1013日目・・・大雪山→代説纂(斬)・・・おおゆき、サンタの足跡(迹・後・痕・址・安登)・・・1010日目の”コレが「現存・古事記」”から二日間、飛んじゃったけれど、「妄想・コジキ」の再考、再確認、再開です・・・他人の「長い文」は嫌(女+兼)だネ、ッ・・・「東方見聞録」のマルコポーロを調べていたら「女真(女直)族=ジュシェン=ジュルチン)」の建国が目に付いた・・・

 「金(きん=アルチュフ→女真語=[amba-an =antʃu-un]」王朝
 1115年〜1234年
 中国の北半を支配した「女真(ジョシン=ジュシェン=ジュルチン)族」の王朝(建国は契丹、遼を滅ぼした1122年?)・・・1122年は・・・
ーーーーー
    契丹と遼 907年 - 1125年
廟号   諡号        漢名 契丹名 常用名称
太祖 大聖大明神烈天皇帝 億  阿保機 耶律阿保機
    在位期間      年号
    907年 - 926年7月
             神冊916年12月〜922年1月
             天賛 922年2月〜926年2月
             天顕 926年2月
    ↓   ↓     ↓
廟号 諡号    漢名   契丹名 常用名称
─ ─  延禧       阿果  耶律延禧
    在位期間      年号
    1101年2月〜1125年2月
             乾統〜1110年
             天慶1111年〜1120年
             保大1121年〜1125年
    ↓
ーーーーー
    北遼と西北遼 1122年〜1123年
廟号 諡号    漢名      契丹名 常用名称
宣宗 孝章皇帝  淳/澶  涅里  耶律淳
    在位期間     年号
    1122年3月〜6月  建福
    ↓
廟号 諡号    漢名   契丹名 常用名称
─ ─ ─         普賢女 蕭普賢女
    在位期間     年号
    1122年6月〜12月 徳興
    ↓
廟号 諡号    漢名   契丹名 常用名称
── 順文皇帝  ─    雅里  耶律雅里
    在位期間     年号
    1123年5月〜10月 神歴
    ↓
廟号 諡号    漢名   契丹名 常用名称
英宗 顕武皇帝  ─    朮烈  耶律朮烈
    在位期間     年号
    1123年10月〜11月 神歴
ーーーーー
    西遼 1132年〜1218年
廟号 諡号     漢名  契丹名 常用名称
徳宗 天祐皇帝 ─      大石 耶律大石
    在位期間     年号
   1124年7月〜1143年 延慶 1132年2月〜1134年
             康国 1134年〜1143年
ーーーーーー

 ・・・なぜ、「金(キン・コン・かね・アルチュフ)=アンバ−アン=アントシュ−アン」が漢字の「女真・女直」族のコトバ、「アルチュフ(金・かね)」に当てたのか・・・砂金が大量に採掘された土地「カネ(兼)のクニ(国→句似・語句)」・・・それ以前に種族名の「女真・女直=ジュシェン=ジュルチン」の漢字そのものの「意味」する「内容」である・・・
 「女真族」の聖地は「長白山」であるらしい。しかも、「熟女真」と「生女真」の二大集団に分かれていた。「建州女直女真)」から出た「ヌルハチ」が「十三部族」を統一し、1616年に「後金」を「建国」。
 1635年に
 「ホンタイジ・・・本台字・本体字
 (清の太宗・ホンタイジ→皇太極=皇太子=黄台吉・1592年11月28日〜1643年9月21日)は、
 後金の・・・・語兼・御筋・護金武・語掛音
 第二代
 君主
 在位1626年〜1643年
 初代
 ヌルハチの八男」が
 「モンゴルのチャハル部」を下し、1635年11月22日(天聡九年十月・庚寅)に民族名を「満洲族」に改め、「後金国」の国名(国号)を1636年に「清」とした。
 戦前の「満州」は「女真(女眞・女直)」の国であったのだ。
 日本語ならば「女(あま・おんな・むすめ)の真(眞・まこと)」である。
 「大海人皇子(おおあまの皇子)=天武天皇舒明天皇三年(631年)?〜朱鳥元年九月九日(686年10月1日)・在位期間=天武天皇二年二月二十七日(673年3月20日)〜朱鳥元年九月九日・第四十代」
 「和風(国風)諡号」は
 天渟中原
 瀛
 真人
天皇)」は
 「真人」の名を有する人物であった。
 「大海人皇子」が歌舞伎で「あま(海女・尼)」を演じる「男」ならば「おやま(女形・旦)」である・・・「序掲の譚(探・段・担・嘆」・・・「元旦」は「元日(一日・ついたち)の日の出→元日の夜明け→二日(ふつか)」である。

 「ʃ」は日本語発音の「シャ・シュ・ショ」にあたるらしいが・・・「アルチュフ」→「阿留知諭賦」・・・阿(くま・曲がり・よこしま)を留める知の諭(さとす=喩・訓・聡・哲・理・覚・聡史・智史・悟司・恵)、賦=貝(目ハ)+武(一戈止)=(事物を羅列的に描写・事物の名前を列挙することを特徴・日本では古来、かぞえうた(数え歌)と称された・・・
 「女真文字」は
 1234年(天興三年)の「金滅亡」以後も
 女真族の間ではしばらく使われていたらしい
 1413年(永楽十一年)作成の
 碑文(奴児汗都司永寧寺碑)には、
 漢文、チベット文字モンゴル文字に並んで
 女真文字も記されているらしい。東洋の「呂雪駄石碑?」である。
 後にモンゴル文字を参考にした満州文字を使用
 満州文字を使用した
 碑文は
 1630年(崇禎三年)に作成された
 日本の「吾妻鏡」の
 1224年(貞応三年)2月29日の記述に
 女真の船が
 越後国
 寺泊(新潟県長岡市・寺泊)に漂着
 乗船していた
 一行が持っていた
 銀簡に意味不明の
 「四文字が記録」されていたと書かれており、
 その文字が
 模写されている。
 江戸時代に
 林羅山
 朝鮮通信使
 文弘績にこの文字について尋ね、文弘績は
 「王国貴族」と読んだという逸話があるらしい
 明治時代に
 文字が
 女真文字であることは判明
 後の研究により、
 この文字は
 「国之誠」と読め、
 銀簡は金国の
 通行証に当たるものであることがわかった。
 1976年
 当時のソ連沿海地方
 シャイギン城址で、
 「吾妻鏡」に書かれた文字と
 同じ文字を記した
 銀簡が発掘された。
   参照、参考原文
      ↓
女真文字 - Wikipedia
ーーーー
 金建国前の女真(ジョシン)
 中国東北地区(満州黒竜江省
 松花江の支流
 按出虎水(アルチュフ川)流域で「遼」に服属
 女真族
 完顔部、
 「阿骨打」が遼に反乱
 1115年
 按出虎水の河畔で即位、「金」を建国。
 「金」は「女真語でアルチュフ」)を国号とした。
 首都は
 会寧(上京会寧府)で現在の
 ハルビン
 「阿城区」。

 金は
 1120年
 北宋
 「海上盟約」を結ぶ
 遼を挟撃分割し、
 宋側に
 燕雲
 十六州の譲渡を約束
 金が
 燕京(北京)を落とし、
 宋に割譲
 「阿骨打」が
 1123年に死去
 弟の
 「呉乞買(太宗)」が後を継いで
 遼と戦い
 1125年に
 遼の最後の皇帝
 「天祚帝」を捕らえ、遼を滅ぼし
 内モンゴルを支配。

 燕京を手に入れた宋軍は、
 遼の残存勢力と手を組んで
 金を牽制
 燕京を割譲した金に
 背信行為を繰り返した
 太宗は
 1126年
 宋に侵攻して
 宋の首都
 開封を包囲
 宋で
 欽宗が即位し
 金と和議
 宋は背信して和約を反故
 1127年に
 金軍は再び南下し
 開封を陥落させ
 欽宗を北方に連れ去って
 北宋を滅ぼし、
 中国の北半を征服
 金軍は、
 欽宗、
 その父の
 徽宗
 及び皇族
 妃、皇女達を拉致し
 女達は全員が金の後宮
 「洗衣院」と呼ばれる
 売春施設で娼婦とさせられた
 これを「靖康の変」と呼ぶ。
   参照、参考原文
      ↓
金 (王朝) - Wikipedia
ーーーーー
 ・・・コレが「現存・古事記(?)」・・・とは「現存・古事記」が「漢字文字=眞名文字=マナ仮名→まな=愛・魚・目子=眼(ガン)→磐(イワ)・岩→違和・異話」の要になっているからである。
 「尾張目子媛」=「継体天皇の妃」
 で、
 第二十七代安閑大王(天皇
 第二十八代宣化大王(天皇
 の母親であり、
 「尾張連草香(おわりのむらじくさか)」の
 娘の「目子媛(めのこひめ)」である。「目子」は「めご・めこ・めのこ・まなこ→愛子・恵子」など読まれている。云わば、「目子」に「ルビ振り」を添えれば、で、あるのだが・・・「尾張・名古屋」とは「本居宣長」と「現存・古事記」の「本籍地」である。
ーーーーー
 1224年(貞応三年)2月29日の「吾妻鏡」の記述にある
 「女真の船が
 越後国
 寺泊(新潟県長岡市・寺泊)に漂着」の
 場所とは「継体天皇」の本拠地であった・・・

 「継体天皇」とは
 西暦507年3月3日
 (継体天皇元年二月四日)に即位

 「日本書紀」では
 父=彦主人王・・・言取
 母=振媛・・・・・ルビ振り
 「彦主人王」は
 「振り媛」が美人であることを
 で聞き
 三国(みくに)の
 坂中井(さかない)へ使者を遣わせ、
 近江国
 高島郡
 三尾(みお)の・・・讃美(岐)・纂備
 別業(なりどころ=別荘)に召し、・・・別行
 妃(きさき)とした・・・記左(よこしま)記
 と記録されている。

 三尾で・・・・三尾=魚三匹
      賛美・讃び(肥後・尾張・吉備)
 誕生したのが
 男大迹王(おほどのおう)=継体天皇

 その後、
 「彦主人王」が
 死亡し
 「振媛」は
 越前国
 高向(たかむく)に・・・公行・後攻・後項
 幼い
 「男大迹王」を・・・ダンダイセキオウ
           断 代 石 負
        ・・・ダンダイシャクオウ
           団 代 借  尾得
    迹=セキ・シャク・あと・名跡・功績
 伴って帰った。
 「継体大王」は、
 西暦507年・・・・五百七
   三月三日に・・・纂通記纂比・桃の節句
 五十八歳で・・・・・五拾八・語披露場
 即位・・・・・・・・即意
 越前の国で
 即位するまでの
 五十年余りを・・・・語重撚亜真理
 過ごした・・・・・・過誤・歌語・加護・駕籠

 継体大王の妃は
 九人で、
 最初の妃が
 尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘
 目子媛(めのこひめ)

 仁賢(にんけん)大王の娘
 武烈(ぶれつ)大王の姉の
 手白香皇女(たしらかのひめみこ)を
 皇后にし、その子どもは
 第二十九代
 「欽明天皇
 となった。

 尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘
 目子媛が愛知県、

 三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の娘
 稚子媛(わかこひめ)と
 三尾君堅楲(みおのきみかたひ)の娘
 倭媛(やまとひめ)が福井県

 坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘
 広媛(ひろひめ)と
 息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘
 麻績娘子(おみのいらつめ)が滋賀県

 茨田連小望(まんだのむらじおもち)の娘
 関媛(せきひめ)が大阪府

 和珥臣河内(わにのおみかわち)の娘
 荑媛(はえひめ)が京都府

 根王(ねのおおきみ)の娘
 広媛が岐阜県

 父方の系譜
 彦主人王(ひこうしおう)の祖先は
 応神大王とその母の
 神功(じんぐう)皇后=息長足媛(おきながたらしひめ)
 応神大王と
 その子ども
 稚野毛二派(わかぬけふたまた)皇子は
 息長氏から妃を迎え
 稚野毛二派皇子の子の
 忍坂之大中津(おしさかおおなかつ)媛は
 允恭大王の妃
 息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘
 麻績娘子(おみのいらつめ)と
 坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘
 広媛(ひろひめ)の二人が
 男大迹王の妃

 振媛は
 第十一代垂仁(すいにん)大王の子孫

 垂仁大王の子
 磐衝別命(いわつくわけのみこと)は
 三尾氏の始祖
 その孫の
 磐城別(いわこりわけ)も
 三尾氏の祖
 男大迹王の妃に
 三尾角折君(みおのつのりきみ)と
 三尾君堅楲(みおのきみかたひ)とがいる。
 振媛の母方の系譜は
 三尾氏であるらしい。

 二十五代武烈(ぶれつ)天皇
 子どもが存在せず

 大伴金村大連(おおとものかなむらおおむらじ)
 物部麁鹿火大連(もののべのあらかいおおむらじ)
 許勢男人大臣(こせのおひとおおおみ)らが
 最初は
 丹波国
 倭彦王(やまとひこおおきみ)を
 抜擢
 しかし
 倭彦王は
 山の中に隠れて行方不明

 それで
 「男大迹王」に、
 標しの旗と
 御輿(みこし)を備え
 越国の
 三国へ派遣
 「男大迹王」は
 最初、
 「疑心暗鬼」で、
 「承知」せず、
 「河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に遣いを出し、大臣、大連らの本意を知って、発たれる決心」
 河内国
 交野郡
 樟葉宮(くずはのみや)で即位

 五十八歳
 高齢の即位
 尾張連草香の娘
 目子媛との間に生まれた
 勾(まがりの)大兄(おおえ)皇子(安閑天皇)
 桧隈高田(ひのくまのたかた)皇子(宣化天皇)
 大王)
 二人の息子たちは
 四十歳を過ぎていた。
ーーーーー
 「伊達政宗」の正室が「愛(まな・よし)媛」であることは既に述べたが・・・
ーーーーー
 「仮名手本忠臣蔵」の「実話改変」の「フィクション」であるが、「現存・古事記」との関連は単純である。「伊達家」の関係者と「伊達家の履歴」が「膳部(かしわで・ゼンブ→全部・前部)」と、「お膳立て」で繋がっているからである・・・?
ーーーーー
仮名手本忠臣蔵」とは

 歴史時代の移行
 元禄時代利時代の初期へ

 場所の移行
 江戸→鎌倉へ

 実在人物の替え換え
 吉良上野介高師直(こうのもろなお)
 浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)→塩冶(えんや)判官高貞
 大石内蔵助(くらのすけ)→大星由良之助
 長子主税(ちから)→力弥

 原作の改作、改竄
 近松門左衛門原作→二代目竹田出雲の改作
 「仮名手本忠臣蔵
     ↓
 「兼好法師」の
 「物見車」・・・物権者=差し押さえ
 追狂言
 「碁盤太平記」を・・・語伴対併記
 重ねたもの
ーーーーー
 「物見車」
    ↓
 「つれづれ(徒然)草」作者の・・・通例事例句差
    ↓
ーーーーー
 「徒然草(つれづれぐさ・トゼンソウ・トネンソウ)」は、「卜部兼好兼好法師、兼好・吉田兼好は江戸期の俗称)が書いたとされる随筆。
 清少納言の「枕草子」、
 鴨長明の「方丈記」と合わせて
 日本三大随筆の一

 康永二〜興国四年(1343年)ごろ
 成立の家集
 「兼好法師集」
 自選で
 二百八十五首と
 連歌二句
 勅撰集に十八首入集

 「徒然草」は
 「つれづれなるままに、日暮らし、硯(石+見)にむかひて」で始まる
 「序段=序文」があり、
 1330年8月〜
 1331年9月頃に
 まとめられたとする
 「兼好」が書いたとする
 明確な
 証拠は何一つない、らしい。
 「兼好」が
 「仁和寺」がある・・・似話事(似和字・)→似羽(輪)事
 「双が丘(ならびがおか)」に・・・双得球(旧・九)
 居を・・・・・・・意・異・入・以・伊・亥
 構えたためか、
 仁和寺に関する説話が多い

 序段以下、
 第一段から
 第二百四十三段まで
 全二百四十四章の
 段からなる
 随筆集
ーーーーー
 以下、上述した
 「物見車」の文字からつづく
   ↓
 モノガタリの中身は
   ↓ 
 兼好法師が、・・・・・・・兼考法詞
 高師直の・・・・・・・・・行詞著(緒)句
 頼みを受けて
 塩冶判官高貞の・・・・・・円知葉務観公定
 奥方を取り持ち、
 それが元で
 判官は切腹
 塩冶家は滅亡、
 塩冶の
 家老
 八幡六郎が・・・・・・・・葉伴陸労
 復讐を企てる・・・・復習・福州・付句集

 「碁盤太平記」はその
 追狂言で、・・・・・対教言
 八幡六郎が
 大星由良之助と
 変名
 子の
 力弥と
 同志・・・・・・・・動詞・同詞
 四十余人と共に・・・詞拾海部理認
 敵(かたき)の・・・仇・片記
 高師直を討取る
ーーーーー
 事件に実際に関係した人物
ーーーーー
 伊達左京亮宗春
 伊予国・・・・・以代(与・余)・・・盤余
 吉田藩主。・・・吉田(兼好?)
 院使・・・・・・音詞御馳走役として
 浅野長矩相役だった。
ーーーーー
 田村右京大夫建顕
 陸奥国一関藩主。
 藩邸の庭先
 浅野長矩切腹した。
ーーーーー
 脇坂淡路守安照
 播磨国
 龍野藩

 収城使として
 赤穂城を受け取る。
ーーーーー
 木下肥後守公定
 備中国足守藩

 収城使として赤穂城を受け取る。
ーーーーー
 亀井能登守茲親
 石見国津和野藩主

 吉良義央からイジメを受けたと言われる。
 「仮名手本忠臣蔵」の
 桃井若狭助のモデル。
ーーーーー
 多胡外記真蔭
 石見国津和野藩家老

 「仮名手本忠臣蔵」の
 加古川本蔵のモデル。
ーーーーー
 細川綱利
 第三代
 肥後国
 熊本藩

 元禄赤穂事件
 大石良雄らを
 お預かり担当した
 熊本藩
 細川家四代。

ーーーーー
 参考参照原文
ーーーーー
伊達村豊 - Wikipedia
ーーーーー
赤穂浪士 - Wikipedia
ーーーーー
 附記
 赤穂遺臣切腹
  1703(元禄十六)年2月4日
 増訂
 武江年表
 江戸年代記
 赤城盟伝,赤城紀談,
 介石記,追加介石記,介浅記,
 新撰大石記,
 槿花集,赤穂忠臣記,武家明鏡記,易水連袂録,義人録(室忠清),
 忠士筆記(浅見安正),
 山科の聞書,
 忠義碑文,楠石論,瑞光院記,
 義士考,義士伝,義士絶○,蓬窓記,鐘秀記,義士文通,春台赤穂四十六士論,絵本忠臣蔵,赤穂義臣蔵
ーーーーー