1036日目・・・ウイッキペデア辞典を開ければ、ギリシャ、ローマ神話では、人間に「養蜂」を教えたのは「アリスタイオス」であるらしい。養蜂、牧畜、酪農、果樹栽培の神である。そして、アポロンの息子である医学の神「アスクレピオス」と兄弟である。父親が「太陽」神であるアポロン、母親が「水のニンフ(精霊)、キュレネ」の子である。実在したのは「アリストテレス・ Ἀριστοτέλης・Aristotélēs・Aristotelēs・前384年〜前322年3月7日)」であり、紀元前460年頃にギリシャのコス島で生まれ
医者の「ヒッポクラテス」に関しては以下のボクの「家頁」に若干記したモノがあるので、興味があって、お暇ならご訪問ください。
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http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/hippo1.htm
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外国漢字名 蜂蜜の言語
英語 ハニー honey
英吉利語 〃
英蘭語 〃
愛蘭語 ミル mil
アングリア
「七王国(しちおうこく・Heptarchy・ヘプターキー)」
中世初期にグレートブリテン島に侵入した
アングロ・サクソン人が同島
南部から中部にかけての地域に
建国した七つの王国
「七王国時代」
「ヘプターキー」という言葉は
古代ギリシア語の
数詞で「7」を指す
「ヘプタ(ἑπτά)」と
「国」の「アーキー(ἀρχή)」
の造語
最初にこの語を記したのは
十二世紀の史家
ヘンリー・オブ・ハンティングドン
16世紀に用語として定着
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独逸語 ホーニヒ Honig
独乙語 〃 Mel=中性名詞の蜜
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仏蘭西語 ミエル miel
伊太利亜語 ミエーレ miele
西班牙語 ミエール miel
葡萄牙語 メル mel
羅典語 メル mel
希臘語 メリ
露西亜語 ミオート мед
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阿蘭陀語 ホーニングHONING
和蘭語 〃
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タミル語 テーヌ
羅馬尼亜語 ミエレ miere
捷克斯洛伐克語 メド med
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希伯来語
デボラ
ヘブライ語の
蜂
(as a given name)=Debra, Debora
語源 From Hebrew・ meaning bee.
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猶太語 旧約聖書に登場する
第四番目の士師・女預言者
士師記(デボラの歌・唱・唄・詩)は
5章の「1節〜31節」まである
五章一節は
−−
デボラと
アビノアムの子
バラクは
その日
次のように歌った
−−
と云うコトバから始まり
そして、
デボラが自ら自讃自称するのは
五章七節からである
村々は絶えた
イスラエルにこれらは絶えた
わたしデボラはついに立ち上がった
イスラエルの母なるわたしは
ついに立ち上がった
そして
「ヤエル」と言う
女性が登場するのは
五章二十四節からで、
−−
カイン人ヘベルの妻ヤエル
天幕にいる女たちの中で
最も祝福されるのは彼女
5章25節
水を求められて
ヤエルはミルクを与えた
貴人にふさわしい器で
凝乳を差し出した
5章26節
彼女は手を伸ばして釘を取り
職人の槌を右手に握り
シセラの頭に打ち込んで砕いた
こめかみを打ち、刺し貫いた
5章27節
彼女の足もとに
シセラはかがみこみ
倒れ、伏した
彼女の足もとに、彼は
かがみこみ、倒れた
かがみこみ、
そこに倒れて息絶えた
−−
と、
「デボラ」とは「出法螺(鰡・鯔・洞)」
「洞窟の墓」からイエスが蘇ったと云ったのは
「マリア」だった
「ホラ吹き」・・・?・・・
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「ほらふき男爵の冒険」
実在の
ミュンヒハウゼン男爵
カール・フリードリヒ・ヒエロニュムス
(Karl Friedrich Hieronymus
Freiherr von Münchhausen)
1720年5月11日〜1797年2月22日
ドイツの貴族
ニーダーザクセン州の街
ボーデンヴェルダーで
ミュンヒハウゼン家の
第五子として生まれる。
十五歳のとき、
ブラウンシュヴァイク公家に
小姓として出仕した
「Münchhausen」
英語では「h」一文字省略し
「Münchausen」と表記され、
「マンチョーゼン」と英語読みで発音
「満潮前・番町前・万丁前
萬帳前→太安萬侶の古事記の前」
↓ 前=ゼン→是無・是ム(私)・全・膳・然
「山片 蟠桃(ばんとう・バンチョウ」→山形(山縣)判等
延享五年・寛延元年(1748年)〜
文政四年二月二十八日(1821年3月31日))は、
商人、学者。升屋(桝矢)の番頭
本名は長谷川芳秀
通称は升屋小右衛門
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ミュンヒハウゼンの物語がはじめてまとまった形で出版されたのは
「1781年」のベルリンでのことだが、著者は不明である。
その後
「1785年」に大幅加筆された英語版が出版され、
著者は元ヘッセン方伯の
司書
ルドルフ・エーリヒ・ラスペ(Rudolf Erich Raspe)である。
Baron Munchhausen's Narrative of his Marvellous Travels and Campaigns in Russiaがその時の題名だが、
The Surprising Adventures of Baron Munchausenとも呼ばれた。しかしながら、そのユーモラスな物語の中にはミュンヒハウゼン以外の出典から拝借したものも少なくない。実際、周囲からミュンヒハウゼン自身に対して遠慮深いという評価があったとはいえなかったこともあり、ラスペの出版はむしろミュンヒハウゼンの評判を落とす結果となった。
(もともとラスペには盗癖があり、ヘッセン方伯のコレクションに手をつけた容疑で英国へ国外逃亡、晩年には宝石偽造にかかわってアイルランドへと再逃亡している)。
1786年、ゲッティンゲン大学の私講師ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー(Gottfried August Bürger→神ょ(取ったのはt)油で揚げた八月のビュルガー(バーガー))がラスペ版をドイツ語へと翻訳、さらに加筆してドイツに逆輸入した。Wunderbare Reisen zu Wasser und Lande: Feldzüge und lustige Abenteuer des Freiherrn von Münchhausenとして出版されたこのビュルガー版は、今日のドイツでももっとも知られている版のひとつである。
なお、ビュルガーは共和思想の持ち主であり、ビュルガー版には政治的風刺が多く盛り込まれた。そのためか、ビュルガーは生前自分が著者であることを固く秘した。またミュンヒハウゼンやラスペ同様、ビュルガーもまた晩年は不遇であり、教授に昇進できぬまま貧乏講師で終わっている。
19世紀、実在したミュンヒハウゼン男爵(バロン=古フランク語で自由民=baro→baron)の物語は数多くの作家たちに
加筆され、さまざまな言語に
翻訳。物語には100以上のバリエーションが存在する。
ミュンヒハウゼン男爵の物語のうち、エピソードの大多数はミュンヒハウゼンが生まれる前から数世紀にわたり流布してきた
民話がもとだと判明している。
1943年、ウーファーによって「ほら男爵の冒険」が制作された。ウーファーの創立25周年記念作品であり、
全編フルカラー(ドイツにおいても四番目のカラー映画)で撮影された。
ラスペ版を基にエーリッヒ・ケストナーが脚本を書き、ヨセフ・フォン・バキが監督した。出演ハンス・アルバース(ミュンヒハウゼン男爵役)、ブリギッテ・ホルナイ(エカチェリーナ大帝役)。
もっとも
ケストナーは
ナチ党政権から
発禁処分を受けていた。
バキは機転を利かせて
「ベルトールド・ビュルガー(ビュルガーはドイツ語で市民の意味)」という偽名でケストナーをクレジットした。
後になってこの事実を知った
ヨーゼフ・ゲッベルスは怒り、バキは戦後まで映画制作の現場から外され、その他の制作担当者も処分される憂き目に遭った。
ホラ吹き=braggart・boaster・quack
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「ヤエル=Jael」は
まっさか、「新島襄」の妻「お八重」さん?!
以色列語 〃
伊色剌語 〃
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ナゼ、「ヘブライ、ユダヤ、イスラエル」に、コレラの漢字を当てたのか?
「希伯来(キハクキ)=伯が来るを希(のぞむ)・ハクがキタルをノゾム」、「伯牙絶弦」とは親友との死別を悲しむ、で、「呂氏春秋(本味篇)」に記載・・・「百済」は「ヒャクサイ」とも読む。「馬韓国」を支配下に置いた「伯済(ハクサイ)国」はその前身とも云われている・・・人名で調べれば「郭 淮(カク ワイ?〜255年)が三国時代の武将として「魏」に仕えた人物である。「字名」は「伯済」であった。「并州太原郡陽曲県の人・郭全の孫・郭縕の子・郭配(賈充・裴秀の舅)・郭鎮の兄・郭統の父・郭正の祖父・郭奕、郭槐の伯父」とある。「郭(カク・くるわ)」がコレだけ出れば、後は「日本書紀」の「則天武后」の縁戚(?)、「郭務悰」、出て来い、である。
「阿部正弘」は、備後福山藩第七代藩主、阿部家宗家十一代であった。江戸幕府の要職の「老中首座」として記憶されているが、その履歴は
「弘化二年(1845年)
二月二十二日、
水野忠邦の老中辞職で、
勝手掛兼帯のまま、先任により老中首座と就る
五月二十九日
阿部家の家格を帝鑑間席
安政二年(1855年)
十月九日
堀田正睦の老中再任及び首座と就るに及び、
勝手掛兼帯のまま、
老中次座」
が最後の職責である。そして、60年後の
「大正四年(1915年)
十一月十0日、
政府より
贈
従三位」
であった。
「伊藤博文(ハクブン)」は「明治十七年(1884年)七月七日に伯爵授爵」した「伯爵」だった・・・暗殺されて悲しんだ人物は「井上聞多」か、「1898年(明治31年)」に芸者三昧の彼に「十万円」の「お手許金」をくれた明治天皇だったろう・・・
「猶太=今なお、ふとる→ 過ぎたるは猶及ばざるが如し→過度とは、不足と同じである」、
「以色列(イショクレツ)=色の列を以って→(以呂波におえどちりぬるを、わかれそつねし、酔いもせず)か、七色の虹か、紙箱に収まった七色、白黒ハイ(鼠・にび)色の十本セットのクレヨン」、
「伊色剌(イショクシ)=伊(この、あの、その、かの、あたな、川=セン)の、天下を尹治する者、殷の聖人、阿衡の色をさす←説文解字の巻八→阿衡=阿(まがり・くま・よこしま)の衡(はかり・天秤・度量衡換←交換)・天下を尹治する者、阿衡(アコウ)の色(おんな・ショク)を刺(さす・シ)す」・・・伊=イ(人)+(長官・次官)を「サス」である。「阿倍」は・・・
「阿倍仲麻呂(文武天皇二年・698年〜宝亀元年・770年一月)」の「漢字名・唐名」は「朝衡(チョウコウ),晁衡(チョウコウ)」であった・・・「太学」で学び、「科挙」に合格、「唐王朝の図書館長」となった・・・