1018日目・・・おめでとう・・・「大原・三千院の托鉢寒行(たくはつかんぎょう)」ですか・・・乞食(こつじき)の修行ですな・・・で、「蘭波」は「ポーランド」の当て字漢字だった。そして「ポラン」は「原っぱ・野原」だったけれど・・・小学生四、五年生の頃に読んだ「ポランの広場」は宮沢賢治の童話だった・・・現在、ボクが住んでいる場所は現住所の最後が「・・・町−字・・・原野・・・」である・・・

 ブログで調べたら「ポラン」ではなく、「ポラーノの広場」だった・・・「ポラーノ」・・・
 ボクが過去に記録したものは以下のページです。興味があればご訪問ください・・・
「銀河鉄道の夜」と「古事記」 
 ・・・以下、例の如く「ウイッキペデア」からの参照、抜粋記事、改作したモノです・・・
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 「ポラーノの広場」・・・ポラァノのヒロバ(コウバ)
               ↓
          補等亜廼(之・乃・埜)の比呂葉(考葉)
 宮沢賢治の・・・・見也、作話、県字(懸字・事・時)
 短編小説(童話)→同話・同和・同倭・同環
     ・・・・・銅和五年→導和語撚は如何、把(握)

 賢治が亡くなった
 翌年
 1934年に発表された作品、とあった・・・では、宮沢賢治が死亡したのは
 「1933年」・・・壱千九百参拾参年→位置、撰句、比訳、纂重、撚
 賢治が自筆メモで記録していた・・・字比通
 タイトル、・・・・・・・・・・・・多異賭留・代取る
 「銀河鉄道の夜」・・・・・・・・・義務、我綴、如何、之世
                  世=30(参拾・三十)年間
 「風の又三郎」・・・・・・・・・・掛是(施・世)の真他作分弄
 「グスコーブドリの伝記」・・・・・具諏胡緒部の出務記
 の1つであるらしい。
 モノガタリ
 博物局で働く・・・・柏(かしわ・槲・ハク=葉句)部通極
 キューストと・・・・旧得州渡
 農夫の子・・・・・・納付之音(拠・児・胡)
 ファゼーロ・・・・・付阿(蛙・亜)是重賂
 少年たちが
 伝説の
 ポラーノの広場
 追い求め、
 ついに
 自ら
 理想の
 広場を実現するまでを
 描いた作品である。
 本作は
 キューストが執筆したという体裁が取られており、
 タイトルの後に
 「前十七等官・・・全、位置、拾、名納、等、巻
 レオーノ・キュースト誌 宮沢賢治訳述」と
 記されている。

 本作は、複数の先駆作品をベースに
 1927年頃に・・・壱千九百弐拾七年
 初稿が成立したと推定されている。

 先駆作品としては
 以下のものがある。
 童話「ポランの広場」
 1924年以前に執筆されたと推定。
 1924年に花巻農学校の生徒に
 筆写させた
 草稿(欠落あり)のみが
 現存している。
 冒頭部は・・・・冒=よこしま・頭=かしら
         部(べ・とも)→べたみ→「そのまま見」
         部民(べたみ)・部曲〈かきベ〉
         天皇家の隷属労働集団は
         品部(しなべ・ともべ)、
         子代(こしろ)、
         名代(なしろ)、
         田部(たべ)の
         4区分
         豪族の隷属労働集団は
         部曲(かきべ)→舞曲・部局
 現存
 しないため、
 タイトルは
 全集編集者による
 命名

 主人公のキュステが
 小学生の
 ファゼロと「ポランの広場」に行き、
 山猫博士・・・サンビョウ→纂描
 (デステゥパーゴという名前はない)らとの
 歌合戦に参加する物語で、・・・百人一首・歌留多大会→万葉集・歌合せ
 「ポラーノの広場」と比較すると
 ファンタジックな内容である。

 戯曲「ポランの広場 第二幕」
 上記の童話をベースにして執筆したと推定される戯曲作品。
 1924年8月に
 花巻農学校の・・・ハナの巻→「葉名の巻」→源氏物語の「花の巻」
 生徒を役者として
 上演された。
 タイトルに
 「第二幕」とあるが、
 戯曲として上演されたのはこれがすべてである。
 キュステ、ファゼロの名前は童話と共通。
 作中の
 「牧者の歌」・・・マキモノのウタ→巻物(写・寫)の歌
 「ポランの広場の歌」には
 既存曲を流用してメロディーが付され、
 劇中で歌われている。

 童話「毒蛾」・・・ドクガ→読我・独(獨)賀(画)
 主人公(文部局の巡回視学官)が、
 イーハトブで大発生した毒蛾騒動について記したという体裁の作品。
 1922年もしくは1923年に
 岩手県で毒蛾が大発生した事件に取材して書かれたと推定されている。
 『校本宮澤賢治全集 第10巻』(1974年)編集の際の
 草稿調査によって、
 1931年頃に
 最終章「六、風と草穂」の部分を中心に
 大きく手を加えられ、
 一部の草稿が
 本編から外されたことが確認された。
 この改稿では「新しいポラーノの広場」について
 キューストが
 ファゼーロたちに演説したり、
 その場にいた人物から
 キューストが
 「ロザーロと結婚すればいい」と言われて
 キューストが否定するといった点が
 削られる一方、
 ファゼーロたちが語る事業の内容が
 より具体的なものになっている点で違いがある。
 またその場所も、
 「以前宴会の開かれていた広場」から、
 デステゥパーゴが手放した工場に変更されている。

  あらすじ
 昔、モリーオ市の郊外の野原には、市民達が集って祭りを楽しんだというポラーノの広場があった。そこではよくコンサートやオーケストラがあり、どんな人でも上手に歌うことができるという伝説があった。
 博物局員のキューストは、「5月のしまいの日曜日」に脱走したヤギを見つけてくれた少年のファゼーロから、最近ポラーノの広場が復活したという話を聞く。興味を持ったキューストは約10日後に羊飼いのミーロと三人でつめくさの灯をたどる探索をはじめるが、見つからない。あきらめかけていたが、さらに5日後、ファゼーロが、ついにポラーノの広場を見つけ出したというニュースを持ってきて騒然となる。
 しかし広場に到着すると、そこは山猫博士ことデステゥパーゴ県議員らによる酒盛りの場であった。参加者による歌合戦が開かれる中、酔った山猫博士がファゼーロと悶着をおこし、食卓ナイフで決闘になってしまう。決闘は事なきを得たものの、その夜からファゼーロ少年が失踪してしまう。
 失踪事件は警察沙汰となり、山猫博士も行方をくらませてしまう。ファゼーロが見つからないまま夏を迎え、キューストは出張帰りに立ち寄ったセンダード市で、偶然に憔悴した山猫博士を見つけ、山猫博士の決闘の夜の事情を知る。彼は工場の経営に失敗してヤケ酒を飲んで、騒ぎを起こしただけであり、失踪には関わっていないと言う話を聞いて別れる。
 9月1日の夕方になって、ファゼーロが突然突然やってくる。少年はセンダード市で革染め工場で働いていたと打ち明けた。
 二人は山猫博士の倒産した(密造酒?)工場を見て周りながら、この工場をもっと正直な会社に再建する夢を語り合う。 そして理想的な産業組合を運営して、本当のポラーノの広場を自らの手で造ろうと誓い合う。
 7年後ファゼーロの経営する工場は軌道に乗り、生産されたハムと皮類と醋酸とオートミールモリーオ市の特産品として出荷できるまでに成長した。キューストは3年後に博物局員を辞めて、大学の副手や農事試験場の技手などを務めた後、大都会のトキーオで働いていた。ある日、友達のできないキューストの元に楽譜が届く。そこには聞き覚えのあるポラーノの広場の歌が印刷されていて、キューストは昔の友人たちを懐かしむのであった。 
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 宮沢 賢治
 本名
 宮澤 賢治
 1896年(明治二十九年)8月27日〜
 1933年(昭和八年)9月21日
 郷土岩手に基づいた創作を行い、
 作品中に登場する
 架空の理想郷に、
 岩手をモチーフとして
 イーハトーブ(Ihatov、イーハトヴ・イーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた。
 生前は無名で、
 没後に
 草野心平らの尽力により作品群が広く知られていった。

 1896年(明治29年)8月27日、
 岩手県
 稗貫郡
 里川口村
 のちの
 花巻川口町、花巻町、花巻市
 質・古着商を営む
 宮澤政次郎(1874年〜1957年)と
 イチ(1877年〜1963年)の長男
 同年
 8月1日付
 戸籍上の出生届がなされた。
 弟に
 清六(1904年〜2001年)
 妹に
 トシ(1898年〜1922年)・・・年・歳・肇・賭・利・稔・徒死
 シゲ(1901年-1987年)
 クニ(1907年 - 1981年)

 生誕の
 約2ヶ月前である
 1896年6月15日に
 発生した
 三陸地震津波による震災が、
 県内に多くの
 爪痕を残した中での
 誕生であった。
 また誕生から
 5日目の
 同年
 8月31日には
 秋田県東部を震源とする
 陸羽地震が発生し、
 秋田県及び
 岩手県西和賀
 稗貫郡地域に大きな被害をもたらした。
 この一連の震災の際に、
 母・イチは賢治を収容した
 えじこ(乳幼児を入れ守る籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという。
 家業が
 質店の息子であった
 賢治は、
 農民がこの地域を繰り返し襲った
 冷害などによる凶作
 生活が困窮するたびに
 家財道具などを売って当座の生活費に充てる姿に
 たびたび接し、
 この体験がのちの賢治の人格形成に大きな影響をもたらしたとされている。
 1903年明治36年
 花巻川口尋常高等小学校に進学。
 マロ
 『家なき子』などの童話を好み、
 石や昆虫を採集し、綴り方に長じていた。
 鉱物採集に熱中し、家人から
 「石っこ賢さん」や
 「石こ賢さん」などと呼ばれた。
 浄土真宗門徒である父祖伝来の濃密な仏教信仰の中で育った影響から、父と有志が始めた
 「我信念」と題する
 仏教講話に参加。
 1909年(明治42年
 旧制盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に
 進学、
 寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮した。
 同学在学中にも鉱物採集に熱中。
 「HELP」のあだ名がつく。
 岩手山
 南昌山などの
 山登りにも熱中し、
 南昌山では寄宿舎で
 同室の
 藤原健次郎(賢治より1学年上。1910年没)と
 水晶を採集する。
 哲学書を愛読。
 在学中に短歌の創作を始める
 (学校の先輩である石川啄木の影響が推測されている)。
 家庭の方針で進学の見込みがほぼなかったためか、教師への反抗的態度をみせ、
 1913年(大正2年
 寄宿舎の
 新舎監排訴の動きにより
 退寮となり、
 盛岡の寺院に下宿する。
 1914年(大正3年
 盛岡中学校を卒業。
 肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。この時、看護婦に恋心を抱くが片想いに終わる。また看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。
 退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。
 同時期に、
 島地大等訳
 『漢和対照妙法蓮華経』を読み、
 体が震えるほどの感銘を受ける。
 1915年(大正4年
 盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に
 首席で進学。
 関豊太郎教授の指導の下で地質調査研究を行う。
 1917年(大正6年
 小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と
 同人誌
 『アザリア』を創刊し、短歌・小文などを発表する。
 1918年(大正7年
 3月

 得業論文
 『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し、卒業。
 4月、同学の研究生となる。
 卒業で
 徴兵猶予の特典が無くなったため、
 徴兵検査を受けて
 第二乙種合格となる
 (当時は、第二乙種には兵役は課せられなかった)。
 この間、
 『アザリア』同人の
 保阪嘉内が同誌に掲載した文章が原因で研究生を退学処分となり、以後数年間にわたって保阪との親交を深める。家族の証言等からこの年から童話の創作が始まったと推定される。
 同年肋膜炎を患い、医師の診断を受ける。
 このとき
 河本義行に
 「自分の命もあと15年はあるまい」と述べたとされる。
 1919年(大正8年)、前年末
 日本女子大学校生の
 妹
 トシが病気となり
 母
 イチ
 とともに東京で看病する。
 この滞京中に盛岡中学同窓の友人
 阿部孝
 (当時東京帝大文学部在学、後に高知大学学長)の
 下宿で
 萩原朔太郎
 詩集『月に吠える』に出会い感銘を受ける。
 近角常観の求道学舎にも訪れている。
 また、東京での
 人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。
 トシ回復とともに岩手に戻る
 1920年大正9年
 研究生を卒業。関教授からの助教授推薦の話を辞退。
 10月
 国柱会に入信。自宅で店番をしながら、信仰や職業をめぐって父と口論する日々が続く。
 保阪嘉内には国柱会の入信を手紙で強く勧めたが決裂(7月18日)。
 1921年(大正10年)
 1月23日家族に無断で上京し
 鶯谷国柱会館を訪問。
 本郷菊坂町に下宿する。
 学生向けの
 謄写版制作の職に就きながら、盛んに童話の創作をおこなう。また、国柱会の街頭布教にも参加。
 夏に
 トシ発病のため岩手に帰る。
 11月、稗貫農学校 (のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)教師となる。
 1922年(大正11年)、
 11月27日、よき理解者であった妹トシ病死。

 1923年(大正12年)、
 8月、教え子の就職斡旋の
 名目で
 樺太を訪問
。この旅行をモチーフとした多くの詩を作る。
 1924年大正13年)、
 4月、心象スケッチ『春と修羅』を自費出版辻潤が同詩集を賞賛。農学校生徒と演劇を上演、一般公開。
 12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。
 1925年(大正14年
 7月から草野心平と書簡を通じた親交を開始。
 草野編集の文芸誌『銅鑼』に詩を発表。
 12月、花巻の北上川で発見した
 バタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査(東北帝国大学・早坂一郎教授)に協力。翌年発表された早坂の学術論文にて名前を挙げて感謝の意が記載される。
 1926年(大正15年)
 3月末で農学校を依願退職
 花巻町
 下−根子−桜別宅にて独居自炊
 羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。
 12月に上京し、タイピングやエスペラント、オルガンやセロを習う。このとき、フィンランド公使ラムステットの「北アジア」についての講演(日本語)に参加し、ラムステットと会話を交わした。
 また人文主義者として
 労働農民党岩手県での有力献金者であった。以降、農業指導に奔走。
 1927年(昭和2年
 『銅鑼』『盛岡中学校校友会雑誌』に詩を掲載。
 3月、羅須地人協会の活動に関して警察の聴取を受けたことから協会の活動を停止。花巻温泉に勤めていた教え子を通して、温泉の遊園地に自らがデザインした花壇を造成する。
 1928年(昭和3年
 『聖燈』に詩を掲載。
 湯本村
 伊藤庄右衛門主催の
 農事講演会に出講。
 6月、農業指導のため
 伊豆大島
 伊藤七雄を訪問。
 この旅行を題材にした詩群
 『三原三部』

 『東京』を制作。夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。この間、療養生活を綴った詩群『疾中』などを創作。
 1931年(昭和6年)、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北
 砕石工場技師となり
 石灰肥料の
 宣伝販売を担当

 9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。その傍ら文語詩を初めとする創作活動も行った。
 11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める
 1932年(昭和7年)、『児童文学』に「グスコーブドリの伝記」、『岩手詩集』『女性岩手』『詩人時代』に詩、『鴉射亭随筆』附録に「石川善助を弔む」を掲載。
 1933年(昭和8年
 吉田一穂編『新詩論』
 吉野信夫編『詩人時代』『日本詩壇』(日本書房)『現代日本詩集』(詩人時代社)『女性岩手』『北方詩人』に詩を『天才人』に童話を掲載。
 9月21日に
 急性肺炎で死去した。
 享年三十七
 法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。
 生涯独身であった。死の前日、農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。
 戒名は
 真・金・院・三・不・日・賢・善・男・子
 なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。
 3月3日に
 「三陸地震
(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると宮澤清六は指摘している。
 地震直後に詩人の
 大木実(1913年〜1996年)へ宛てた見舞いの礼状には、
 「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている。

 生前に刊行された唯一の詩集として
 『春と修羅』、
 同じく童話集として
 『注文の多い料理店』がある。
 また、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品も少ないながら存在する(『やまなし』『グスコーブドリの伝記』など)。
 ただし、賢治が受け取った
 原稿料は、
 雑誌『愛国婦人』に投稿した
 童話『雪渡り』で得た
 5円だけであったといわれる。
 最初の全集は
 (作品全体からは一部の収録ではあるものの)
 死去の翌年に
 文圃堂より刊行され、続いて文圃堂から
 紙型を買い取った
 十字屋書店がそれに増補する形で
 1939年から1944年にかけて出版した。
 戦後は筑摩書房から(文庫判も含め)数次にわたり刊行されている。

 童話作品においては擬声語オノマトペ)を多用
 作品によっては韻文にも近いリズム感を持った文体を使用

 自身が書き残した
 『農民芸術概論綱要』においても
 「永久の未完成これ完成である」という記述がある。
 多くの作品が死後に未定稿のまま残る。

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 高瀬露は、彼女の没後の1970年代にその名前も含めて公になった。
 1928年6月に
 伊豆大島で農業指導をした
 伊藤七雄の
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 密かに
 見合いの相手と
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 盛岡高等農林学校在籍時に出会った
 一年後輩の
 保阪嘉内との間で、互いに「恋人」と呼び合うような親しい間柄になり、嘉内に宛てた書簡類では、親密な感情の表出、率直な心情の吐露が認められ、手紙に記された文面はときにあたかも恋人に宛てたような表現になった。
 嘉内からは情緒的にも思想的にも強い影響を受け、
 とりわけ
 『銀河鉄道の夜』の成立には、
 20代の頃に嘉内と二人で登山し共に語り合って夜を明かした体験が濃厚に反映され、
 登場人物の
 「ジョバンニ」を賢治自身とするなら、
 「カムパネルラ」は保阪嘉内
をあらわしていると
 考える研究者もいる。

 菜食主義
 法華経信仰に入った後、
 1918年(大正7年
 5月19日付で友人の
 保阪嘉内に宛てた手紙で
 「私は春から生物のからだを食うのをやめました」と書き、その考え方は童話「ビジテリアン大祭」に垣間見ができる。
ても、上記の期間における肉食は例外的なものであったとみられる。
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 以下原文を添付
  ↓
絎�轄旺莖∽音 - Wikipedia
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