばしば
 議論の対象となっている
ーー
 中国では歴史学者
 耿鐵華などの見解で、
 [海]の偏旁がはみ出し過ぎて
 他の字体とつり合いが取れていない事から、
 実際は
 [毎]ではないかとする意見もある
ーー
 日本の学会による解釈
 以下、該当部分を日本学会による
 通説により校訂し訳す
    ↓
 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民
    ↓
 そもそも
 新羅・百残(百済の蔑称)は
 (高句麗の)属民であり、
 朝貢していた。
 しかし、
 倭が
 辛卯年(391年)に
 [海]を渡り
 百残・■■
    ↓
 「百残を■■し」と訓む説や、
 「加羅」(任那)と読む説などがある)
 新羅を破り、
 臣民となしてしまった
ーー
 「[海]を渡り」は
 残欠の研究から
 「海を渡り」とされ、
 日本学会の通説では以下の解釈
    ↓
 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
    ↓
 そもそも新羅・百残は
 (高句麗の)属民であり、
 朝貢していた。
 しかし、
 倭が
 辛卯年(391年)に
 海を渡り
 百残・加羅新羅
 破り、臣民となしてしまった
ーー
 日本の史学者は、
 日本書紀
 神功皇后による、
 所謂
 三韓征伐を念頭に入れて理解しているため
 倭を大和朝廷と理解することが一般的
ーー
 韓国・北朝鮮の学会では、
 碑文で
 「破」と
 「攻」の
 文字が使われるのは
 「高句麗の軍事行動にだけ」だと
 指摘しながら、
 他の国である
 倭の軍事行動に例外として
 「破」が使われることはありえないと、
 一貫して日本の学会による解釈を否定
ーー
 1955年(昭和30年)
 韓国の歴史学者
 「鄭寅普」の
 解釈以降、
 それを土台としたいろいろな解釈がなされている
 「鄭寅普」は
 「好太王の業績を称えるための碑文」に、
 「好太王の業績に対して都合の悪い記述をする理由が無い」として、
 それらの
 主語や
 目的語が相当数
 省略されているのではないかという
 認識から、
    ↓
 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘連侵新羅以為臣民
    ↓
 新羅・百残は
 (高句麗の)属民であり、朝貢していた。
 しかし、
 倭が
 辛卯年(391年)に
 (高句麗に)来たので
 (高句麗は)海を渡り
 (倭を)破った。
 百残はそんな倭と連合して
 (高句麗の臣民である)新羅に攻め入った。
 (好太王は)臣民である
 (百残が)どうしてこんな事をしたのかと
 思った
    ↓
 と解釈した。
 これを受け
 北朝鮮歴史学者
 朴時亨が
 以下のような解釈をした
    ↓
 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘招倭新羅以為臣民
    ↓
 新羅・百残は
 (高句麗の)属民であり、朝貢していた。
 しかし、
 倭が
 辛卯年(391年)に
 (高句麗に)来たので
 (高句麗は)海を渡り
 (倭を)破った。
 百残が
 倭を連れ込み
 新羅に攻め入って、
 臣民とした
ーー
 好太王碑は
 好太王
 高句麗の業績のためにつくられており、
 好太王の業績を
 礼賛する碑に
 倭が主語となって
 百残、加羅新羅を破り
 臣民としたと記述されるのは
 間違えていると主張
 以下のような解釈が韓国学会の定説
    ↓
 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民
    ↓
 新羅・百残は
 (高句麗の)属民であり、朝貢していた
 しかし、
 倭が
 辛卯年(391年)に来たので
 (高句麗は)海を渡って
 百残を破り、
 新羅を救って臣民とした
ーー
 大日本帝国陸軍による
 碑文
 改竄説とその破綻
 碑文の一部
 辛卯年条に関しては、
 酒匂本を研究対象にした
 在日コリアン
 考古学、歴史学者
 李進熙が、
 旧大日本帝国陸軍による
 改竄・捏造説を唱えた
 その主張は、
 「而るに」以降の
 「倭」や
 「来渡海」の文字が、
 五世紀の
 倭の朝鮮半島進出の
 根拠とするために
 日本軍によって
 改竄されたものであり、
 本来は
    ↓
 百殘新羅舊是屬民由来朝貢而後以耒卯年不貢因破百殘倭寇新羅以為臣民
    ↓
 百済新羅
 そもそも
 高句麗の属民であり朝貢していたが、
 やがて
 辛卯年以降には朝貢しなくなったので、
 王は百済倭寇新羅
 破って臣民とした
    ↓
 と記されており、
 「破百殘」の
 主語を
 高句麗とみなして、
 倭が朝鮮半島に渡って
 百済新羅を平らげた話ではなく、
 あくまでも
 高句麗
 百済新羅を再び支配下に置いた、
 とするもの
 しかし、
 百済などを破った
 主体が高句麗であるとすると、
 かつて朝貢していた
 百済新羅
 朝貢しなくなった理由が
 述べられていないままに
 再び破ることになるという疑問や、
 倭寇を破ったとする記述が
 中国の正史、
 『三国史記』、
 日本の
 『日本書紀』などの記述
 (高句麗日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。
 これに対して、
 高句麗が不利となる状況を
 強調した上で
ーー
 永楽六年以降の
 好太王の華々しい活躍を記す、
 という碑文の文章全体の構成から、
 該当の
 辛卯年条は
 続く
 永楽六年条の
 前置文であって、
 主語が
 高句麗になることはありえない、
 との反論が示された
ーー
 1974年(昭和四十九年)に
 上田正昭
 北京で入手した
 石灰塗布以前の拓本では、
 改竄の跡はなかった
 その後、
 2005年(平成十七年)6月23日に
 酒匂本以前に作成された
 墨本が中国で発見され、
 その内容は
 酒匂本と
 同一であるとされた。
 2006年(平成十八年)4月には
 中国社会科学院
 徐建新により、
 1881年(明治十四年)に作成された
 現存最古の拓本と
 酒匂本とが
 完全に一致していることが発表され
 これにより
 改竄・捏造説は完全に否定
 その成果は
 『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として
 発表された。
ーー
 なお、この説が唱えられる以前の
 1963年(昭和38年)
 北朝鮮内で碑文の改竄論争が起き、その事実確認を一つの原因とした北朝鮮の調査団が現地に派遣された所、改竄とは言えないという結論を出した。
ーー
 参考
 三国史記の記述
 以下
 『三国史記』の関連する記述
     ↓
 八年 夏五月丁卯朔 日有食之 秋七月 <高句麗>王<談紱> 帥兵四萬 來攻北鄙 陷<石峴>等十餘城 王聞<談紱>能用兵 不得出拒 <漢水>北諸部落 多沒焉 冬十月 <高句麗>攻拔<關彌城> 王田於<狗原> 經旬不返 十一月 薨於<狗原>行宮
     ↓
 『三国史記』「百済本記」391年
     ↓
 八年、
 夏五月一日に日食あり。
 秋七月、
 高句麗の王、談紱(好太王)が
 四万の兵で北の国境を攻め、
 石峴など十余りの城を落とされた。
 王は
 談紱が
 用兵に長けてると聞き
 出兵を拒否、
 漢水の北の部落が多数落とされた。
 冬十月、
 高句麗に關彌城を落とされた。
 王が
 狗原に狩りに出て
 十日が過ぎても帰って来なかった。
 十一月、
 狗原の行宮にて
 死去した。
ーーーーー
 原文添付
   ↓
好太王 - Wikipedia
ーー
好太王碑 - Wikipedia
ーー
広開土王碑拓本 | お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ
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