1003日目・・・「伊達男」の前日の続きです・・・

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 仙台城は・・・撰題条
 山城で・・・・纂条・簒聶(帖・上)・3条
    明治憲法
    第3条
    天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
    第9条
    天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ
    又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ
    及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ
    必要ナル命令ヲ発シ
    又ハ発セシム
    但シ命令ヲ以テ
    法律ヲ変更スルコトヲ得ス
    第11条
    天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
    第12条
    天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
    第13条
    天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ
    及諸般ノ条約ヲ締結ス

    日本国憲法
    第三条
    天皇の国事に関するすべての行為には、
    内閣の助言と承認を必要とし、
    内閣が、その責任を負ふ
    第九条
    日本国民は、正義と秩序を基調とする
    国際平和を誠実に希求し、
    国権の発動たる戦争と、武力による威嚇
    又は武力の行使は、国際紛争を解決する
    手段としては、永久にこれを放棄する。
    ○2
    前項の目的を達するため、
    陸海空軍その他の戦力は、
    これを保持しない。
    国の交戦権は、これを認めない。
    第三章
    国民の権利及び義務
    第十条
    日本国民たる要件は、
    法律でこれを定める。
    第十一条
    国民は、
    すべての基本的人権
    享有を妨げられない。
    この憲法が国民に保障する
    基本的人権は、
    侵すことのできない
    永久の権利として、
    現在及び将来の国民に与へられる。
    第十二条
    この憲法が国民に保障する
    自由及び権利は、
    国民の不断の努力によつて、
    これを保持しなければならない。
    又、国民は、
    これを濫用してはならないのであつて、
    常に公共の福祉のために
    これを利用する責任を負ふ。
    十三条
    すべて国民は、個人として尊重される。
    生命、自由及び幸福追求に対する
    国民の権利については、
    公共の福祉に反しない限り、
    立法その他の国政の上で、
    最大の尊重を必要とする。
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 以下の原文は「ウイッキペデア」で、若干改作添付したモノです・・
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 平和な世の
 治世には・・・・・字与・辞予(序文)
 適さぬとして、・・的・敵・摘・滴・擢
 自分の死後、・・・字文の詞(詩・史)語
 平城へ移ることを・平城京=奈良→楢・名等
 奨めていた。・・・推奨・推称→推古女帝
 逆に言えば・・・・逆言→逆彦(ゲン・びこ)
          →備拠・尾拠→媚び・古井
 生前は・・・・・・生前は天の星・歳全は年号
 死の前まで・・・・史の前は文字記録が無
 天下を取る・・・・典価、添加、転化、転嫁、転訛、転科、点火
 野心を・・・・・・夜深・之審
 捨てて・・・・・・シャ→者・舎・写・車・沙・社
 いなかったと・・・居なかった・意名加通多
 いわれる・・・・・イワレル→云われる→意割例留・磐例留
          石猿=孫悟空
          申す→沙流

 料理が趣味・・・・お膳立てが趣味、興味→おもしろし=面白し
          膳部(かしわで)

 元々は
 兵糧開発が・・・・漂浪・解発
 主眼であり、・・・種目
 岩出山・・・・・・磐(晩・萬)取通纂
 名物・・・・・・・名勿(佛・仏・部通)
 凍り・・・・・・・コオリ→郡・桑折・小折
 豆腐と・・・・・・問付・答付・等付・読付
 納豆・・・・・・・名通当・名通等
 は
 政宗
 研究の末に・・・・懸旧・兼球・建久
 開発された・・・・解発(葉通)

 仙台城下には・・・撰題条加
 味噌倉を・・・・・見素双の尾
         「見そ」は禁止→見るな
 建てていた
 味噌の
 大規模な・・・・・大規模→ダイ規則の模写
 生産体制が・・・・清算態勢
 確立されたのは・・書立
 これが
 最初

 酒には・・・・・取・種
 滅法弱く、・・・滅法、予枠(与話句)
 酔って失敗した
 逸話が・・・・・五和→語話・誤話・呉把
 いくつか・・・・幾つか・異句通加
 残されている。
 中には
 将軍秀忠との
 約束を・・・・・約の束(把・多葉)→聖書
 二日酔いで・・・爾比→字比与意
 すっぽかし、・・素通保化詞
 仮病を使って・・懸描
 い抜けた
     伊井(井伊)貫けた
     ↓
  上述は次の「伊達ヲトコ」へ跳んで連続
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     井伊直弼セイイチョクヒツ(ヒチ)
          西意捗筆(比知)
     根城
           第十五代藩主
           幼名−鉄三郎
           雅号−埋木舎
           (うもれぎのや)
           桜田門外の変
 文化十二年(1815年)十月二十九日
 第十一代藩主
 井伊直中
 十四
 近江国犬上郡滋賀県彦根市金亀町)
 彦根城
 二の丸で生まれる
 母は側室のお富
 父の死後、
 三の丸 尾末町の屋敷で
 十七歳〜三十二歳までの
 十五年間を
 三百俵
 捨扶持の部屋住みとして過ごした

 近江
 市場村の医師である
 三浦北庵の紹介で、
 長野主膳
 師弟関係を結んで
 国学を学ぶ
 埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で
 世捨て人のように暮らした
 茶道(石州流)も学んだ茶人
 和歌や鼓、禅、槍術、
 居合術を学ぶ
 「チャカポン(茶・歌・鼓)」と渾名された。
 弘化年(1846年)
 十四代藩主で
 兄の
 直亮の世子であった
 井伊直元(直中の十一男、兄)が死去
 兄の養子という形で彦根藩
 後継者に決定
 同年十二月十六日
 従四位下
 侍従
 兼
 玄蕃頭に叙任
 嘉永二年(1849年)十二月十六日
 左近衛権少将(玄蕃頭兼任)
 嘉永三年(1850年)十一月二十一日
 家督を継いで
 第十五代藩主
 同年同月二十七日
 玄蕃頭から
 掃部頭かもんのかみ)に・・・掃除部の頭
                相似分の当
 遷任
 (権少将如旧)
 嘉永年(1852年)
 丹波
 亀山藩
 松平
 信豪の
 次女
 昌子(貞鏡院)を娶った
 安政四年(1857年)十二月十六日
 直弼は従四位上
 左近衛権中将掃部頭は留任
 同年六月十七日に阿部正弘が死去
 幕政は溜間の意向を反映し
 堀田・松平の連立幕閣を形成
 さらに直弼は
 第十三代将軍
 徳川家定継嗣問題で
 紀伊藩主の徳川慶福を推挙
 安政五年(1858年)四月二十三日
 大老に就任
 やむを得ぬ場合の調印を
 下田奉行
 井上清直と
 目付
 瀬忠震に命じた
 孝明天皇の勅許を得られぬまま、
 六月十九日
 ポーハタン号上で
 ハリスとの間に
 日米修好通商条約が調印
 家定の継嗣では
 同月二十五日
 徳川慶福を後継に決定
 慶福は
 名を
 徳川家茂と改めて
 同年十二月一日
 征夷大将軍(第十四代)の
 宣下を受けた
 安政五年(1858年)〜安政六年(1859年)
 安政の大獄
 「戊午の大獄」
 (つちのえうま=・ボゴ
 の
 タイゴク)
 安政七年(1860年
 三月三日五ツ半(午前九時)
 桜田門
で暗殺
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 以下は再度、「伊達オトコ」から連続
    ↓
 養生法が・・・・・葉情報・洋上砲
 変わっていて、
 冬に・・・・・・・読爾→当似
 炬燵の片側を・・・炬(火巨→科挙
          燵(火達→常陸
 開けさせていた。
 朝は早く目が覚めても、
 定時に側の者が起こしに行くまでは
 起床しないという・記章・起承
 拘りがあった。・・コダワリ→拠拿話理
 身体の・・・・・神体・真諦・新体
 健康を・・・・・兼項・懸考・腱項・建工
 常に・・・・・・条爾(荷=ハス)
 気遣っていた。・記遣(使)う

 喫煙者で、・・・多葉拠写
 毎日
 起床後
 昼・・・・・・中・注・註・柱・丑・抽
 睡眠前と、
 規則正しく
 三回
 煙草を吸っていた
 (当時の人々は煙草を薬として服用した)。
 遺品に、愛用の
 キセル(煙管=エンカン・けむりくだ)がある。

 遺品に
 ロザリオがあったことなどから、
 政宗は密かに
 キリスト教
 帰依していたのではないかとする説もある。
 政宗
 長女の
 五郎八姫は
 一時期
 キリシタン(切支丹)だったことがある。

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