919日目・・・思い出した・・・一所懸命だった「ヤング・ナデシコ」・・・残念です・・・ドイツに負けた・・・アメリカに勝ちたかった・・・「弁証法」では「勝負の結果を分析」出来ても、勝てない・・・「互角」ではない・・・圧倒的な「技術力」と「体格」の「質」ではあったカナ・・・ドイツ女性監督の作戦もあっただろうけれど・・・相互の「質量」を結果分析できても、「止揚」は「ドイツ」にであった・・・

 場所の利を得て、人の和も得て、勝負を視る圧倒的な量のファンと選手の「精神・根性」と「技術・チームワーク」だけでは勝てないのは、当然、だけれ、でも・・・「天の時」などは当てにはしてなかったけれど・・・人間の「恋愛」もカナ・・・すべからく、「自由(?)競争社会」の「適応・淘汰」・・・この「心理・心情・感情の止揚」はどこに「昇華」されていくんだか・・・リベンジ・・・ホコリ・・・
 負けても、勝っても「美しい」とは「日本人の心情」だが、「結果」ではなく、「始まり→プロセス→終わり」までの「心的、動的なスパイラルな美しさ」・・・で、あろうかな・・・?
 ・・・思い出して・・・また、腹痛・・・
 昨日は腹痛と下痢・・・トイレに行きつ戻りつ・・・1時間以上・・・
 洋式トイレは便利だけれど、出てきたモノの確認が出来ない・・・「右巻き」か、「左巻き」かを・・・下痢じゃぁドッチデモイイか・・・

 ・・・「左巻き」は排除される・・・邪魔なモノは粛清される・・・ダレに?・・・
 ネジレ「国会」は「シヨウ(止揚・仕様・飼養・試用・使用・枝葉・私用・子葉・氏用・志要・詩謡・詞酔)」されるかのか?・・・
 「有言実行、「言語一致」とは「実践家」の「コトバ」だが、
 「階級意識の左←・・・中・・・→右の立場」が問われる「ことば」ではある。
 自分自身が存在する「職場環境、経済(生活)環境の自分」ではない。「意識の問題」である。
 「支配階級」に属していても、「被支配階級」に属しても「左中右」の「意識の問題」である・・・
 いずれにも「くそ実践=確信犯的実践」者が存在する。
 「量が質」を決める、「量は質」を兼ねると云っても、「人間社会」の「歴史的な質」は、そうは「問屋が卸さない」である。簡単にはいかないのだ。
 「問屋」とはダレか?
 「卸してもらいたい人間」とはダレか?・・・
 「階級社会の中」で「信念・確信」=「意識の質」で生きている人間はそうはいない。
 ほとんどが「心情・心理・気分・躁鬱・快・不快」=「感情の量」で生きているのである。
 ・・・「量的」な「情報携帯機器」が、「質的」な「人間社会」の「意識」と、その「実践」を変えたように見えるが、「問屋の意識」は変わらない。
 ・・・「春」が来ても「夏の季節」状況は苛酷である・・・そして、「秋」も「冬」も・・・