1024日目・・・あん(兄・え・ケイ)ちゃん・ねぇ(姉・あね・シ)ちゃん・・・ボクが子供の頃にNHKのラジオ番組で聞き耳を立て、その後に見た映画は「にあんちゃん(二番目の兄、高一の呼称)」だった・・・次兄(ジケイ)が「にあんちゃん」・・・?・・・

 ブログで調べると、原作は1943年(昭和十八年・干支暦辛未)生まれの「安本末子」さん・・・以下、勝手に添付してゴメン、ッ・・・
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 「1953年1月22日」から始まる「十歳(昭和28年)」だった「安本末子」さんの「日記」である・・・1943年、佐賀県東松浦郡・入野村(現・佐賀県唐津市肥前町・入野)で出生。本籍は、韓国・全羅・南道・宝城郡。長兄・喜一、姉・吉子、次兄・高一、末子の4人兄妹。3歳で母を、9歳で父を亡くし、10歳年上の兄・喜一が入野村の大鶴鉱業所で臨時炭鉱労働者として兄妹の生活を支える。日記は53年1月、父の49日から始まる。中学1年で故郷を離れて神戸へ。66年、早稲田大学文学部を卒業。コピーライターとして活躍後、73年10月に結婚、一女一男に恵まれた。茨城県在住。
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 と、あった・・・不思議である・・・今日は「2012年12月30日」・・・「松浦武四郎」さん・・・蝦夷地は大雨で、雪はビッチャ、ビッチャ・・・道路腋(脇・わき)の高かった雪壁は溶けて低くなり、薄氷にうっすらと水を浮かべてテカッ(光が反射)ている道路はスケートリンクの成り損ない状態・・・お袋の所への行き帰りで3度も転びそうになった・・・
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 ・・・「ニあんちゃん」なら、なぜ、「イチあんちゃん」を「長兄」としなかったんだろう?・・・「大兄」・・・「おおあん」ちゃん、「おほあん」ちゃん・・・「ダイケイ・タイケイ」・・・の「現存・日本書紀」・・・
 ・・・「山背・大兄・王」、「古人・大兄・皇子(ふるひとのおおえのみこ)」、「中・大兄・皇子」・・・共通項は「大兄(おおえ・おほえ)」である。音読みでは「ダイケイ」である。
 「意富」とは「おお・おほ」のヨミであった・・・
 これまた、以下、ブログ辞典からの複数を引用したものであるが、
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 「おおえ=大兄」とは「兄弟の年長の者・皇子につける尊称・律令制以前、六、七世紀ごろの皇位継承資格者の称・日本書紀の古訓に、「大兄」を「おひね」とよんだ例がある
 「大兄(おおえ)」とは、6世紀前期から7世紀中期までの倭(日本)において、一部の有力な皇子が持った呼称・称号である・大王家に集中して「大兄」の呼称がみられるため、 現代の歴史学者は「大兄」の名を持つ皇子を比較して帰納的にその意味を探っている
 「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)」として知られる。
 「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」 は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。
 「古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)」、生年不詳〜大化元年九月十二日(645年10月7日))は、飛鳥時代の皇族。
 舒明天皇の第一皇子。
 母は
 蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女( ほほてのいらつめ)
 娘は
 倭姫王(天智天皇の皇后)。
 「古人皇子・古人大市皇子・吉野太子」とも呼称される。
 大臣・蘇我入鹿は、
 蘇我氏の血をひく
 古人大兄皇子を
 皇極天皇
 次期天皇に擁立しようと望んだ。
 そのため、有力な
 皇位継承資格者の
 山背大兄王厩戸皇子の子)の存在が邪魔になり、
 643年11月、
 入鹿は
 斑鳩宮を襲い
 山背大兄王とその一族を滅ぼした。
 643年
 (皇極二年)11月
 蘇我入鹿(いるか)が聖徳太子の子山背(やましろ)大兄王を斑鳩(いかるが)に襲おうとしたとき、皇子は入鹿がみずから行くことを
 言外に止めたため,
 入鹿は軍兵のみを送って王を自殺させた。
 645年6月、三韓から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行なわれた。古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟・中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌子藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。
 古人大兄皇子は
 私宮(大市宮)へ逃げ帰り
 「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」
 (「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。
 入鹿の父・蘇我蝦夷も自邸を焼いて自殺して蘇我本家は滅び、
 古人大兄皇子は後ろ盾を失った(乙巳の変)。
 事件後、皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、出家して吉野へ隠退した。しかし、
 吉備笠垂から
 「古人大兄皇子が謀反を企てている」との密告を受け、
 645年9月12日(11月30日説もある)に
 中大兄皇子が攻め殺した。
 実際に謀反を企てていたかどうかは不明である。
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 「あんちゃん・アンちゃん」とは
 大辞林 (国語辞書)
  あんちゃん【兄ちゃん】
 〔補説〕
 「あにさん」の転
 [1]自分の兄を呼ぶ語。
 [2]若い男を呼ぶ語。また、不良じみた若い男をさしてもいう
 あんちゃん【兄ちゃん】とは
 《「あに(兄)さん」の音変化》
 1 自分の兄に対する愛称
 2 若い男を気安く呼ぶ語
 3 遊び人風の若い男
 ことばの意味(語彙・意味・語源)
 分類:語源(あんちゃん)
 「アンチャン」は
 「ani(アニ)」に「tyan(チャン)が
 後接する際に
 音韻的な理由で
 「i」が消滅したもの
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 再度「にあんちゃん」・・・抜粋記事です・・・勝手にゴメンなさい・・・ 
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 10歳の少女の日記は1953年1月22日の、悲しみと向き合う一節から始まる。
 〈きょうがお父さんのなくなった日から、49日目です〉
 少女・末子の両親は既に他界。20歳の長兄と16歳の姉、そして「にあんちゃん」(2番目の兄)こと12歳の次兄の4人兄妹は、佐賀県唐津市肥前町で暮らしていた。生活の頼りは、杵島炭鉱大鶴炭鉱所で働く長兄のわずかな賃金だった。
 時代は石炭から石油へのエネルギー転換期。炭鉱の閉山が相次ぎ、在日韓国人であるために特別臨時雇い扱いでしかない長兄は、組合に入れず解雇の対象に。兄妹は離別を余儀なくされる。悲劇は容赦なく襲いかかるが、決して絶望はしない。どん底の貧しさの中でも、兄妹は信じ合い、助け合って生きる強さを持っていた。
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 「あに」・・・以下もブログ辞典からの抜粋です
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 あに【豈】とは
 [副]
 1 あとに推量を表す語を伴って、反語表現を作る。
   どうして…か。
   豈図(あにはか)らんやとは
   多く文末を「とは」で結ぶ
   全く思いがけないことが起こったという気持ちを表す。
   意外にも。
 豈の用語解説
 [副]
1 あとに推量を表す語を伴って、反語表現を作る。
どうして…か。
「価なき宝といふとも
一坏(ひとつき)の
濁れる酒にアニまさめやも」〈万・三四五〉
 2 あとに打消しの語を伴って、強い否定の気持ちを表す。
決して…ない
 豈の意味
 副詞1〔下に打消の語を伴って〕決して。少しも。
 出典日本書紀 仁徳
 「あに良くもあらず」[訳] 決して良くはない。
   2〔下に反語表現を伴って〕どうして。なんで。
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 あに=豈=山(サン・やま)+豆(ズ・トウ・まめ)→纂図
               まめ=肉刺=ジクシ→字句詞
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 aniの意味や和訳。
 対訳 ANI
 解説 
 A program that identifies the phone number where a call originates
 ANI (automatic number identification)
 自動番号識別
 Ani
 阿仁
 ani
 (複)(解剖)
 肛門
 関連語
 anal, anus
 同義語(異表記
 Anal Gland
 Anal Sphincter
 ani
 AnusHuman Anal Gland
 肛門
 肛門括約筋
 大腸 Large Intestine
 肛門管 Anal Canal
 aniの共起表現
 日本語WordNet(英和)
 ani
【名詞】
 1 黒い熱帯性のカッコウ(郭公)
  (black tropical American cuckoo)
 「ani」に関する類語一覧
 「アニメ」は、英語「animation(アニメーション)」の略
 「 animation」は日本で用いられるアニメの意味のほか、
 「生気」や「活気」、「活発」 といった意味がある。
  これは、
 「animation」が
 「霊魂」
 「魂」を意味する
 ラテン語
 「anima( アニマ)」に由来
 日英固有名詞辞典
 Ani
 日本人苗字
 阿弐・安仁・阿仁・阿爾
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 英語例文和訳に
 比内と阿仁出羽国の一部として扱われるようになったのは、これ以後と推定される。
 伝説では、源内が阿仁町に向かうため角館城下の酒造業者五井家に泊まった。
 源内が阿仁や大館の検分を終えて藩主佐竹曙山(義敦)に拝謁したのちの同年10月29日に久保田を出発、江戸へ戻った。
 が、あったので・・・以下「ウイッキペデア」の「平賀 源内」からの抜粋記事を添付・・・ 
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 平賀 源内(ひらが げんない)
 享保十三年(1728年)〜
 安永八年十二月十八日(1780年1月24日)
 源内は通称で元内とも
 諱は国倫(くにとも)
 字は子彝(しい)
 画号は鳩渓(きゅうけい)
 俳号は李山(りざん)
 戯作者名は風来山人(ふうらいさん じん)
 浄瑠璃作者としては
 福内鬼外(ふくうち きがい)の筆名
 殖産事業家としては天竺浪人(てんじくろうにん)
 細工物を製造販売には貧家銭内(ひんか ぜにない)
 父は
 白石茂左衛門(良房)
 母は
 山下氏の娘。兄弟多数。
 讃岐国寒川郡志度浦(香川県さぬき市志度)に生まれる
 平賀氏は讃岐高松藩足軽身分の家
 元々は
 信濃国佐久郡の豪族
 戦国時代
 平賀玄信の代に
 甲斐の武田信虎・晴信父子に滅ぼされ、
 奥州の
 白石に移り
 伊達氏に仕え、
 白石姓に改めた
 伊予
 宇和島藩主家に従い
 四国へ下り、讃岐で帰農した
 十三歳から藩医の元で本草学、儒学を学ぶ。
 寛延元年(1748年)に父の死により後役として
 藩の蔵番となる
 宝暦二年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学
 留学後、藩の役目を辞し、
 妹に婿養子を迎えさせ
 家督を放棄
 宝暦六年(1758年)
 江戸に出て
 本草学者
 田村元雄(藍水)に弟子入り
 漢学習得するために林家にも入門
 聖堂に寄宿
 2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。
 宝暦十一年(1761年)に
 伊豆で鉱床を発見
 幕府老中の
 田沼意次にも知られるようになる。
 宝暦十二年(1762年)には
 物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催
 杉田玄白中川淳庵らと交友
 高松藩の家臣として再登用されるが、江戸に戻るために辞職
 宝暦十三年(1763年)に
 『物類品隲』刊行
 談義本の類を執筆
 明和三年(1766年)から
 武蔵川越藩の
 秋元凉朝の依頼で
 奥秩父
 川越藩秩父大滝の
 中津川で鉱山開発
 石綿などを発見
 秩父における
 炭焼、荒川通船工事の指導
 安永二年(1773年)
 出羽秋田藩
 佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導
 秋田藩
 小田野直武に蘭画の技法を伝授。
 安永五年(1776年)に
 エレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。
 安永八年(1779年)
 夏、橋本町の邸へ移る
 大名屋敷の修理を請け負った際に、
 酔っていたために
 修理計画書を盗まれたと勘違いして
 大工の棟梁
 二人を殺傷
 11月21日に投獄
 12月18日に
 破傷風により
 獄死、享年52
 杉田玄白らの手により葬儀
 幕府の許可が下りず、墓碑も、遺体もない葬儀となった。
 大工の秋田屋九五郎を殺したとも、
 後年逃げ延びて
 田沼意次の保護下に天寿を全うしたとも伝えられる
 戒名は智見霊雄
 男色家で妻帯せず、
 歌舞伎役者らを贔屓にして愛した
 二代目
 瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名
 玄白の回想録である
 『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている
 源内の墓碑を記したのも玄白
 「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」
 (ああ非常の人、非常のことを好み、
  行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)と
 竹とんぼの発明者
 「夏バテ防止のために土用の丑の日にウナギを食べる」風習は、
 平賀源内が考案した
 「本日土用丑の日」との説がある。
 明和六年(1769年)
 歯磨き粉
 『漱石膏』の作詞作曲
 安永四年(1775年)には
 音羽屋多吉の清水餅の広告コピー
 浄瑠璃作家としては福内鬼外の筆名で執筆
 作品の多くは五段形式や多段形式
 世話物
 風来山人の筆名で
 『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの
 春本を残す
 水虎山人の名義により
 1764年(明和元年)に
 『菊の園』、
 1775年(安永四年)に
 『男色細見』の
 陰間茶屋案内書を著わした。
 鈴木春信と共に絵暦交換会を催す
 博覧会の開催を提案、
 江戸湯島で日本初の
 博覧会
 『東都薬品会』を開催
 文章の
 「起承転結」を説明する
 「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 
  諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す」の作者との説がある。
 作品
 西洋画
 『黒奴を伴う赤服蘭人図』
 『西洋婦人図』
 著作
 『物類品隲』
 『根南志具佐』
 『風流志道軒伝』
 『放屁論』『放屁論後編』
 浄瑠璃
 『神霊矢口渡』
 『源氏大草紙』
 『弓勢智勇湊』
 『嫩榕葉相生源氏』
 『前太平記古跡鑑』
 『忠臣伊呂波実記』
 『荒御霊新田新徳』
 『霊験宮戸川
 『実生源氏金王桜
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 Ani
 地名
 阿仁
 秋田県北秋田市
 阿仁の
 阿仁マタギは有名
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 安仁神社(あにじんじゃ)
 岡山県岡山市・東区・西大寺にある神社
 社名より
 平安時代
 参議
 秋篠安仁(あきしののあに)や
 右近衛大将
 安倍朝臣安人(あべのあそんやすひと)、
 和珥氏の
 祖神であるとするもの、
 天照大神
 五十狭芹彦命(吉備津彦命
 また、
 単に
 当地の
 地主神であるとする説もある。
 諸説あって定められないことから、
 1870年(明治三年)の
 『神社明細帳』では
 「未詳」と書かれている。
 現在の五瀬命
 1875年
 (明治八年)に
 安仁神社社務(神職)が作成した
 『安仁神社御傳記』に初めて現れるが、
 1925年(大正十四年)に社務所が作成した
 『安仁神社誌』では、
 やはり
 定められないとして
 社名に神をつけた
 「安仁神」としている。
 第二次世界大戦後の
 1952年(昭和二十七年)に作成された
 『神社明細帳』で再び
 五瀬命とされ、

 現在に至る。
 古くは
 「兄神社」と
 称していたと
 原文添付
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安仁神社 - Wikipedia
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 ・・・アンジン(按針=方位磁石・水先案内)ならば「三浦按針」で、「ウイリアム・アダムス」である・・・
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 おおえ→覆え・被え・蔽え・蓋え
 おおえ(大江山
 原文添付
  ↓
大江山 - Wikipedia

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