977日目・・・トイレの日ですか・・・日本のトイレメーカーに感謝・・・音符を観て音が聴こえるヒトって「絶対音感」なんだろうか・・・音楽を聴いて視覚的なイメージは確かに浮かぶ、情景や絵画を視て聴覚的な音が頭の中で飛び交う・・・目を瞑っても、耳を塞いでも視覚聴覚は何時も一体化している・・・

 怖ろしさと嫌悪さは「聴覚」が「視覚」よりも勝っているように思える。子供のときに「お化け映画」を観にいって怖い場面では「耳」を塞いだ。無トーキ(トーキ・talkie )の映像は全然怖くなかった。「聴覚」よりも「臭覚」の嫌悪さの方が勝っているように思える。「聴覚の残響」は短いけれど、「異臭・嫌臭、厭臭」は「頭痛」を惹き起こし、回復するのが長い。「触覚」の「傷み、痛み」は微妙である。一瞬というよりも、打撲や切り傷の「いたみ」は傷を確認したときから急激に「痛み」が始まる。指圧は「イタさ」の快も不快も同時に混在する。「悼み」も同じようである。個別的には嫌いな「アジ」も、混在して感じる「味覚」は同じように微妙である。調味料の加減によっては「旨い・不味い」は極端である。「舌」は「触覚」でもあるから「欲張り」でもある、ナッ。
 「あじ」って、「阿字観」とか「アヂ・スキタカヒコネ(アヂ・シキタカヒコネ)とかが日本神話に記録されている。
 「阿遅・鉏高日子根神
  阿遅・志貴高日子根神
  阿治・志貴高日子根神(古事記)」
 「阿遅・須枳高日子(出雲国風土記)」
 「阿遅・鋤高日子根神、味耜高彦根命
 「味 ・鋤高彦根神(土佐神社)」
 「阿知・須岐託彦根賀茂神社
    ・迦毛大御神(かものおおみかみ)」
 「味耜・高彦根神=味鋤高彦根神
 ・・・複雑な「味覚」と「視覚」である・・・幼稚(ヨウチ・ようち=岩内=いわない?北海道)なのか、稚拙(チセツ・地窃)な「和歌」なのか、「遅滞・地帯・痴態」なのか、「遅刻・治国」なのか、「天稚彦(あまわかびこ・あまちびこ・テンチガン)」に似たモノは「息子を亡くした両親」にも間違われる・・・オマケに「喪屋」を蹴飛ばした・・・「美濃(みの・ビノウ・うつくしきコサ)国・藍見(あいみ・ランケン)川上(かわかみ・センジョウ)・喪山(もやま・ソウザン)」・・・