978日目・・・TV番組は「世界遺産の京都」・・・そうですか、「葵祭(あおいまつり)」は「合おうマツリ」とか・・・以前に「色→鈍色(にびいろ、にぶいろ)=濃い灰色=鼠色→子色→音色」に拘って「新羅」に関連させ「白馬=青馬」のコトを書いたことがあるが・・・「音に色」があるとは、日本人の発想かな?・・・「tone color」とは「音質」とも・・・他の英訳の「timbre」は「タンバ 」と聴こえる・・・ナルホド、「但馬」である。

 「但」は

 「タン・ただ=唯(ゆい)・只(ただ)・徒(もっぱら)・但(ただし)・常(つねに)」で
 「 ordinary・ common・ usual・esp・ free of charge 」、
 「but・ however・ nevertheless」・・・

 ただし・・・である・・・以下は「丹波山にはたぬきがおってさ♪ (1/2) - その他(カルチャー) - 教えて!goo」から勝手に抜粋参考にしたモノです・・・コトワリモなく御免なさい・・・「ウイッキペデア百科事典」には・・・あんたがたどこさのような「問答歌」は幕末から明治時代初期に生まれた手鞠歌の形式・・・と、あった。
  ↓

手鞠歌

  ↓
ーーーーー
 ・・・「熊本の肥後で丹波山ではなく仙波山(肥後てまり唄・あんたがたどこさ )」・・・慶長六年(1601)にできた「長六橋」が存在する「熊本県」・・・
 ・・・私は東京の多摩地方に住んでいるのですが,同じ多摩地方出身の妻も「丹波」で覚えていました。おそらく丹波山が近くにあり,勝手にアレンジしていたのかもしれませんね・・・
ーーーーー
 あんたがたどこさ 肥後さ
 肥後どこさ 熊本さ
 熊本どこさ せんばさ
 せんば山にはタヌキがおってさ
 それを猟師が鉄砲で撃ってさ
 煮てさ 焼いてさ 食ってさ
 それを木の葉でちょいと隠せ
ーーーーー
 あんたがたどこさ
 肥後さ
 肥後どこさ 熊本さ
 熊本どこさ せんばさ
 せんば山には 狸がおってさ
 それを猟師が 鉄砲で撃ってさ
 煮てさ 焼いてさ 食ってさ
 それを 木の葉で ちょいと隠し
ーーーーー
  あんたがた どこさ 肥後さ
  肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場
  船場川には エビさがおってさ
  それを漁師が 網さでとってさ
  煮てさ 食ってさ うまさが さっさ

  あんたがた どこさ 肥後さ
  肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場
  船場山には 狸がおってさ
  それを猟師が 鉄砲で打ってさ
  煮てさ 食ってさ うまさが さっさ
ーーーーー
 「タンバ山にはタヌキがおってさサ、タンバ何処さ、クマモトさ」・・・「仙波山」→「潜(選・撰・専・船・戦・千・箋)+(言)葉+纂」集であるカナ・・・「古事記日本書紀」・・・他(多・太・碓・対・体)怒(奴)記(紀・葵・企・伎)・・・エビ(蝦・蝦夷・海老)がイテモ、タイ(鯛)がいない「尖閣列島(?)」・・・

 穿(セン・うがつ)って考えても付記合わずである・・・
 天津日高彦波瀲武−−鵜草葦不合尊
          −鵜草葺不合命
          −盧茲草葺不合尊
          −鵜葺草葺不合命
          −鵜草葦不合尊
 彦波瀲武     −鸕鷀草葺不合尊
 天津日高日子波限建−鵜草葺不合命
          −鵜茅草葺不合命
     ↓
 「但(イ+日+一)=礴(イ+且)馬」
     ↓
 「萱場(かやば・茅場・榧場)
     ↓
 「丹波(になみ・あかなみ)・・・
 「丹波」は「水銀化合物の波」である。
 「丹」は「硫化水銀→辰砂・顔料の名・赤色・茶色→赤・丹色・鉛丹・丹薬・仙丹→錬丹術・霊薬・中国戦国時代の燕の太子・姫丹→燕太子丹 · 丹波国丹後国の略称・西丹・南丹・口丹・中丹・北丹や、丹州(たんしゅう)、両丹(りょうたん)」、色は赤であって「白」ではない。「頬紅(ほほべに)」である。だが、化粧の「おしろい」とは「白粉の鉛白(エンパク)が使用されていた」・・・「ナマリ」である・・・「白馬=青馬→葵の馬→会おうバ→蒼き馬=蒼褪めた馬(ヨハネ黙示録第6章第8節)・B.ロープシン」であるかな・・・日本語使用の漢字文字や歴史書のコピーに拘れば「合い馬」は「司馬遷」の「史記の敷きの識の如きの色」である。馬の疾走する「蹄(ひづめ)」の擬音(ギオン)は「パカパカパカ」である・・・ボク的には「司馬遷」の「馬場」の(バ=婆・羽鷗・羽州出羽国・奥羽・芭蕉・向歯・罵倒の場)の葉掛(ハカ)の司った変遷」である・・・秦の将軍「司馬錯」の家系からは、「白起」に属して「長平の戦い」で活躍した「司馬靳」や「史記」の「司馬遷」が存在した。で、「白起(はくき・?〜紀元前257年11月)」は、中国・戦国時代末期の秦の武将。「公孫起」とも表記。秦国郿県(陝西省西郿県)出身。「昭襄王」に仕え、「趙・魏・楚」との戦に勝利し、秦の領土を拡大。「司馬懿」は「魏呉蜀三国時代」の「魏」の「曹操」に臣下した人物であった。参照は以下の頁へ

司馬懿

 で、「白起=公孫起」、「公孫氏」とは「卑弥呼」の時代、三国時代の「公孫度」が「遼東地方」半独立政権の中国北東部の「燕国の支配者」だった。「日本書記」のご先祖は「天照大御神の孫」で「天孫降臨」であった。
 「公孫度」「公孫康」「公孫恭」「公孫康の子・公孫淵=燕王」年号は「紹漢」。「公孫淵」は「238年」、「太尉・司馬懿」によって「襄平」を包囲され降伏処刑。生き延びた「公孫恭」には子がおらずに「公孫度」の子孫は滅亡。
 ・・・その後TVは「日本人」が「義足の発明」・・・
 その後は・・・「インド・ラダック」へ嫁いだ日本人女性ですか・・・これから「三銃士」の「参拾四」をみるつもりだが、NHKのスペシャル「古代中国文明の謎」も見たい・・・TVでは殷の甲骨文字に関連しては「桑」や「挙・舉」が紹介されていた・・・「白」の漢字は「白骨化した人間の頭骸骨」であるらしい。しかも「殷国家の命運を神に訊ねる占いの度」に「羌(キョウ)」と云う種族の人間が生け贄とされて殺され、首を切断された六萬体が発見されているらしい。「羌族」は「西北辺に居住した西蔵系の遊牧民・五胡の一・殷の甲骨卜文字に羌と刻まれている・殷を倒した周王朝の成立に貢献した呂尚(太公望)も同種族」であるらしい。
 「羌=羊+儿」に類似する漢字は「羗(キョン(kyon)=羊+儿+ム」である・・・「シカの類で眼下腺(がんかせん)が大きく四つ目」にみえるらしい。
 ・・・今現在は「イサン」・・・権力の地位を得た「おんな」のオソロシサと、権力の地位を失った「おんな」のシュウネン・・・
 「女真(眞)族」は「海西女直(自称はフルン)四部」と「東方の野人女直四部」が合体した族名であるらしい・・・
 ・・・「姶=女+合」・・・は

 姶=女+邑→女の国(邑)は「アマゾネス」?
 音読み
 呉音 : オウ(オフ)
 漢音 : オウ(アフ)
 訓読み
 あい・美しい・器量のよい・無音・静か
 女性の名に使用
 「女の字なり・春秋伝に曰く嬖人婤姶・一に曰く無聲なり(説文解字・巻十二)」
 ブログを調べたら「日本の地名」には
 「姶羅郡(あいらのこおり、あいらぐん)」は、古代律令制下の大隅国に存在した郡
 古代の大隅国に存在した「姶羅郡(あいら)」と混同され、明治期に「姶良」に統一された。
 古代における「姶羅郡」は現在の鹿屋市付近を指し、中世までに肝属郡編入された。このため、古代における
 「姶羅郡」と
 現代における
 「姶良郡」との直接の関連はない
 「姶羅郡(あいらのこおり、あいらぐん)」は、
 古代律令制下の大隅国に存在した郡。
 近現代の姶良郡とは別の郡である。

 和銅六年(713年)に
 日向国から
 大隅国が分立した際に存在した
 四郡のひとつ(他には肝属郡曽於郡大隅郡)であったが、
 鎌倉時代以降は姿を消した。
 正確な郡域は不明であるが、
 「和名類聚抄」に記された郷名から、
 現在の
 鹿児島県鹿屋市周辺(大隅半島中央部)に
 位置したと考えられている。
 現代の
 姶良郡は、
 桑原郡
 西部が帖佐郡として独立、
 それが
 始良郡(しら)と改称されたことを起源とし、
 古代の
 姶羅郡とは直接の関係はない。
 しかし、江戸時代に入ってから
 「始良」郡と
 かつての
 「姶羅」郡とが混同されるようになり、
 明治四年十一月十四日以降、
姶良(あいら)」表記へと
 統一されることとなった。
 いわば誤表記が正式名称となった格好だが、
 1955年発足の
 姶良町
 2010年発足の
 姶良市にも踏襲
 ・・・と、ある・・・