1005日目・・・前日からのツヅキ・・・

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 三重県(懸)とは・・・?・・・
 「参(サン・みっ・シン)」を「ジュウ・かさね・おもい・チョウ」を「懸(ケン・かける)」で、「ミエにカケル」である。

 「一所懸命」・・・一緒・一書・逸書・佚書
 「一生懸命」・・・一章・一笑・一唱・一省・一勝
       ・・・一賞・一床
       ・・・一升=1.8リットル(ℓ・l)
             ↓
          イチ−テン−ハチ−リットル(エル)
             ↓
          位地 転  葉知 立 図留(得)
             ↓
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 三所懸名
 三生懸名
 三書得懸名
 字和等得→嘲笑う・・・見得の懸かり、伊勢、志摩、紀伊

 1868年
(慶応四年)
 新政府は
 伊勢国
 幕府領・旗本領
 および
 伊勢
 神宮領を
 管轄する
 山田奉行所
 度会府を設置・・・わたらい→渡来(トライ)
              →try・trial(試行)
 度会県に改称した。→亘合
 1871年
(明治四年)
 廃藩置県後の・・・背反(廃版)知見(地検・治験)
 第1次
 府県・・・・・・・付懸・釜兼・附建・父権・夫権・婦権
 統合に伴い
 伊勢国
 志摩国内の
 紀伊国
 三県を統合し、・・・・・・・三重の由来か?

 伊勢国
 南部の
 五郡・・・・・・語群・呉軍・誤具務
 および
 志摩国
 一円、
 紀伊国
 うち現在の
 南牟婁郡
 北牟婁郡を・・・・・・補句務賂群
 管轄する
 県となったが、

 1872年(明治五年)に
 三重県
 合併されて
 廃止された。

 伊勢
 志摩の
 毛利
(桑部城)家・・・・・・扶桑=扶桑記の部の帖
 家系は
 鎌倉幕府
 大江広元の・・・・・・大綱公言(巧言)
 四男
 大江季光を・・・・・・対抗履行(寄稿・機構)
 祖とする
 一族

 名字の
 「毛利」は、
 季光が父
 広元から
 受け継いだ
 所領の
 相模国
 愛甲郡
 毛利庄
(現在の神奈川県厚木市周辺)を
 本貫・・・・・・本を貫く→土佐日記紀貫之=平仮名日記
 中世を通して
 「毛利」は
 「もり」と読まれたが、
 後に・・・・→モリは森か守か毬鞠、万理、漏・杜・銛
 「もうり」と
 読まれるようになった。

  系譜

 「尊卑分脈
 季光─毛利経光─毛利時親─毛利貞親─毛利親茂─毛利師親

「毛利系図
 毛利時親─毛利貞親─
          ↓
「毛利親(初め親茂、祖父時親、父貞親共に晩年、
 安芸国に下向。
 この人より
 安芸国に在住。
 南北朝時代の人)」
      ↓
 ─毛利元春(師親)─毛利広房─毛利光房─毛利熈元(熈房)─毛利豊元─毛利弘元毛利興元─某(幸松丸)─毛利元就毛利弘元次男)

 とある。

 「大江氏系図
 大江広元大江季光(毛利四郎、安木守、尊卑分脈には毛利入道と)
┌───────┘
├毛利広光─章弁─公恵
├毛利経光─毛利経元─毛利経親
└毛利師雄─毛利元親─毛利時元

 となる。
 鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、
 越後国・・・・・・愛知後(語・誤・冴・御=おん)
 佐橋庄南条(現在の新潟県柏崎市)から
 安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移った後に
 国人領主として成長し、
 山名氏および
 大内氏の家臣として栄えた。
 戦国時代には
 国人領主から
 戦国大名
 中国地方最大の勢力となる

 1600年(慶長五年)の
 関ヶ原の戦いでは
 西軍の総大将となり、敗戦後、
 周防国・・・・・・スボウ
 長門国の・・・・・弔問・聴聞・兆文・兆問・頂門(鳥居の冠木)
 二か国に・・・・・似何語句
 減封される
 大江季光
 大江広元
 四男で
 相模国
 毛利荘を
 父から相続し、
 毛利氏を称する
 従って、毛利家・毛利氏としては
 季光が初代とするのが
 相当であるが、
 毛利家の慣習上、
 天穂日命
 初代とするため、
 季光は三十九代とされている。・・・3+9=12
 季光は
 北条時頼の・・・・・・字頼
 義父・・・・・・欺付
 にも・・・・・・似摸
 かかわらず・・・係話等事
 三浦泰村
 結んで
 北条氏に
 反旗を翻した・・・叛記、翻訳
宝治合戦)が、
 敗北
 越後にいた
 季光の
 四男
 経光の
 家系が残った
 鎌倉時代後期には
 毛利時親が京都の
 六波羅探題
 評定衆を勤めるが、
 姻戚関係(義兄)であった
 内管領
 長崎円喜
 執権
 北条高時に・・・補句条、公示(後事・好事・功治・麹・糀)
 代わり
 幕府で政権を
 握っているのを嫌い、
 隠居し、
 料所の河内国へ隠棲
 時親は
 楠正成にわり・・・・・くすのき=句素之記、生成
       ・・・・・クズの記整斉(政情)
 兵法を・・・評報(平方)
 教えたという
 伝承が残っている。

 1333年(元弘三年)
 後醍醐天皇
 討幕運動から
 元弘の乱が起こり、
 足利尊氏らが・・・・・・測理尊(即、離村・足利損→)
 鎌倉幕府を滅亡させるが、
 毛利時親は・・・・・・摸得利は字審
 合戦に参加せず、・・・合撰
 後醍醐天皇により
 開始された
 建武
 新政からも距離を置いた為、
 鎌倉幕府
 与党として
 一時領土を
 没収
 南北朝時代には
 足利方に従い、
 時親の
 曾孫にあたる
 毛利元春は、
 足利幕府(室町幕府)が
 九州の
 南朝勢力であった
 懐良親王
 征西府を討伐するために
 派遣した
 今川貞世(了俊)の指揮下に入り活躍

 戦国時代
 安芸国の・・・安芸の語句
 国人として・・・語句訊
 土着
 毛利興元(50代)・・・公言・巧言・高言・広言・後言
 毛利幸松丸(51代)の・・・考証願・公証贋(翫)
 代には、
 大内氏
 尼子氏とが・・・・・・邁志・爾志・西・似詞
 安芸を巡って争い、
 安芸国内の国人同士の争いも頻発した。
 毛利氏は
 興元の
 弟である
 毛利元就(五十二代)が当主となると、
 元就はその知略を尽くし
 一族の反乱や
 家臣団最大派閥の
 井上氏の
 粛清、
 石見国の・・・・・・遺志見語句・磐見語句
 高橋氏など
 敵対勢力を滅ぼし、
 国人である
 安芸国
 小早川氏や・・・証双撰詞
 吉川氏に
 子息
 隆景、
 元春を
 養子に入れて、
 勢力を拡大。

 元就は
 長男の

 毛利隆元
(五十三代)に
 家督を譲ったのちも
 戦国大名として
 陣頭指揮を続け、

 大内義隆
 謀反し
 大内氏
 事実上
 乗っ取った
 陶晴賢を・・・・・・当、生繭・問う制憲・等政権
 1555年(弘治元年)の
 厳島の戦いで破った。
 1557年(弘治三年)
 陶晴賢
 傀儡であった
 大内義長を・・・題名意欺帳
 攻め滅ぼし、
 その後は
 北九州に侵入し、
 筑前国
 豊前国
 秋月氏
 高橋氏
 味方につけ、
 大友氏とも争った。
 元就
 次男の
 元春を
 吉川家へ、
 三男の
 隆景を
 小早川家へ
 養子とした。

 1557年(弘治三年)
 吉川・小早川が
 安芸
 毛利
 当主家
 運営への
 参画、
 補佐することを条件に
 隆元(元就の長男)が
 毛利家の
 家督を継いだ。こうして、毛利当主家を吉川家と小早川家でサポートする体制が成立し
 領国支配を磐石なものとした
 毛利両川である。・・・稜線・僚船・両線・漁選・料撰

 1560年(永禄三年)
 元就の
 長男で
 毛利氏当主の
 隆元が
 安芸守護に任じらた
 隆元の
 没後は
 その子の
 毛利輝元(五十四代)を
 後見しつつ、
 1566年(永禄9年)、
 仇敵の
 尼子氏を滅ぼして、
 中国地方
(安芸・周防・長門・備中・備後
 因幡伯耆・出雲・隠岐・石見)を領有
 毛利元就
 孫の
 毛利輝元
 豊臣秀吉
 属し、
 安芸、周防、長門、備中半国、備後、
 伯耆半国、出雲、隠岐、石見を領し、
 吉田郡山城から
 地の利の良い
 瀬戸内海に面した
 広島城
 築城し本拠を移る。
 後に五大老に就任
 関ヶ原の戦い
 西軍の総大将
 に担ぎ上げられる。吉川広家の内通時に毛利氏は担ぎ上げられただけとの弁明により、所領は安泰であったが、敗戦後に大坂城で押収された書状に連判状に輝元の名があったことから徳川家康は約束を反故にし、輝元は責任を問われ
 周防国
 長門国長州藩)に減封
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 三重県

 北勢、
 伊賀、
 中勢、
 南勢(伊勢志摩)、
 東紀州
 5地域で構成
 江戸時代から、
 お伊勢参り
(お蔭参り)
 で知られる
 伊勢神宮
 擁する地域として発展
 令制国
 伊勢国志摩国伊賀国の全域と、
 紀伊国(当初は熊野国)の一部より構成
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 宮城県
 南から
 亘理郡(山元町・亘理町)、
 名取郡岩沼市名取市)、
 宮城郡仙台市塩竃市・多賀城市・松島町
     七ヶ浜町利府町)、
 黒川郡(大和町大郷町・富谷町・大衡村
 亘理郡は、
 「和名抄(わみょうしょう)」に
 和多里とあり、
 川の渡しを意味
 名取郡は、
 アイヌ語
 ヌタトリ(湿原)による
 宮城郡は、
 古代の
 陸奥国(むつのくに)の都が
 多賀城に置かれ、
 「みちのく」の
 治府として
 「宮なる城の所在地」から
 県名も古い郡名
 宮城郡にその根拠を求め
 1888年
 宮城(きゅうじょう)の制が定まったとき、
 宮城の県名が皇居と
 同一であるのを
 憚(はばか)ったが
 県名を存続させた
 黒川郡は、中央を貫流する
 吉田川が鉱水のため、黒い川であったことから
 郡名が歴史上初めて現れたのは
 「続日本紀(しょくにほんぎ)」
 742年以前に郡が成立をしていた
 伊達政宗
 1601年
 仙台城に入城
 永い繁栄を祈念して、
 「入りそめて国豊かなるみぎりとや千代とかぎらじせんだいの松」
 と詠んで、この当時、
 仙台の地名は
 「千代」と書いて
 「せんだい」といっていたが、
 政宗はそれを
 「仙台」に改めた
ーーー
 仙台の命名
 唐の詩人
 韓(かんこう)の
 七言律詩

「同じく仙遊観に題す」
 紀元
 前
 二世紀、
 漢の
 文帝は、
 仙台といわれた
 仙遊観(せんゆうかん)という
 壮大な宮殿を建造

 「韓」が、古くから中国で伝説上の存在 として知られた
 仙境崑崙山(こんろんさん)の
 五城十二楼(ごじょうじゅうにろう)の宮殿に
 なぞらえて詠んだ
 同じく仙遊観(せんゆうかん)題す
 仙台 始めて見る 五城楼(ごじょうろう) 
 風物 凄凄(せいせい)として 宿雨(しゅくう)収まる
 山色(さんしょく) 遙かに連なる 秦樹(しんじゅ)の晩(くれ)
 砧声(ちんせい) 近く報ず 漢宮(かんきゅう)の秋
 疎松(そしょう) 影落ちて 空壇(くうだん)浄(きよ)く
 細草(さいそう) 春香ぐはしくして
 小洞(しょうどう)幽(かす)かなり
 何ぞ用いん 別に方外(ほうがい)を尋ねて去るを   
 人間(じんかん)
 亦(ま)た
 自(おのずか)ら
 丹丘(たんきゅう)有り
ーーーーー
 明治五年(1872)三月(旧暦)
 はじめて
 「三重県」という
 県名が使用された
 今の三重県の区域
 津の南を流れる
 相川を境に
 南北二つの県に分かれていた
 それぞれの県庁が
 安濃郡
 津大門町
 度会郡
 山田
 岩淵町に置かれていたことから、
 安濃津
 度会県と
 県名が
 つけられていた
 県庁が、
 津から
 三重郡
 四日市
 移転
 県庁の
 移転完了したのが
 明治五年三月二十八日
 県名も県庁所在地の名をとるのを原則としていたから、
 この時から
 三重県の名が使われた
 県名の
 改称は
 三月十七日付け
 翌六年
 再度県庁を
 四日市から
 津に戻す
 県名を変えず、そのまま
 伊賀上野の政治家
 「立入奇一(たちいりきいち)」は、
 『三重県
  改称
  之
  儀
  ニ付
  建白』
 (明治八年一月)を
 左院に提出
 今もこの文書は、国立公文書館に保存
 「立入」は
 「他郡ノ称ヲ以テ県名トナスハ則名ノ正シキモノ非ス」と、
 県名を改称するよう主張
 明治九年四月十八日
 度会県との
 合併により、
 現在の
 三重県が成立
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 三重県の由来

 明治
 五年から
 七年に
 県庁
 所在地のあった
 四日市
 郡名
 「三重郡」に由来する。

 「み」は「水(み)」、
 「え」が「辺(へ)」で、
 鈴鹿川
 水辺に由来する地名
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  愛姫
 (よしひめ・めごひめ)
 永禄十一年
 (1568年)〜 承応二年一月二十四日(1653年2月21日)
 田村清顕と
 正室於北
 (相馬顕胤の娘)の
 一人娘
 伊達政宗正室
 通称は
 田村御前
 院号は陽徳院
 天正七年(1579年)
 数え年
 十二歳で
 伊達政宗の元に嫁ぐ
 政宗暗殺未遂事件には
 田村氏からの
 内通者の
 関与があったと
 疑った
 政宗によって、

 彼女の乳母は殺害
 他に多くの
 愛姫付きの
 侍女たちが
 死罪

 愛姫は
 京都
 聚楽第
 伊達屋敷に移って
 文禄三年(1594年)
 五郎八姫(松平忠輝室)を出産
 忠宗(仙台藩2代藩主)
 宗綱
 竹松丸
 政宗との間に
 四人の子をもうけた
 寛永十三年(1636年)五月二十四日
 政宗が死去した後、
 瑞巌寺
 雲居禅師の元で
 仏門に入り、
 陽徳院と称した
 承応二年(1653年)一月二十四日
 八十六歳で死去
 二十四日は政宗
 月命日と
 同じであった
 瑞巌寺には隣接する
 陽徳院がある

 遺言
 「陽徳院様御夢想之書付」
  仮名文字で
 「いろよきはなのえたをこそみる」
 (色良き花の枝をこぞみる)
 包紙の上書きに
 孫の
 田村宗良を
 その
 母が
 身ごもった時に見た
 夢である
 旨が記されている
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