1034日目・・・「みちよチャン」って、タップダンスの名人だった・・・けれど・・・蜜柑だったか、オレンジだったか、グレープフルーツだったか、檸檬(レモン)だった・・・あの時は酸っぱかっただろうな・・・

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 「蜜柑」を1日に四ヶ食べたら「骨粗」にならない、とのブログ記事を目にしたのだが冬は蜜柑を食べる季節だが、普通人は年間を通して毎日四ヶは食べれるものではないだろう・・・温室栽培の蜜柑があるカモ。あっても、その市場価格を視たらボクには買えない精神状態になるに違いない・・・工場で大量生産される価格100円の「蜜柑の缶詰」は、一ヶ、ウン拾円の生皮付き蜜柑よりはボリュームがあって安いように思えるが、ビタミンCや、蜜柑の皮を剥く時のあの独特な香りがないし、「缶詰保存食」だから防腐剤も混入されているか・・・そもそも「供給状態過剰」からはみ出した「デフレ生もの蜜柑」の「缶詰」である。イザと言うときには「役に」にたつのだが、カンヅメは「戦時の携帯食料品」であった。中身の蜜柑を食べたら残るのは「缶」である。チョット違うが、忘れないように書き詰めてメモていくのが手帳である。又、未知のコトバを調べたり、既知のアイマイナな記憶を再確認するなら携帯用の豆辞典である。
 缶詰は「缶=(午+山)→ゴサン」と「詰=(言+吉)→ゴンキツ・ゲンンキツ」の熟語であるが、「ブリキ(錻)缶」に密封すると言う缶詰めは幕末前後の発明されたモノだろう。「詰問」と言う熟語あるが「詰(キツ・キチ・なじる・いましめる・とめる・まげる・まがる)」の音「キツ」は「柑橘(カンキツ)」の「橘(キツ・たちばな)」と同音である。「詰める・満たす・塞ぐ・縮める」の意味は「国語の意味」である。液体を詰める「瓶詰・壜詰」は「缶詰」以前の時代からあったとは思うが、ブリキ缶の「ブリキ=錻」の漢字は「国字」である。
 「紀伊国屋文左衛門」は「相場物の蜜柑」で「襤褸(ぼろ)儲け」して一財産築いたそうだが、まさに「紀州蜜柑」を船で「江戸」まで運ぶのは賭けだった・・・江戸庶民にとっては「インフレ蜜柑」だったハズなのに、売れた。「買えた」のは「長屋住まいの町人」だったとは思えない。町人でも「豪商」と、武士でも「殿様と管理職に就いていた武士階層」で、「下級武士」は無理で、さらに高楊枝の「浪人」は有理があっても無理であろう。
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 で、「現存・日本書紀」等に記録されている人物で、「蜜柑」の本体である「柑橘(カンキツ)」の「橘(キツ・たちばな)」の姓を有する「高級女性公務官僚」が存在した。その履歴に「歴史研究家」は不思議に思っている人もいるらしいが、その「存在」自体を疑ってはいないようである・・・
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 「蜜柑」の「蜜=宀+必+虫」は「密教」の「密=宀+必+山」に類字し、異なっている部分は「虫」と「山」である。「密教」の「密」は記録として「蜜」とも使用されているが元々、中近東の「ソゾク族」の「七曜日」の「日曜日」を意味する「漢字文字」であった。「太陽の日」と言う事だろう。その象徴的な果物が「蜜柑の形と色」である。
 「密教」とか「顕経」とか言われているが、「真言密教の三部経」とは「大日経金剛頂経蘇悉地経)」で、「眞名(マナ)仮名=漢字(中国現地が発生元)」と同じく、「真言」とは「生(ナマのインド現地が発生元)のコトバ」と言う事である。そして当然、インド現地には多数の各地の方言、異言語の種族が存在し、しかも同言語の枠内でも階級、階層の「言語知識のレベルの高低」があったハズである。これは日本であろうが何処であろうが「言語」は各地域で「方言」を有し、それらの「方言枠内」に於いても階層間、世代間、男女間、職業間にも「異なった特殊な言語と使用法」がある、と言う事である。何を言ってるんだか、唄っているんだか・・・アタリがツカない・・・
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 「密教」とは「音声・文字」の「高等教育」を受け、それを基礎にした「知識と理解、判断力の教養レベル」が高い「専門職の坊主(弟子・生徒)」を対象にした「学問」であった。古代から現代までも、インド階級社会の「高等教育の享受者」とは経済力があって生活に余裕のあった家族、親族の子供たちであろう。
 日本の密教開祖は「空海弘法大師・幼名は眞魚」であった。唐には私費での留学生であったが膨大な「書籍、資料・仏具」などを日本に持ち帰った人物である。カネは持っていた。資金源は何処にあったのか?・・・彼の一族は「佐伯」であったが東北「蝦夷」と深い関係のある一族であった。
 カネ、資産、衣食住の生活の格差の問題は何時の時代も同じである。
 地球上の何処の国、何処の領域区分に属そうとも「階級社会」とは人間の歴史的現実である。
 そして、「支配階級の歴史」は必然的に「読み書き算盤(そろばん・十露盤)」の知識を一般大衆、下層階級にも「開放」せざるを得ないのだ。支配階級の立場そのものを支え、維持するためには時代の産業技術が底辺の人々の知識を押し上げざるを得ないからである。今現在は「携帯相互情報電子機器」であるのだが、それを「使用する、できる」のは前提的に「読み書き算盤(そろばん・十露盤)」と、その「操作」の「知識」が必要であろう。そして、それを私有する、レンタルする金と使用料金支払い能力が要求される。
 無理な借金で、破産しての結果は家族離散の「コジキ」であるが、モノが溢れて「デフレ」と言われる状況で、「就職はインフレ」で、就職先も無く、あるいは勤め先の会社が倒産し失業してニッチもサッチもいかなくなると、国家主税の「源泉徴収対象」が激減する。
 元々国家は「デフレ」を目指していた。衣食住に於ける「国民」に対して充分な供給と備蓄の社会である。問題はモノがあっても「投機的なインフレ」を作り出すのが「為替売買」、「証券売買」、「金融」と、「買占め」と言うシステムである。モノが動かず、「カミの数字の記録上の増減」が「帳簿」で、「ネット」では「文字記録の数字」だけが動く世の中になっている。
 税収が減少すると「法治国家の組織員の給料」は支払えず、「組織員の放出国家」になってしまうが、社会全体では「カネ」が無いわけではない。何処かに「私的に保存」されたたままで、カネが回っていない、と言うことである。あるいは余って集められた膨大なカネが「国家の源泉徴税」の対象ともならず、「投機的」にのみ回っていると言う事だ。
 小役人を放出せずに給料を支払うため、あるいは公共事業に投資するために「国家」は紙幣輪転機を回し、増刷した「紙幣」をそれに使用するだろう。
 中国王朝の紙幣発行は世界史で初発だが公共事業には回さず、役人給料支払いにのみに当てられインフレが進行して王朝崩壊の原因ともなった。そして、鋳造された貨幣は「商品」として日本に流れ込んで、「貨幣」として使用された。だが、貨幣は「交換機能」だけではなく、「蓄財」としても機能する。「蓄財」は将来的な「生活の不安」に対する「備え」だが、「階級社会」はその「生きて今現在の人間精神の将来的な生活、生命の不安」を「全階級」を含めて払拭する保障は何もない。あるとすれば、あの世の「天国、極楽」の世界である・・・
 鎌倉幕府は「徳政令」と言う「非生産者である武士の商人からの借金を全部棒引き」すると言う政策を実行した。
 古代律令国家の「公地公民」は「律令」の国是である。
 「大化改新(645年)」で「私有地、私有民の廃止」が目指され、「大宝律令大宝元年(701年)八月三日完成・令の編纂記録は以前にもあるが、律の編纂記録はこれが初出・律六巻・令十一巻」の施行で「公地公民制」が確立された。
 だが「律令」において「口分田は私田」だったらしく、「口分田を公民に班給する班田収授制」の「口分田」とは「公田」でなく「私田」とされていた、との研究があるらしい。
 ・・・「口分田」が「公田」とされた後の「班田収授」なのかはボク自身勉強不足だが、「公地公民」とは「民族」と同じく「明治以降」の概念(コトバ)であるらしい・・・
 とにかく、「公地・公民」→「国有地(天皇領地)・国民(天皇臣下、臣民)」としても、その後の「私有地」問題は
 「三世一身法元正天皇・養老七年四月十七日・723年5月25日)発布された格(律令の修正法令)・開墾者から三世代(又は本人一代)まで墾田私有を認めた法令・養老七年格」
 「墾田永年私財法(聖武天皇天平十五年五月27日・743年6月23日)発布された勅令・個人が新たに開墾した耕地の永年私財化を認める法令」
 で、あった。「土地の私有権」に拘る人間・・・「私有地枠内」では自分自身の意思がとおせる・・・そして私有領土の拡大の結果が「近代国家」でもある・・・近代国家意思である「法・法律」の根幹も「法の下の私有財産権」である・・・
 この「国家律令制度の土地」が更に「貴族、寺院の荘園私有地」に侵食され、その双方からハミ出された百姓の一部は「農奴・盗人」にもなれず、なれない者は「仏教修行の乞食(こつじき)」ではなく、文字道理の「浮浪、物乞いの乞食坊主」になった。稼業としての「乞食坊主」は増大したのだ。その律令古代国家の解決策は「乞食坊主」の禁止、「失業浮浪者」吸収の公共事業としての東大寺大仏殿の造営であった・・・
 「東大寺大仏開眼孝謙天皇=安倍皇女・天平勝宝四年四月九日・752年5月26日)・天平十七年(745年)から造仏開始」

 ・・・現在の「アベ政権」に似ているが・・・「食料」は常に「インフレ」で、「デフレ」ではなかった・・・
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 「顕教」とは「法華経」等で、「大乗仏教」と言われる「経典の教え」である。すなわち、「顕教」とは一般民衆の知識レベルで理解させる「経典の教え」である。判りやすい「比喩・奇跡・不思議・物語」が記されているのは当然、教えの対象を一般民衆においたからである。
 で、「秘密の教え」以前に「梵語(音声も文字)」も異なる言語圏に属する双方が、その「双方の言語(音声・文字)」を理解、駆使する第三者の「通訳」が介在しない限り理解できないのがアタリマエで、無理である。
  「三密」とは「釈迦」の「身・口・意」の三つの働きが普通の人間の理解が及ばないコトであるらしい。そして「三業」とは普通の人間の「身口意(シンクイ)」で、並みに理解できるモノとされているらしい。
 「無相の三密」とは「法身の動き」と「衆生の動き」が一致することで、
 「有相の三密」とは「身に印を結び、口に真言を唱え、意に本尊を念ずる」コトらしい・・・だが、「有相」とは「聾唖者・盲目者」に対する「ゼスチャー(手話=sign language・身体言語=body language・ボディランゲージ)」であり、それは同時に言語が通じない「異邦人」に対する「手振り身振り」のコミュニケーション手段でもある。
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 そもそも「法身 (ほっしん・梵語dharma-kaaya)」とは「法身・報身(ほうじん)・応身( おうじん)」の「三身(さんじん)」の一つらしく、「真理そのものとしてのブッダの本体で、無色、無形の真実の体」で、「真理(法)の身体」であるらしい。
 漢字そのものから判断すれば、「三身」とは「身体の法則性」、「報われる身体」、「応じる身体」である。「身体の機能性」である。
 この「無色、無形の真実の体」の「真実の体」の「理解」は「悟る部分の脳機能」の「認識・記憶・思惟・思考・心象=イメージ(Mental image)・判断」の「領域」である。この領域の中では「無色・無形」の「電気と電磁波」が飛び交っている。電気の流れは身体に張り巡らされた「神経系」の「有腺」を通じて脳と身体全体の相互のやりとりのシグナルに使用されている。そして「電磁波」だが、これは身体を包んでいる「オーラ」である。これは身体のすべての「個々の細胞」に「脳」から発信された「電磁波」を無線でシグナルを送っている電波の網である・・・動物は「有腺」、「無腺」を通じて身体のバランスをとっている、という事だ。「全体を形成」している「個々の細胞」が「万能細胞」を有していると言うことは、昆虫の複眼に例(譬・喩)えるならば、複眼を形成している多数の個々の眼には同じものが映って、脳ではそれらの映像が一つに統一されて判断されている、と言うことである。これは、「眼を形成している細胞」だけではなく、身体全体の個々の細胞が同じシグナルを同時に発信、享受する「同じ機能」を有していると言うことである。「身体のを形成している個々のすべての細胞は同じ遺伝子」を有し、「全体を形成する機能」、「再生機能」を有している。最近は「ホメオタシス」と言うコトバを聞かないが・・・「恒常性、ホメオスタシス(Homeostasis・ホメオステイシス・ギリシア語でΟΜΟΙΟΣΤΑΣΙΣ=ホモイオスタシス)・生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず生体の状態が一定に保たれる性質、状態」・・・「植物」のバランス情報はそれ自身の個々の細胞が発している「電磁波」である。そして、植物(サボテン=仙人掌)と人間との「会話」はコレだろう・・・だが、「生体の内部や外部の環境因子の変化」にかかわらず「生体の状態が一定に保たれている」のではない。「自分も含めた相互環境の変化の中」での「恒常的バランス」で、「恒常性」とは「変化のプロセスの枠内」のコトだから、「無常」である。「万能細胞」の「始原のスイッチ」はダレが押しているかって?・・・「宇宙存在」それ自身の蠢きである、とだけは言える・・・「神」も「ネを申す」だから・・・「あの時、親父が特攻隊で死んでいれば、今現在の俺もいないワケだから(サラリーマン金太郎←高橋克己・NHKTV番組)」・・・「蠢いている人間社会の恒常性」とは「破壊と復興と破壊」か、「復興と破壊と復興」・・・?・・・切れ目が有るようで切れ目が無いスパイラルで「数の意識」・・・
 「真理」とは「心理」であるかな・・・
 「釈迦」とは「認識対象=空(存在)=無(存在)=ゼロ(零・存在の全て・凡て)」を「認識する存在=有=統べて=名示」なのが「人間の真理」であると「悟ったヒト(存在)」なのである・・・すなわち「真実の体」ではなく、「身体の真実」を悟ったのだ・・・「無色・無形」が対象認識以前の「存在」である、と・・・そして「涅槃」は悟るコトではなく、「地球の、宇宙の塵となるコト」だった・・・「ほとけ」を解説している坊主、学者は己の立場をハッキリさせて「涅槃」の漢字をよくよく検討してみるべきだな・・・「釈迦」が「釈(シャク・ヤク・セキ・エキ・とく・ときほぐす)」と「迦(カ・ケ・であう)」の人名である。
 解釈、釈明、釈放、保釈の「釈」の部首は「(ハン・ベン・わける・わかつ・わかれる・播くの源字)=ノ+米」で、採用、根菜、采女、采配の「(サイ・とる・えらぶ)」とは異なる漢字である。大修館漢和辞典には「采配」は「国語の熟語」である、と説明されている。
 ・・・これじゃぁ漢字の謎解きには面白いが、「類字・類似」の詳細な「相異」は日常生活には役に立たないし、関係ないである。まったくであるカナ、東北の飢饉、飢餓を目のあたりにした「横井小楠(文化六年八月十三日・1809年9月22日〜明治二年一月五日(1869年2月15日)」さん・・・暇人の時間潰しだが、コレが「日本語」だから・・・
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 ・・・蜜柑(みかん)、柑橘(カンキツ)の「橘の姓」を有する「女性」のコトだった・・・「犬養 三千代」こと、「橘(たちばな)三千代(みちよ)」である・・・
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 「県の犬養」・・・「犬養毅安政二年四月二十日・1855年6月4日〜昭和七年・1932年5月15日暗殺・文部大臣第十三・三十一代目・1911年(明治四十四年)孫文辛亥革命支援で中国へ渡航・1929年(昭和四年十月)立憲政友会総裁」は縁戚の子孫だったのカモ・・・それとも「懸けられた」・・・ハナシテモワカラナイ?515事件・・・「犬養」とは「羊使い」か、「犬闘使」だろう。「遣唐使・遣隋使」には「推古二十二年・614年〜615年推古二十三年・615年・第五回」の「遣隋使」は「犬上御田鍬(イヌのカミ・音たすき)→兼条音伝修→県嬢偽与伝習?日本書紀)」であった・・・それとも「犬公方」の「徳川綱吉(正保三年一月八日・1646年2月23日〜宝永六年一月十日・1709年2月19日・幼名は徳松・別名は 松平綱吉・通称は松平右馬頭、館林参議)」・・・
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 県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ)
 天智天皇四年(665年)? 〜
 天平五年(733年2月4日)
 一月十一日
 「橘(たちばな)三千代」とも言う
  キツサンセンダイ
 『新撰姓氏録
 『尊卑分脈』によれば
 父は
 県犬養東人
 東人の事跡は不明で母も不詳
 出仕時期から
 天智四年(665年)
 出生の可能性が考えられている。
    ↑
 ・・・「666年」でもイイカモ・・・

 県犬養氏
 屯倉を守護する
 伴造氏族のひとつ
 壬申の乱では
 県犬養大侶が
 大海人皇子天武天皇)に
 近侍
 天武天皇十三年(684年)に
 宿禰姓を賜った。

 出仕時期不明
 天武八年(679年)には
 「氏女の制」により
 豪族女性の出仕年齢が
 十五歳前後に定められ、
 三千代も同年に
 命婦として
 宮中に仕えたと考えられている。
 配属先不明
 和銅元年(708年)
 十一月
 元明天皇から橘宿姓を賜った
 養老五年(721年)
 五月
 元明太上天皇の病
 平癒を祈念して仏門
 天智天皇の娘で
 草壁皇子の妻となった
 阿閉皇女(元明天皇)に
 出仕した可能性が考えられている
 敏達天皇皇親である
 美努王に嫁し
 葛城王(後の橘諸兄
 佐為王
 牟漏女王を生む
 天武天皇十三年(684年)
 第一子
 葛城王を出生
 軽皇子(後の文武天皇)は
 天武天皇十二年に出生しており、
 元明天皇と三千代の主従関係から、
 三千代は軽皇子
 乳母(めのと・ニュウボ)を
 務めていたと考えられている

 「美努王」と離別(時期不詳)し、
 藤原不比等
 後妻となり、
 光明子
 多比能を生んだ(多比能の母に関しては異説あり)
 不比等
 持統天皇三年(689年)
 段階で
 直広肆・判事の職にあった
 少壮官僚
 持統天皇十年(696年)には
 高市の死去に伴い
 不比等は政権中枢に参画
 文武天皇元年(697年)
 八月には
 不比等の娘
 宮子が
 即位直後の
 文武天皇夫人となり、
 藤原朝臣姓が
 不比等とその子孫に
 限定され
 藤原氏=不比等家が成立
 不比等の栄達の背景には、
 阿閉皇女の信頼を受けた
 三千代の存在があった

 『続日本紀』に拠れば
 慶雲四年(708年)
 七月壬午(17日)には
 阿閉皇女が即位(元明天皇
 和銅元年
 十一月には
 大嘗祭が行われた
 元明即位に伴い
 不比等
 右大臣に任じられた
 『続日本紀』には
 三千代に関する
 記事が見られない
 葛城王の上奏文によれば、
 癸未(二十五日)の御宴において
 三千代は
 元明から
 天武天皇の代から
 仕えていることを
 称されて杯に浮かぶ橘とともに
 橘宿禰
 姓を賜り、
 橘氏の実質上の
 祖となった
 県犬養一族のなかで橘姓への改姓は三千代のみ
 三千代は
 改姓後も
 県
 犬養一族に属し続けていた
 大宝元年の年記を持つ
 「道代」木簡と
 大宝三年の
 年記を持つ
 木簡群に含まれる
 「三千代」木簡が出土
 橘姓への
 改姓と
 同時に
 名も
 道代から
 三千代に
 改名したと考えられている
 同年五月には
 前夫の美努王が死去
 
 元明の即位後は
 宮人筆頭として
 不比等とともに朝廷において影響力を強めた
 『続日本紀』に拠れば
 三千代は
 養老元年(717年)に
 従三位に引き上げられた
 これが
 正史における
 三千代の
 初見となっている
 養老元年以前の三千代の
 職掌・位は不明
 霊亀元年(715年)時点で
 従四位・尚侍の任にあったと考えられている
 翌
 霊亀二年(716年)には娘の
 安宿が
 皇太子首(聖武天皇)の
 后(キサキ)となり(光明皇后
 同時期には
 県犬養唐の娘
 広刀自も
 首のキサキとなっており、
 三千代の推挙と考えられている
 養老四年(720年)には
 夫の
 不比等が死去
 『続日本紀』に拠れば
 翌
 養老五年
 正三位に叙せられ、
 宮人としての最高位に叙
 同年
 元明天皇
 危篤に際し
 出家
 733年(天平五年)
 一月十一日に
 薨去
 死後の
 同年
 十二月二十八日に
 従一位
 760年(天平宝字四年)
 八月七日に
 正一位
 大夫人の
 称号を贈られた
 伝橘夫人念持仏(法隆寺
 『万葉集
 巻十九には、
 神護四年(727年)に
 光明子に皇子が誕生した際に
 三千代が詠んだと考えられている
 県犬飼養命婦の和歌が収められている
 法隆寺大宝蔵院には
 三千代の念持仏と伝えられる
 伝橘夫人厨子
 内部に収められる
 阿弥陀
 三尊像が伝来している
ーーーーー
 ・・・・?????・・・である・・・
 原文添付
県犬養三千代 - Wikipedia