1030日目・・・・・・明治十六年三月二十二日・・・「故・本居宣長・肖像・自画賛版・権願書控 一冊」・・・「大錦 大五郎(おおにしき だいごろう、1883年3月22日 - 1943年5月18日)は、愛知県海部郡鍋田村稲元(愛知県弥富市)出身の元大相撲力士(京都相撲・大坂相撲)。本名は鳥井 大五郎(とりいだいごろう・チョウイダイゴロウ)・・・

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1883年に山田松次郎の次男として生まれた
 誕生日は3月22日とされているが、3月20日・7月22日など諸説がある
 「稲元の金太郎」という異名を取った。・・・「足柄山の金太郎」は「熊」と戦った・・・
 評判を聞きつけた
 飛石山の勧めで、
 1898年に
 伊呂波部屋(京都相撲)へ入門。

(イロハではなく、アロハの抜粋記事・・・アロハ・オエ(ハワイ語:Aloha `Oe)は、ハワイ王国第8代女王リリウオカラニによって作られた歌この曲の譜面は1895年に発売され、たちまちミリオンセラーの大ヒットとなったが、製作された時期に関しては1883年にサンフランシスコで初演されたという説と、ハワイ(布哇)王国が白人勢力の圧力により崩壊する前後との説二つ・・・相撲(角力)も「裸」、「魏志倭人伝」の「裸国」も「はだか」・・・相模は「よこしま・よこはま・よこすが」・・・「葉拿化(歌)」・・・
 原文は以下に添付
アロハ・オエ - Wikipedia・・・アメ(雨)とキ(木)のコトバの音に留意して日本語訳を読んで欲しい。
 以下は「アロハ(Aloha)」の意味
 愛、慈しみ、感謝、平静、共感などの意味を持つハワイ語
 最も日常的には挨拶として「こんにちは」「さようなら」などの意味として用いられている。・・・感謝でもあるから「アリガトウ・ありがたい」でもかな
 「ALOHAのスペル」には意味があるとされ、
 A - Akahai(上品さ、優しさ)
 L - Lokahi(調和)
 O - Olu'olu(思いやり)
 H - Ha'aha'a(謙虚さ)
 A - Ahonui(忍耐)
 または
 Alo - 一緒にいる
 Oha - 幸福
 ha- 息
 A - 生命
 と説明されることもある)
 ・・・

 十両を1場所で通過、
 1906年2月場所で新入幕
 早い出世に他の部屋から苦情が相次いだため、
 同場所は
 前頭ではなく
 「十両筆頭格」として出場
 1910年に大関へ昇進
 常陸山谷右エ門から東京相撲へ加入するよう誘われたが断念した
 1916年に朝日山が亡くなると、
 遺言通りに
 同年6月場所から1917年6月場所までの3場所を「朝日山」の四股名で出場
 同部屋に所属していた
 二瀬川(のち大関)へ「朝日山」の
 四股名を譲って
 大錦に復名した。
 1918年、35歳にして吉田司家から横綱免許の授与が決定
 第28代横綱へ昇進
 大坂相撲では3人目
 横綱としては5年8場所に渡って務め、
 1922年1月場所を最後に現役引退
 引退後は一代頭取(年寄)・大錦を襲名した後に廃業し、
 曾根崎新地で
 茶屋「京糸」を経営した。
 出身地である
 弥富市稲元の
 彦九田神社には、大錦が寄進した燈籠が残っている。
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 「明治16年3月22日」?・・・「西暦1883年=壱千八百八拾参(年・ネン=念・撚・粘・捻・唸・とし=賭史・徒死・賭死・俊」・・・沖縄(おきなわ)・・・ブログの地名の由来・語源解説では「近世の俗称に由来する地名」で「奈良末期(の記録?)」では「阿児奈波島」とあるらしい・・・「おき」は文字通り「沖」を意味し、「なは(なわ)・なば」は「魚場(漁場)」を意味する「なば」で、「沖合の漁場」であると説明がある。「知恵袋」の解答には「琉球」の呼称は中国人による命名で『明実録』洪武(こうぶ)五年(1372)の記事が初見。以後、この名称は喜界島以南から与那国島までの島嶼地域をさすことばとして定着していたらしい。「琉球王国の成立(1429年)から明治十二年(1879)の琉球処分により王国が廃止されるまでの約450年間、沖縄の公称として用いられた。一方、「沖縄」はすでに8世紀の文献『唐大和上東征伝』に「阿児奈波(オキナワ・オジナワ)」の名で登場し、古謡集『おもろさうし』にも「おきなわ」と明記されているが、「沖縄」と明記したのは新井白石の『南嶋志』(1719年)が最初である。ただし、沖縄はもともとは沖縄島とその周辺離島をさす地域名でしかなく、琉球処分の結果「沖縄県」が設置されるに及んで初めて、現在の県域全体を包括する公称になったものである。元々「琉球リュウキュウ)」であるから「新井白石」には「阿児奈波(オキナワ・オジナワ)」の知識があり、その漢字変換「沖縄(おきなわ)」が漢字として定着したのは「明治」からだろう・・・白石は「万葉仮名の一文字」に意味を採らなかった。立場は「日本語上古文字」は「ことば」の「音写」が要であった。だが漢字は「音写」以前にその「漢字の意味知識を有した者」が「記録」したのである。「伊・呂・波」の一文字の意味を踏まえて記録したのさ・・・で、音読みすれば「沖縄(チュウジョウ)」である。漢字分解すれば「水の中の糸の亀」である。熟語は「チュウジョウ=中将・中条・中條・中城・丑聶・中茸・衷情・柱状・注条」・・・「ホキナワ、ホキナワの本(ホン)、当(ア)て」である・・・「阿児奈波」と記録したのであれば「奈良時代の宮廷倭人のコトバ」では「あ・じ・な・わ」であり、一音、二音、三音、四音の文字区切りの「宮廷倭人」の「意味内容のコトバ」である。区切りには「の」が接続詞が挿入となる。「アのジのナのワ」、「アジのナワ」、「アジナのワ」、「アのジナワ」・・・「あじなわ(は)」、「あごなわ(は)」の意味である。「現存古事記・現存日本書紀」では「アジ」は「阿遅鉏・阿遅志貴・阿治志貴・阿遅須枳・阿遅鋤・味耜」高日子根(高彦根)命とも記される「カミ」である。神社名では「鴨都・味波・八重事代主命」、「高鴨・阿治須岐・託彦根命」の名前である・・・魚名では「鯵・鰺」、禅宗では「阿字」観という瞑想に使用する文字がある。「安治(アジ・アンジ・あわじ)→地名で滋賀県野洲市アワジ・人名でヤスハル」、「庵治(アジ・あんじ)→地名で香川県木田郡のアジ町・庵治半島」の漢字は「あじ」とも読むらしい。意味は「安心、安全、治安」、「庵(いおり)を治(おさむ)」である。
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 伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日)〜明治42年(1909年)10月26日)は、長州藩士、位階は従一位。勲等は大勲位爵位は公爵。称号は名誉博士(イェール大学)。諱は博文(ひろぶみ・ハクブンと有職読み)、幼名は利助(りすけ)、のち輔(春輔、舜輔)とも称した。号は「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」など。「春畝公」と表記されることも多い。
 周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第代の内閣総理大臣および初代枢密院(スウミツイン=数密韻)議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処したことが特記できる。元老。
 アジア最初の「立憲体制=リッケンタイセイ=立件対生・建兼他意姓」の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。ハルビンで朝鮮独立運動家の「安重根=アンジュウコン=案重混」によって暗殺(按冊)。

 「重根」とは「方程式の根ので、等しいものが二つ以上あるときの根。二つが等しい二重根・多項式和歌山県海南市にある地名。→重根 (海南市) また、同所にあった野上電気鉄道の駅→重根(しこね)駅は1916年(大正5年)2月4日 - 野上軽便鉄道(のちに野上電気鉄道)開通と同時に開業。相対式ホーム」・・・ナゼ、「重根」が「しこね」なんだろう、「重婚」、「四股音・力士の四股の音(名)?」、「指呼音、指さして呼ぶ、音のこと・指呼の中(うち)の音・比喩的として目前であること」、「指顧名(音)、指さしてかえりみる名(声)・指図する音(声)」、「醜男(見にくい音故)・醜女(見にくい音名)」である・・・「重婚」は「罪」・・・か・・・?・・・「法治国家の戸籍法」としては「罪」であるが「浮気」と「妾の私有」は男性社会の「法律」では罪ではないらしい。そして「愛国無罪」とは「法外」で、「英雄、尊崇」の対象であるらしい・・・兎に角、「Meaning of しこ (指呼) from NOUBEN(数)」である。
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 沖縄県知事一覧
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 1879年(明治12年)3月の廃藩置県によって設置された
 沖縄県歴代県令
 木梨精一郎
 1879年(明治12年)3月27日〜1879年(明治12年)5月19日
 (県令心得)
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 初代県令
 鍋島直彬
 1879年(明治12年)5月19日〜1881年明治14年)5月18日
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 二代
 上杉茂憲
 1881年明治14年)5月18日〜1883年(明治16年)4月22日
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 三代
 岩村通俊
 1883年(明治16年)4月22日〜1883年(明治16年)12月21日
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 四代
 西村捨三
 1883年(明治16年)12月21日
1886年明治19年)4月27日
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 五代
 大迫貞清
 1886年明治19年)4月27日〜1886年明治19年)7月19日
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 官選知事
 初代 大迫貞清
1886年明治19年)7月19日〜1887年(明治20年)4月14日
  2代 福原実
1887年(明治20年)4月14日〜1888年明治21年)9月18日
  3代 丸岡莞爾
 1888年明治21年)9月18日〜1892年(明治25年)7月20日
  4代 奈良原繁
 1892年(明治25年)7月20日〜1908年(明治41年)4月6日
  5代 日比重明
 1908年(明治41年)4月6日〜1913年(大正2年)6月1日
  6代 高橋琢也
 1913年(大正2年)6月1日〜1914年(大正3年)6月9日
  7代 大味久五郎
 1914年(大正3年)6月9日〜1916年(大正5年)4月28日
  8代 小田切磐太郎
 1916年(大正5年)4月28日〜1916年(大正5年)5月4日(赴任せず)
  9代 鈴木邦義
 1916年(大正5年)5月4日〜1919年(大正8年)4月18日
 10代 川越壮介
 1919年(大正8年)4月18日〜1921年(大正10年)5月27日
 11代 和田潤
 1921年(大正10年)5月27日〜1923年(大正12年)10月25日
 12代 岩元禧
 1923年(大正12年)10月25日〜1924年大正13年)6月24日
 13代 亀井光政
 1924年大正13年)6月24日〜1926年(大正15年)9月28日
 14代 今宿次雄
 1926年(大正15年)9月28日〜1927年(昭和2年)5月7日
 15代 飯尾藤次郎
 1927年(昭和2年)5月7日〜1928年(昭和3年)12月26日
 16代 細川長平
 1928年(昭和3年)12月26日〜1929年(昭和4年)7月5日
 17代 守屋磨瑳夫
 1929年(昭和4年)7月5日〜1930年(昭和5年)8月26日
 18代 井野次郎
 1930年(昭和5年)8月26日〜1935年(昭和10年)6月28日
 19代 蔵重久
 1935年(昭和10年)6月28日〜1938年(昭和13年)6月24日
 20代 淵上房太郎
 1938年(昭和13年)6月24日〜1941年(昭和16年)1月7日
 21代 早川元
 1941年(昭和16年)1月7日〜1943年(昭和18年)7月1日
 22代 泉守紀
 1943年(昭和18年)7月1日〜1945年(昭和20年)1月12日
 23代 島田叡
 1945年(昭和20年)1月12日〜1945年(昭和20年)6月27日?
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 文部卿
(欠員) 明治 4年 9月 2日〜明治 4年 9月12日
大木 喬任 明治 4年 9月12日〜明治 6年 4月19日
(欠員) 明治 6年 4月19日〜明治 7年 1月25日
木戸 孝允 明治 7年 1月25日〜明治 7年 5月13日
(欠員) 明治 7年 5月13日〜明治11年 5月24日
西郷 従道 明治11年 5月24日〜明治11年12月24日
(欠員) 明治11年12月24日〜明治12年 9月10日
寺島 宗則 明治12年 9月10日〜明治13年 2月28日
河野 敏鎌 明治13年 2月28日〜明治14年 4月 7日
福岡 孝弟 明治14年 4月 7日〜明治16年12月12日

大木 喬任 明治16年12月12日〜明治18年12月22日

文部大臣

1 森  有禮 明治18年12月22日〜明治22年 2月12日
2 大山  巖 明治22年 2月16日〜明治22年 3月22日(兼)
    ↓ウイッキペデアから抜粋
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陸軍大臣参謀総長内大臣など歴任
 家紋は佐々木源氏大山氏として典型的な「丸に隅立て四つ目」である。
 会津戦争では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍していたが、鶴ヶ城攻撃初日、大手門前の北出丸からの篭城側の射撃で攻略に手間どる土佐藩部隊の援護に出動するも、弾丸が右股を内側から貫き負傷し翌日後送されている。そのため実際大山が鶴ヶ城で戦ったのは初日の1日のみで砲撃を指揮した訳でもなく、よく言われる「会津若松城に向けて、大砲を雨霰のように撃ちこんで勝利に貢献した」というのも事実ではない。なお、このとき篭城側は主だった兵が殆ど出撃中で城内には老幼兵と負傷兵しかおらず、北出丸で戦っていたのは山本八重子と僅かな兵たちだった。そのため狙撃者は八重子であるとも言われている。
 西南戦争では政府軍の指揮官として親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかった。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。
 ジュネーブ留学時、ロシアの革命運動家レフ・メチニコフ(医学者イリヤ・メチニコフの兄)と知り合う。のちに「東京外国語学校 (旧制)」教師として赴任したが、大山の影響によるといわれる。
 戊辰戦争で陥落した
 会津若松城には、
 後妻となる
 大山捨松とその家族が籠城していた。
 日清戦争直前には右目を失明していたという。
 日清戦争では陸軍大将・第二軍司令官。
 大山の死は夏目漱石の死の翌日。
 死ぬ間際まで永井建子作曲の『雪の進軍』を聞いていた。

 著書が渡辺雅司により2冊訳されている。
 『回想の明治維新 一ロシア人革命家の手記』
 (岩波文庫)と『亡命ロシア人の見た明治維新』(講談社学術文庫)。

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3 榎本 武揚 明治22年 3月22日〜明治23年 5月17日
 天保7年8月25日(1836年10月5日)〜明治41年(1908年)10月26日)
 海軍中将正二位勲一等子爵
 通称釜次郎、号梁川
 名前は「えのもとぶよう」と有職読みされる
 父は箱田良助、
 備後国
 安那郡
 箱田村(広島県福山市神辺町箱田)出身
 榎本武兵衛武由の娘
 みつと結婚、婿養子として幕臣
 榎本
 円兵衛
 武規と
 改名した。
 昌平坂学問所儒学・漢学、
 ジョン万次郎の私塾で英語を学び、
 19歳で箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。
 安政3年(1856年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学んだ。
 文久2年(1862年)〜慶応3年(1867年)までオランダに留学。
 普墺戦争を観戦武官として経験、国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国、軍艦頭並を経て
 大政奉還後の
 慶応4年(1868年)1月に徳川家家職の海軍副総裁
 このとき総裁であった
 矢田堀景蔵は、新政府側への恭順を示していた徳川慶喜の意向を受けて軽挙を慎んだが、新政府への徹底抗戦を主張する榎本派が幕府海軍を抑えた。

 榎本は抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出する。
 新選組奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容し蝦夷地(北海道)に逃走、箱館五稜郭に拠り、
 1868年末にいわゆる「蝦夷共和国」を樹立して入札(選挙)の実施により総裁となった。しかし、蝦夷地の江差攻略作戦に「開陽」を投入したところ、座礁事故により喪失する打撃を被った。
 翌明治2年(1869年)2月、折りしも局外中立を宣言し新政府・旧幕いずれにも加担せずとの姿勢をとっていた米国は、新政府の巧みな切り崩しにより新政府支持を表明。当時最新鋭の装甲艦「ストーン・ウォール」は米国から新政府の手中に収まり「甲鉄」と命名された。
 榎本は「甲鉄」を移乗攻撃(アボルダージュ)で奪取する奇襲を実現するため、至近距離まで第三国の国旗を掲げて接近し至近距離で自国の旗に切り替える騙し打ちを計画したが、これは当時の戦時国際法で許される奇計であった。
 榎本はこの作戦を「回天」、「幡竜」、「高雄」の3艦を以て当たらしめ、
 その長として「回天」艦長の
 甲賀源吾を任じた。同艦には土方歳三も座乗した。しかしまたもや暴風に見舞われ、「幡竜」は離脱、「高雄」も機関が故障し、やむを得ず「回天」1艦のみでの突入、接舷には成功したものの榎本軍はガトリング砲の砲火を浴び、占拠に失敗、甲賀艦長も戦死するなど敗走し(宮古湾海戦)、制海権を失った。
 明治2年5月(1869年6月)、新政府軍工作員による弁天台場の火砲破壊、箱館湾海戦による全艦喪失など劣勢は決定的となり、榎本は降伏
 榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」を戦災から回避しようと蝦夷征討軍海陸軍総参謀黒田了介(黒田清隆)に送った。
 黒田は榎本の非凡な才に感服し、皇国無二の才として断然助命しようと各方面に説諭、その熱心な助命嘆願活動により、江戸辰の口の牢に投獄された。
 また、福澤諭吉も助命に尽力
 明治5年(1872年)1月6日、榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用された。同年3月8日、黒田清隆が次官を務める開拓使に四等出仕として仕官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。
 明治7年(1874年)1月、駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結した。またマリア・ルス号事件でペルー政府が国際法廷に対し日本を提訴した件で、ロシア皇帝アレクサンドル2世が調停に乗り出したことから、サンクトペテルブルクでの裁判に臨んで勝訴を得た。
 駐露公使就任にあたって、榎本は海軍中将に任官。武官公使の方が交渉上有利と判断した伊藤博文らの建言で実現。
 帰国後は外務省二等出仕、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐清公使、条約改正取調御用掛等を歴任
 内閣制度の成立後は
 六つの内閣で逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任した(文相・外相の前後に枢密顧問官就任)。特に日清戦争只中の戦時内内閣時の農相在任期間は3年余に及んだ。
 農商務大臣時代には、懸案であった足尾鉱毒事件について初めて予防工事命令を出し、私的ながら大臣自ら初めて現地視察を行った。また、企業と地元民の間の私的な事件であるとしてきたそれまでの政府の見解を覆し、国が対応すべき公害であるとの立場を明確にし帰郷後、大隈重信らにその重要性を説諭、鉱毒調査委員会を設置し、後の抜本的な対策に向けて先鞭をつけ、自身は引責辞任した。
 明治23年(1890年)には子爵となる。
 大日本帝国憲法発布式では儀典掛長を務めた。

 北海道開拓に関与した経験から、
 明治24年(1891年)に徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)を創設し自ら黌長となった。
 明治21年1888年)〜同41年(1908年)まで
 電気学会初代会長
 明治41年(1908年)に死去、享年73。
 墓所は東京都文京区の吉祥寺。

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4 芳川 顯正 明治23年 5月17日〜明治24年 6月 1日
5 大木 喬任 明治24年 6月 1日〜明治25年 8月 8日
6 河野 敏鎌 明治25年 8月 8日〜明治26年 3月 7日
7 井上  毅 明治26年 3月 7日〜明治27年 8月29日
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8 芳川 顯正 明治27年 8月29日〜明治27年10月 3日(兼)
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9 西園寺公望 明治27年10月 3日〜明治29年 9月28日
10 蜂須賀茂韶 明治29年 9月28日〜明治30年11月 6日
11 濱尾  新 明治30年11月 6日〜明治31年 1月12日
12 西園寺公望 明治31年 1月12日〜明治31年 4月30日
13 外山 正一 明治31年 4月30日〜明治31年 6月30日
14 尾崎 行雄 明治31年 6月30日〜明治31年10月27日
15 犬養  毅 明治31年10月27日〜明治31年11月 8日
16 樺山 資紀 明治31年11月 8日〜明治33年10月19日
17 松田 正久 明治33年10月19日〜明治34年 6月 2日
18 菊池 大麓 明治34年 6月 2日〜明治36年 7月17日
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19 兒玉源太郎 明治36年 7月17日〜明治36年 9月22日(兼)
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20 久保田 讓 明治36年 9月22日〜明治38年12月14日
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21 桂  太郎 明治38年12月14日〜明治39年 1月 7日(兼)
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22 西園寺公望 明治39年 1月 7日〜明治39年 3月27日(兼)
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23 牧野 伸顯 明治39年 3月27日〜明治41年 7月14日
24 小松原英太郎 明治41年 7月14日〜明治44年 8月30日
25 長谷場純孝 明治44年 8月30日〜大正元年11月 9日
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26 牧野 伸顯 大正元年11月 9日〜大正元年12月21日(兼)
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27 柴田 家門 大正元年12月21日〜大正 2年 2月20日
28 奥田 義人 大正 2年 2月20日〜大正 3年 3月 6日
29 大岡 育造 大正 3年 3月 6日〜大正 3年 4月16日
30 一木喜郎 大正 3年 4月16日〜大正 4年 8月10日
31 高田 早苗 大正 4年 8月10日〜大正 5年10月 9日
32 岡田 良平 大正 5年10月 9日〜大正 7年 9月29日
33 中橋五郎 大正 7年 9月29日〜大正11年 6月12日
34 鎌田 榮吉 大正11年 6月12日〜大正12年 9月 2日
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35 犬養  毅 大正12年 9月 2日〜大正12年 9月 6日(兼)
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36 岡野敬次郎 大正12年 9月 6日〜大正13年 1月 7日
37 江木 千之 大正13年 1月 7日〜大正13年 6月11日
38 岡田 良平 大正13年 6月11日〜昭和 2年 4月20日
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 「兼」は「かねる」である・・・