926日目・・・「政治の季節」・・・「ぷちぶる政治の季節」ですか・・・「プチブル意識」は「人間階級社会」のスベテの「出発点」である、カナ・・・「学問・教養・知識資格」が個々人の「生活履歴」を保障するモノではないのに・・・大陸中国、韓国、北朝鮮などの「支配階級指導者」は「他民族」にたいする敵愾心をあおり立て、国内政治支配階級に向けられた国内被支配階級の不満を、外に逸らそうとする「排外主義」である。スナワチ、「日本人は汚い、狡い、卑怯→日本人は嫌い」、そして自らの「日本国領域の領土侵害」を棚に上げて「日本帝

 だが「国家主義民族主義」は「世界的資本主義経済」に於ける「階級分裂」の現象でしかない。
 「大陸中国指導者の矛盾」は「階級制度」を糾弾することなく、「労働者・地方貧農農民・中国領土枠に組み込んだ異民族の被支配階級」の「護るべき階級的立場」を捨て、自らの生活基盤を支えている「官僚体制=特権的給料配分体制」を「国家主義民族主義」に基本的な軸足をおいているからである。「孔子(姓は孔、名は丘、字は仲尼・儒教の鼻祖)大賞」を国際的なプチブル発想の「ノーベル賞」に対抗させ、「ビル・ゲーツ」にあげましょう、とは、ネッ・・・「太公望呂尚・姓は姜、氏は呂、名は尚、または望、字は子牙、または牙。謚は太公。斉太公、姜太公)」は「渭水で釣りをしていたところを文王が太公(祖父)が待ち望んでいた人物である、として臣下とした。「釣魚台」での「太公望の魚釣り(太公釣魚)とは「下手の横(よこしま・よこ・オウ)好き」のコトである。「横好=木共田ハ女子(了一)→キのトモにツタエル、コトバはオンナのコ(ハジメとオワリ)」である・・・臣下となるまでは失業中で、女房に逃げられた人物である、なッ。ジジィになって「覆水、盆に返らず」とは財産目当ての元女房に云ったのか、体力に自信が無かった?・・・「孔子」も戦国時代、「就職活動」をしていたが、「就職難」で、不採用者だった。
 その代りに「孔子」は「弟子」たちの寄付でナンとか、カンとか生計を凌いでいた。オカズは毎日、「さかな・魚・肴」、「サカナ(佐仮名)」だったんだろう・・・
 この両者の漢字姓名、そのもののが「記紀」の鍵を握る「孔子・名は丘=阜、字は仲尼」、「太公望呂尚・姓は姜、氏は呂、名は尚、または望、字は子牙、または牙。謚は太公。斉太公、姜太公」なワケである。「六韜三略」、「海老で鯛を釣る」ってね、ッ。
 「呂氏春秋(仲冬紀・長見)という書には、同僚の周公と人材登用、人事考査の論議をし、周公が「血縁主義」を優先すべきとし、「能力主義」の太公(呂尚)は「他国との友好関係がなければ諸国から侵略、占領される」と反対した。これに対し周公は「血縁を軽んじれば家臣の反逆にあう」としたが、
 「周公の魯」は周辺諸国との外交問題でトラブリ、衰退滅亡。
 「太公望の斉」は臣下の下剋上にあって「田氏」によって滅亡した。
 なるほど、「釣魚台」って、尖閣列島」→「魚釣島・・・?
 もちろん、「大陸中国」は「立憲スターリニズム(?)党制」の「国際市場経済」にドップリとハマり込んだ「資本主義国家」である。
 世界経済市場の中で「日本資本主義」の蓄積された「資本=労働」は大陸中国に流れ込み、東南アジアに流れ込んだ。
 「資本家」は「資本=労働」の論理で国境を越えていくのである。
 資本家は「安い賃金」の「荒野をめざす」。
 労働者は「高い賃金」の「幸也をめざす」。
 そして、知識も技術も、ゆっくりと、氷河のように、時には、豪雨のように山頂から裾野へ流れて拡散していくのである。
 「日本国」の「産業空洞化」は「資本」の流動が「中国・韓国・東南アジア諸国」の「労働市場」に流れ込んでいったダケのコトである。「資本」は逆流か、放水しなければ、ダムがイズれ満杯になって崩壊、パンクするのは当然である。
 この「資本=労働」の「国際市場」は「国家主義民族主義」とは対立する関係にあるのだ・・・この「止揚」は「経済恐慌」で「御和算→後破産」となる、と云うコトである・・・
 「原発の論理」も同じである・・・
 「震災の論理」も同じである・・・
 「御和算→後破産」の後に何が来るのか?
 ・・・「経済システムの変換」である・・・出来るのか?出来ないのか?・・・「人間意識の問題」である・・・
 ・・・「世界資本主義」は電話回線の電線も整備されていない、そして電気電送の整備もされていない後進国の荒れ地、砂漠、サバンナ、ジャングルに居住する人々の所に日常生活で簡単に操作できる画像と音声セットの情報機器、「パソコン」、「携帯電話」を持ち込んだ・・・世界的な状況、現状を知る「情報」と「知識」は国境を無視して世界中の裾野に広がりつつある・・・市場を媒介にして「自由に手に入る情報」は「国家主義民族主義」と対立するのは当然である・・・