1001日目・・・十二月・・・そろそろ、「カイセン記念日」・・・「真珠湾」、そして「忠臣蔵の討ち入り」・・・本日木曜日は「薄桜(櫻)記」・・・「丹下テンゼン」って姓は「丹下」、名は「左善」のコトなのかな?・・・この寒くて暴風が荒れ狂っているのに「センキョの季節」とは・・・北の坊ちゃんも「ロケット」を飛ばすと云っている・・・「尖閣諸島」でウロウロしている「日本領海侵犯」の「大陸中国の艦船」を直撃するんじゃないのか・・・ボクが過去、七年前(2006年七月二十六日)に書き込んだ「100日目」の「文字霊日記」・

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以下の「ポツダム宣言」を - naieの文字霊日記
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 ・・・愚かだね、「萬(よろず)」は「愚痴」の「」に「サ(丱・廾)」が合わさった「カンジ」だけれど、「太安侶」はナニをイイたかったのカネ・・・?
 和金同ゴネン・・・712年( 和銅五年正月二十八日)
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 大抵所記者
 自
 天地
 開闢始
 以訖于
 小治田・・・尾張
 御世
 故
 天・・・・・テン・あま(亜眞)
 御・・・・・ゴ・ギョ・おん(音)
 中・・・・・チュウ・なか・あてる(当)
 主・・・・・シュ・ぬし・あるじ(有字)
 神・・・・・カン・ゴウ・かみ・みわ(三輪)
 以下
 日子・・・・肥後
 波限・・・・名見加戯(宜伎欺疑偽)
 建・・・・・立建、兼、立憲、建懸、立件
 鵜草葺・・・ウソウフキ→付記(葺・萱・蚊帳・蚊帳)
 不合尊・・・附合(符合・富豪・符号・負号=マイナス)
 以前
 爲
 上卷
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 神
 倭・・・・・ワ・ゥェイ・やまと(邪魔徒)
 伊波・・・・イワ・イバ・いは(岩・磐・違和)
 禮・・・・・レイ・次第=やりかた(遣理方)
 毘・・・・・ビ・へそ(経素)
 古・・・・・コ・いにしえ(意似詞重)→異西重
 天皇
 以下
 品陀・・・・ヒンダ・ホンダ(本拿)
 御世・・・・ギョセ・みよ・おんよ(音与)
 以前
 爲
 中卷
ーー
 大雀・・・タイジャク
   ・・・おほすずめ(大須頭目
   ・・・おほささぎ(於保作詐欺・詐偽)
 皇帝・・・コウテイ・のうみかど(能生三門→三文)
 以下
 小治田・・ショウチデン(証知伝)・おわりだ(尾張拿)
      しょうじてん(小事典・証辞典、字典、時点)
 大宮
 以前
 爲
 下卷
ーー
 并録
 三卷
 謹・・・・キン・つつしんで(通通信出)
 以・・・・イ・もって(摸通丁)
 獻上
 臣
 安萬侶
 誠惶
 誠
 恐
 頓首・・・遁取
 頓首・・・團首→団の首領
ーー
 和銅・・・話同
 五年・・・語撚
 正月・・・証解通
 二十八日・弐拾八比→似るを拾う(重なる)葉の比べ
 正五位上・証語彙帖
 勲・・・・訓→勲(いさお・いさを・てがら)
 五・・・・後・語・誤・互・悟・呉・冴(さえる)
  ・・・・醐→後醍醐→五体語・護対語・御隊伍
 等・・・・ラ・ひとしい
 太・・・・タイ・ふとい
 朝・・・・チョウ・あさ
 臣・・・・シン・ジン・おみ・おん・たか・みはる
  ・・・・第六位の姓
 安萬侶
ーー
  ↑
 古事記序文
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 一番古い写本は
 真福寺の僧
 賢瑜(ケンユ)が
 応安四年(1371)〜
 応安五年(1372)に
 写したと
 推測されている
 三巻揃いの
 現存最古のモノ
 尾張藩士で
 本居宣長
 門人
 稲葉通邦(イナバ・ ミチクニ)による発見

 賢瑜の
 年令から、
 上、中
 両巻は
 応安四年(1371)、
 下巻は
 応安五年(1372)の
 書写と見られているらしい
 中巻には
 卜部兼文の
 附箋
 四葉
 および
 兼文の
 註と
 頭書
 中巻は
 鴨院
 文庫本の
 系統で
 上、下両巻と
 系統を異にする
 「古事記」の
 古写本として最古
ーー 
 賢瑜(ケンユ)
 1333〜1382
 南北朝時代の僧
 正慶(しょうきょう)二年=持明院統北朝
 元弘(げんこう)三年=大覚寺統南朝
 この時期、時節は天皇家南北朝に分裂し
 二つの年号が使用されていた
ーー
 1332年〜1333年5月25日
 元徳三年八月九日
 (ユリウス暦1331年9月1日)
 後醍醐天皇
 「元徳」から「元弘」へと改元
 大覚寺統南朝)=後醍醐天皇
 元弘(げんこう)三年
ーー
 正慶(しょうきょう、しょうけい)年号
 持明院統北朝)=光厳天皇(幕府方)
ーー
 正慶二年=元弘三年(1333年)
 後醍醐天皇が還幸して鎌倉幕府は滅亡
 五月二十五日
 (1333年7月7日)に
 光厳天皇は退位
 正慶の元号は廃止
ーー
 翌年の
 元弘四年一月二十九日
 (1334年3月5日)に
 建武
 改元
ーー
 後醍醐天皇は、
 光厳天皇
 即位と
 「正慶」の
 元号
 無効を
 宣言
ーーー
 信瑜
 真言宗
 尾張(愛知県)
 宝生院(真福寺)
 二世
 開山(かいさん)の
 能信(のうしん)の
 志をつぎ
 古典や伊勢神道関係の
 書籍を書写、収集
 これらは
 真福寺文庫
 (大須文庫)とよばれる。
 国宝の
 真福寺
 「古事記」は
 弟子の
 賢瑜に
 書写させ
 信瑜が校訂

 永徳二=弘和(こうわ)二年
 (1382年)
 八月七日死去
 五十歳
ーー
 永徳元年−北朝(辛酉)1381/1/26
 弘和元年−南朝

 永徳二年−北朝(壬戌)1382/1/15
ーー
 他の転写、書き写された「古事記
 神龍
 梵舜(しんりゅういん ぼんしゅん)
 天文二十二年(1553年)〜
 寛永九年十一月十八日(1632年12月29日)は、
 戦国時代から江戸時代初期にかけての神道
 吉田兼右の子で吉田兼見の弟。
 別名を
 龍玄。
 豊国廟の
 社僧
 『梵舜日記』を記述
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 以下の記述も参照原文は「ウイッキペデア」です・・・

 「偽書」ではないけれど「欺書・擬書・疑書・伎書・戯書」で「宜(宣=宀+亘に類字で耳に耳栓、)書・苴(うまごやし・ソ・ショ)書・贋書」、「詮衡(センコウ)・詮索・詮義・詮議・詮証」の「書籍・本」である・・・

 「苴蓿(モクシュク)は牧草、水苴(スイモク)は水草」・・・
 「宣言(センゲン)」、「宣告」、「宣明・宣伝・宣誓・宣託」、「宣下」、「宣化(センカ)」、「宣戦布告」、「宣示(センジ)・宣旨(センジ)」、「千字」の「仙台」である・・・
 「便宜(ベンギ)」、「土宜(ドギ)=各土地の特産物」、「禰宜(ネギ→音伎)」、
 「本居宣長」・・・「本に居る宣の長」は薬の「宣伝」よりも「古事記伝」の「便宜」の漢字に
 「宀+且(シャ・ショ・かつ)→うかつ→迂闊」だったカモ・・・
 「且」・・・
 「且月(カツゲツ)=六月」、
 「且字(カツジ)=仮の字・正字の対字
 「且」は漢文の「再読文字」、
 ・・・「宜(よろ)しく・・・べし」・・・「宜(よろ)しく長ずるところを取るべし」・・・
 「ジ(事・時・辞)+ギ(宜)」、
 「機宜(キギ)」、
 「春宜(シュンギ)」
 ・・・「宜(よろ・ギ)しく宣(のべる・セン)するところを見るべし、調べるべし、悟るべし」である・・・
 「現存・古事記」には、偽書の疑いを抱いていたらしい人物は
 賀茂真淵宣長宛書翰)・・・ガモシンエン
 沼田順義・・・・・・・・ショウデンジュンギ
 中沢見明・・・・・・・・チュウタクケンメイ
 筏勲・・・・・・・・・・センドウ
 松本雅明・・・・・・・・ショウホンガメイ
 大和岩雄・・・・・・・・ダイワガンユウ
 大島隼人・・・・・・・・ダイトウジュンジン

 序文が偽書
 序文も本文も偽書

 「岡田英弘(コウデンエイコウ)」は・・・「本居宣長」に改作された、としているらしい・・・
 「上代特殊仮名遣」のなかで、
 「万葉集」、「日本書紀」では
 消失している「二種類のモ」の
 表記上の区別が、「古事記」に残存
 序文には「上代・特殊・仮名遣」は使用されていない
 それより、もッ・・・「モ」の全ての漢字を調べろ、である・・・

 序文偽書説の論拠
 「古事記」以外の
 史書
 『続日本紀
 『弘仁私記
 『日本紀−竟宴−和歌』
 では
 「太安麻呂」と記録
 「古事記・序文」は
 「太安萬侶」と表記
 1979年(昭和五十四年)一月
 奈良市此瀬(このせ)町で
 「太安万侶」の
 墓誌銘が出土
 左京
 四條
 四坊
 従四位下
 勲五等
 太
 朝臣
 安萬侶
 以
 癸亥
 年七月六日
 卒
 之
 養老
 七年
 十二月
 十五日
 乙巳

 と記録
 漢字表記の
 異同という
 論拠に関しては
 否定されるコトとなった・・・?
 ィヤァ〜・・・手が込んでいる・・・怪しい、と言うもんだ・・・

 平城京跡から
 出土した、
 太安万侶
 墓誌銘を
 含む
 木簡の
 解析により、古事記成立当時には、すでに古事記で使用される書き言葉は一般的に使用されていたと判明
 それにより序文中の
 「然れども、上古の時、言意(ことばこころ・ゲンイ)並びに朴(すなほ・ボク)にして、
 文を
 敷き
 句を
 構ふること、
 字におきて
 すなはち
 難し」
 は
 「序文の作成者」が
 「当時の日本語」の
 「使用状況を知らず」に
 「想像」で書いたのではないか・・・と指摘されているらしい・・・「らしい」は推測の言葉だからナ、ッ・・・断定の「ダ・デアル」ではないのさ・・・
 ・・・宜しく漢字を調べるべし・・・