1035日目・・・密教・「蜜月」・密日・柑橘蜜柑・蜂蜜・・・養蜂・・・ナゼ、「蜂子皇子」や、「養蜂」に失敗した「百済」の人質の王子「扶余豊璋」が「日本史」に登場するのか?・・・

 人質の王子=「扶余豊璋(フヨホウショウ=扶余豐璋・没年不詳・百済最後の義慈王(641〜660年)の王子・(扶余豊璋は『日本書紀』、『三国史記』は余豊璋、『旧唐書』は余豊での表記・また、『日本書紀』にも登場する百済の王族」である。
 そして「翹岐」=「翹(垚+兀+羽)+岐(山+支)=ギョウギ・ギョウキ」を「豊璋と同一人物?」とされ、
 「義慈王の甥、または子。皇極天皇元年(642)義慈王の母の死にともない島流し。同年来日し大使として参内、蘇我蝦夷(えみし)宅を訪問」
 「孝徳天皇の650年二月十五日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に豊璋が出席」
 と記されている。
 「豊璋」は百済と倭(日本)の「同盟を担保する人質」ではあった。  「太安萬(万)侶」の・・・・?
 「一族」・・・・・・・・・?一属・一足・一速・一捉
 「多蒋敷」の妹を・・・・・?多く蒋=サ(丱・廾)を将に敷く
 「豊璋」に・・?豊=曲+豆+王+立+日+十
 「娶」わせていた・・・?娶=取(耳又)+女(おんな→音名)
 と記されている。
 「養蜂」は
 「720年」編纂の
 「日本書紀
 「舒明天皇三年(631年)」
 「是歳、百済の太子
  余豊、
  蜜蜂の
  房
  四枚を以て、
  三輪山に放ち養ふ。
  而して
  終に
  蕃息らず」
 また、
 「平安時代には宮中への献上品の中に蜂蜜の記録」があるらしい。
 問題なのは、
 この「養蜂」が記録されている
 「大日本農史」である。
 「明治
  十五年
  四月」に
  農商務卿が
  本朝農書編纂の創意を
  太政大臣に上申、
  八年を
  かけて
 「大日本農史」は
  編纂された

 「・・・期八年成、一大農書、五月始得裁可、(明治)十六年六月、其承乏農書編纂掛長、董督僚員、管理群籍、博採約修、拮据有年・・・」
 である。
 ここは、記録の「数字」、「年代・月・日」を注目してほしい・・・
ーー
 「=堯(尭)+羽」?・・・ブログ辞典で調べると「銀散(ギンギョウサン)」は、「咽喉(のど・インコウ)の痛み」の「漢方薬」である。多分、「湯で薄めた蜂蜜」も「咽喉」にイイ・・・風邪には「葛根湯(カッコントウ)」だが使用には注意事項がある・・・
 で、
 「翹楚」とは
 「大勢の中でとびぬけてすぐれていること、その人物」で、
 「楚=木+木+疋(ひき)」は、特に「丈の高い木」。

        疋(ひき/ひつ/き・匹)
          鎌倉時代から江戸時代にかけて
          用いられた銭貨の数え方
          百疋をもって1貫とした
          一疋=十銭(文)
          布地、絹織物を
          二反(たん)を一疋として数える語
          一疋は、四丈(約十二メートル)
          鯨尺で五丈六尺(約二十一メートル)

 「詩経(周南)」の「漢広」の
 「翹翹錯薪、言刈其楚(翹翹と錯れる薪の、言は其の楚を刈らん)」
 「翹首」はしきりに待ち望むこと。
 「翹望」は「渇望・切望」で、
 「翹(ギョウ)」は
 「あげる」、
 「つまだてる(爪立てる)=かかと(踵)をあげて爪先で立つ」、
 「すぐれる」である。
 「踵(かかと)=足+重」で、「加賀徒(渡)」かも。
 そして、面白く、示唆深いのが
 「連翹(レンギョウ)」で、その説明には
 「木犀(モクセイ)科の落葉低木・中国原産・古くから観賞用植物で枝が鞭(むち)のように垂れ下がって長く伸び、地上に達するとそこから根をおろす。早春、葉の出る前に、黄色の美しい花を開く。また、果実は卵形で、漢方薬」とあった。
 多分、「鑑賞→干渉」、「黄花(華)→欧化」の出る前に「葉→言葉」の理解、そして「卵形→蘭学系」であろう。
 「堯=尭(ぎょう)」は
 「土器を焼くとき積み重ねる形で、うず高い意」で、
 「翹」は、
 「鳥が長い尾羽をあげる意」とあった。
ーー
 「堯(尭)」は
 中国神話の古代の王で
 「姓」は「伊祁(イキ)」、
 「名」は「放勲(ホウクン)」。「陶唐氏」ともいう。
 「五帝本紀」の記録では、
 「嚳=高辛の次子」として生まれ、
 「嚳」の後を継いだ兄から帝位を
 禅譲された人物である。
ーー
 「嚳(コク)」=臼+爻(xx)+冖
           ↓
         「學(学)の上の部分」と「告」
         「学の上の部分」は「ツ」である
 「嚳(コク)」は上古中国の「神話上の帝王」である。
 「嚳(コク・高辛)」の父は、
 「蟜極」である。
 「蟜極」の父は、
 「黄帝」の
  子である
 「玄囂」なので、
 「嚳」は、
 「黄帝の曾孫」となる。
  1)黄帝→2)玄囂→3)蟜極→4)嚳→5)堯=尭
ーー
 「嚳(コク・高辛)」と
 「陳鋒氏」の娘との間の子が、
 「堯」である・・・
 その
 「堯(尭)」が
 「羲仲、羲叔、和仲」らに命じ、
 天文を観察して暦を作らせ、
 大洪水が発生した時に、
 治水工事に
 臣下の勧めで
 「鯀(コン)=魚玄」を推薦した。
 「堯」は
 「鯀」の才能を疑ったが、
 試しに採用したが
 失敗したので、
 「羽山」で「鯀」を殺し、
 治水工事は
 「鯀の息子の禹」が後を継いだ。
 原文には
 「鯀復生禹」とあり、
 死体を
 「三年後」に
 「呉刀」で裂いたところ
 「鯀」は
 「よみがえり
(蘇り・甦り)」、
 「禹を生んだ」と訳す説があるらしい。
 「死して三日後に蘇(甦)った」のは「キリスト」である。
 「鯀=魚+系」とは「マナ(眞名)の系→眞名仮名(漢字)の系(形・経・継・恵)」である。
 「魚(まな)の時代」とは「キリストの時代」と言うことだ・・・
 そして
 「蘇我」氏の「蘇(ソ・よみがえる)」であり、
 「よみがえる」は「読み替える」である・・・
 「鯀が誅殺された後」、
 「鯀」は
 「黄能」に
 化して
 「羽泉(羽淵)に入っていった」という・・・
ーー
 上述したコトは、すべて「コトバ(音訓)のコト」として捉えカエせ、と言うことである。
ーー
 ・・・「蜂子皇子(史記)」は「崇峻天皇五年(592年)十一月三日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇蘇我馬子により暗殺され、蘇我馬子から逃れるべく「丹後国(タンゴのクニ・タンゴコク)・由良(ユラ・ユリョウ)京都府宮津市由良)」から船で北上し、山形県鶴岡市・由良にたどり着いた。そして、八乙女浦の舞台岩で「八人の乙女」が笛の音に合わせて踊っているのを見て、皇子は海岸に上陸した」・・・奈良の明日香村の「蘇我馬子」の墳墓遺跡だと言われているのは通称「石舞台」と云われている・・・「八乙女浦」という地名は、その時の「八人の乙女」に由来するらしい。これは、ボク的には「葉知認のイツ(五→語)の音名」の示唆である・・・その後、蜂子皇子はこの後、「三本足の烏→纂本の足(10・壱拾)の化等素」に導かれて、羽黒山(はねぐろやま=葉音具賂埜眞・ハコクサン→葉語句纂)に登り、三年間の岩窟で修行。羽黒修験の元になり、「出羽三山→デハサンザン=出葉纂竄」を開き、「月山→つきやま=通記埜眞・ゲツサン=解通纂」も開山(改竄)したいたらしい。人々の悩みを払拭する能力を有し、「能除大師」と呼ばれるようになった・・・「ノウジョダイシ」とは「埜除代史」で記紀の年代を除去、そして「納序題詞」で、「序文」に収まっている「代詞」である・・・

 「蜂子皇子」
 「波知乃子王」
 「欽明天皇二十三年?(562年?)〜
  舒明天皇十三年十月二十日?(641年11月28日?)」
 「崇峻天皇の第三皇子」
 母は
 「大伴・小手子姫(大伴糠手の娘)」・・・称主(趣)旨の記紀
 姉妹は
 「錦代皇女」・・・・・・・・近代公序
 562年(欽明二十三年)誕生
 585年(用明元年)聖徳太子の勧めで宮中脱出
 592年11月3日父崇峻天皇蘇我馬子に暗殺
 593年(推古元年)由良の八乙女浦の海岸に上陸
     羽黒山を開山
     三年間岩窟で修行。羽黒修験の元祖
     月山も開山
 605年(推古十三年)湯殿山湯殿山神社を創建
 641年(舒明十三年)羽黒で死去
     「享年80」
     「享年91」とする説もある

 「蜜月」とは「ハネムーン・ハニームーン」であった。ならば、「蜜日」とは「ハネデイ・ハニーデイ」であるが、「密日=日曜日」ならば英語では「サンデイ」である。日本語ならば「さんでい→纂出意(異)」である・・・
 日本の歴史上での「ハネムーン」のハジメとは「坂本龍馬と御龍(おりょう)」の九州旅行であるらしい・・・「山形県」、「波知乃子王=蜂子皇子=能除大師」とは怪しいもんだ・・・多分、「山形県」は「山県有朋」に引っ掛けられた県名→懸命→懸名である・・・
ーー
 「山縣有朋(やまがた ありとも)
  天保九年閏四月二十二日(1838年6月14日)〜
  大正十一年(1922年)二月一日)
  長州藩士・元帥陸軍大将・位階従一位・勲等は大勲位
  功級功一級・爵位公爵
  内務大臣(初・第二・第三代)
  内閣総理大臣(第三・九代)
  元老
  司法大臣(第七代)
  枢密院議長(第五・九・十一代)
  陸軍第一軍司令官
  貴族院議員
  陸軍参謀総長(第五代)歴任
  長州藩領内の
  蔵元
  仲間
  三郎有稔(ありとし)の子として誕生
  文久三年(1863年)
  高杉晋作
  奇兵隊創設とともにこれに参加
  伊藤博文山県有朋
  足軽以下の身分だった
  同年
  十二月
  高杉が
  教法寺事件の責を負い
  総督の任を解かれ
  三代目総管・赤根武人とともに
  奇兵隊
  軍監に就任
  赤根が出奔した後
  慶応元年(1866年)
  四代目総管に就任
  長州征討で高杉と共に活躍
  戊辰戦争
  北陸道
  鎮撫総督
  会津征討総督の
  参謀
  明治二年(1869年)
  維新の功によって
  賞典禄
  六百石を
  賜った
ーー
 山形県新潟県も地理的には「奥羽」である。
 ブログで調べると、
ーー
 「奥羽地方」の範囲に法律上の明確な定義はないらしく、一般的には「青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県の六県」を指すらしい。だが「奥羽(おうう)」とは、「日本の令制国陸奥国(奥州)と出羽国羽州)を合わせた地域」である。
ーー
 1869年1月19日
 明治元年十二月七日
 「陸奥国」は「磐城国岩代国陸前国陸中国陸奥国」に
 「五分割」、
 「羽前国=現在の山形県のうち、飽海郡酒田市北部(最上川以北)を除いた大部分にあたる」と、
 「羽後国山形県の一部と秋田県の大半」に
 二分割された。
 これらを
 「東北七州」と呼ぶ。
 この後も「奥羽」の名は従来どおりの地域に対して用いられる。
ーー
 「出羽の起源」は、
 「708年(和銅元年)九月二十八日に、
  越後国に設置された出羽郡」である。
 「712年(和銅五年)九月二十三日に・・・・「712年(和銅五年)」は「現存・古事記」の編纂、上奏された「年」である。
  出羽国に昇格し、
  翌十月一日に陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られて国としての体制が整った」
 「733年(天平五年)頃には
  雄勝郡が設置された
  その後雄勝郡
  一旦放棄され
  759年(天平宝字三年)には
  雄勝城の設置に
  合わせ改めて、
  雄勝郡平鹿郡が置かれた
  その後八世紀中に、秋田郡河辺郡が置かれ、
  山本郡(後の仙北郡)が
  平鹿郡から分離するなど徐々に領域を北に伸ばした
  886年(仁和二年)には
  最上郡から村山郡が分離し、
  その後
  延喜年間までに
  出羽郡から
  飽海郡
  田川郡が分離
  最終的に
  出羽国の管理する郡・郷は、
  十一郡五十八郷であった
  平安時代まで、
  出羽は「いでは」と読んでいた。
ーー
 「出羽国山形県」は元々「越後国に設置された出羽郡」から始まった・・・
 現在的に「山形県」の隣県「新潟県(越後)」出身の有名人は
 「山本五十六
 (やまもといそろく・サンホンゴジュウロク)
  1884年4月4日 〜1943年4月18日
 新潟県・古志郡・長岡
 本町・玉蔵院町(長岡市東坂之上町三丁目)出身
 大日本帝国海軍軍人
 第二十六、二十七代連合艦隊司令長官
 海軍兵学校三十二期生
 元帥海軍大将
 位階正三位
 ブーゲンビル島上空で撃墜死
 旧姓は
 高野
 旧越後長岡藩
 高野貞吉の六男」
 「艦載航空機=飛行機零戦=ゼロ瀬」を重用視した人物である。プロペラ機の飛ぶ音は「ブ〜ン、ブ〜ン」である。幼児語は「ブン、ブン」だろう・・・で、昆虫の「ブ〜ン、ブ〜ン」と「ブン、ブン」は「蚊(カ)」か「蝿(蠅・ハエ)」と、「虻(アブ)」と「蜂(ハチ)」である。「蜂」にも色々な種類が存在する・・・「蜂の図鑑」・・・代用的なのは「蜜蜂(ミツバチ)」である。
ーー
 原文添付
   ↓
山本五十六 - Wikipedia
ーー
 河井継之助
 河井 継之助(かわい つぎのすけ・正字体は繼之助)
 文政十年一月一日(1827年1月27日)〜
 慶応四年八月十六日(1868年10月1日))
 越後・長岡藩
 牧野家の家臣
 「継之助」は幼名
 通称、読みは「つぎのすけ」
 諱は秋義(あきよし)
 号は蒼龍窟
 禄高は120石
 妻
 嘉永三年(1850年)に
 梛野嘉兵衛(250石、側用人)の妹
 「すが」と結婚
 河井家の先祖
 もともと
 近江国
 膳所
 本多氏の家臣
 と
 蒲原郡
 河井村の出身の
 地侍が先祖と言う説も有る。

 慶応三年(1867年)十月
 徳川慶喜大政奉還
 討幕派は
 12月9日(1868年1月3日)に
 王政復古を発し、幕府などを廃止
 長岡藩では、
 藩主・忠恭は隠居し
 牧野忠訓が藩主
 継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、
 徳川氏を擁護する内容の建言書を提出
 慶応四年一月三日(1月27日)
 戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い
 ファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)
 「スネル兄弟
スネル兄弟 - Wikipedia
      ↑
 ボクの小説に登場する人物です。暇ならご訪問下さい」
      ↓
紺碧の眼1
 などから「ガットリング砲」やイギリス製の2000挺の「エンフィールド銃・スナイドル銃」などの最新兵器を購入し、海路、長岡へ帰還
 「ガットリング砲」は当時
 日本に3つしかなく
 そのうち1つを継之助が持っていた

 小千谷
 談判の決裂
 五月二日(6月21日)
 河井は小千谷
 新政府軍
 本陣に乗り込み、付近の
 慈眼寺において
 新政府軍監だった
 土佐の
 岩村精一郎と会談
 交渉はわずか
 30分で決裂
 長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり
 二日後に北越戦争へと突入

 長岡藩は
 七万四千石の小藩
 家老首座連綿の
 稲垣平助茂光は交戦状態となる直前に出奔
 家老次座連綿の
 山本帯刀や
 着座家の
 三間氏は終始継之助に協力
 先法
 御三家(槙=真木氏・能勢氏・疋田氏)は、
 官軍に恭順を主張するも藩命に従った。
 継之助は名実共に開戦の全権を掌握
 継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督
 但し先法御三家は筋目(家柄)により
 藩主の本陣に近侍
 1人の戦傷者も無

 継之助の長岡慶応改革によって藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により当初新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、
 五月十九日(七月八日)に長岡城を奪われた
 六月二日(七月二十一日)
 今町の戦いを制して逆襲
 七月二十四日(九月十日)夕刻
 「八丁沖渡沼」作戦を実施
 翌日(九月十一日)に長岡城を奪還
 「石原莞爾」の陸軍大学校卒業論文は河井の戦術研究であった。
 四日後の七月二十九日(九月十五日)に長岡城は再び陥落
 継之助らは会津へ向けて落ちのびた
 以後、戦局は会津
  河井の最期
 栄涼寺墓地にある河井継之助の墓継之助は会津へ向けて八十里峠を越える際、
 「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む
 会津藩領に入り、只見村にて休息
 継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た
 松本良順の診察を受けたが継之助の傷は手遅れな状態
 花輪らに対し今後は
 米沢藩ではなく
 庄内藩と行動を共にすべきことや
 藩主世子
 鋭橘
 フランスへの亡命(結局果たされず)など
 後図を託した
 「外山修造」には武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。
 後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、
 日本の発展を担った有力実業家の一人として活躍した。
 只見村を出発し、
 八月十二日(九月二十七日)に
 塩沢村(福島県・只見町)に到着
 十五日(30日)の夜
 継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、
 ねぎらいの言葉をかけ
 火葬の仕度を命じた。
 翌十六日(十月一日)
 午後八時頃、
 破傷風で死去
 享年四十二。

 継之助の葬式は会津城下にて行われ、
 松蔵によって
 会津のとある
 松の木の下(会津若松市・建福寺前・小田山中腹)に埋葬
 現在は臨済宗妙心寺派、大寶山、「建福寺」管理の下
 「河井継之助・一時・埋葬地」として同所に墓碑が残されている
 実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた
 継之助の
 仮墓から
 遺骨を持ち出そうとしたが、
 中身が砂石であったため
 継之助の生存を疑い
 恐怖したという。
 戦後、松蔵が遺骨を掘り出し
 長岡の河井家へ送り届けた
 遺骨は、現在河井家の墓がある
 栄凉寺に再び埋葬された
 その後、
 継之助の墓石は
 長岡を荒廃させた
 張本人として
 継之助を
 恨む者たちによって、
 何度も倒された
 戦争責任者として
 継之助を非難する言動は
 賞賛する声がある一方で
 明治以後、現在に至るまで続いている
 河井家は、主導者であった継之助がすでに戦没していたため、
 政府より
 死一等を免じる代わりに
 家名断絶という処分を受けた
 忠恭はこれを憂い、
 森源三(河井の養女の夫)に
 新知
 百石を与えて
 河井の家族を
 扶養させた
 明治十六年(1883年)
 河井家は再興を許され、
 森の子
 茂樹を養嗣子として迎え入れた
ーー
 「蜂皇子」と「河井継之助」と「山県有朋」、「山本五十六」がナゼ、繋(繫)がるのか?
ーー 
 「ガトリング砲」が登場した時期にも
 「ミトライェーズ砲(日本では“蜂巣砲”と呼んだ)」として知られる
 「多砲身“斉射砲”」が存在していた
 「ガトリング砲」が発明された
 当時の米国は、欧州に比して
 軍事的後進国だった
 依然として
 戦列歩兵式の歩兵運用が続いており、
 敵兵は
 密集した陣形を組んで向かってくる存在と認識され
 こうした
 密集した敵兵に対して
 大砲から霞弾などの対人弾を浴びせる攻撃が昔から行われていた
 ガトリングのアイデアは、
 銃身を
 環状に並べて
 回転させ、
 金属
 薬莢を使用する
 後装式の
 閉鎖機構と
 給弾機構をこれに組み合わせたモノであり
 「多砲身“斉射砲”」とは全く異なる構造の
 「連発砲」だった
 「ガトリング砲」には
 複数の砲身が
 「リング状」に配置され
 人力で
 「クランクを回転させる」と、
 連続して
 「給弾・装填・発射・排莢」のサイクルが進行する構造で
 射撃は「斉射」ではなく「連続」して行われた。

 1862年型では固定式弾倉に、
 紙で包んだ
 鉛弾を内蔵する
 鉄製薬莢の実包を
 バラで投入する給弾方式であったが、
 1865年型からは
 口径0.58インチの
 真鍮製薬莢の実包を
 バネを用いず
 その自重で
 落とし
 給弾する
 箱型弾倉式に代わり
 必要に応じて
 上部から実包を
 次々に
 継ぎ足す
 装弾
 クリップ式もあった

 装弾クリップを用いた(1874年型ガトリング砲)
 40発入り箱形弾倉を用いた(1865年型ガトリング砲)
 前装式小銃が主流だった
 南北戦争当時、
 「ガトリング砲」の持つ
 「200発/分」の連射速度は驚異的であり、
 1866年に軍によって採用される以前から、
 「セールスエンジニア」が
 戦場にガトリング砲を持ち込み、
 実際に
 敵兵(南軍)を撃って見せる実戦参加デモンストレーションが行われた
 1893年には電動モーターにより
 一定のペースを保って
 射撃できるタイプが開発されたが
 重かった
 後の時代に
 航空機用として
 生まれ変わった
 「ガトリング砲」では部品の精度や材質も改善
 外部動力のため
 不発が発生しても
 強制排莢して
 射撃が持続できる
ーー
 ・・・「蜂巣砲」は「零戦」の「機関銃」になった、と言うわけである・・・これが「蜂」と「蜜」と「剣」、「虻」の「ハチまがい」、「トラまがい」の「縞模様の解読」である・・・「日本歴史」は繰り返し「ウソとサギ」で「楯行の上から下に、右から左へ紙の上に筆、ペン、万年筆で記録」される・・・


密教密日