932日目・・・大陸中国の反日デモ参加で・・・無邪気に笑っていた女の子・・・未来のローザ・ルクセンブルク・・・なるのかな・・・

 ・・・ローザ・ルクセンブルクはわれわれにとって、ドイツ労働者の先頭に立ったポーランド社会主義者であるというだけではない。そうではなく、彼ら2人は世界のプロレタリアート自身にとって、われわれ全員と精神的な堅い絆で結ばれた兄弟である。
 彼らはその最後の息をひきとるまで、
 国家にではなく
 インターナショナルに属していたのだ!
 (レオン)


ーーーーー
 ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg・ポーランド語名・ルジャ・ルクセンブルク、Róża Luksemburg 1871年3月5日〜1919年1月15日)
ーーーーー1871?
 辛 未(丁・乙・己)年生偏官
 庚 寅(己・丙・甲)月生正官・偏財傷官劫財
 |干合日辛
 乙 巳(戊・辛・丙)日生
  寅卯=空亡
ーーーーー1919
 戊 午(丙・ ・丁)年正官 生年支合月三合
 乙 丑(癸・辛・己)月比肩 生年支沖
 丁 巳(戊・庚・丙)日食神 生月支害
ーーーーー1870?
 庚 午(丙・ ・丁)比肩
    |三合丙=偏官
 戊 寅(己・丙・甲)偏印・印綬偏官偏財
 庚 子(壬・ ・癸)
  辰巳=空亡
ーーーーー1919
 戊 午(丙・ ・丁)年偏印生年刑生月三合生日沖
 乙 丑(癸・辛・己)月正財生年害生日支合
 丁 巳(戊・庚・丙)日正官生月害
   巳=空亡
ーーーーー
 以下「ウイッキペデア」より抜粋改作記事です

 ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。
 ポーランド王国社会民主党の理論家
 のちにドイツ社会民主党
 ドイツ独立社会民主党ドイツ社会民主党左派)
 機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』発刊
 革命組織スパルタクス団=ドイツ共産党創設
 1919年1月
 ベルリンでドイツ革命、1月蜂起を指導
 国防軍の残党やフライコール(義勇軍、Freicorps)に逮捕、虐殺
 ポーランド時代
 1870年もしくは1871年3月5日
 ポーランド立憲王国都市
 ルブリン近郊のザモシチに住む
 ユダヤ人の
 木材商人エリアス・ルクセンブルク3世と
 妻リーネ(旧姓レーヴェンシュタイン)の
 5番目の子供として生まれた。
 出生時名はロザリア
 履歴書には1871年生まれと記載
 ドイツの大学入学資格証書
 17歳(1870年生)と記されている
 
 1880年に一家はワルシャワへ転居
 ローザはワルシャワ第2女子ギムナジウムへ通学
 1887年にアビトゥア資格試験合格
 ギムナジウムを卒業
 1886年以降
 ポーランド左翼政党「プロレタリアート
 1889年にスイスのチューリッヒに亡命
 チューリッヒ大学哲学科入学
 哲学、歴史学政治学、経済学、数学を学ぶ
 「Staatswissenschaft(政治体制の科学)」、中世史、経済学および証券恐慌論などを研究

 1890年
 社会民主主義の規制が解除
 1893年
 ポーランド社会党国家主義的な方針に反対
 レオ・ヨギヘスやJulian Marchlewski(またの名をJulius Karski)らとともに
 「Sprawa Robotnicza(労働者の主張)」紙を発刊。
 ポーランドの独立はドイツ、オーストリアおよびロシアでの革命を通してのみ可能であると考え、闘争はポーランド独立ではなく、資本主義に対するものでなければならないと主張
 ポーランド独立に反対したのは、彼女が
 「少数民族は支配階級をもたないため反動的に機能する。少数民族は支配民族に同化するべきである」というエンゲルスのテーゼに忠実であり、カウツキーの「民族融合論」に賛同し、レーニンらの社会主義の下での民族自決権を否定した
 同1893年
 ヨギヘスとともに、ポーランド王国社会民主党(以下SDKP)を創設(のち1899年にはリトアニア社会民主主義者らの組織と連合してポーランドリトアニア王国社会民主党(en:Social Democracy of the Kingdom of Poland and Lithuania、以下SDKPiL)と名を変え、1918年に結成されるポーランド共産主義労働者党の前身組織の一つとなる)、ワルシャワで非合法に第1回党大会を開催する。ヨギヘスとともに党を指導した。
 1896年
 第二インターナショナルのロンドン大会に出席
 1897年
 学位論文「ポーランドにおける経済の発展」で博士号を取得

ドイツ移住
 1898年
 ローザはグスタフ・リューベックとの偽装結婚によってドイツ市民権を取得し、ベルリンへ転居。ドイツ社会民主労働党(後のドイツ社会民主党)に入党
 それ以前から修正主義を唱えていた主流派のエドゥアルト・ベルンシュタインが1899年に発表した論文「社会主義のための諸前提と社会民主主義の任務」に対し「社会改良か革命か」と題したパンフレットで反論
 議会制民主主義を重視する多数派や党指導部のカウツキーらと対立
 1900年以降
 『ライプツィヒ人民新聞』やSDKPiLの機関紙『赤旗』、ヨーロッパ中の新聞記事に経済・社会問題に意見を表明し「1905年のロシア第一革命」に対して歴史的意義と支持を強く表明、ゼネストの重要性を確信し党の戦術として採択するよう主張
 1904年〜1906年
 政治活動で3度投獄

 1907年ロンドンで開催されたロシア社会民主労働党の第5回党大会にはポーランド代表として出席し、レーニンと対面する。
 第二インターナショナルのシュトゥットガルト大会
 ローザとレーニンによって戦争反対決議案(反戦のために全ヨーロッパ労働者階級の結束を求めた)
 1906年
 主著の一つ『経済学入門』
 1910年
 党革命的戦術として労働者に団結を促しゼネストを組織するようSPDの方向転換を要請する論文を執筆したが掲載を拒否
 1912年2月
 SPD代表としてパリをはじめとするヨーロッパの社会党大会などへ出席
 1914年
 バルカン半島の政治的緊張
 ローザはフランクフルトほか各地でデモを組織し、良心的兵役拒否や命令への不服従を訴え、「法と秩序への不服従を煽動」したとされ懲役1年の有罪判決
 同年7月
 ブリュッセルでの国際反戦会議には参加
 1913年
 資本蓄積が国際負債や帝国主義を生むとを論じた主著『資本蓄積論』(Die Accumulation des Kapitals)を出版
 1914年
 7月28日
 オーストリア・ハンガリー帝国セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦勃発
 8月3日
 ドイツ帝国ロシア帝国に宣戦布告
 翌日、議会は戦時公債を発行し戦争に融資することを満場一致で可決。
 SPDの議員も全員がこれを支持
 ローザと同じく非戦を唱えていたジャン・ジョレスが暗殺
 
スパルタクス団結成
 左翼共産主義
 1914年8月5日
 カール・リープクネヒトローザを筆頭としカール・リープクネヒト、クララ・ツェトキン、フランツ・メーリングらを中心とした党内左派は「グルッペ・インターナツィオナーレ」 (Gruppe Internationale) を結成
 1915年4月
 機関紙『インターナツィオナーレ』を刊行
1916年1月1日
 「グルッペ・インターナツィオナーレ」はリープクネヒト宅で全国協議会を開き、当時拘禁されていたローザが獄中で起草した指針を採択し、『スパルタクス書簡』と題した非合法の冊子を発行することが決定され、メンバー共有のペンネームとして「スパルタクス」(共和制ローマで奴隷たちによる反乱を率いたトラキア出身の奴隷剣闘士の名)が用いられた。
 「グルッペ・インターナツィオナーレ」は「スパルタクス団」として知られた。ローザ自身は共和制ローマの創設者で初代執政官と伝えられるルキウス・ユニウス・ブルートゥスにちなむペンネーム「ユニウス」を用いた。

 5月1日
 メーデーのデモを煽動、闘争を展開
 7月10日
 再逮捕されてリープクネヒトとともに禁固2年半を宣告
 ポズナン(ドイツ名ポーゼン)、次いでヴロツワフ(ドイツ名ブレスラウ)の刑務所へ収容

 ローザ・ルクセンブルクロシア革命レーニン批判
 ロシア革命以前からローザはレーニンの前衛党論に反対していた(1904年にレーニンの発表した『一歩前進二歩後退』への批判に始まる。議会主義への態度をめぐって対立していたカウツキーともこの点においては一致していた)。
 批判の第一は革命後の独裁(プロレタリアート独裁)のあり方・解釈についてである。
 プロレタリア独裁とは階級の独裁であって一党一派の独裁ではないと主張
 ローザは、革命後における民主的自由を擁護する立場を取った。
 批判の第二は、運動組織原則(レーニンの前衛党論)に対してであった。革命は自然発生的でなければならない。前衛党論批判
 1917年
 獄中、レーニンを指導者とするボリシェヴィキによってソビエト政権が樹立された十月革命の報に接するや、レーニンの前衛党論を改めて論難し、実際の十月革命が自然発生的でないことや革命後の民主的自由が危ういことなどを指摘、ボリシェヴィキが新たな独裁を生むだろうと予言し獄中から警句を発した。
 具体的には、ボリシェヴィキによる憲法制定会議の解散を批判し、「搾取者」(すなわち革命政府への反対者)にも選挙権を与えるべきであること、出版・結社・集会・言論の自由を保障するべきであることを批判した。
 ローザの有名な言葉「Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden.(自由とはつねに、思想を異にする者のための自由である)」

ドイツ革命
 1917年
 アメリカが参戦
 スパルタクス団はやはり戦争反対の立場からSPDを脱退したカウツキーらによって結成された独立社会民主党(USPD)と合流
 1918年11月4日
 キール軍港における水兵の反乱およびロシア革命時のソビエトに倣った「労働者・兵士協議会(レーテ)」の結成が引き金となってドイツ革命が勃発し、
 同9日に皇帝が廃位
 同日ローザも釈放
 SPDとともに共和政の新政府を樹立(首班はエーベルト、革命後のヴァイマル共和国)

 ブレスラウの刑務所から釈放されたローザは、すでに釈放されていたリープクネヒトとともにスパルクス団を再編し、機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊した。同紙で書かれた最初の論文では、すべての政治犯に対する特赦と死刑制度の廃止を要求した。

 エーベルトは軍部と手を組んで協定により、革命で崩壊しかけた国軍の残党や国家主義者、右翼らによる反革命義勇軍(フライコール)が創設
 革命派に対する武力鎮圧が始まる

 12月29日〜翌1919年1月1日
 ローザとリープクネヒトを指導者とするドイツ共産党(KPD)が誕生
 ローザはのちにヴァイマル共和国議会となる全国憲法制定議会との関係を保っていたが、選挙に勝つことはできなかった。
 1月
 ドイツ革命
 ローザが『Die Rote Fahne(赤旗)』の巻頭論文で反乱軍に対しリベラルな新聞の編集部を占拠示唆
 各地の主要施設が武装した労働者、革命軍によって占拠
 エーベルトSPD政府はフライコールを出動させて革命軍への弾圧
 1月9日〜15日
 戦闘でスパルクス団ほかの革命軍は壊滅、レーテも解体
 1月15日
 ローザとリープクネヒトはベルリンでフライコールに逮捕、数百人の同志と同様に2人とも殺害