1022日目・・・「現存・古事記」と「東方見聞録・世界の記述("La Description du Monde")・写本名はイル・ミリオーネ("Il Milione"、100万)・旅」だが・・・その「歴史的な存在自体」が「相似」していると、ボクは考えるのだが・・・双方、「祖本」が散逸?、「語り部の誦習、口述した記録」、「写本」であり、「序文」もある・・・「太安萬侶(マロ)」と「マルコ」で「まる」である・・・「母を訪ねて3000里」・・・

 「古事記」の成立は「712年(和銅五年)」であり、その写本は「真福寺本」と云われ「1371年〜1372年、僧・賢瑜によって三帖が書写」された。
 「真福寺」とは「1324年(元亨四年)、後醍醐天皇尾張国・中島郡・長岡庄・大須(現岐阜県羽島市)に北野天満宮を創建。
 1333年(元弘三年)に同社の別当寺として、能信が創建した
(1366年の説もある)」と云われている・・・
 「東方見聞録」成立は「1298〜1299年前後?」である・・・1298年、
 干支暦「戊戌」年・
 日本年号「永仁六年」・
 皇紀1958年」・
 中国年号「元王朝・大徳二年」で、
 誕生した人物は、
 8月1日(永仁六年六月二十三日)
 尊円法親王鎌倉時代、・・・噂延報晋能生
 南北朝時代法親王
 12月12日
 アルブレヒト2世、・・・・・在る振れ人時世
 オーストリア墺太利)公・・墺太利=十一措句対理
 姉小路高基、公卿・・・・・・姉=女+市・後記・皇紀
 勧修寺経顕、公卿・・・・・・監修字(事・時)
 日静、・・・・・・・・・・・日生
 日蓮宗法華宗の僧・・・・・・似知蓮(日下連)北家
 死去した人物は
 5月6日
 (永仁六年三月二十三日)
 源彦仁、皇族・・・・・・・・皆本言訊、後続
 6月10日
  (永仁六年五月一日)
 宇都宮景綱、御家人、・・・・宇土球径行(傾向)
 宇都宮氏
 第七代当主・
 7月2日
 アドルフ、ドイツ王、・・・・亜度留符
 ナッサウ伯・・・・・・・・・名通作得葉句
 8月13日
 ヤコブス・デ・ウォラギネ、・夜混布素・出・魚等義素
 イタリアの・・・・・・・・・伊太利亜・伊太利・意足蛙
 年代記作者、
 ジェノヴァの・・・・・・・・字重埜葉亜(蛙=かえる)
 第8代大司教
 11月18日 (永仁六年十月十三日)
 心地覚心、臨済宗の僧
・・・新知(地)確信
ーーー
 「馬哥孛羅」とはブログに紹介されている「マルコポーロ ホンコンホテル(馬哥孛羅香港・酒店)(MARCO POLO HONG KONG HOTEL)」に付けられた「漢字名」である・・・
 「マルコ・ポーロ=馬哥・孛羅=MARCO POLO」で
 「馬(うま・マ・バ)」、
 「哥(うた・カ・ゲ・歌の異字体
 呼び掛け→表妹、表姐、表弟、
 表哥はもともと母親の兄弟の子供たちに対しての呼びかた、父親の兄弟の子供たちは、堂兄、堂弟、堂姐、堂妹、
 堂哥
 親戚中の同世代で年長の男子・
 表哥
 (母方の)いとこ(従兄弟・従姉妹・従兄妹・従姉弟)・
 堂哥
 (父方の)いとこ(従兄弟・従姉妹・従兄妹・従姉弟)・
 同年輩の男子を親しい呼び方・
 音訳用字
   ↓
 哥伦布=コロンブス・・・「コロン」は「ミズ」で、ドイツの都市「ケルン」
 哥白尼=コペルニクス・・・「コペル(スロベニア語 Koper
           ・イタリア語名
            カポディストリア=Capodistria
           ・クロアチア語
            コパル=Kopar
           ・ドイツ語名
            Gafers)」は
      「アドリア」海の北東岸、
      「イーストラ半島」の
      付け根に古代から形成された都市
      古代ギリシア時代には
      Aegidaと呼ばれた
      後にラテン語のコペルと改称
      「スロベニア」唯一の商業港の都市で、貿易の拠点。
      イタリア領とクロアチア領の間を海まで伸びる
      回廊状の尖端に位置。
      現在の旧市街はもともと
      小さな島であったが、
      19世紀に本土と地続きになった。
      中世以来、ベネチア共和国の支配下に置かれた。
      11都市の中の一
      「コペル」に隣接するのは
      港町「イゾラ」と軍港「ピラン」
      スペイン語のCopaは
      glass、カップ、コップの意味→瑠璃杯
      イタリア映画
      「Kapo'=ゼロ地帯」は強制収容所
      カポ→シチリア・マフィア組織の
         首領(ボス・ドン)
         映画「ドン・カミロ」は陽気な神父
      1970年、『ドン・カミロ』シリーズの
      主演仏俳優「フェルナンデル」は
      6作目の撮影中に倒れ、癌の為に死去
      コパァ=カッパァ=Copper=銅=原子番号29
        シンボルのCu(cuprumラテン語から)
        化学要素・高い熱的、電気的と延性金属
      古代中国では、
      展延性に劣る
      鋳鉄を「悪金」
      青銅を「吉金」、「美金」とした
      青銅は、銅(Cu)が主成分の錫(Sn) を
      含む合金である。ブロンズ (bronze・砲金)
      和銅五年は「古事記の編纂上奏」
      和銅=銅(金同)+錫(金易)=青銅
      錫=スズ
       (英=Tin=ティン・独=Zinn=ジン)
        ブリキ(ブリキ=亜鉛メッキ板=トタン)
      原子番号50
      元素記号は Sn(ラテン語 stannum)
      スズは本来、銀・鉛合金のことだったが、
      4世紀頃より stannum と呼ぶようになった
      英語では「ブリキ(錻力)=亜鉛メッキ板」
      オランダ語「ブリキ(blik・錻力→金武力)」
      薄い鋼板に錫(すず)、亜鉛をメッキしたモノ
      メッキ=鍍金→金+度+金→目通基→女津記
      マフィアの語源は
      採石場を意味するアラビア語マーハ(mafie)
      「ダ・カーポ」は再度、再び、最初(はじめ)から

 哥沢芝金→うた沢芝派(哥沢)の家元名・
 初世(1828〜74・文政十一年〜明治七年)
 本名は柴田金吉・
 江戸日本橋高砂町
 御家人
 柴田弥三郎の三男・愛称は芝金」、
 浮世絵画家は
 「歌麿=哥麿=うたまろ」で、「マラ」は「凸凹画・枕絵」
 「(バイ・ボチ・ハイ・ホツ・ボツ・対応する英語=comet, dark, obscure)・
 類字部首の漢字は渤海・勃起・
 孛(ハイ)→白川静の説では、
 「孛は花のめしべがふくらんで実がなろうとしていることを表す字で、内にはげしい力が充実して外にあらわれる意味をもつので乱れる」らしい。ならば、「淫乱、淫靡」であるかな・・・
 異字→悖=ハイ・そむく、もとる・道理に背く・覆い隠す・反乱者・惑う・誤る・勃と通じて、さかんな」、
 「(ラ・うすぎぬ・鳥を捕らえる網。網にかけて捕らえる・
 雀羅(じゃくら)・網羅・爬羅剔抉(はらてっけつ)・
 網の目のように並べ連ねる・
 並ぶ・羅列・森羅万象・うすぎぬ・
 絹で織った網のような薄物・
 紗や絽が
 経糸2本を絡み合わせるのに対して、
 羅は3本以上の経糸を絡ませて
 織り目が網のような見た目になる)」である・・・
ーーー
 『母をたずねて三千里
 ・・・エドモンド・デ・アミーチス(Edmondo De Amicis・1846年10月21日〜1908年3月11日)は、イタリア王国の作家。イタリア北西部(当時サルデーニャ王国領)の町オネッリア(1923年よりインペリア市の一部)で生まれる。イタリア統一運動の時代に育ったアミーチスは1860年、14歳のときに、ジュゼッペ・ガリバルディの千人隊(赤シャツ隊)に志願したほどの愛国者であった(幼少として断わられる)。
 代表作に、統一イタリアの子供の教育用に書いた愛国小説『クオーレ』 (Cuore) がある。この作品の中の挿話短編「アペンニーノ山脈からアンデス山脈まで(Dagli Appennini alle Ande)」 が、日本では『母をたずねて三千里』のタイトルで知られている。
 『クオーレ』を初めて日本語訳したのは教育者の
 三浦修吾(1875年・明治八年〜1920年・大正九年で、彼が「愛の学校(1916?・1919?)」というサブタイトルをつけた。
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 以下、例の如く「ウイッキペデア」から参考、参照、抜粋し、若干改作したモノである・・・
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 マルコ・ポーロMarco Polo・1254年9月15日〜1324年1月9日)
 ヴェネツィア共和国の商人
 ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した
 『東方見聞録』=写本名
          ↓
 『イル・ミリオーネ (Il Milione)』
 『世界の記述 (Divisement dou monde)』
 を
 口述した
 父
 ニコーロ (Niccolò) と
 叔父
 マフェオ・ポーロ (Maffeo Polo)
 1271年、父・叔父と共に
 アジアに向け出発
 以降24年間にわたりアジア各地を旅
 帰国後、
 ジェノヴァとの戦争に
 志願し、
 捕虜となって
 投獄され
 囚人仲間に旅の話をし、
 これが後に
 『東方見聞録』
 1299年に
 釈放された
 結婚して
 3人の子供に恵まれた
 1324年に没し
 サン・ロレンツォ教会
 (ベネツィア・Chiesa di San Lorenzo (Venezia))に
 埋葬
 ヨーロッパ地理学にも影響
 フラ・マウロの世界図が作成
 クリストファー・コロンブスに刺激を与えた
 
 マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたか正確には分かっておらず、正しい場所は不明
 父親ニコーロは中東貿易商人
 ニコーロとマフェオの兄弟はマルコが生まれる前に貿易の旅に出発
 コンスタンティノープルに住み着く
 政変が起こると予測した彼らは、
 1260年に財産をすべて宝石に換えてその地を離れ、
 毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かった
 『東方見聞録』によると、彼らはアジアを東へ向かい、
 クビライとも謁見
 この間、マルコの母親は亡くなり、
 彼は叔父と叔母に養育された
 
 1269年
 ニコーロとマフィオの兄弟はヴェネツィアに戻り、初めてマルコと会った。
 1271年後半に兄弟は
 17歳のマルコとともに後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅に出発
 戻ってきたのは
 24年後の
 1295年
 全行程15,000kmの旅
 帰還して
 3年後、
 ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態
 マルコは捕らえられ数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを書き留めたのが、彼と同じく投獄されていた
 職業的著述家の
 ルスティケロ・ダ・ピサであった
 ピサは、ここに彼自身が聞きかじった物事や他の逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えた。
 1299年8月に
 釈放され
 ヴェネツィア市内の中心部に購入した広大な屋敷「contrada San Giovanni Crisostomo」に戻れた。
 その後マルコは遠征への出資するも、彼自身はベネツィアを離れなかった。
 1300年、マルコは
 商人ヴィターレ・バドエルの娘
 ドナータ・バドエルと結婚
 ファンティーナ、
 ベレーラ、
 モレッタと名づけた
 三人の娘に恵まれた

 1323年、
 病気
 1324年1月8日
 死亡
 遺言にはマルコがアジアから連れてきた
 タタール人の
 奴隷解放を指示

 マルコ・ポーロの口述を記した
 原本は早くから失われ
 140種類を超える
 写本間にも有意な差が見られる
 初期は
 フランス語で書かれていたと考えられる
 本は
 1477年に
 ドイツ語で初めて
 活字化
 1488年に
 ラテン語
 イタリア語で出版
 単独の筋書きに拠るもの、
 複数の版を統合したり、
 ヘンリー・ユールによる
 英語翻訳版のように
 一部を加えたりしたものがある。
 同じ英語翻訳でも
 A.C.ムールとポール・ペリオが
 訳し
 1938年に出版された本では、
 1932年に
 トレド大聖堂で発見された
 ラテン語本を
 元にしているが、
 他の版よりも
 5割も長い
 このように、
 さまざまな言語にまたがる
 異本が知られている
 印刷機
 発明以前に行なわれた
 筆写と翻訳に起因して
 多くの誤りが生じ、
 版ごとの食い違いが非常に多い
 14世紀初頭に作られた、
 「F写本」と呼ばれる
 イタリア語の影響が残る
 フランス語写本が最も
 原本に近いと思われている

 本は、ニコーロとマフィオがキプチャク・ハン国のベルケ王子が住むボルガールへ向かう旅の記述から始まる。
 1年後、彼らは
 ウケクに行き
 さらに
 ブハラへ向かった。そこで
 レバントの使者が兄弟を招き、ヨーロッパに行ったことがない
 クビライと面会する機会を設けた
 1266年に大都(現在の北京)で実現
 した。
 クビライは兄弟に
 ヨーロッパの
 法や政治体制について多くの質問
 またローマの教皇や教会についても聞いた
 兄弟が質問に答えるとクビライは、
 リベラル・アーツ
 (文法、修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学) に通じた
 100人のキリスト教徒派遣を求めた
 教皇に宛てた書簡を託した
 さらに
 クリスム
 (Chrism, エルサレムの、イエス・キリスト墓前に灯るランプの油)も持ってくるよう求めた
 1268年に
 クレメンス4世が没して以来、
 使徒空位
 クビライの要請に応える教皇は不在のままだった。
 ニコーロとマフェオはテオバルド・ヴィスコンティ、次いでエジプト駐留の教皇使節から助言を受け、ヴェネツィアに戻り次期教皇の即位を待つことにした。
 彼らがヴェネツィアに着いたのは
 1269年もしくは
 1270年であり、
 ここで当時
 16歳か17歳だったマルコと初めて会うことになった

 1271年に
 ニコーロとマフィオそしてマルコの
 3人はクビライへの説明のために旅に出発
 彼らが
 小アルメニア
 ライアスに到着した時、新教皇決定の知らせが届いた
 彼らに、
 2人の
 宣教師
 ニコロ・ディ・ヴィツェンツァと
 グリエルモ・ディ・トリボリが同行することになったが、宣教師らは旅の困難さに直面し逃亡

 ヴェネツィアを出て3年半後、21歳前後まで成長したマルコを含む一行は目的地に到着し、カーンは彼らを歓迎した
 マルコらが到着した正確な日付は不明だが、
 1271年から1275年の間だと見なされている
 宮廷にて、
 一行はエルサレムから持参した
 神聖なる
 油と、
 教皇からの
 手紙をクビライに渡した

 17年間中国に滞在
 1292年
 泉州市から
 14隻のジャンク船団を組んで南へ出航
 シンガポールに寄港
 スマトラ島では
 5ヶ月風待ち
 セイロン島を経由して
 インド南岸を通過し、
 マラバール
 アラビア海を通って
 1293年2月頃に
 オルムス(Ormus, ホルムズとも)に至った
 2年間にわたる船旅で
 水夫を除くと
 600人いた乗組員は
 到着時には
 18人にまで減った
 コカチンやマルコら3人は無事に生き残った
 オルムスに到着し
 陸路で山を超え
 黒海
 トラブゾン港へ向かった
 1295年にヴェネチアに帰還
 通算24年間の旅を終えた

 マルコの肖像が描かれた
 旧1000リレ紙幣
 マルコには『イル・ミリオーネ(Il Milione、百万男)』というあだ名がついていた。このあだ名の由来には諸説あるがはっきりしたことは分からない。
 中国の人口や富の規模について百万単位で物語ったことからきたという説
 大風呂敷だとして当時の人がからかい、そのように呼んだという説
 アジアから持ち帰った商品によって「百万長者」になったことを表すという説

 大英図書館
 中国部主任の
 フランシス・ウッドは
 『東方見聞録』には
 実在した中国風俗の
 多くが紹介されていないことなどを理由に、
 マルコが元まで行ったことに否定的な見解を示し、
 マルコは黒海近辺で収集した情報を語ったと推測

 1450年に
 ヴェネツィア
 僧侶
 フラ・マウロが作成した地図
 黄金の国ジパング
 マルコ・ポーロ(Marco Polo)は、
 自らは渡航しなかったが
 日本のことを
 ジパング (Zipangu)の
 名でヨーロッパに初めて紹介
 バデルが校正した
 B4写本では、
 三章に亘って
 日本の地理・民族・宗教を説明
 中国大陸から
 1,500海里(約2,500km)に
 王を擁いた
 白い肌の人々が住む
 巨大な島があり、
 黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い真珠類などを紹介
 1274年、
 1281年の
 元寇についても触れ
 元軍が
 日本の
 首都である京都まで攻め込んだという記述
 日本兵が武器にしていた
 奇跡の石などの記述がある
 「黄金の国」伝説
 奥州平泉の中尊寺金色堂
 遣唐使時代の留学生の持参金
 日宋貿易の日本側支払いに
 金が使われていた
 広く「日本は金の国」という認識が中国側にあった
 イスラム社会には
 黄金の国を指す
 「ワクワク伝説」があり、
 これも倭国「Wa-quo」が
 元にあると思われ、
 マルコ・ポーロ
 黄金の国は
 これら中国やイスラムが持っていた日本に対する幻想の影響を受けたと考えられる

 日本の習俗
 偶像崇拝
 食人の風習に触れている
 これはジパング
 周辺の島々について
 概説的に述べられており、
 その範囲は
 中国の南北地域から
 東南アジア
 インドまでに及ぶ
 当時の日中貿易は
 杭州を拠点に行われていた
 しかし
 1500海里という表現は
 泉州から九州北部までの距離と符合
 「ジパング」の呼称も
 中国
 南部の
 「日本国」の
 発音
 「ji-pen-quo」が由来
 泉州はインド航路の起点
 マルコの日本情報はイスラム商人らからの可能性が高い

 世界最大の海港と称賛した
 泉州
 杭州
 繁栄ぶりに驚嘆し、大都の都市計画の整然さや庭園なども美しさを記し
 ヨーロッパには無かった
 紙幣に驚き、
 クビライを
 「錬金術師」と評した

 スヴェン・ヘディンは
 1271年に
 パミール高原(Imeon山と呼ばれた)を
 通過した際に見た
 大柄な
 ヒツジについても詳細な報告を残し
 この羊には「マルコポーロヒツジ」との名称がついた

 中国やアラブの船の構造についても詳細を記録
 1292年にインドを通った時の記録には、
 聖トマスの墓が当地にあると記す
 イスラムの楽器についても記録
ーーーー
 マルコの報告が大航海時代を開く端緒のひとつになったという考えもある
 1453年に作成された
 フラ・マウロの地図(Fra Mauro map)に対して、ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオは
 以下のコメントを寄せている
That fine illuminated world map on parchment, which can still be seen in a large cabinet alongside the choir of their monastery (the Camaldolese monastery of San Michele di Murano) was by one of the brothers of the monastery, who took great delight in the study of cosmography, diligently drawn and copied from a most beautiful and very old nautical map and a world map that had been brought from Cathay by the most honourable Messer Marco Polo and his father.
       ↓
 この羊皮紙に描かれたすばらしい世界地図は、宇宙誌を学ぼうとする者に偉大なる光を与えたもう僧院のひとつである(ムラーノのサン・ミッシェル、カマルドレセ)修道院聖歌隊席の横にある大きな飾り棚に見ることができる。克明に写され描かれた至上の美しさといにしえの知を伝える海図と世界地図は、最も高貴なる伝達者マルコ・ポーロとその父がキャセイ(中国)より伝えしものである。
 ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ
ーーーーー
マルコ・ポーロは中国で、住民が細長い食べ物を茹でている光景を見た。この料理の作り方を教わったマルコはイタリアに伝え、これが発達してパスタになったという説がある。 この説によると、「スパゲッティ」(Spaghetti)とはマルコに同行していた船乗りの名が由来だという。
 別な俗説では、マルコ一行のある船員と恋仲になった中国娘が、帰国の途に就く男との別れに悲しむ余り倒れ、その時に持っていたパンの生地を平らに潰してしまった。この生地がやがて乾いてミェヌ(麺)状になったというものもある。
 これには否定論もあり、16世紀に『世界の叙述』をラムージオが校訂した際に紛れ込んだ誤りのひとつで、イタリアのパスタと中国に麺類に関連性は無いとも言われる。
 陶磁器も持ち帰った。中国の陶磁器はセラミック・ロードと呼ばれる南海ルートでイスラム商人が8 - 9世紀頃からヨーロッパへ持ち込んでいたが、マルコは製造工程も見聞している。しかし、これは西欧での陶磁器製造には結びつかなかった。
 方位磁石もまた、マルコが中国から持ち帰った一品である。これは羅針盤へ発展し、大航海時代を支える道具となった。
 マルコ・ポーロ以前にヨーロッパ人が中国を旅した他の例には
 プラノ・カルピニがいる。
 しかし、彼の旅行の詳細は一般に広く知られることは無かった。
 クリストファー・コロンブスはマルコが描写した極東の情報に強く影響を受け、航海に乗り出す動機となった。
 コロンブス
 所蔵した
 『東方見聞録』が残っており、
 ここには
 彼の手書き
 注釈が加えられている
 ベント・デ・ゴイスも
 「東洋で君臨するキリスト教の王」についてマルコが口述した部分に影響され、中央アジアを3年間かけて4,000kmにわたり旅をした。彼は王国を見つけられなかったが、
 1605年には万里の長城に至り、
 マテオ・リッチ(1552年 - 1610年)が
 呼んだ
 「China」が、
 「Cathay」と
 同一の
 国家を指していることを
 立証した
ーーーーー
 原文添付
  ↓
マルコ・ポーロ - Wikipedia