1014日目・・・朝から猛吹雪・・・屋根の除雪、家周辺の雪投げ・・・汗だくで暗くなるまで・・・雪の降る日は楽しいペチカ・・・ペチカ燃えろよ、燃えろよペチカ・・・

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ペチカ 北原白秋

 北原白秋 歌集

 雪の降る夜は 楽しいペチカ→暖炉→譚賂・談呂
     ↓
 由紀(遊記)の振る與は他の私意→談賂→経知掛
 説の付留世(代)葉 等句詞意

 ペチカ燃えろよ お話しましょ
 昔 昔よ 燃えろよペチカ
     ↓
 借釈與 撚重賂代

 雪の降る夜は 楽しいペチカ
 ペチカ燃えろよ 表は寒い→表巻→緒摸出は作務異裏は暑い
 くりやくりやと 呼びますペチカ→四尾鱒
     ↓
 句理也句理埜渡

 雪の降る夜は 楽しいペチカ
 ペチカ燃えろよ じき春来ます→事記(字記)葉留記真諏
 今にやなぎも もえましょペチカ
    ↓
 意真似埜名義摸

 雪の降る夜は 楽しいペチカ
 ペチカ燃えろよ だれだか来ます→拿例拿掛記真諏
 お客さまでしょ うれしいペチカ
     ↓
 音書く様出書

 雪の降る夜は 楽しいペチカ
 ペチカ燃えろよ お話しましょ
 火の粉ぱちぱち はねろよペチカ
     ↓
 鹿の子葉知場知 葉音賂代経知掛
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 雪の降る夜は 楽しいペチカ ペチカ燃えろよ
 お話しましょ むかしむかしの 燃えろよぺチカ

 雪の降る夜は 楽しいペチカ ペチカ燃えろよ
 おもては寒い 栗や栗やと 呼びますペチカ

 雪の降る夜は 楽しいペチカ ペチカ燃えろよ
 じき春きます いまに柳も 萌えましょペチカ
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 ・・・トシをトルほど「国家主義者」になっていったんだろうか・・・それとも、「カネの問題」・・・
 売文は生きるための手段だから・・・表現されたカシ、ドウヨウの創作技術とは区別しなくちゃぁ〜ネ、ッ・・・
 それにしても「作品」を読んで「享受」する側の解釈は、カラスの勝手だから・・・
 ・・・怪しい「ペチカ」と経歴、履歴ではアルナ・・・
 以下は例の如く、「ウイッキペデア」からの参照、参考抜粋し、若干改作したモノです・・・
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 北原 白秋(きたはら はくしゅう)
 1885年(明治18年
 1月25日〜
 1942年(昭和17年)11月2日
 本名
 北原 隆吉(きたはら りゅうきち)
 生家
 福岡県
 柳川市
 熊本の南関に生まれ
 父・長太郎
 母・シケ
 北原家は江戸時代以来栄えた商家
 油屋また
 古問屋と号
 海産物問屋
 当時は主に酒造業
 1887年(明治20年
 弟・鉄雄が生まれる
 乳母
 シカが
 チフスで逝去
 

 1891年(明治24年
 矢留尋常小学校入学
 1897年(明治30年
 柳河高等小学校より県立伝習館中学
 1899年(明治32年
 落第
 1901年(明治34年
 大火によって北原家の酒倉が全焼
 「白秋」の号
 1904年(明治37年
 長詩
 「林下の黙想」が河井醉茗の称揚
 「文庫」四月号に掲載
 中学を退学
 早稲田大学英文科予科に入学
 同郷の
 若山牧水と親交
 号を「射水(しゃすい)」
 中林蘇水・牧水と共に
 「早稲田の三水」と呼ばれた
 1905年(明治38年
 「全都覚醒賦」が
 「早稲田学報」懸賞一等に入選


 1906年明治39年
 新詩社に参加
 与謝野鉄幹与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知遇 1907年(明治40年
 森鴎外によって観潮楼歌会に招かれ、
 斎藤茂吉アララギ派歌人とも面識
 1908年(明治41年
 「謀叛」を発表
 新詩社を脱退
 木下杢太郎を介して、石井柏亭らの
 パンの会に参加
 1909年(明治42年
 「スバル」創刊に参加
 木下らと詩誌「屋上庭園」創刊
 処女詩集『邪宗門』上梓
 1910年(明治43年
 「屋上庭園」二号に掲載した
 白秋の詩
 「おかる勘平」が
 風俗紊乱で発禁処分
 同誌は廃刊
 1911年(明治44年
 第二詩集
 「思ひ出」刊行。
 文芸誌『朱欒』創行
 1912年(明治45年 = 大正元年
 母、弟妹、父が上京
 白秋は隣家にいた松下俊子と恋
 俊子は夫と別居中の人妻
 夫から姦通罪により告訴
 未決監に拘置
 2週間後、釈放され、後に和解が成立
 1913年(大正2年
 歌集「桐の花」と、詩集「東京景物詩及其他」刊行
 俊子と結婚
 三崎に転居
 父と弟が事業に失敗
 「城ヶ島の雨」
 「朱欒」廃刊
 萩原朔太郎室生犀星が詩壇に登場
 
 1914年(大正3年
 小笠原父島に移住
 俊子と離婚
 「真珠抄」、「白金之独楽」刊行
 「地上巡礼」創刊
 1915年(大正4年
 弟・鉄雄と阿蘭陀書房を創立
 雑誌「ARS」創刊
 詩集
 「わすれなぐさ」
 歌集
 「雲母集」刊行
 1916年(大正5年)
 江口章子と結婚
 葛飾紫烟草舎に転居
 「白秋小品」刊行
 1917年(大正6年
 阿蘭陀書房を手放し、
 弟・鉄雄と
 出版社アルスを創立
 
 1918年(大正7年
 小田原に転居
 鈴木三重吉
 慫慂(しょうよう、しきりに強く勧める事の意味)により 「赤い鳥」の童謡、児童詩欄を担当
 1919年(大正8年
 処女小説
 「葛飾文章」、「金魚」発表
 歌謡集「白秋小唄集」、童謡集「とんぼの眼玉」刊行
 1920年大正9年
 「雀の生活」刊行
 「白秋詩集」刊行開始
 章子と離婚
 1921年(大正10年)
 佐藤菊子と結婚
 「落葉松」を発表
 歌集「雀の卵」、翻訳『まざあ・ぐうす』刊行
 1922年(大正11年
 長男・隆太郎誕生
 文化学院で講師
 山田耕筰と共に「詩と音楽」創刊
 歌謡集「日本の笛」刊行
 1923年(大正12年
 「水墨集」刊行
 関東大震災によりアルス社が罹災
 
 1924年大正13年)1月5日
 田中智學の招きで両親、妻菊子、長男隆太郎らとともに静岡県三保の田中智學の最勝閣へ旅行、龍華寺、羽衣の松などを観光
 長歌1首、短歌173首を作る
 短歌雑誌「日光」創刊
 1925年(大正14年
 長女・篁子(ドイツ語学者・岩崎英二郎夫人)誕生
 樺太、北海道に遊ぶ
 童謡集「子供の村」刊行
 1926年(大正15年 / 昭和元年)
 東京谷中に転居
 詩誌「近代風景」創刊
 童謡集「からたちの花」、「象の子」刊行
 1927年(昭和2年
 アルス社と興文社に悶着
 興文社側の菊池寛と対立
 詩論集「芸術の円光」刊行
 1928年(昭和3年
 世田谷区に転居
 大阪朝日新聞(現・朝日新聞)の企画により、福岡県大刀洗町から大阪まで飛行機に搭乗する
 1929年(昭和4年
 「海豹と雲」刊行
 「白秋全集」刊行開始
 1930年(昭和5年
 南満洲鉄道の招聘により満洲旅行
 1932年(昭和7年
 吉田一穂、大木惇夫と詩誌『新詩論』創刊
 1933年(昭和8年
 鈴木三重吉と絶交
 同年の皇太子誕生の際には、
 奉祝歌
 「皇太子さまお生まれなつた」(作曲:中山晋平)を寄せる
 1934年(昭和9年
 「白秋全集」完結
 歌集「白南風」刊行
 総督府の招聘により台湾に遊ぶ

 1935年(昭和10年
 新幽玄体を標榜して
 多磨短歌会を結成
 歌誌「多磨」創刊
 大阪毎日新聞の委託により朝鮮旅行
 50歳
 1937年(昭和12年
 糖尿病および腎臓病の合併症のために
 眼底出血を引き起こし入院
 視力はほとんど失われた
 1938年(昭和13年
 ヒトラーユーゲントの来日に際し
 「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞
 1940年(昭和15年
 日本文化中央聯盟の委嘱で
 交声曲「海道東征」(曲:信時潔)の作詩
 1941年(昭和16年
 芸術院会員に就任
 1942年(昭和17年
 11月2日逝去
 享年57
 墓所多磨霊園
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