996日目・・鳥になって天空からから地上を観たい・・・鳥瞰(チョウカン)=鳥+瞰(目+一+ノ+耳+ノ一+乂)→鳥の目に敢えて、強いてなる。俯瞰(フカン)=俯(イ+广+イ+寸)→イの广(まだれ・いえ=崖の上の家、砦、見張り場・ゲン)、眞(マ)に拿(ダ)わせた例(レ)に目を敢えて、強いて付ける)・・・「ノ+一=ノ一」だが「ケ(け)・竹(チク・たけ)・矢(や)・失(シツ・うしなう)尓(弥=彌・ヤ・み)・牛(ギュウ・ゴ・うし)・午(ゴ・うま)・毎(マイ・バイ・ごと)・乞(キツ・コチ・キ・ケ・こい・もとめる・こう

 地上から天空の星を見上げたのは「高橋 景保(たかはし かげやす・コウキョウケイホ)」だった・・・天文観察・・・
 天明五年(1785年)〜文政十二年二月十六日(1829年3月20日)・江戸時代後期の天文学者・通称=作左衛門・天文学者の「高橋至時」の「長男」・大坂で誕生・渋川景佑の兄・・・そして、伊能忠敬とともに大日本地図を作った・・・その「地図の由縁を文字にした」のが「現存・古事記」で、幕末、明治の「勤皇攘夷の志士の経歴・履歴・業績・行跡・名籍・羅列」を「重ねた」のである・・・?・・・その原点は・・・
 「高橋 景保(たかはし かげやす・コウキョウケイホ)」だった・・・
 天明年(1785年)〜文政十二年二月十六日(1829年3月20日)・江戸時代後期の天文学者・通称=作左衛門・天文学者の「高橋至時」の「長男」・大坂で誕生・渋川景佑の兄・・・そして、伊能忠敬とともに大日本地図を作った・・・その「地図の由縁を文字にした」のが「現存・古事記」で、幕末、明治の「勤皇攘夷の志士の経歴・履歴・業績・行跡・名籍・羅列」を「重ねた」のである・・・?・・・その原点は・・・
 「 高橋・景保(たかはし かげやす・コウキョウケイホ)」
 文化元年(1804年)・江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事

 文化七年(1810年)、
 「新訂万国全図」を制作
 「銅版画制作=亜欧堂田善
 「伊能忠敬」の
 「全国測量事業を監督」
 「忠敬」の没後、
 彼の実測をもとに
 『大日本沿海輿地全図』を完成

 文化八年(1811年)
 蛮書和解御用の主管
 「厚生新編」を訳出業務
 文化十一年(1814年)
 書物奉行兼天文方筆頭に就任
 文政十一年(1828年)
 シーボルト事件に関与、投獄
 翌
 文政十二年(1829年)二月十六日
 獄死・享年四十五
 獄死後、
 遺体は
 塩漬け
 保存
 後日改めて引き出され
 罪状申し渡しの上
 斬首刑=斬罪 
 墓は上野の源空
 高橋至時伊能忠敬高橋景保
 大日本沿海輿地全図
 三人頭の墓地が並ぶ
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 参考原文
   ↓
高橋景保 - Wikipedia
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 亜欧堂 田善(あおうどう でんぜん)
 寛延元年(1748年)〜
 文政五年五月七日(1822年6月25日)
 江戸時代後期の
 洋風画家
 銅版画家
 生れは
 陸奥国
 須賀川(現在の福島県須賀川市)
 本名
 永田善吉
 略して
 田善
 可大ともいった。
 亜欧堂田善は号
 「AEUDOO DENZENTO」と落款
 (あえうどお でんぜんと)
   ↓
  亜重得同  伝全途
 別号
 亜欧陳人
 (あおうちんじん)
   ↓
 吾応沈(鎮)人

 農具商を営む富豪
 永田惣四郎の次男
 八歳の時父死亡
 紺屋だった兄・丈吉の仕事を長い間手伝う
 田善は家業のかたわら兄から絵を習い
 宝暦十二年(1762年)
 十五歳の時、
 描いた絵馬
 「源頼義水請之図」を
 地元の
 古寺山(こでらさん)
 白山寺に奉納
 安永元年(1772年)
 伊勢参りに行った際
 伊勢国
 宇治山田
 寂照寺の
 画僧
 月僊(げっせん)に画を学び、以後、
 田善と号す

 少年時代
 田善はを焼く窯から昇る煙
 家業も手伝わずに
 毎日毎日
 弁当持参で夜遅くまで眺め続け
 近所から狂人扱いされた
 須賀川は江戸中期から
 製瓦業の土地
 銅版画や肉筆洋風画に動的な煙を描き入れた
 松平定信
 「雲煙が原画と甚だしく相違しているのはどういうわけか」と質問され、
 田善は
 直様「原画を模写するのは難しくなかったけれども、実際の雲煙を試みました」と答えた
 田善が煙に特別な関心を寄せていたのは
 間違いない

 銅版画習得
 寛政三年(1791年)兄が死亡
 兄の息子が一時継ぐものの別に一家を持ったため、田善が染物業を継ぐ
 寛政六年(1794年)
 白河藩藩主
 松平定信に取り立てられ扶持を賜り
 四年間、長崎にて銅版画の研究に努めた
 『永田由緒書』や
 『退閑雑記』(後篇巻一)では、
 定信が領地巡回のおり
 須賀川に昼食ため立ち寄った居室に、
 田善が描いた
 「江戸芝愛宕山図屏風」に
 目を止めて呼び寄せ、その命により、
 当時定信に随行
 白河にいた
 谷文晁に洋風画を学び、
 帯刀も許された
 「亜欧堂」の堂号は
 定信から
 アジアとヨーロッパに
 亘るという意味で授けられた号
 寛政八年(1796年)
 白河城下に屋敷を賜って移り住んむ
 銅版画を制作するにあたり、
 銅版の上に
 線条以外の
 腐蝕を防ぐため、
 グランドといわれる下地を作るのであるが、このグランドに
 田善は
 を使用
 銅板式の木版画
 「比翼塚の図」を残している
 独自の銅版画を描き、
 その師については
 司馬江漢とも、
 定信に仕える
 蘭学者とも、
 長崎の
 オランダ人に学んだともいわれている
 江漢は、性格が鈍重で飲み込みが遅いとして田善を
 破門したが、後に田善の方が銅版画の技術は上だと評価し、退けたことを後悔した

 文化十三年(1816年)定信の子
 松平定永が
 桑名に移封
 御用絵師を辞し
 町絵師に戻る
 銅版画制作を続けようとしたようだが、
 エッチングに必要な
 銅版や
 硝酸が以前ほど手に入らないため、
 所有の銅版を地元の商人に譲り、これで
 扇面や
 絹布、
 ふくさ
 などに刷って土産物として売りだした。
 田善自身の制作は
 次第に日本画に移っていき、
 洋風画を加味しつつも
 月遷の様式が強い絵を地元民のために描いた
 文政五年(1822年)
 七十五歳で没
 須賀川北町の寺格の高い禅寺、
 長禄寺に葬られた
 法名
 一翁如且居士
 現在、田善の作品は
 油彩画15点、
 銅版画90点近く確認
 弟子に
 遠藤香村、
 遠藤田一(曙山田一)、
 安田田騏、
 新井令恭など
 その洋風表現は、
 葛飾北斎
 歌川国芳らの
 浮世絵にも影響を与えた。
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 以下参考原文
   ↓
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亜欧堂田善 - Wikipedia

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 月僊(げっせん)
 寛保元年(1741年)〜
 文化六年一月十二日(1809年2月25日)
 俗姓
 家氏
 名
 玄瑞・元瑞 字
 玉成

 尾張国名古屋
 味噌商の家に生まれ
 七歳で得度、
 玄瑞
 名を与えられて浄土宗の僧となる
 十代で江戸
 芝増上寺に入り、
 「定月大僧正月俸」の号を賜った
 雲谷派に連なり
 「雪舟十二代画裔」と自称した
 桜井雪館に画を学ぶ。
 その後上洛して
 知恩院に住し、
 円山応挙に師事して
 写実的画風の感化
 与謝蕪村の影響も受け、さらに諸派に学んで独自の画風を確立
 山水・人物を得意
 誰に乞われても必ず画料を取るところから
 「乞食月僊」と
 世に知られた
 知恩院貫主に懇願されて、
 1774年(安永三年)
 伊勢国宇治山田(現在・三重県伊勢市)の
 寂照寺を再興するために入山
 画名が高まり画を請う者が絶えず、巨万の富を積みさらに銭をむさぼること甚だしいため、譏る人も多かった。
 後に寺の
 伽藍・山門を
 建て、経典を購入して倉におさめ、
 山道の改修・
 天明飢饉の施米・
 宮川架橋・
 文化年間の
 伊勢大火罹災者の救済などに尽くす
 死に臨んで遺言し、窮身永代救済に千五百両を奉行所へ寄託
 京都妙法院
 愛知県岡崎市
 昌光律寺
 寂照寺
 三重県立美術館などに作品が残されている
 門下に
 立原杏所
 亜欧堂田善
 村松以弘

 「列仙図賛」
 「耕織図」
 「月僊画譜」などの作品がある
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 参考原文
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月僊 - Wikipedia