1002日目・・・日記の記録には現在、ボクの日記は「965日目」であるらしい・・・「35日間の日記」が欠落しているらしい・・・「三十五=三五=参五=参拾五→参足五」→サンジュウゴ→産重子・・・纂重語→簒拾語→参重後→三重後・・・「三重県の後」とは「三重」は「明治以後」につくられた新たな「懸命=懸名=県名」である・・・どうやら「現存・古事記」の「3重にタギタギ(當藝、當藝、斯玖→当芸、当芸しく・滾)しく足ナエた日本建(ヤマトタケル・倭男具名)の命」は「明治時代」に三重県の名前が付けられた前後ではないのか?

 「藝」の漢字は聾唖(おし)の「佐波遲比賣命=沙本毘賣命」の皇子「品牟都和氣命=本牟智和氣御子」が「阿藝(あぎ)=今聞高往鵠之音、始爲−阿藝−登比」と声を発した時に記録されている「文字」である。「藝(ゲイ)→藝術、技藝」の類字に「芸(ウン)→香草、芸香(ウンコウ)」と読ませている漢字がある。ならば「阿藝」は「あぎ」ではなく「アウン=阿吽」である。「大修館漢和辞典(731ページ)」には本の虫食い防ぐ「防虫草」で、「草刈・草ぎる→草薙・黄(きい)ばむ・多い」と説明があり、「芸(藝)術」の「藝→芸(ゲイ)」は「新字体」であるそうだ・・・同じ「大修館漢和辞典(732ページ)」には「芸(ゲイ)」が記述されているが、「藝」の漢字は無い。「芸(ウン)←藝→芸(ゲイ)」は何時からなのか?・・・「芸亭(ウンテイ)」は歴史では「石上宅嗣」が開設した日本最初の公開図書館である。「芸編(ウンヘン)」は「書物」であった。「芸閣(ウンカク)」は書庫、書斎で、書籍、本の倉庫である。そして「芸省(ウンショウ)」は「秘書省・秘書局」で、「局=個室」・・・
 「省」とは「省(はぶく)・除(のぞく)」である。
 「局(つぼね)」とは「大奥」である。
 「おつぼね=御局」とは
 「宮中で、局(個室)を与えられた女官の敬称・江戸時代、将軍家、大名家で局を与えられた奥女中の敬称」
 また、
 「その奥女中を取り締まった老女の敬称」
 「局女郎(つぼねじょろう)・御局様(おつぼねさま)」
 である。忠臣蔵の歌舞伎の羽織の制服、「誠」の隊旗で「池田屋」を襲った「新撰組近藤勇」は「局長」であった。
 ・・・ナニを「はぶく(省く)」のか、「のぞく(除く)」のか・・・「秘書」とは文字道理の「秘密の書物」である。局の省いたモノを「のぞく(覗く・覘く)」である、カナ、ッ・・・
 「垂仁紀」は幕末、明治の「戊辰戦争」前後の話の「秘密」が重ねて「記録」されているモノである・・・?
 アラビア数字の「3」の形象は「耳」に見えるし、「B」の「|」が省かれたか、「M」か「W」筆記体を「横」にしたアルファベット文字、ギリシャ文字なら「Ωの小文字ω」、あるいは「Ε」の筆記体の左右逆字で、「3」はボクが猿の顔を描くときの定法だが、平仮名なら「ろ」である・・・訓読みの「耳(みみ)」が、音読みの「ジ」であるのは「字」と関係しているからだろう・・・「字」を「あざ」と訓読みしているのは身体の「痣(シ・ホクロ=黒子)」が「字(点字)」のように診えるからカモ・・・耳、聴覚に敏感な盲目の人が必要としている「文字」は触覚としての「点字認識」である・・・
ーーーーー
自其處發、到當藝野上之時、詔者、吾心恒念自虛翔行。然今吾足不得步。成當藝當藝斯玖。自當下六字以音。故、號其地謂當藝也。自其地差少幸行、因甚疲衝御杖稍步。故、號其地謂杖衝坂也。到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀、不失猶有。爾御歌曰、
袁波理邇 多陀邇牟迦幣流 袁都能佐岐那流 比登都麻都 阿勢袁 比登都麻都 比登邇阿理勢婆 多知波氣麻斯袁 岐奴岐勢麻斯袁 比登都麻都 阿勢袁

自其地幸、到三重村之時、亦詔之、吾足如三重勾而甚疲。故、號其地謂三重。自其幸行而、到能煩野之時、思國以歌曰、

 古事記原文
ーーーーー
 兎に角、「愛(めご・目子・目護)姫」とは?、の、タメに以下の抜粋記事を改作添付・・・結論の理由は後々の書き込みで述べたいが、「独眼=ドクガン→毒癌」、「隻眼=セキガン→碩翫・頑贋・石岩・籍元・咳厳」の人物を護った?のが「愛姫(媛)」であった・・・「旨いモノには目がない奴」とは「食道楽」と云うが、旨いモノをつくる「料理人=調理人」は「膳部(かしわで)」と云われている・・・
   ↓
ーーーーー
  伊達 政宗・・・幕末明治の伊達宗城(藍山)は彼の子孫
 (だて まさむね
 ・イダテ セイソウ・・・異建 政争
 ・イダチ セイスウ・・・医達 星霜
 ・鼬   成層(精巣)→鼬=鼠(ねずみ)+由
 ・いだち まつるむね)→夷断 祀宗→宗像・宗方・宗形・棟方
 ・亥拿知 纏 る旨・・→亥(ガイ)→白猪神=伊吹山の神
          ・・・草薙剣を佩かず、無剣のヤマト
          タケルは敗退、
          脚は「タギタギしく三重」に
          折れ曲がった
              ↓
          脚本は多芸、多義の詞句、纂重
 出羽国と・・・・・・・・出葉(出波・弟把)のクニ
 陸奥国戦国大名・・・・陸奥=六(亠+ハ)を措く(置く)
 陸奥仙台藩の初代藩主・・仙台=千台→先代・川内・船台・泉内・専大
 伊達氏、
 第十六代当主・・・・・・頭首・党首・唐主・問う趣
 伊達輝宗
 と
 最上義守の・・・・・・・最上→「斎条・西条・西城」の
   義守→「技手・義手」・「欺・偽・戯・魏・擬・疑」の取(趣)
 娘・・・・・・・・・・・娘=嬢=ジョウ→錠
 義姫
 (最上義光の妹)の・・・義光→ギコウ=技巧・技工・疑府中
 嫡男・・・・・・・・・・嫡=女+啇(亠ハ冂古)
  男=田+力→多(太・他)地(知・智・茅・治)化等
    田(デン→伝)+力(リキ→利器・リョク→吏慾)
 幼少時に患った
 疱瘡(天然痘)により・・疱瘡→「奉送・法曹・包装」+典年問う
 右目を失明し、・・・・・みぎめ→見疑目
 隻眼・・・・・・・・・・セキガン→籍元・跡丸(麿・麻呂・円=猿厭)
 後世
 独眼竜と呼ばれた・・・・独(獨逸=ドイツ・プロイセン)願留
             読(讀)巌隆・退く巌流

 永禄十年八月三日(1567年9月5日)
 出羽国
 米沢城で生まれた・・・・米澤城→コメサワシロ(ジョウ)
                込め佐和の死(詞)賂→佐和遅媛(姫)
 幼名は梵天丸・・・・・・梵天丸=木+木+凡+天+丸=記紀本典眞賂

 天正五年(1577年)十一月十五日
 元服して・・・・・・・・元服→ゲンプク→言伏・・・元の服部は呉

 伊達
 藤次郎・・・・・・・・・・付字時弄(耳漏)
 政宗
 第九代当主
 大膳大夫−政宗に・・・・・大善→大全対譜→台膳部(調理係)
 肖(あやか)って名づけた・文(綾・絢・彩・彪)借って
 大膳大夫−政宗
 区別するべく
 藤次郎−政宗と呼ぶ・・・・藤次郎→唐字弄→問う耳漏→当字弄
 伊達家はそれまで
 足利将軍からの・・・・・・足利→足の利→十(拾)の理
 一字拝領を・・・・・・・・一字拝領→伊地知、配慮、得(有)
 慣習としてきたが、・・・・監修・観衆
 政宗元服に際しては、
 当時
 織田信長によって・・・・・降りた清朝史記伝新調
 追放されていた・・・・・・対方
 足利義昭からの・・・・・・ヨシアキ→偽証・偽称
 一字拝領を求めなかった。

 天正七年(1579年)には
 仙道の戦国大名であった・・先導・船頭・煽動・羨道
 三春城主・・・・・・・・・見張る・瞠る
 田村清顕の娘・・・・・・・田村→デンソン→伝孫・伝尊・太撰
 愛姫を正室・・・・・・・・愛姫→目互比女・眞名児秘
 天正九年(1581年)四月、
 相馬氏との合戦で初陣・・・相馬→相場・宗婆・相葉

 天正十二年(1584年)十月に
 十八歳で家督を相続
 伊達家
 十七代を継承
 小浜城主・・・・・・・・ショウヒンジョウシュ→小品情趣
 大内定綱は・・・・・・・題は内定、考→大内(蔵之助)抵抗
 二本松城主・・・・・・・日本生々種(取)
 二本松義継と手を組み・・日本省議形(偽計)
 田村氏の・・・・・・・・伝孫史・傳尊詞
 支配から脱却しようとした。

 天正十三年(1585年)、
 政宗
 大内領・・・・・・・・・拿以内量(両)・多意名異漁(医療)
 小手森城へ兵を進め、・・称取輪状(鱗状)
 近隣諸国への見せしめの為として
 撫で斬りを行い、城中の者を皆殺した。
 大内定綱の没落を間近で見た
 義継は・・・・・・・・・義兄・偽計
 和議を申し出、・・・・・倭疑の猿の出→猿田彦・猿女媛
 輝宗の取りなしにより・・構想・香草・起草・康熙
 五ヶ村のみを・・・・・・語懸孫(巽・撰・選・尊)
 二本松領として・・・・・日本渉猟
 安堵される・・・・・・・案度
 ことになった。
 ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出た所を拉致される。当時狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って
 輝宗もろとも一人も残さず殺害した。
 この事件については、
 政宗による父殺しの陰謀説もある。

 その後、
 初七日法要を済ますと、輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲
 十一月十七日
 二本松城救援のため集結した
 佐竹氏率いる・・・・・・作地区史卆(枠)
 約三万の・・・・・・・・訳(約・役・薬)纂(簒)萬
 南奥州・・・・・・・・・難欧州・名務応酬(押収)
 諸侯連合軍と
 安達郡・・・・・・・・・案立具務・案裁(断)具武
 人取橋で激突した。・・・比取り葉詞・人種教・人首経
 数に劣る伊達軍は
 たちまち潰走し、・・・・立(建・経)眞(萬)知改装史
 政宗自身も
 矢玉を浴びるなど・・・・夜漁区、阿比留
 危機的状況に陥ったが、・記紀擢状況・聴き適情況
 殿軍を務めた・・・・・・シンガリ→史務借理
 老臣・・・・・・・・・・労(牢・漏・滝・聾)史務
 鬼庭左月斎の・・・・・・規定(既定・規程・基底・汽艇)
             左月斎→差月歳
 捨て身の防戦によって
 退却に成功し、
 翌日の・・・・・・・・・翌=羽+立、日→比
 佐竹軍の撤兵により・・・佐賀、筑紫郡、綴表(評)
 辛うじて窮地を脱した
 (人取橋の戦い)。

 関白・豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、
 惣無事令(私戦禁止令)を→総務辞令(事例・字例)
 発令した。
 しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。

 天正16年(1588年)
 北方の
 大崎氏家中の内紛に介入して兵10,000を侵攻させたが、
 黒川晴氏の離反と・・・・・・・黒川=コクセン→国撰・語句選
 大崎方の頑強な抵抗に遭い敗北。
 さらに政宗への反感を強めていた
 伯父
 最上義光が・・・・・・最上(西條)の技工(技巧)
 大崎側に立って・・・・大規則
 参戦し、・・・・・・・纂撰
 伊達領各地を
 最上勢に攻め落とされたが、
 両軍の間に割って入った
 母・・・・・・・・・・簿(摸・募)
 義姫の・・・・・・・・疑記(紀)埜
 懇願により・・・・・・今願
 和議が成立し・・・・・倭疑(偽・欺・戯)
 窮地を脱した(大崎合戦)

 伊達領南部に
 蘆名氏・・・・・・・・アシナ→「希臘のアテネアテナイ」史
            足名椎(古事記・出雲)
 相馬氏が侵攻してきたが防衛し、
 愛姫の実家・田村氏領の確保に成功した(郡山合戦)。

 天正十七年(1589年)
 会津
 蘆名義広を・・・・・・露名(命)技巧(技工)
 磐梯山麓の・・・・・・萬代纂例
 摺上原で破った・・・・集条言、出、張(葉)った
 (摺上原の戦い
 義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、
 戦国大名としての
 蘆名氏は滅亡
 この後、政宗はさらに兵を
 須賀川へ進め
 二階堂氏を滅ぼした・・・似解同(詞)史
 惣無事令を
 遵守して・・・・・・・・順守・准取
 奥州への介入に
 及び腰になっていた
 佐竹氏側から
 結城義親・・・・・・・・有紀、結記、疑心
 石川昭光・・・・・・・・意思、跡、撰省考
 岩城常隆らが・・・・・・言記条項(上甲)
 伊達政宗に服属

 小田原合戦と豊臣政権下
 豊臣秀吉織田信長の統一事業を継承
 伊達家にも秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が幾度か届けられており、政宗はこれを黙殺していた。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたという。

 秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)中である
 1590年(天正十八年)五月には、
 豊臣政権の
 五奉行筆頭の
 浅野長政から・・・・・撰野(夜)調整(町制)
 小田原・・・・・・・・承伝言
 参陣を催促され、・・・纂人
 政宗
 五月九日に会津を・・・語付き句比、合通(合図)
 出立すると
 米沢・小国を経て
 同盟国
 上杉景勝の所領である
 越後国
 信濃国を経由して小田原に至った
 秀吉の兵動員数を考慮した
 政宗は秀吉に服属し、
 秀吉は会津領を没収したものの、
 伊達家の
 本領・・・・・・・・・本の漁
 七十二万石・・・・・・漆(失・執)拾似萬籍
 (おおむね家督相続時の所領)を安堵
 このとき
 遅参の詰問に来た・・・遅纂
 前田利家らに・・・・・前伝理化
 千利休の・・・・・・・撰理究
 茶の指導を・・・・・・知夜
 受けたいと申し出、
 秀吉らを感嘆させたという。
 この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる。
 政宗が秀吉に服属してほどなく、
 北条氏政・・・・・・・補区(句)条、市制(姿勢・史制)
 北条氏直・・・・・・・保句(玖・狗)条、司直(指示仮)
 親子は秀吉に降伏し、
 政宗の居城・黒川城へ入城した
 秀吉は
 奥州
 仕置を行った・・・・・シオキ→塩(志雄)記
            シチ→史知行(業・凝・魚得・形)
 秀吉の日本統一が達成

 江戸時代に
 仙台藩
 第四代藩主
 伊達綱村政宗の曾孫)が作らせた
 『伊達治家記録』には、小田原参陣前に
 兄の
 最上義光に唆(そそのか)された
 義姫によって
 毒殺されそうになり、
 義姫を
 成敗する代わりに
 弟の
 伊達小次郎を斬殺したため義姫は実家に逃走したと書かれており、これが通説となっていた。しかし実際には義姫はその後も伊達家にとどまっており、政宗朝鮮出兵の頃から母子は親しく手紙のやりとりをしている。
 義姫が実家の
 山形城へ突如
 出奔したのはこの
 四年後であることが一次史料からすでに明らか
 「毒殺未遂事件」の正体は、
 反政宗派一掃のための自作自演説もある。
 翌天正十九年(1591年)
 蒲生氏郷とともに
 葛西
 大崎一揆
 平定
 政宗自身が
 一揆
 煽動
 喚問された政宗は上洛し、
 一揆扇動の書状は偽物である旨
 秀吉に
 弁明し許されるが、
 米沢城
 七十二万石から
 玉造郡
 岩手沢城・・・・・・・・磐主役、佐和嬢(沙本比毘)
 (城名を・・・・・・・・嬢名を
  岩出山城に変えた)へ・違和出纂条
 五十八万石に・・・・・・語拾葉知萬語句
 減転封された・・・・・・言添付得
 秀吉から
 羽柴の
 名字を与えられ、
 本拠の
 岩出山城
 大崎氏旧領であったことから、
 政宗
 「羽柴大崎侍従」と・・侍従→字拾
 称した

 文禄二年(1593年)
 秀吉の
 文禄の役に従軍
 朝鮮半島では
 明との和平交渉中の日本軍による朝鮮南部沿岸の築城に際して、
 普請を
 免除されていたにも関わらず秀吉からの兵糧の支給を断って積極的に参加するなどして活躍した。
 政宗は、
 慶長の役には参加していない。

 文禄二年以降
 浅野長政が取次として
 伊達政宗
 豊臣政権のパイプとなっていたが、
 文禄五年八月十四付けの
 書状で政宗
 長政の態度に我慢がならずに
 絶縁状を送りつけて
 絶交を宣言
 秀吉に早くから服属して五大老に選ばれた大名たちとは異なり、政宗は北条氏と同盟して秀吉と対立したため、五大老には選ばれなかった。

 文禄四年(1595年)
 秀吉から謀反の疑いをかけられた
 関白
 豊臣
 秀次が
 切腹した。秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹に当たる
 最上義光
 娘
 駒姫は、・・・・・・・駒=馬+句→「宇摩(午)」+句
 秀次の側室になる為に
 上京したばかりであったが、
 秀次の妻子らと共に
 処刑されてしまう。

 秀吉の死後、
 政宗
 五大老徳川家康
 天下人であった秀吉の
 遺言を破り、
 慶長四年(1599年)
 政宗
 長女・五郎八姫と
 家康の
 六男
 松平忠輝
 婚約させた・・注記・今訳(近訳・昆訳・金訳)
 豊臣秀吉死後の
 慶長五年(1600年)、
 家康が
 会津
 上杉景勝討伐を行うと、・・・上杉=ジョウサン→条纂、継承
 これに従い
 七月二十五日には
 登坂勝乃が守る・・・・・・トウハンシュダイ→謄版小題
 白石城を奪還・・・・・・・イワクセキジョウ→意枠籍条
 家康が
 畿内を・・・・・・・・・・記(紀)名意
 離れた隙をついて
 五奉行
 石田三成らが
 毛利輝元を総大将として家康に対して挙兵したため、小山まで北上していた家康は西へ向かうが、この翌月、家康は政宗に対して
 岩出山転封時に没収されこの時点では
 上杉領となっていた
 旧領
 六郡
 四十九万石の
 領土の
 自力回復を許す旨の書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館・蔵)を送っている。これは政宗が南部利直領の和賀・稗貫・閉伊への侵攻許可を得るため、南部氏が西軍に通じているとしきりに家康に訴えていたことから、お墨付きを与えることで政宗が対上杉戦に集中するよう仕向けたものであった。

 同年九月、関ヶ原の戦い
 西軍の上杉家
 重臣
 直江兼続率いる軍が・・・・自記項眷族(眷属・懸続)
 東軍の最上氏の
 居城
 山形城を攻撃する・・・・・纂系条
 (長谷堂城の戦い)・・・・葉施同条
 東軍に属した政宗は、
 最上氏からの
 救援要請を受けて
 叔父・伊達政景率いる3,000の兵を派遣し、
 九月二十五日には
 茂庭綱元が・・・・・・・・摸定考言
 上杉領の
 刈田郡・・・・・・・・・・外伝具務
 湯原城を・・・・・・・・・桃源条→桃生→造船場
 攻略
 関ヶ原の戦いが徳川方の勝利
 直江兼続もまた
 最上義光に敗れて米沢に逃げ帰ると、政宗は自ら兵を率いて
 伊達・
 信夫郡・・・・・・・・・・新譜・新付・新府・神父
 奪還のため
 国見峠を・・・・・・・・・語句問う解→峠=山(纂)+上+下
 越えて南進し、
 十月六日に
 福島城主・・・・・・・・・複等条取
 本庄繁長の・・・・・・・・本状・本条
 軍勢と衝突
 宮代表の野戦では
 威力偵察に出た
 大宝寺義勝・・・・・・・・多意方字偽称(偽証)
 (繁長の子)率いる・・・・半町・班長・班超→版帳
 上杉軍を破ったものの、
 つづく
 福島城包囲戦では
 繁長の堅い守りに
 阻まれて攻城に失敗
 翌日、
 北目城へと撤退した・・・・補句条、綴多意(他意)

 この後、翌年春頃まで幾度か福島城攻略のために出兵したが、結局は緒戦の失敗を取り戻せず、
 旧領六郡のうち・・・・・・給料
 奪還出来たのは
 陸奥国
 刈田郡二万石のみであった。・・外伝具務似萬語句
 加えて、政宗
 南部領内で発生した
 和賀忠親による一揆を煽動し、
 白石宗直らに命じて・・・・・・葉句施記総捗
 忠親を支援するため南部領に
 4,000の兵を
 侵攻させていたことが
 発覚した
 (岩崎一揆)。
 この一件は最終的には
 不問に付されたものの、政宗が希望した恩賞の追加はことごとく却下され、領地は六十万石となった(後に近江国常陸国に小領土の飛び地二万石の加増で六十二万石となる)。

 仙台開府と
 慶長遣欧使節

 伊達政宗から
 ローマ教皇に宛てられた
 書簡
 慶長六年(1601年)
 仙台城仙台城下町の建設を始め、居城を移す
 伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生
 石高
 六十二万石は
 加賀・前田氏、
 薩摩・島津氏に次ぐ
 全国
 第三位
 徳川幕府からは
 松平の
 名字を与えられ
 「松平−陸奥守」を称した

 政宗
 仙台藩
 エスパーニャ(西班牙)との
 通商(太平洋貿易)を企図・・・通称・通証、記図(渡)

 慶長十八年(1613年)、
 仙台領内において、
 エスパーニャ国王
 フェリペ3世の
 使節
 セバスティアン・ビスカイノの協力によって
 ガレオン船
 サン・フアン・バウティスタ号を
 建造・・・・・・建(たける)造(つくる)→兼三→懸纂
 政宗
 家康の承認を得ると、
 ルイス・ソテロを
 外交使節に任命
 家臣
 支倉常長ら・・・・・・思想・詩想・詞総・史双
 一行・・・・・・・・・壱行
 180余人を・・・・・壱百八拾輿訊
 ヌエバ
 エスパーニャ
 (メキシコ)、・・・・墨西哥
 エスパーニャ、および
 ローマへ派遣した・・・羅馬、葉懸(兼)
 (慶長遣欧使節)・・・傾聴・計帳、県央施設(詞説・史説)

 慶長十九年(1614年)
 大坂の役(冬の陣)では
 大和口方面軍として・・倭句知法目務具務
 布陣・・・・・・・・・付字務
 和議成立後、・・・・・倭欺・話戯
 伊達軍は
 外堀埋め立て・・・・・ガイクツ→賀意句通、眞意、立
 工事の任にあたる・・・公示・考字
 その年の
 十二月、・・・・・・・壱拾弐・壱拾似
 将軍
 秀忠より・・・・・・・集中・集注
 伊予・・・・・・・・・意予・意与・意夜・意輿・以余
 宇和郡
 領地を賜る。
 翌年、
 慶長二十年(1615年)・・計帳・傾聴、二(似・爾)重念
 大坂の役(夏の陣)
 道明寺の戦いでは・・・・同名字
 後藤基次らと戦った。・・語等記事(記字)
 基次は伊達家家中
 片倉重長の攻撃を・・・・変相・変奏・変装・返送の拾町、重帳
 受けて負傷し自刃・・・・字訊
 道明寺口の・・・・・・・同名字句地(知)
 要衝・・・・・・・・・・要証
 小松山に布陣をする
 後藤隊を壊滅させた
 大和方面軍は
 誉田村に・・・・・・・・本伝撰
 兵を進めるが、・・・・・評
 伊達隊は
 真田信繁(幸村)の・・・審伝審判(新版)
 反撃を受けて後退
 これに対し
 先鋒大将の
 水野勝成
 政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれを悉く拒否し、最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。このため信繁は悠々と大坂城に引き返し
 「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」
 (「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として居ない」) と嘲笑したという。

 誉田村での戦闘中に政宗勢は
 水野家家中三人を
 味方討ちにし、
 水野家の馬を奪っているが、
 勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して
 馬を奪い返した。しかし、これに政宗が異議を唱えることはなかった
 翌五月七日の
 天王寺の戦い
 政宗
 船場口に進軍し
 明石全登隊と交戦していた
 水野勝成勢の
 神保相茂隊
 約300人を
 味方討ちにしたという(6日の道明寺の戦いで発生したとする説もある)。
 神保隊は全滅し、
 相茂自身も討ち死にして
 遺臣が
 水野勝成らを通じて
 政宗に抗議するが、
 政宗は開き直り
 「神保隊が・・・・・・神を保つ他意(多意)
  明石隊によって・・・名籍の他意(多異)
  総崩れに・・・・・・双方例似
  なったため、これに
  自軍が・・・・・・・字群
  巻き込まれるのを・・巻き混む
  防ぐため
  仕方なく処分した。
  伊達の軍法には
  敵味方の区別はない」と
 主張したとある
 (『薩藩旧記』巻六)

 戦後の論功行賞で・・・・論考(論稿)、公証(考証・口承)
 伊予国の内で
 十万石が政宗の庶長子である
 伊達秀宗に与えられた・・周桑・秋霜・修装・州装
 (宇和島藩)・・・・・・得話史眞(字眞)版

 国宝の
 大崎八幡宮
 瑞巌寺
 鹽竈神社
 陸奥
 国分寺・・・・・・語句訳字
 薬師堂などの・・・訳詞同・約史同
 建造物を残した

 寛永9年(1632年)より
 仙台米が江戸に輸出され、
 最盛期には
 「今江戸三分一は奥州米なり」と
 『煙霞綺談』に記述

 二代将軍
 徳川秀忠
 三代徳川家光の頃まで仕えた。
 寛永十二年に
 家光が
 参勤交代制を・・・・纂禁交替
 発布し、
 「今後は諸大名を家臣として遇す」
 と述べると、政宗はいち早く進み出て
 「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」
 と申し出たため、誰も反対できなくなった。
 家光は
 下城する政宗
 護身用に・・・・・・誤審・誤信・誤診・語新
 十挺の・・・・・・・拾帳・壱拾調
 火縄銃を与えた・・・比名話拾

 寛永十一年(1634年)
 食事不振や嚥下、体調不良

 寛永十三年(1636年)4月18日
 母義姫を弔う
 保春院の落慶式を終えた後、
 政宗は経ヶ峰に杖を立て、
 「死後はここに埋葬せよ」・・・詞語、個々似、眞異相
 後の瑞鳳殿である・・・・・・・語の図、違法伝

 五月二十四日
 卯の刻(午前六時)死去。
 享年七十(満六十八歳没)
 死因は
 癌性腹膜炎
 あるいは
 食道癌(食道噴門癌)と
 推定されている
 遺体は
 束帯姿で木棺に納められ、
 防腐処置のため
 水銀、石灰、塩を詰めた上で
 駕籠に載せられ、
 生前そのままの大名行列により
 六月三日に仙台へ戻った
 殉死者は
 家臣十五名
 陪臣五名
 将軍家は、
 江戸で七日、
 京都で三日
 人々に
 服喪するよう命令
 御三家以外で異例のこと

 辞世の句
 「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」

 法名
 貞山公

遺訓
 一、仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。

 一、気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。

 一、朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。

 一、今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。
 独眼竜は、元々唐の
 李克用のあだ名
 江戸時代の頼山陽漢詩によって政宗にあてられるようになった
 右目を失った原因は天然痘
 政宗
 隻眼の行者・満海上人の生まれ変わり

 秀吉は政宗にこう言った。
 「汝が予を裏切ろうとしておることを予は熟知している。よって汝は殺されてしかるべきだ。だが汝は名護屋に赴き、朝鮮に渡り、よく尽くしたゆえ、生命を助けてやることにした。ただし汝を奥州には帰らせず、予の近くに留め置くであろう」(フロイス日本史)
 家光個人が政宗に向けた処遇は、明らかに外様を遇する程度を超えていた。将軍の前での脇差帯刀を許されていたが、側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると、中身は木刀であったという。

 政宗は幕府転覆を図るために、支倉常長を使者としてローマに派遣した(慶長遣欧使節)。このときのことを示す有力な史料もある。
 支倉常長
 ローマとの軍事同盟交渉のとき、
 国王
 フェリペ三世に対して、
 「政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり。けだし日本においては、継承の権は一に武力によりて得るものなり」と発言
 仙台藩の庇護を受けていた
 宣教師の
 ジェロニモ・デ・アンジェリスも、
 次のような手紙を本国に送っている。
 テンカドノ(家康)は政宗がスペイン国王に遣わした使節のことを知っており、政宗はテンカに対して謀反を起こす気であると考えていた。彼ら(家康・秀忠父子)は政宗がテンカに対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使(支倉常長)を派遣したと考えた。

 支倉常長ローマ教皇にも謁見した。
 この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、
 今でもスペインの
 コリア・デル・リオ
 には現地に留まった
 仙台藩士の末裔が
 多数存在する。
 彼らは「日本」を意味する
 「ハポン」を
 姓として名乗っている。

 家康晩年の
 1616年(元和二年)一月二十三日の
 イギリス商館長
 リチャード・コックスの日記では、
 「風評によれば、戦争は今や皇帝(家康)とその子カルサ様(松平上総介忠輝)との間で起こらんとし、義父政宗殿は、カルサ殿の後援をなすべし云々」
 と記されている。

 晩年の政宗は、『酔余口号』という漢詩を残している。
 「馬上少年過、世平白髪多、残躯天所赦、不楽是如何」
 というものであり、前半の三句は「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。天に与えられた余生が残ってはいるが」と解釈できるものの、最後の句は
 「楽しまずんば是いかん(これを楽しまずしてどうしようか)」
 あるいは
 「楽しまず是如何に(楽しいとは思えないのはどうしたことか)」
 と全く違う2通りの解釈ができてしまう。
 政宗自身がどちらともとれるように作った可能性もあるが、政宗の残した大きな謎となっている。

 仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていた。逆に言えば生前は死の前まで天下を取る野心を捨てていなかったといわれる。