1020日・・・「アマゾーン」の当て字が「日本語漢字」で「長音記号」を省略し「亜馬森(あまぞん)」とも呼ばれる、とは「ウイッキペデア」の「アマゾン川」の説明だが、一体全体、「ダレがイツこの漢字」を当てたのか?・・・併せ、平行してボクの問題はその「理由のナゼ」である・・・日本語の訓読みなら「あまねし(天音詞・海女子史・海人子史)」の「うま(午・宇摩・旨)」の「もり(銛・杜・盛・摸理・模里・守・毛利)」か、「あまもり(雨森)→雨漏り→天杜→天孫降臨」で、「ア−バ−シン」とはボク的には「阿−波−審(晋・槙・振

 「縦横無尽(自由奔放・四方八方)」、「傍若無人(迷惑千萬・迷惑至極・勝手我侭・自己本位)」・・・「八面六臂・自由奔放・自由自在」・・・「面倒放棄」・・・「面を倒す」とは「面汚し」か・・・「面子を汚された」とは「胡錦濤」・・・なるほど、「古今等」?
 キリスト教徒は礼拝、祈祷、何かの事後に「十字」を切る仕草の順序は額(ひたい・ぬかだ・ガク)から鳩尾(みぞおち・はとを・キュウビ)へ上下に、左肩から右肩へ左右に指を揃えて印を切る・・・縦を横に切る・・・斜めに切るのは長包(庖)丁での魚の刺身か、竹切り、倒木伐採時の斧、鉈(なた)での斜め切り・・・迷惑至極・・・手を合わせるのはキリスト教徒も仏教徒神道信徒とも同じで拱(こまね)く仕草である。願望、嘆願、哀訴、感謝の仕草・・・回教徒は地面に這い蹲(つくば)っての「礼拝お辞儀」・・・「階級序列が厳しい軍隊の敬礼」は何時の時代からなのか?・・・ブログ記事の千恵袋の回答には「ローマで市民が元老院議員などの公務員に近づく際、武器を持たないことを示すために手を開いて差し上げた習慣、中世の騎士が挨拶する際に鎧の面頬を上げて顔を見せた習慣、など。
 現代の軍隊の敬礼の直接の起源は1800年代初期に英国のコールドストリーム近衛連隊で挨拶の方法を「帽子のヘリに触れる」と定めたこと。
 これ以前の挨拶は、いちいち帽子を取っていたので帽子の傷みひどく、問題になっていた。
 英国陸軍の敬礼は「帽子のヘリをつまむ」動作を様式化して、手のひらを相手に向けて指をまっすぐ伸ばし、右眉の上につけるように形式化された。
 これに対し、帆船上では防水・防腐剤のタールを塗ったロープを握るため士官・兵とも手のひらが黒く汚れていたので、英国海軍では手のひらを相手に見せないよう、手のひらを下に向けて敬礼する形式となった」らしい・・・何事も形式ばった仕草、動作にはそれなりの「由来」があるものだ・・・近頃、町に「本屋」も「古本屋」もないので「本」を買うという事がない。手元の辞書類もホトンド開かない・・・本当に「コンピュータのネット」は有り難いが、停電になってしまったらそれまで、ではアルなッ・・・

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→亜馬森←  →亜亜亜←三亜
→亜馬森←  →馬馬馬←三馬
→亜馬森←  →森森森←三森
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 三亜市は中華人民共和国海南省の地級市・海南省第二の都市・三亜の名称由来は「三亜河(臨川水)」で東西から流入する川が合流し「Y(ア)字」となっていたこと」。「海南省(崖県)の中心座標は北緯18度15分12秒 東経109度30分13秒 / 北緯18.25333度・三亜は東経109.50361/北緯18度9分〜18度37分」は「ハワイ」とほぼ同緯度に位置する。アメリカ合衆国50州の最後に加盟した州だが元々は「カメハメハ王朝」であった。「魏志倭人伝」の研究では「ハワイ」は「裸国」ではないのか、と言う「説」がある・・・女王国、去ること四千余里、又有り裸国と黒歯国。往復、其の東南に在り、航行一年で至る・・・去女王・四千餘里・又有・裸國・黒齒國・復在其・東南・船行・一年・可至・參問・倭地・絶在海中・洲嶋・之上・或絶・或連・周旋・可五千餘里(三國志・魏書・烏丸)・・・
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 「ハワイ」は漢字で「布哇」が当て字されている。「布(しく・ぬの・フ)」は「毛布」、「配布」、「布陣」等の「フ」で、「天下布武」は「織田信長の相談役、沢彦の進言」であるらしい。ブログの日中辞典では「哇=かい・けい・アイ・ワ・エ・エ(ヱ)」は「蛙(かえる・ア)」に類字だが擬態語で「大きな泣き声や嘔吐する音」、「哇的一声哭起来了」は「ワっとばかりに泣きだした」、「哇啦(哇喇・wālā・ワラ」は「がやがや・わいわい・騒々しい人声・」で「哇哇(wāwā・ワァワァ)」は「かぁかぁ=カラス(烏・鴉・雅)の鳴き声や子供の泣き声」とある。
 ハワイ語の「Hawaiʻi」は原始ポリネシア語の「Sawaiki」から派生したらしく、「母国」を意味している。「Hawaiʻi」 と「同根語」はポリネシアマオリ語 (Hawaiki)、ラロトンガ語(ʻAvaiki)およびサモア語 (Savaiʻi) にも見られるらしい。
 「言語学者のプクイとエルバート」は、「ポリネシアのどこでも、Hawaiʻiあるいはその類似語は地下世界または祖先の家の名前であるが、ハワイでは意味を持たない」と云っているらしいが、ここのブログにはその「根拠」が記述されていない・・・「ハワイ」は「明治文明開化、日本」の研究結果の「母国・祖国・祖先の家」の「言語」なのさ、「ハワイ=布哇→はわい=葉倭意・波倭委」だから・・・
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 中国支配は武帝による南越国(ヴェトナム)滅亡後の前110年に臨振県の設置による。その後臨振郡、崖州、珠崖軍、吉陽軍、崖州と名称の変遷。明代の『正徳瓊台志』には既に「三亜村」、「三亜里」の的記載が登場している。
 清末の1905年(光緒三十一年)に崖州は直隷州となり
 万安、陵水、昌化、感恩の四県を管轄する。
 楡林港(ユウリンコウ)は・・・・楡林(にれはやし)
 海南島最南端の海港
 行政区分は
 三亜市に属する
 第二次世界大戦中は日本の
 林兼商店の・・・・・・・・・・・林兼(はやしかねる・リンケン)
 南洋漁業の根拠地
 北東約20キロメートルの
 田独鉄山から産出する・・・・・・田独鉄山(デンドクテツザン)
 鉄鉱石の積出港となった
 そして
 「楡林」と同名の・・・・「似る例の葉(場)埜詞」、同じ地名が二つ
 楡林市(ユウリン-シ・にればやしーいち)は
 陝西省
 位置する
 地級市
 歴史上北方民族が
 長安(現在の西安市)に向かう際の
 交通の要衝
 石炭採掘が主産業で、
 神木県は・・・・・・・・・神木(カミのキ・コウモク→綱目・項目)
 中国有数の
 巨大炭鉱地帯・・・・・・・炭鉱地帯→探鉱地帯(領域)

 三馬(みま・みつうま・サンバ)
 式亭三馬(しきていさんば)
 安永五年(1776年)〜
 文政五年閏一月六日(1822年2月27日)
 江戸時代後期の
 地本・・・・・・・チホン・ジホン
 作家で
 薬屋・・・・・・・くすりや・ヤクオク
 浮世絵師
 滑稽本・・・・・・滑る(すべる→統べる・総べる)
          稽(はかる・ケイ・計→会計=会稽)本
          中国上海(申)→会稽東冶→邪馬台国
 『浮世風呂』・『浮世床』などの作家
 名は
 菊池泰輔、・・・・きくち・きくいけ・オウチ→熊本菊地
 字は・・・・・・・あざ・あさ→痣・阿左
 久徳・・・・・・・功徳・口説く・句読
 通称は
 西宮・・・・・・・サイキュウ・さいぐう→斎宮・歳遇・再遇
 太助・・・・・・・おほのたすけ・たいすけ・ふとくたすける
          太安万侶   替諏化  符解く足す化留
 戯号は
 四季山人・・・・・「私記・史記」、「纂人(訊・神・仁・壬)」
 本町庵・・・・・・ホンチョウアン→本朝按・本庁案・本帳暗(闇)

 石川県
 金沢市の地名
 三馬
 三馬村(みんまむら)は
 石川県石川郡に存在した村。
 金沢市南部に位置し、伏見川の流域に位置
 1936年(昭和十一年)
 石川郡
 崎浦村と・・・・・センポソン
 河北郡・・・・・・カホク
 小坂村とともに・・・おざか・こざか・ショウハン
 金沢市に・・・・・・キンタク・ゴンタク・コンタク
 編入合併
 三馬村
 由来は
 加賀国の荘園である
 三馬郷
 金沢市
 久安にある・・・・・・クアン・キュウアン
 御馬神社がこの地域の総社
 神社名の読みである
 「みうま」または「みま」が
 次第に
 「みんま」と呼ばれるようになったとされる。
 1889年(明治二十二年)に
 泉(いずみ)・有松(ありまつ)・西泉(にしいずみ)・米泉(よねいずみ)・横川(よこがわ)・野々市新(ののいちしん)・久安(ひさやす)の
 各村が合併して
 三馬村が成立

 三森
 三森幹雄(みもりみきお)・・・・・サンリンカンユウ
 1830〜1910
 幕末-明治時代の俳人
 文政十二年十二月十六日生まれ
 江戸で
 志倉西馬(しくらさいば)に
 師事
 神道
 大成教に属し
 俳諧(はいかい)による
 教化運動をはかる
 明治十三年「俳諧明倫雑誌」を創刊
 明治四十三年十月十七日死去
 八十二歳
 陸奥(むつ)
 石川郡(福島県)出身
 本名は
 寛
 別号に
 春秋庵(十一代)・・・・・・壱拾壱
 著作に「俳諧名誉談」など。

 三森松江(みもりしょうこう)
 1859〜1899
 明治時代の俳人
 安政六年生まれ
 江戸日本橋
 書店主
 播磨屋
 勝五郎の子
 三森幹雄の門にはいり
 明治二十八年その
 養子となる・・・・・・やしなうこ→トリ子
 「俳諧(はいかい)明倫雑誌」を編集
 明治三十二年十一月三十日死去
 四十一歳
 本姓は
 鈴木
 通称は
 伊四郎・・・・・・・・・・イシロウ
 号は細鱗舎・・・・・・・・サイリンシャ・こまかいうろこいえ

 三森峠(さんもりとうげ)
 福島県
 山市にある峠
 福島県
 六号郡
 山湖南線が経由
 標高は808メートル
 郡山市中心部と
 湖南町を結ぶ道中にあり、
 奥羽山脈
 分水嶺を越える
 旧道
 三森峠
 旧道は峠付近を三森隧道を経由していた
 現在、三森隧道は埋められている

 県道六号
 郡山
 湖南線
 三森峠は
 福島県郡山市にあり、
 多田野(郡山側とします)と
 湖南を結ぶ峠
 ここに
 三森トンネルが開通
   ↓
 サンリン
 三厘は1匁(もんめ)の100分の1・尺貫法の長さの単位・競馬用語の660メートル
ーー
     地図(北上)に合致させた九星学
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→亜馬森←  →6亜1馬8森←
→馬森亜←  →7亜5馬3森←
→森亜馬←  →2亜9馬4森←
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 大陸(たいりく・continent→根地粘土・混地撚図?)とは、地球の地殻上に存在する陸塊
 ユーラシア大陸・アフリカ大陸・北アメリカ大陸
 南アメリカ大陸オーストラリア大陸南極大陸
 6(六・陸)つ陸上区分
ーー
 名称としての「アマゾン」川は、ペルーでは「アンデス」山脈の「シリウイリ」山を源流とする「1)ウカヤリ」川と、「ラウリコチャ」湖から流れ出た「2)マラニョン」川が「イキトス」付近で合流する所からの川を指す。ただしブラジルに入るとこの川は「3)ソリモンエス」川と呼び名が変わる。ブラジル国内や約2000km下った「4)ネグロ」川との合流地点から、再度(ふたたび)「アマゾン」川と呼ばれるようになる。このアマゾン川には、支流では最大の流量・流域面積を持つ「5)マデイラ」川と、次いで「6)タバジョース」川や「7)シングー」川などの大きな河川が南側から合流しながら河口まで続く・・・
 「アマゾン」=「ウカヤリ」+「マラニョン
    ↓名前を変る
 「ソリモンエス
    ↓名前を戻す→戻(戸+犬=まがる・たがう・レイ・ライ)
    ↓戻(もどす・かえる)は「国語の意味」。類字は「
    ↓戻は別字「ノ+尸+大」→戸では無くノと尸が接続した字
    ↓があり、「音読はタイ」で「車の横の扉」で、
    ↓現在の字形は「戻」と同じで、代用
 「アマゾン」=「ネグロ」+「マデイラ」+「タバジョース」
         +「シングー」
 ・・・「大修館漢和辞典(戻←335ページ)」には「謎の解き明かし」を示唆する記述が多くあるが、
 「戻=戸+大」が別字で代用「戻=ノ+尸+犬」と同じ漢字とは「ヨコシマ(横嶋・邪)」で、「卑怯」で、「汚い」・・・知っていての遊びか、説明不足か、か弱く、消極的な「告発者」のつもりになっているのか・・・
 戸(こ・へ・コ・ゴ)は片開き出入り口であるが、この戸を並べた漢字が「門」である。「戸」は日本語の訓読に何故か「もり」とあるが「門番」のことらしい。地名熟語として「戸木(へき)」、「戸来(へき・へらい)」で「家(戸)に来る」で、「戸籍・本籍・現住所」だが、「トキ→時・説き・朱鷺・鴇・土岐・解き」の同音漢字の示唆であろう。
 そして「戸木→木戸」の前後入れ替えの姓、苗字は「木戸」で、明治の元勲「桂小五郎木戸孝允」の「木戸(キド)」で、同音は「喜怒・城戸・輝度」の「哀楽→合等句・愛等句・相羅区」である。
 「現存・古事記垂仁天皇)」では「謎を解き明かした木戸の曙立王」である。「聾の皇子(ほんだわけ)」が「喋れる様になった箇所」である。
 「戻」の類字は「房(ふさ・ボウ・母家の両わきの小部屋・広く・部屋・住まい」で、熟語に「房室・官房・監房・空房・工房・茶房(さぼう)・山房・書房・僧房・暖房・厨房・房中術→謀註述)があるが、地名は「房総、安房」で「糸を撚り合わせた束(たば)」、「アワ」は「安和、阿波、泡、粟、沫」で・・・淡路(あわじ→ア和字・ア倭字・ア輪字・ア羽字・ア話字)である・・・
ーーー
 「安和の変(アンナのヘン)」とは、平安時代、969年(安和二年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件であった。
 謀反の密告
 969年(安和二年)三月二十五日、
 「左馬助・源満仲」と
 「前・武蔵介・藤原善時」
 が
 「中務・少輔・橘繁延」と
 「左兵衛・大尉・源連」の
 謀反を密告
 右大臣
 師尹
 以下の公卿は
 直ちに参内して
 諸門を閉じて会議
 密告文を
 関白
 実頼に送るとともに、
 検非違使に命じて
 橘繁延と
 僧
 蓮茂を
 束縛逮捕訊問
 検非違使
 源満季(満仲の弟)が
 前
 相模介
 藤原千晴藤原秀郷の子)と
 その子
 久頼を一味として
 禁獄
 左大臣
 源高明
 謀反に加担していたとされ、
 太宰員外権帥に
 左遷決定
 高明は
 長男
 忠賢とともに
 出家を願うが許されず、
 二十六日、
 邸を
 検非違使に包囲
 逮捕され、九州へ流刑
 橘繁延は土佐、
 蓮茂は佐渡
 藤原千晴隠岐流罪
 源連、平貞節
 追討が
 諸国へ命じられた。
 清和
 源氏が
 京での勢力を拡大伸長
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 アマゾン川の河口からの「逆流津波」は数年前に某TV局が上空から撮影した画像は凄かったけれど・・・
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 「アマゾーン(Ἀμαζών・Amazōn・複数形 Ἀμαζόνες・Amazónes)」は、ギリシア神話に登場する「女性だけの部族」。「ピンダロス」等に「アマゾニス(Ἀμαζονίς・Amazonis)」の別形がある。
 日本では「長音記号を省略」し
 「アマゾン(亜馬森)」とも呼ばれる。省略しなかったら「〜=ぉォ」で「アマゾォぉン」ある。「亜馬森」の当て字はドウナルのデあろうか?・・・「森→ゾン」である。「ゾ〜(ォぉ)ン」は「Zone・ZONE=領域・区分」である。ならば、漢字は「オオ→大・太・多→オ」の全てである。「森の領域、区分」である・・・「アマネシ(アマネク)、バ(馬=午=ゴ・葉・場・羽・歯・婆)の領域」である。文字道理の「馬の領域」ならば「牧場・牧場」で・・・「Corral (コラル)」・・・「コーラルcoral(コーラル)」は「珊瑚(さんご)・珊瑚色」、「コーラルリーフ=coral reef(コーラルリーフ)=珊瑚礁」・・・「reef=鉱脈,暗礁,岩礁,砂州,礁,縮帆部,巻き縮める」で,アラビア語で「農村、海岸地域(地帯)」であるらしい・・・ 「リーフ(leaf)」・・・「turn over a new leaf」・・・茶の葉、「tea-leaves)」は「占いに使う飲み干した茶わんに残った茶がらの作る模様」で、俗に「どろぼう(thief)」であるらしい・・・
 フランス語では
 「アマゾーヌ(Amazones)」、
 ポルトガル語では
 「アマゾナス(Amazonas)」

 スペイン語では
 「アマソナス(Amazonas)」という。

 「フランシスコ・デ・オレリャーナ(スペイン語: Francisco de Orellana・1511年〜1546年)」は、
 スペインの
 「コンキスタドール」。
 「オレリャナ、オレリャーノ」とも。

 オレリャーナは「フランシスコ・ピサロ」とともにスペインによるインカ帝国の征服に参加。「ゴンサロ・ピサロ」がエル・ドラードを探して行った1541年の遠征に参加した士官の一人であった。
 1541年12月に、
 現在の
 ナポ川でオレリャーナの船は本隊から分離された。その後、オレリャーナの部隊は
 アマゾン川
 全距離を航海し、
 1542年8月に
 河口に到達した。これは歴史上、不可能そうだが成功した航海の一つとして数えられている。
 アマゾン川
 その名が
 命名されたのはこの航海上であった。オレリャーナは
 勇敢な
 女性の戦士に
 攻撃されたと記録している。しかし、実際には
 「長髪」を持った男性の戦士との戦闘を行ったことが考えられる。
 オレリャーナはアマゾン川を下った後の航海中に死去した。
 エクアドル
 オレリャナ州は彼にちなんで
 命名された。
 アマゾンの
 名の由来は
 定かではない。
 一般には、アマゾンの名は
 ギリシア神話の女人族アマゾネスにちなみ、初期の探検者フランシスコ・デ・オレリャーナによって命名されたという説が流布している。
 別の説では
 現地語で
 似た音をもつ名があり、
 それによってアマゾナスと名づけられたという。
 他に、
 インディオの言葉で
 「"Amassunú」 といい、これに由来するともいう。
 アマゾン川にちなむ地名としては、アマゾン盆地のほか、ブラジル、ベネズエラ、コロンビアの行政区画がある。
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