1031日目・・・「新井白石」→白石→七ヶ宿→蔵王山麓→刈田郡→宮城県→仙台→伊達政宗→愛(めご)媛→五六八(伊呂波・以呂波)姫→支倉常長・・・漢字の読み方はこの日本では「音訓」で色々な読み方をしてきた・・・「有職読み(ゆうそくよみ)」は、古来からの慣例に従って、漢字で書かれた語を特別な読み方で読むこと。故実読み(こじつよみ)、名目(みようもく)、名目読みと同じ。例として「笏(こつ)」を「しゃく」と読む、「定考(じようこう)」を「こうじょう」と読むなど・・・と、ウイッキペデアに紹介されている。

 そもそも「有職故実」は「朝廷や公家、武家の昔からの行事や法令・儀式・制度・ 官職・風俗・習慣の先例、典故」で、それらを研究する学問であるらしい。
 「有職」は「ゆうしょく・ゆうそく・ゆうそこ」とも読み、「」は、もと「」と書いたらしい。
 「有職」は、平安時代末期までは「有識」と書いて「ゆうしょく」「ゆうそく」「ゆうそこ」
 「職(ショク)=耳+音+戈」で、「識(シキ)=言+音+戈」である。「耳」と「言」が異なる漢字である。「耳」は「音の聞分け」で、「言」は「口の言分け、言い訳」である。「文字」の「書き分け」とは「字形の区分、分類」である。もちろん、意味においても「職業・就職・職場・職域・住職・重職・退職」と、「見識・知識・認識・意識・面識・常識・鑑識・識別・博識・識者・阿頼耶識(あらやしき)」は異なるのである。だが「職」、「識」、「織」は同音の「シキ」でも音読みされている。「業の技(伎)を有している」と「知の記憶を有している」とは「機能的に異なる分野」である。
 「有職」は、鎌倉時代以来、慣用して「有職」と書き「ゆうしょく」
 「有職」は江戸時代も公家はこの読みを踏襲した
 「有職故実(ゆうそくこじつ)」とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること。
 「仕儀・次第」というコトバもある・・・
 「有識」とは過去の先例に関する知識
 「故実」とは公私の行動の是非に関する説得力のある根拠・規範の類を指す
 それらの知識に通じた者を「有識者(ゆうそくしゃ)」

 公家故実
 知識の体系化が進み、藤原忠平の執政期に儀礼の基本形が確立
 忠平の知識は
 口伝によって二人の子に受け継がれた
 兄の実頼の小野宮流
 弟の師輔の九条流
 また
 忠平五男
 師尹の小一条流
 九条流から御堂流が成立
 院政期には
 源師頼を祖とする
 土御門流(村上源氏系)と
 源有仁を祖として縁戚の
 徳大寺実定・三条実房が完成させた
 花園流(閑院流系)もあったとされている
 後に官司請負制が浸透すると
 有職故実を家職とする家
 徳大寺家(九条流
 大炊御門家(御堂流)も現れた

 有職故実書の中でも
 源高明の『西宮記
 藤原公任の『北山抄』
 大江匡房の『江家次第』の
 三書は「後世の亀鑑」と仰がれ別格扱い
 室町時代
 一条兼良はこの三書を、
 『西宮記』は
 古礼、
 『北山抄』は
 一条天皇の時代以降の儀式、
 『江家次第』は
 後三条天皇の時代以後の儀式と記している。

 鎌倉時代以降には専門分化した研究が盛んとなり、
 儀式については
 順徳天皇の『禁秘抄』・・・・・「記務比証」
 後醍醐天皇の『建武年中行事』・「兼分年中行字」
 一条兼良の『公事根源』・・・・「句字根元」
 官職制度については
 北畠親房の『職原抄』・・・・・「史記言証」
 服飾については
 源雅亮の『雅亮装束抄』などの・「臥教宗族称」
 有職故実書が著された

 武家故実
 平安時代には、武人の故実(武官故実)は、紀氏と伴氏が伝えていたが、武士の台頭とともに衰えた。

 鎌倉時代には、源頼朝故実に通じた武士を重んじ、故実の復元を図った
 武官故実と関東在来の武士の慣習が合わさって、武家故実が体系化

 江戸時代以後、河内国
 壺井義知は民間の出ながら、官職・装束の研究においては当代随一とされた。
 平松時方・野宮定基・滋野井公麗・裏松光世(固禅)
 田安宗武松平定信
 塙保己一などが研究家として知られている。
 武家故実の第一人者
 伊勢貞丈(伊勢氏一族)が多数の著作を著わした
 『本朝軍器考』を著わした
 新井白石
 榊原長俊(伊勢貞丈の弟子)
 中山信名(塙保己一の弟子)などが研究家
ーーーーー
 「新井白石」→白石→七ヶ宿→蔵王山麓→刈田郡宮城県→仙台→伊達政宗→愛(めご)媛→五六八(伊呂波・以呂波)姫→支倉常長
 振袖地蔵・傾城(ケイセイ・ケイジョウ)森・双子山・不亡山・長老湖・滑津大滝・二階滝・

 新井 白石(あらい はくせき)
 江戸時代中期の旗本・政治家・学者。学問は朱子学歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に渡る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。
 白石は号で、諱は君美(きみよし、有職読みで きんみ)。

 祖先
 上野国
 新田郡
 新井村(群馬県太田市)の土豪
 豊臣秀吉小田原征伐によって没落
 父・正済は
 上総
 久留里藩に仕官し、目付役

 白石は
 明暦の大火の
 翌日の
 明暦三年(1657年)二月十日、焼け出された避難先で生まれた。
 藩主
 土屋利直は
 白石のことを
 「火の子」と呼んで可愛がった
 利直の死後、藩主を継いだ
 土屋直樹には狂気の振る舞いがあり、父の正済は仕えるに足らずと一度も出仕しなかったため、新井父子は
 2年後の
 延宝5年(1677年)に土屋家を追われる。
 その後
 直樹が
 改易されると、
 白石は
 大老
 堀田正俊に仕えた
 その正俊が
 若年寄
 稲葉正休に殿中で刺し殺され、
 堀田家は
 古河・山形・福島と
 次々に
 国替を命じられて藩財政が悪化
 白石は堀田家を自ら退いて浪人
 
 豪商の
 角倉了仁から「知人の商人の娘を娶って跡を継がないか」と誘われた
 河村通顕(河村瑞賢の次男)から「当家の未亡人と結婚してくれれば3000両と宅地を提供する」という誘いを受けた
 白石は好意に謝しつつも、「幼蛇の時の傷はたとえ数寸であっても、大蛇になるとそれは何尺にもなる」という喩えを引いて断った
 貞享3年(1686年)になって
 朱子学
 木下順庵に入門
 順庵の門下生
 雨森芳洲、室鳩巣、祇園南海等
師匠の順庵は白石の才能を見込んで、加賀藩への仕官を見つけてきてくれた。白石も後年、「加州は天下の書府」と賞賛しているように、加賀藩前田綱紀のもとで学問が盛んであった。
 ところが
 同門の
 岡島忠四郎から
 「加賀には年老いた母がいる。どうか、貴殿の代わりに私を推薦してくれるよう先生(順庵)に取り次いでいただけないでしょうか」と頼まれ、岡島にこのポストを譲った。
 順庵は元禄6年(1693年)、甲府藩への仕官を推挙
 白石三十七歳
 甲府藩主
 徳川綱豊
 甲府藩の提示した内容は、
 当初
 三十人扶持の俸禄
 改めて
 四十人扶持

 正徳の治
 徳川綱吉
 多額の支出をして寺社を建立
 生類憐れみの令
 子宝に恵まれず、
 徳川綱豊を
 将軍世子として
 西丸に入れた。

 宝永六年(1710年)
 綱豊は名を家宣と改め、将軍
 側用人
 松平輝貞・忠周を解任
 大学頭
 林信篤を抑えて、
 白石にその
 職責の
 大半を
 代行
 家宣は甲府家から
 白石や
 間部詮房
 自身の側近とした
 白石の身分は500石取り(のち正徳元年1000石に加増)の
 本丸寄合
 無役の旗本なので、御用部屋に入るわけにはいかない。
 家宣からの諮問を側用人
 間部が白石に
 回送し、
 それに
 答えるという
 形を取った
 将軍侍講として幕政の運営
 白石は旧守派の幕臣からは
 「鬼」と呼ばれた。

 家宣が没すると、
 その子の
 七代将軍
 徳川家継の下でも引き続き
 間部と共に政権を担当
 家継が夭逝して
 八代将軍に
 徳川吉宗が就くと
 白石は失脚

 朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によってことごとく覆された。また、白石が家宣の諮問に応じて提出した膨大な政策資料が廃棄処分にされたり、幕府に献上した著書なども破棄された。
 江戸城中の御用控の部屋、神田小川町千代田区)の屋敷も没収
 一旦、
 深川
 一色町江東区福住1-9)の屋敷に移るが、
 享保二年(1717年)に
 幕府より与えられた
 千駄ヶ谷の土地に
 隠棲
 晩年
 著作活動
 諸大名の家系図を整理した
 『藩翰譜』、『読史余論』、
 古代史について書いた
 『古史通』、
 白石自身
 「奇会」と断言した
 シドッチへの尋問後に記した
 西洋事情の書
 『西洋紀聞』『采覧異言』、
 琉球使節
 程順則・名護親方寵文
 向受祐・玉城親方朝薫
 などらとの会談で得た情報等をまとめた
 『南島志』
や、
 回想録
 『折たく柴の記』などを残した。
 『古史通或問』の中では、古代史上最大の謎といえる
 邪馬台国の位置を大和国と主張
 邪馬台国近畿説が後に
 本居宣長が主張した
 邪馬台国九州説とともに
 双璧を成す

 『采覧異言』の
 終訂(自己添削)が
 完了した
 五、六日後の
 享保十年(1725年)五月十九日死去
 享年六十九(満六十八歳没)
 墓所は中野区の高徳寺

 通貨吹き替え→通化付記換え
 第五代将軍綱吉の時代に荻原重秀の通貨政策により
 大量に鋳造された
 元禄金銀および→言録禁務義務
 宝永金銀を→訪英(報洩)今義務
 回収し、→海舟(改修・会衆・甲斐州・改宗)
 家康の「貨幣は尊敬すべき材料により吹きたてるよう」の言葉に忠実に
 慶長金銀の、→傾聴(計帳)筋(金武)吟(戯鵡・義務)
 品位に→本位(本意・翻意)
 復帰する、→複記・葺く記
 良質の→両櫛(漁執)
 正徳金銀を鋳造して、→称徳(聖徳・生得)筋義務(筋疑務)を鋳造
 主観的にはインフレの沈静に努めた。だが、実際には経済成長に伴う自然な通貨需要増に対応した前政権の政策を無にする
 「白石デフレ」を引き起こすことなったとも言われる
 (大石慎三郎などの研究による)。
ーー
 ・・・「白石デフレ?」とは恐れ入った・・・けれど・・・日銀、白の意思、意志、遺志、代の遺志、異史(詞)?・・・「白川 方明(しらかわ まさあき・1949年9月27日〜)は、日本の銀行家、経済学者(金融政策・決済システム)。学位は経済学修士シカゴ大学)・第三十代日本銀行総裁」・・・?・・・
日本銀行審議役、日本銀行理事、京都大学大学院公共政策教育部教授、東京大学金融教育研究センター客員研究員等を歴任」・・・「白川でふれ?」・・・が「白石デフレ」と重なるのは偶然なのか必然なのか・・・兎に角、「紙幣」の洪水「インフレ」は「貧乏人」と「老人」には不利で、不離ある・・・「悪貨(紙=カミ)は良貨(金=モノ)を駆逐(保存=隠匿)する」は「貨幣経済」の「必然心理」である・・・
ーー
 長崎貿易の縮小
 開幕以来の長崎貿易で大量の金銀が海外に流出したため、これを縮小する政策(海舶互市新例)を取った。
 朝鮮通信使の待遇の簡素化
 朝鮮通信使接待は幕府の財政を圧迫するとし、朝鮮通信使の待遇を簡略化させた(この一件は順庵の同門だった対馬藩儒・雨森芳洲と対立を招いた)。
 対朝鮮文書の将軍家の称号を
 「日本国大君」・・・・・・二本語句、代訓
  から
 「日本国王」とした。・・・似本、故句緒得
 シドッチ密航事件・・・・・詞、どっち、密行、字懸
 ローマ教皇からの命で・・・羅馬
 キリスト教
 布教・・・・・・・・・・・附経
 復活のため・・・・・・・・譜通化
 日本へ密航して捕らえられ、
 長崎を経て
 江戸
 茗荷谷・・・・・・・・・・茗荷谷(みょうがだに)
              駅南方の地上には
              留置線と
              車両修繕工場が
              併設
              駅番号は「M 23」
    茗荷(冥加)→「食べるとモノ忘れがひどくなる」という俗説
           落語にも登場。
 ボクもカナリ、ソウトウなボケ・・・メモっても、メモった箇所やノートそのものを何処にやったんだか・・・
 以下にブログ記事にあった「茗の荷(蓮・ニ・はす・なり)」の抜粋記事を添付・・・

釈迦の弟子である周利槃特(梵語:チューラパンタカの音写で、しゅりはんどく、スリバンドクなど)は記憶力に乏しい人物で、自分の名前すら忘れてしまう。そこで名荷(みょうが:名札の事)を首にかけさせたが、名荷をかけたことさえも忘れてしまった。そこで名荷と茗荷が同音である事から、このような俗信が生まれたとされる。
ーー
名前の由来
大陸からショウガとともに持ち込まれた際、香りの強いほうを「兄香(せのか)」、弱いほうを「妹香(めのか)」と呼んだことから、これがのちにショウガ・ミョウガに転訛した[3]との説が有力である。
名前の由来に関しては、下記の俗説もある。
釈迦の弟子である周利槃特が、自分の名前を忘れてしまうため、釈迦が首に名札をかけさせた。しかし名札をかけたことさえも忘れてしまい、とうとう死ぬまで名前を覚えることができなかった。その後、死んだ周梨槃特の墓にいくと、見慣れない草が生えていた。そこで「彼は自分の名前を荷って苦労してきた」ということで、「名」を「荷う」ことから、この草に茗荷と名付けた。
この説は前節の俗信「物忘れがひどくなる」がさらに派生したものである。これは、民話「みょうが宿」が起因となり、世の人々の評判になって知れ渡ったことで前節の俗信が一般化した。
ーー
釈迦の弟子である周梨槃特(スリハンドク)の話であるが、彼は、仏道に優れ悟りまで開いた人物だが、どういうわけか、自分の名前を忘れてしまう。ふびんに思った釈迦が、首から名札をかけさせたが、そのことさえも忘れてしまいとうとう死ぬまで自分の名前を覚えることができなかった。
死後、お墓に見慣れぬ草が生えてきた。一生自分の名前を荷(にな)って苦労したということから「茗荷(みょうが)」と名づけられたということ。

 キリシタン屋敷
 拘禁されていた
 シドッチを取り調べ、
 本国送還が
 上策と
 建言
 白石はこの事件により得た知識をもとに
 『西洋紀聞』『采覧異言』を記した。

ーーーーー
 「白石」の地名
 七ヶ宿町は、蔵王連峰の名峰不忘山を擁し、白石川の清流など自然環境に恵まれ、七ヶ宿ダムがある水源の町であります
 七ヶ宿町は蔵王連峰の南麓、宮城県の最南西部に位置し、福島・山形両県と境界を接し、奥羽山脈の東南斜面の一帯を占め、広大な高原の町。

 山形との県境・金山峠の宮城県側、鏡清水に源を発する白石川は蔵王連峰からの水流を集め、町のほぼ中央を潤し、これに沿うようにして集落が形成
 刈田郡(かったぐん)は、宮城県南部の郡。令制国下では陸奥国(のち磐城国)に属す。
 以下の2町を含む。
 蔵王町(ざおうまち)
 七ヶ宿町(しちかしゅくまち)
ーーーーー
 七ヶ宿町(しちかしゅくまち)
 宮城県南西部
 刈田郡に位置する町

 宮城県南西部に位置し、
 福島県山形県に接する。
 蔵王連峰の南に位置し、山がちな地形である。
 主要な集落は白石川の渓谷沿いにある。
 町名の由来
 羽州街道奥州街道を結ぶ街道・「山中通小坂越」(山中七ヶ宿街道)沿いの仙台領内に
 七つの宿場
 上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原
 が置かれたことによる。
 この街道は白石川沿いに町を東西に貫いており、
 現在は
 国道113号となっている。
 稲子地区は、伊達領の国境警備の場所であり、その足軽の子孫などが現在でも居住している。
 宮城県南西部、蔵王連峰の麓に位置する町
 山:蔵王連峰、舟引山、二ツ森山、番城山、フスベ山
 河川:白石川
 湖沼:長老湖
 ダム:七ヶ宿ダム
 隣接自治
 宮城県白石市刈田郡蔵王町
 山形県上山市東置賜郡高畠町
 福島県福島市

 1869年明治元年12月7日(1869年1月19日)
 刈田郡磐城国の所属となる。
 1871年明治4年11月2日(1871年12月13日)
 平県の所属となる。
 1876年(明治9年)8月21日
 宮城県に移管される。
 1889年(明治22年)4月1日
 町村制施行に伴い、
 関村、渡瀬村、滑津村、湯原村が
 合併して七ヶ宿村となる。
 1957年(昭和32年)4月1日
 町制施行して七ヶ宿町となる。
 1991年(平成3年)10月22日
 七ヶ宿ダム竣工。
ーーー
 刈田郡(かったぐん)は、宮城県南部の郡
 令制国下では陸奥国(のち磐城国)に属す
 以下の
 二町を含む
 蔵王町(ざおうまち)
 七ヶ宿町(しちかしゅくまち)
 明治十一年(1878年)に行政区画として発足した当時の
 郡域は、上記2町のほか、
 白石市を加えた地域
 養老五年(721年)10月
 柴田郡のうち南部の苅田郷・篤借郷を割いて、
 苅田郡として独立成立
 平安時代中期(10世紀前半)に成立した
 『和名類聚抄』によれば、
 篤借郷・苅田郷・坂田郷・三田郷の四郷が置かれていたとある。

 鎌倉時代以降は
 奥州藤原氏の一族と称する
 白石氏(刈田氏)が刈田郡の中心勢力となる。
 白石氏は伊達政依の子
 宗弘を養子に迎える
 刈田郡内には伊達氏の影響が強く及んでいた
 戦国時代には
 伊達稙宗の勢力拡大に従って
 白石氏をはじめとする刈田郡内の諸勢力はその
 傘下に組み込まれ、以後は伊達氏の部将として活動
 天正14年(1586年)
 白石城
 白石宗実が伊達政宗により
 安達郡宮森城に移され、
 白石氏は刈田郡を去った

 天正十八年(1590年)
 政宗豊臣秀吉に降伏
 同年の奥州仕置で刈田郡は伊達領と確定され、引き続き領有を許された
 天正十九年(1591年)
 政宗による葛西大崎一揆煽動工作が露見したため
 伊達氏は岩出山城へ減転封
 刈田郡は長井・信夫・伊達・田村・安達の各郡と共に
 会津
 蒲生氏郷に与えられた
 慶長三年(1598年)には
 蒲生氏に代わって会津に入封した
 上杉景勝の領地となった
 慶長五年(1600年)の
 関ヶ原の戦いに際して徳川家康から
 刈田郡を含む上記の
 旧領六郡の自力回復を許された
 白石城をはじめとする刈田郡内の諸城を
 上杉氏から奪還し、刈田郡仙台藩領となった
 政宗
 慶長七年(1602年)
 重臣
 片倉景綱白石城主とし、
 藩境西南の固めを任せた。
 白石城
 一国一城令
 例外として扱われ、
 以後幕末に至るまで代々
 片倉氏が城主を務めた
 江戸時代を通じて郡の過半は
 片倉氏の
 知行地であった

 幕末時点では全域が陸奥仙台藩
 『旧高旧領取調帳』に記載されている
 明治初年時点に存在した村は以下の通り
 33村
 白石本郷、蔵本村、森合村、長袋村、八宮村、郡山村、鷹巣村、坂谷村、中目村、斎川村、越河村、五賀村、平村、三沢村、犬卒都婆村、小奥村、内親村、小下倉村、深谷村、宮村、曲竹村、矢附村、塩沢村、円田村、平沢村、小原村、関村、滑津村、渡瀬村、湯原村、大町村、小村崎村、津田村
 明治元年(1868年)
 仙台藩戊辰戦争に敗北
 刈田郡は没収
 同年12月12日(西暦では翌1869年1月)に
 盛岡藩から移された
 南部利恭の領地となったが、
 半年後に南部氏は盛岡へと復帰

 明治元年9月24日(1868年11月8日)
 仙台藩伊達慶邦薩長軍に降伏
 全領土62万石を没収
 明治元年12月7日(1869年1月19日)
 陸奥国の分割にともない、
 刈田郡岩代国の所属となる
 明治元年12月24日(1869年2月5日)
 白石城に転封された白石藩主南部氏(旧盛岡藩主)の所領となる。
 明治2年8月7日(1869年9月12日)
 南部氏の盛岡復帰にともない、
 旧白石藩領を以て
 白石県を設置。
 明治2年11月27日(1869年12月29日)
 白石県が角田県に改称。
 明治2年12月8日(1870年1月7日)
 伊具郡と共に磐城国の所属に変更される。
 明治4年11月2日(1871年12月13日)
 第1次府県統合により仙台県の管轄となる。
 明治5年1月8日(1872年2月16日)
 仙台県が宮城県に改称。
 明治9年(1876年)4月22日
 磐前県に移管される。
 明治9年(1876年)8月21日
 第2次府県統合により宮城県に復帰する。
 明治11年1878年)7月22日
 郡区町村編制法の施行にともない、柴田郡と共に柴田・刈田郡役所の所轄となる(郡役所は柴田郡大河原村に設置)

 磐城国(いわきのくに)
 戊辰戦争終結直後の
 1869年1月19日(明治元年旧暦12月7日)
 陸奥国が分割されて設立された
 東山道に位置
 別称は
 磐州(ばんしゅう)
 領域は、
 現在の
 福島県浜通り
 福島県中通りのうち
 白河郡、
 宮城県南部に当たる。

 岩代国
 福島県の中部を分割する形
 現在の
 福島県浜通り全域、
 福島県中通りのうち
 白河郡、
 宮城県のうち亘理郡伊具郡刈田郡が範囲
 
戊辰戦争後の
 西暦1869年1月19日(明治元年旧暦12月7日)
 陸奥国
 分割
 岩代国磐城国陸前国陸中国陸奥国 (1869-)の
 五国が設立

 範囲は
 718年〜720年代まで存在した
 律令時代の
 「石城国」と似ているが、
 律令時代の
 石城国とは異なり、
 阿武隈山地を越えた内陸地域が含まれている
 現在の福島県中通りの白河郡、石川郡、田村郡、現在の宮城県刈田郡伊具郡が、内陸地域

 磐城国の領域
 にあった藩
 相馬中村藩
 三春藩
 守山藩水戸藩支藩
 磐城平藩
 棚倉藩
 湯長谷藩
 泉藩
 以下、陸奥国から分立前に廃止された藩
 白河藩
 白河新田藩(白河藩支藩
 浅川藩
 窪田藩

 「旧高旧領取調帳」

 刈田郡 - 仙台藩
 伊具郡 - 仙台藩
 亘理郡 - 仙台藩
 宇多郡 - 幕府領、相馬中村藩仙台藩
 行方郡 - 相馬中村藩
 標葉郡 - 相馬中村藩
 楢葉郡 - 幕府領、棚倉藩、下総多胡藩
 磐城郡 - 幕府領、棚倉藩、磐城平藩常陸笠間藩
 磐前郡 - 幕府領、棚倉藩、磐城平藩湯長谷藩常陸笠間藩
 菊多郡 - 旗本領、棚倉藩、磐城平藩湯長谷藩泉藩
 田村郡 - 幕府領、旗本領、三春藩守山藩常陸笠間藩
 石川郡 - 幕府領、白河藩常陸笠間藩常陸土浦藩、下総多胡藩
 白川郡 - 幕府領、棚倉藩、下総小見川藩
 白河郡 - 幕府領、白河藩、越後高田藩

 慶応2年6月19日(1866年7月30日)
 白河藩が棚倉藩に転封(元の棚倉藩は武蔵川越藩に転封)
 旧領は幕府領となり、二本松藩が管轄。
 慶応4年
 2月1日(1868年2月23日)
 棚倉藩が白河藩に転封(実行されず)。
 8月8日(1868年9月23日)
 戊辰戦争後の処分により、
 幕府領・磐城平藩領・棚倉藩領が磐城平民政局の管轄となる。
 9月24日(1868年11月8日)
 戊辰戦争後の処分により仙台藩が廃藩。
 明治元年
 12月7日(1869年1月19日)
 陸奥国が分割され、
 上記のうち刈田郡伊具郡岩代国、残部と伊達郡磐城国の所属
 磐城平藩戊辰戦争の責任を問われて減封。
 磐前郡の棚倉藩領および
 磐城平藩領の一部が
 相馬中村藩笠間藩取締地となる。
 相馬中村藩取締地は
 桑折県を称した
 楢葉郡の棚倉藩領、磐城郡の棚倉藩領・笠間藩領の各一部、菊多郡の泉藩領・湯長谷藩領・棚倉藩領の各一部が三春藩取締地となる。
 12月24日(1869年2月5日)
 旧仙台藩から没収された
 刈田郡白石城盛岡藩が転封されて
 白石藩となり、国内の仙台藩領を管轄。
 白河藩が棚倉藩に転封(現状に即した形となる)。
 明治二年
 7月20日(1869年8月27日)
 宇多郡の幕府領が福島県(第1次)の管轄となる。
 7月22日(1869年8月29日)
 白石藩が盛岡藩に再転封
 8月7日(1869年9月12日)
 幕府領・旗本領と
 相馬中村藩笠間藩三春藩取締地に白河県を設置。
 県庁を
 白河小峰城に設置
 旧白石藩領に
 白石県を設置
 県庁を
 白石城に設置。
 11月27日(1869年12月29日)
 白石県が県庁を伊具郡角田城に移転し、
 角田県に改称。
 12月
 岩代国刈田郡伊具郡磐城国磐城国伊達郡岩代国の所属に変更。
 明治初年
 土浦藩の領地替えにより、国内の領地が
 白河県の管轄となる。
 明治3年12月24日(1871年2月13日)
 守山藩が藩庁を移転して常陸松川藩となる。
 明治4年
 7月14日(1871年8月29日)
 廃藩置県により藩領が中村県、棚倉県、磐城平県、湯長谷県、泉県、三春県および多胡県、笠間県、松川県、小見川県、高田県の飛地となる。
 11月2日(1871年12月13日)
 第1次府県統合により、
 刈田郡伊具郡亘理郡および宇多郡の一部(旧・仙台藩領)が宮城県
 白河郡が二本松県、残部が
 平県の管轄となる。
 11月14日(1871年12月25日)
 二本松県が
 福島県(第2次)に改称。
 11月29日(1872年1月9日)
 平県が
 磐前県に改称。
 明治9年(1876年)
 4月22日
 刈田郡伊具郡亘理郡および
 宇多郡の一部(旧・仙台藩領)が
 宮城県から
 磐前県に移管。
 8月21日
 第2次府県統合により、
 刈田郡伊具郡亘理郡
 宮城県に復帰し、
 残部が
 福島県の管轄となる。

 神社
 延喜式内社
 『延喜式神名帳
 大社4座4社は以下に示すもので、全て
 名神大社
 白河郡
 都都古和気神社 - 陸奥国一宮を主張
 全国一の宮会にも加盟している。
 苅田
 苅田嶺神社
 行方郡
 多珂神社
 宇多郡
 子負嶺神社

 郡
 白河郡(現西白河郡
 白川郡(現東白川郡
 石川郡
 刈田郡(現宮城県域)
 菊多郡
 磐前郡
 磐城郡
 楢葉郡
 標葉郡
 行方郡
 宇多郡
 伊具郡(現宮城県域)
 亘理郡(現宮城県域)
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