1032日目・・・「世界」の「ナナふしぎ」・・・1月4日に見た「たけしのTV番組」だけれども・・・過去の「日本人」は何時の頃から「世界の古代遺跡」との「認識・知識」的、「現実・実際」的な接点があったのか?・・・実際にピラミッドを自分の目で視たのは「幕末の幕府遣欧使節・文久元年十二月二十二日・1862年1月21日・一行は英国海軍の蒸気フリゲート、オーディン号(HMS Odin)で欧州に向かって品川港を出発・長崎、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、英領イエメンを経てエジプト・スエズに上陸、鉄道でカイ

 「ウイッキペデア」で調べれば、
 コトバとしての「キス」は
 明治以降で、
 「接吻」と
 和訳されたのが
 明治20年
 (1887年)
であるらしく、
 「訳語」としては
 文化十三年
 (1816年)の
 『ズーフ・ハルマ』
によるらしい。
ーー
 「ドゥーフ・ハルマ
 (Doeff-Halma Dictionary,
  通布字典、
  道訳法児馬、
  ヅーフ・ハルマ
  または
  ズーフ・ハルマとも表記)」
 江戸時代後期に編纂された
 蘭和辞典
 通称
 『長崎ハルマ』
 『道富ハルマ』と呼称されたこともある。
 1833年完成。
 『ハルマ和解』(江戸ハルマ)と同じく
 「フランソワ・ハルマ(François Halma)」の
 『蘭仏辞書』をベースに作成された
 約50000(五萬)語を収録
 全五十八巻
 『ドゥーフ・ハルマ』は、
 祖国がフランスの支配下にあったため
 帰国が叶わず長崎の出島滞在が長期化していた
 オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフの著
 通詞の語学力向上を目的とした
 幕府からの要請を受け
 中山作三郎
 吉雄権之助(介?)
 山時十郎(西儀十郎?)
 石橋助十郎ら
 長崎通詞
 十一人の協力を得て
 1816年
から
 本格的な編纂が開始
 翌年に
 ドゥーフはオランダへ帰国
 それまでに
 「A」から「T」までの
 作業を終えていた。
 以後は通詞たちが引き継ぎ、
 1833年
 (天保四年)
に完成した。
 辞典の作成方法は
 『ハルマ和解』と同じく、
 『蘭仏辞書』
 (Nieuw Woordenboek der Nederduitsche en Freansche Taalen. Dictionnaire Nouveau Flamand & François, 第2版、1729年出版)の
 フランス語部分を無視し、
 アルファベット順に並んだ
 オランダ語
 ひとつずつ
 日本語の
 対訳をつけることで効率良く辞書の体裁を整えた。
 『ドゥーフ・ハルマ』は
 文語よりも
 口語を重視して記載
し、豊富な文例も収録
 『ドゥーフ・ハルマ』の
 複製は
 印刷手法を用いず
 写本のみで行われた
 出版数は
 33部前後
 総頁数が
 3000(参千)を越えたこともあって貴重だった。
 この
 清書には
 島津重豪から
 寄贈された
 大奉書紙が用いられた
ーー
 文明開化以前も以後も「挨拶」としてのキスは日本で習慣化されていない。公衆面前での「接吻」は「強制猥褻罪」になるらしい・・・?
 「性行為」としては平安時代室町時代には「口吸い(くちすい)・口吸う」という言葉があったらしい。
 他に
 「口口」や、
 江戸後期には
 「口二つ」で
 「」と呼ばれたらしい。
 「郭(くるわ・遊女屋敷・売春宿)の言葉」では「おさしみ」と言われたらしい。「刺身」を食べる食感が「唇と唇の接触感覚」に似ているからなのだろうが、「海鼠(なまこ・ナマコ)」感覚かも。
 「海鼠(なまこ・sea cucumber→海のキュウリ→胡瓜・Sea Slug=海のナメクジ→蛞蝓)」の漢字が登場するのは「現存・古事記上」の「神代」であり、「猨(猿)田毘古・猨(猿)女君」の処である。ナゼ「沙流(佐留)田毘古・沙流(佐留)女君」、「なまこ=生口子・生子・名真乎(呼)」と記さなかったのだろうか?・・・「海鼠腸」は「コのワタ」と訓む。「海鼠(こ)の腸(わた)」である。「なまこ=海鼠(カイソ)=こ」である。「眞名(名⇔眞)仮名」は「漢字」そのモノの意味である。「ウミ(海)」の「キュウリ(胡瓜・窮理・究理)」の「ナメクジ(蛞蝓・両性具有・鈍間・スラグは重い小型のあら金・空気銃などの鉛玉、弾丸)」で、漢字分解では
 「蛞・蝓=虫(中ム)+舌」
 「虫(中ム)+兪(Λ一舟《 )・ユ・しかり」
 で漢字の意味は「刃物で木を刳り貫いた舟を川に浮かべる」で「丸木舟・中空」であるが、「日本の新漢字」での部首である「月」は「舟=月=肉(ジク・にく)」でもある。「《 」は平仮名の「くく」が重なったモノである。ならば「兪(Λ一肉《 )」は「ヤネの下の一はジクの句々の重なり」である。類字は「比喩」の「喩」である。「陸に生息する巻貝(軟体動物門腹足綱)のうち、頭部に二対の触覚を有し殻が退化しているものの総称・ナメクジに塩→干からびる、萎える」で、「名目句字(なめくじ)・名目供耳・菜芽供事」である。
 於是送
 猨田毘古藭・・・「塩田・円田」を備える故人・宛伝彦(諺)
 而還・・・・・・「仕官・士官・史観・弛緩・只管」
 到、・・・・・・「意たる・異たる」
 乃悉・・・・・・「ダイシツ・ナイシツ」→「代筆・大室・名意質」
    乃=おさむ・すなわ(は)ち・なんじ(ぢ)・ダイ・ナイ・ノ
    悉=釆+心=ことごとく・すべて・シツ
    「+心」とは「心(ココロ・シン)を分ける」である
    「心」の文字分解は「儿(ル)+〃」
    「ノ+乚(乙の変形・L・レ)+ヽゝ(ゝゝ・い)
    「ノ(ヘツ・ヘチ・右から左へ曲がる)」
    「乚(乙=オツ・イツ・きのと)L」
    「L(英語の大の文字のエル)」
    「し(平仮名のし)」
    「ヽゝ(ゝゝ・い)」は二点、点々、平仮名の「い・ぃ」
    ウサの間借り、イツの変形、エル、記(紀)の土(弟・讀)
    比、等、仮の名の「し」、典の転は比、等、仮の名の「い」
    「ヽ・ゝ」は「チュ・しるし・てん・ぽち・ともしび」
    「ゝ」は「主(シュ・ぬし・あるじ)」の「旧字」  
 追聚・・・・・・「終集」、「対集」
 鰭廣物・・・・・「キコウ=寄稿・寄港・寄航・起稿・紀行・奇行」物
    鰭(ひれ・はた・キ)の広物(ひろもの)ヒレ広の魚・大魚
 鰭狹物・・・・・「キキョウ=帰郷・奇矯・棄教・帰京」物
    鰭(ひれ・はた・キ)の狭物(さもの)ヒレ狭の魚・小魚
 以問・・・・・・「慰問・異文・異聞・意文」
 言・・・・・・・「ゲン=元・源・諺・眼」
 汝者・・・・・・「ジョシャ=序者・助者」
         「ナンジは=何字・難事・何時・何次・難治」
 天藭御子・・・・「典字務音詞」
 仕奉・・・・・・「詩法・仕法・司法・私法・市報」
 耶・・・・・・・「ヤ→夜・家・屋・冶→ジャ=邪・蛇」
 之時、・・・・・「支持・指示・師事・私事・詞字・史事」
 諸・・・・・・・「書・所・初・緒・処・黍・薯・杵・曙」
 魚皆、・・・・・「ギョカイ=魚貝・魚介・禦解・御回」
 仕奉・・・・・・「詩法・仕法・司法・私法・市報」
 白・・・・・・・「エツ=謁・悦・閲・越」、「得通・回通」
 之中、・・・・・「シチュウ=詩中・市中・死中・支柱」
 海鼠・・・・・・「カイソ=改組・開祖」
 不白。・・・・・「フエツ=斧鉞・譜閲・附謁」
 爾・・・・・・・「ジ」
 天・・・・・・・「典・点・転・展・添・填・店」
 宇受賣命、・・・「埋め・渦目・欝女・撃女」、「名」
 謂・・・・・・・「イ」
 海鼠・・・・・・「カイソ」
 云、・・・・・・「運・雲・有無・産」
 此口乎、・・・・「ココウ=戸口・糊口・虎口・孤高・股肱」、「化」
 不答・・・・・・「不当・附等・譜等・埠頭
          不凍・不撓・不等・不倒・府等」
 之口而、・・・・「思考字・施行事・試行時・施工事・嗜好示」
 以・・・・・・・「イ」
 紐小刀・・・・・「チュウショウトウ=中小等」
 拆・・・・・・・「説・節・設・拙・接・雪・鱈・窃・殺・洩」
 其口。・・・・・「キコウ」
 故、・・・・・・「コ」
 於今・・・・・・「オコン=御子務」→「烏の古字(古文)」
 海鼠・・・・・・「カイソ」
 口拆・・・・・・「コウセキ=功績・航跡・口跡・鉱石・後席」
 也。・・・・・・「ヤ」
 是以・・・・・・「ゼイ=説・税・脆・勢・施意・施異」
 御世、・・・・・「ギョセ=禦施・漁施・魚世」
 嶋之・・・・・・「トウシ=通し・遠し・徹し・透し・十誌」
 速贄・・・・・・「ソクシ=即死・則詞・則詩・即視・素句子」
         「(シ・にえ→似得」の類字は
         「(セイ・質入・贅沢・贅肉・贅文)」
 獻之時、・・・・「コンシジ=今氏・昆氏・金氏・紺紙」、「字」
 給・・・・・・・「キュウ=旧・級・球・九・灸」
 猨女君・・・・・「エンジョクン=援助訓」
 等也。・・・・・「トウヤ=当夜・陶冶・問う埜・盗家」
ーー
 九州地方では「あまくち」と言ったらしく、『ズーフ・ハルマ』の該当項目に訳語として挙げられている。
ーーーーー
 1 ナスカの地上絵
 2 チチェン・イッツァ
 3 モン・サン・ミシェル
 4 パルテノン神殿
 5 平城京
 6 アヤ・ソフィア
 7 クフ王のピラミッド
   VS
   ツタンカーメンカルナック神殿
ーーーーー
 ヨルダンのペトラ遺跡
 アラビア半島の砂漠の岩山に築かれた約2000年前の都市。
 神殿「エル・ハズネ」は水を供給する水道が完備されてていた。
 衰退したのは「水の枯渇」ではなく、ローマ帝国による商業路の封鎖、寸断だった・・・「ペトラ」遺跡とは「ペトロ」であり「岩」の意味であろう。キリストの十二使徒の一人の「名前」である。
 「ペトラ」は「経図等(虎・寅)」で「磐の余り=神武天皇」である。
 「ぺとら」は「経虎・屁虎・辺(邊)虎・部虎」で、「虎=とら=寅(イン)」である。同音は「音(イン)」、寅の類字は演奏、演技の「エン」である。
 「羽を付けた虎」とは「天武天皇の異名、別称」である。
 「屁(音はヒ・訓はへ、おなら)=尸(かばね・しかばね)+比(くらべる)」
 「屁の河童」は「火の木っ端」の転化らしいが「比のカワのワラベ」である。
ーーーーー
 インドの階段井戸
 インドでは4000年以上にわたって作り続けられた井戸。
 その代表的な井戸がインデラがアッラーに征服され、二つの文明が重なって、融合した階段井戸。
 「アダラジ・ヴァヴ」とは「阿(亜)拿等字・水(バブ・バブル→泡)」で、「ヴァヴ」は「ババ=馬場・婆」であろう。水は「ウォタァ」で、「ワダつみ」は海原の「海神」である。青い海の白波の情景が「綿摘み」の「綿畑」で労働する青いジーンズ姿の奴隷に重なっている。
 部首「亞(ア)」の造字は「つぼ=壷=壺→士+冖+亜(亞)」である。「亞(ア・あまねし)」とは「胴回りが膨らんだ、フタ(士冖)をとった水入れのツボ」である。同義漢字は「甕(かめ)」で、「水瓶(みずがめ)」は「甕」の異字漢字である。同音「びん」の異字は「壜(ドン)=びん=瓶(ヘイ)」である。
 「河童」とは、助けた「カメ(亀)」に乗って「龍寓城」に行って「乙媛」に遇った「浦島太郎」であろう・・・「現存・古事記(上巻・七)」に重なるのは、
 男子が樹木に登って、その傍(側)の「井戸」に壺(水瓶)を持って佇んでいる乙女の姿を見ている神話で、描かれている男女の「絵の物語」は「火遠理命(海幸彦)」と「豐玉毘賣(乙姫)」
ーー
 於是其弟、泣患居海邊之時、鹽椎藭來、問曰、何虛空津日高之泣患所由。答言、我與兄易鉤而、失其鉤。是乞其鉤故、雖償多鉤、不受、云猶欲得其本鉤。故、泣患之。爾鹽椎藭、云我爲汝命、作善議、卽造无間勝間之小船、載其船以教曰、我押流其船者、差暫往。將有味御路。乃乘其道往者、如魚鱗所造之宮室、

綿津見」藭之宮者也。
到其藭御門者、傍之上、有湯津香木。故、坐其木上者、其海藭之女、見相議者也。

香木

加都良
木。
故、
隨教
少行、
備如
其言、
卽登其香木以坐。爾海藭之女、豐玉毘賣之從婢、持玉器將酌水之時、於井有光。仰見者、有麗壯夫。

壯夫

遠登古
下效此。以爲甚異奇。爾火遠理命、見其婢、乞欲得水。婢乃酌水、入玉器貢進。爾不飮水、解御頸之璵、含口唾入其玉器。
於是其
璵著器
婢不得離璵。故、璵任著以進
豐玉毘賣命。
爾見其璵、問婢曰、若人有門外哉。答曰、有人坐



香木之

甚麗壯夫也。﨟我王而甚貴。故、其人乞水故、奉水者、不飮水、唾入此璵。是不得離故。故、任入將來而獻。爾豐玉毘賣命、思奇、出見、乃見感、目合而、白其父曰、吾門有麗人。爾海藭自出見、云此人者、
天津日高之御子、
虛空津日高
矣。
卽於內率入而、美智皮之疊敷八重、亦絁疊八重敷其上、坐其上而、具百取机代物、爲御饗、卽令婚其女豐玉毘賣。故、

三年、

其國

 「火遠理命(虛空津日高)」の両親は「現存・古事記(上巻・六)」の「邇邇藝命(邇々芸命)」と「木之花佐久夜毘売」である。だが、父親であると告げられた「邇々芸命」は自分の子であるかどうかを「疑っている」のである。ここは「邇邇藝命=字字の芸の名」と、云うワケである。
ーーーーー
 コロッセオ
 400年以上の大帝国ローマのコロッセオ
 この「円形闘技場」には水が注ぎ込まれた「大プール」に変身し、そこには当時の櫂船軍艦が浮かべられ、実際の「海戦の殺し合い」が「奴隷」によって「ショー(見世物)」として行われた。
 字面から判断すれば、
 「コロッセオ」は「故露通施雄(乎)」、「湖路通施男」、「殺す施男」かも。
 この事跡は「海戦→廻船」で、「白村江の海戦」の「回線、改選」である。
 神代では「猨(猿)田彦の溺死」、「大国主の国譲りの海没」、そして「日下の楯津での五瀬命の戦死」、「相模湾での乙橘姫の海没」、「平家壇ノ浦での壊滅」、そして「二度の元寇」、「毛利と陶の厳島海戦」、「信長、九鬼水軍と毛利、村上水軍の大阪湾での二度の海戦」、「二度の朝鮮出兵での海戦」などの重なりで、
 幕末に於いては「薩英戦争での鹿児島湾海戦」、「西欧連合と長州藩の下関海戦」、「亀山社中海援隊紀州藩との海難事故」、「戊辰戦争の大坂湾海戦」、そして「箱館戦争の函館湾海戦」など・・・
 そして、近代においては「日清戦争(甲午戦争・1894年・明治二十七年七月・光緒二十年六月〜1895年・明治二十八年三月・光緒二十一年二月)」の「豊島沖海戦1894年(明治二十七年)7月25日・黄海海戦は1894年(明治二十七年)9月17日」・・・
 「露西亜と日本」の「日本海海戦(1905年・明治38年5月27日〜28日)」である。
 「真珠湾攻撃(昭和十六年・1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)、ミッドウェイ海戦(昭和十七年・1942年6月5日、アメリカ標準時6月4日)から7日」も・・・重ねられているカモ・・・
ーーーーー
 マチュピチ
 インカ帝国アンデス山中の空中都市
 標高2400mもの切り立った岩山の尾根の都。
 水洗トイレが完備した「王の岩壁の部屋」。
 山頂の貯水から段々畑に水を流していく水路。
 自ら火を放ち、この都を捨てた。
 アメリカの探検家「ハイラム・ビンガム」は、
 1911年(明治四十四年)7月24日
に遺跡を発見した。
 清王朝は「宣統二年十二月一日〜宣統三年十一月十二日」
 1月18日大逆事件・裁判で幸徳秋水ら被告全24人に、大審院が死刑判決を下す(1月19日に十二人が無期懲役減刑)。
 1月19日読売新聞が社説で国定教科書における南北朝並立の記述を批判、いずれの皇統が正当かをめぐり帝国議会での論争に発展。
 1月24日大逆事件幸徳秋水ら十一人の死刑執行(1月25日管野スガ死刑執行)。
 1月30日西田幾多郎善の研究
 8月8日稗田山崩れ発生・長野県小谷村の稗田山が大崩壊
    日本最大級の土砂災害
 8月30日第2次西園寺内閣成立。
 10月10日清国で武昌新軍蜂起・辛亥革命
 12月14日「ロアール・アムンセン」南極点到達

 日本人はこの遺跡を何時から知っていたのか?
 「マチュピチ」は「摩宙日地」である。
ーーーーー
 南太平洋の孤島、イースター
 正式名はパスクア島(パスクア・スペイン語:Isla de Pascua)
 テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)→出、人、緒、経ぬ、阿
 マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)→また、記出、蘭義
 1722年、1770年、1838年、1804年、
 ヨーロッパ船がイースター島の様子を伝えた

 1722年
 4月5日提督「ヤコブ・ロッゲフェーン」が
 イースター島を発見。
 12月20日(康熙六十一年十一月十三日)
 清で康熙帝が没し雍正帝が即位。
 日本
 享保七年七月三日
 江戸幕府が、
 米を上納を条件に
 大名の
 参勤交代による
 江戸滞在を
 半年に短縮
 上米の制
 心中物の上演禁止

 1770年キャプテン・クック訪問
 倒されたモアイ像が散乱
 1838年にはアフの上にあったモアイ像が
 9つと
 フランス提督の「デュペチ・ツァル」が報告

 巨石建造物、モアイ→摸阿意
 最大200トンのモアイは歩いた。
 古代中国の「黄帝=軒轅(ケンエン)」の「姓」は「姫」であった。その由来は「湖畔(姫=キ・媛=エン)のナギサで、母親が巨人の足跡を踏んで生まれたのが黄帝=軒轅(ケンエン)」だった。
 「モアイ」とは「母阿威」・・・「モアイ」は「アルイタ」・・・「或威太」・・・
ーーーーー
 チチェン・イッツァ
 チチェン・イッツァスペイン語: Chichén Itzá)
 メキシコ・マヤ文明の遺跡
 ユカタン半島の地質特徴でもある地盤沈下によってできた
 大きな自然の
 井戸のこと
 セノテは井戸の一種
 チチェンイッツァの中から
 13体の像が発見
 1843年
 「ジョン・ロイド・スティーブンス(John Lloyd Stephens)」によって
 出版された
 「ユカタンの旅の事物記(Incidents of Travel in Yucatan)」によって知られるようになった。
 旧チチェン区域にある
 天文台「El Caracol(エルカラコ、カタツムリの意味)」
 「チチェン・イッツァ」は「治知恵務・何時通亜」
 「エルカラコ」は「得留殻壺」か、「柄流空弧」である。
ーーーーー
 モン・サン・ミシェル
 海岸線から1キロほど沖に突き出た岩山の建造物。
 フランス西海岸の「サン・マロ」湾上に浮かぶ小島の「修道院(モン・サン=ミシェル)は「聖ミカエルの山」
 旧約聖書に記されている大天使「ミカエル」のフランス語読み
 元々「モン・トンブ(墓の山)」と呼ばれ、先住民のケルト人の聖地
 修道院→要塞→監獄→修道院
 「モン・サン」は「文・問・聞・紋・門・悶」の「産・参・山・纂」で
 「ミカエル」は「見かえる」である。
 ・・・可能性として、何時、日本人は「モン・サン=ミシェル・聖ミカエルの山」を見たか・・・
    ↓
 「支倉常長
 慶長十八年(1613)九月に
 日本を出発し「慶長遣欧使節
 慶長十七年
 (1612年)
 常長は
 第一回目の使節として
 サン・セバスチャン号で
 ソテロとともに浦賀より出航するも、暴風で座礁、遭難
 再度
 仙台へ戻り、
 石巻市雄勝町
 建造した
 ガレオン船
 サン・ファン・バウティスタ号で
 慶長十八年九月十五日
 (1613年10月28日)に
 月ノ浦(石巻市)を出帆
 一行は
 エスパーニャ(スペイン)の
 ヌエバエスパーニャ副王領であり
 北アメリカ大陸の太平洋岸にある
 アカプルコ(メキシコ・ゲレーロ州)へ向かった。
 アメリカ大陸に上陸後、陸路で
 大西洋岸の
 ベラクルス(メキシコ・ベラクルス州)に移動
 ベラクルスから大西洋を渡り、
 コリア・デル・リオ(スペイン・アンダルシア州セビリア県)に上陸
 慶長二十年一月二日
 (1615年1月30日)
 エスパーニャ国王
 フェリペ3世に謁見
 後、イベリア半島から陸路でローマに到着
 元和元年九月十二日
 (1615年11月3日)
 ローマ教皇
 パウルス五世に謁見
 後、マドリードに戻って
 フェリペ3世と交渉
 元和六年八月二十四日
 (1620年9月20日)
 帰国
ーー
 伊東マンショら四少年を中心とした
 天正遣欧少年使節
 1582年(天正十年)
 イエズス会
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案で
 キリシタン大名
 大友宗麟大村純忠有馬晴信
 名代としてローマへ派遣された
ーー
 伊東マンショ(主席正使)大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。
 1612年長崎で死去。
ーー
 千々石ミゲル(正使)大村純忠の名代。純忠の甥で晴信の従兄弟。後に棄教。
 中浦ジュリアン(副使)後年、司祭に叙階。
 1633年、長崎で穴づりによって殉教。
ーー
 原マルティノ(副使)後年、司祭に叙階。
 1629年、追放先のマカオで死去。
ーー
 日本人ジョルジェ・ロヨラ修道士 使節の教育係
 日本人少年コンスタンチノ・ドラード 印刷技術習得要員
 日本人少年アグスチーノ 印刷技術習得要員
ーー
 1590年(天正十八年)に帰国
 持ち帰ったモノは
 グーテンベルク印刷機
 日本語書物の
 活版印刷が初めて行われ
 キリシタン
ーーーーー
 パルテノン
 葉留出埜務
 アテネ=アシナ・・・芦名・葦名・足名・芦品・蘆名
 ゼウス・・・・・・・是宇主・是臼・是有珠
           是堆(小堆→倭建命)・・・石うす
           是宇受→宇受女=猿女→猿田彦
ーーーーー
 アヤ・ソフィア
 アヤソフィア
 (トルコ語:Ayasofya)
 (古典ギリシア語:Ἁγία Σοφία (Hagia Sophiā)
 (現代ギリシア語:Αγία Σοφία (Aagia Sophia)
 は、トルコのイスタンブルにある博物館。
 東ローマ帝国ビザンツ帝国ビザンティン帝国)時代の正統派キリスト教の大聖堂であった。
 「アヤソフィア」は「聖なる知恵」という意味である。
 「アヤ=聖なる」で「あや=雅家・阿谷」で「綾・彩・絢・彪」で、「文」であろう。
 「ソフィア=知恵・叡智・叡知・愛知・英知→永地」である。
 「叡智」ならば「比叡山」である。
 「愛知」ならば「県名」で、「尾張名古屋」である。
 「永地」ならば「長州・長崎・長野(信州・信濃)」である。
ーーーーー
 クフ王のピラミッド(金字塔)
 「四角錐」の立体、側面「三角形」の「金字塔」の「主」、「クフ」は「宮譜・玖府」で「句附」の「絵文字」である。
 「ピラミッド」は「比等見通度(美都土)」である。
ーーーーー
 ツタンカーメンのカルナック
 「都丹化亜面」の「珂瑠(軽)名都玖」・・・
ーーーーー
 太陽神→ラ−→螺蛙
 アクエアテン→阿句絵亜転
 多神教
ーーーーー
 「モーゼと一神教」が「フロイト」の著作として云われていたが・・・読んだこともないし、そんな「著書」があるとも知らなかった・・・
 だけれども、この同じ「テーマ」で若干異なっている論理展開でボクが以前書き込んだモノがあるので、興味があるなら以下のボクの「家頁」へどうぞ・・・
  「論理学・範疇論・概念論・・・愛の現実論(1)」
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/hancyuron/hancyuron2.htm
ーー
 1939年フロイト
 『モーゼと一神教
 (Der Mann Moses und die monotheistische Religion)

 フロイド
 「ジークムント・フロイト=Sigmund Freud
 生まれた時の名は
 ジギスムント・シュローモ・フロイト
 (Sigismund Schlomo Freud
 21歳の時に
 Sigmundと改めた
ーー
 1856年5月6日〜1939年9月23日
 オーストリア墺太利)の精神分析学者、精神科医
 オーストリア
 白人系
 ユダヤ教徒アシュケナジムの家庭に生まれた
 神経病理学者
 精神科医
 神経症研究
 心的外傷論研究
 自由連想法
 無意識研究
 精神分析の創始を行い、
 精神力動論を展開
ーー
 自然科学者としての出発
 1873年
 (17歳)
 ウィーン大学に入学、
 2年間物理などを学び、
 医学部の
 エルンスト・ブリュッケの
 生理学研究所に入り
 カエルやヤツメウナギなど
 両生類・魚類の脊髄神経細胞を研究
 その論文は、ウィーン科学協会で
 ブリュッケ教授が発表
ーー
「夢の解釈は、無意識の活動を熟知する王道である。」
「夢は現実の投影であり、現実は夢の投影である。」
「忘れるのは、忘れたいからである。」
「幸福になる方法は、自分で実験してみなければ分からない。」
「あなたの強さは、あなたの弱さから生まれる。」
「生きる意味や価値を考え始めると、我々は、気がおかしくなってしまう。生きる意味など、存在しないのだから。」
「子供が遊ぶ動機は、”大人になりたい”である。この願望は子供を教育する上で、重要になる。」
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 「エジプト=埃及」の神話に関して興味があるならばドウゾ、次のボクの「家頁」へご訪問ください・・・
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/kojiki42.htm
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http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/kokan/kokansiren.htm
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