920日目(玖珀弐拾似知女)・・・凄いオバちゃんの出発点は、眼の前に「困っている人」がいたら、「ナンとかしてやりたい」だった・・・そして、オバちゃんは「左真紀」の更に「左巻き」、「露西亜(アラワなニシのアマネシ)」革命の「左翼社会革命党(社会革命党左派・Left Socialist-Revolutionaries)」の「マリア・アレクサンドロヴナ・スピリドーノヴァ(スピリドノワ)」になった。

 誕生
1884年・甲申(猿=己・壬・庚) 正官・傷官
   10月・甲戌(犬=辛・丁・戊) 正官・食神
       |干合土(要・庚辛)
   16日・己亥(猪=戊・乙・壬)劫財偏官正財
       空亡巳(蛇)
   立運甲戌逆旋2年
       ↓
 56歳 大運壬寅→正財・生年支沖・生日支合
 死亡
 1941年・辛巳 食神 生年合 生日害
    9月・丁酉 偏印 生月害 生年月合金
   11日・壬戌 正財 生月刑

 如何なる存在も「円運動・螺旋運動」なくしては動的に存在しえない。「甲申(キのエのサル・コウシン)=木の枝の猿」は、「コウ、申し立てる」、コウシンの同音漢字は「更新・交信・行進・後進・庚申・後身・高進・亢進・昂進」の「口唇」である。「巳」が「己亥生日」の「空亡支」とは・・・
 「ウラナイ履歴」の「五行・干支」の分析による「履歴認識」論は・・・「存在履歴」ではない・・・のだが・・・
 ・・・以下「ウイッキペデア百科事典」より、抜粋、改作・・・
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1884年10月16日
 ロシア帝国タンボフ県の貴族で
 官吏(六等官)であった
 アレクサンドル・スピリドーノフを
 父に生まれる。
 タンボフの女子中学校で学ぶが、
 15歳のときに
 小学校児童保護教会の
 会合に出席し当局に逮捕
 以後、
 社会革命党(エスエル)の
 タンボフにおける組織と関係
 タンボフ県の貴族会で
 事務職員として勤務
 1905年学生デモで逮捕
 釈放後
 正式に社会革命党に入党
 同時に同党戦闘団に入団
 タンボフ県では農民一揆発生
 翌年1月16日
 タンボフ県のボリソグレフスク駅で
 農民一揆の鎮圧の
 ガブリエル・ニコラエヴィチ・ルジェノフスキー将軍を銃撃暗殺
 「ルーシ」紙に公開状
 無期懲役
 シベリアの
 ネルチンスクに流刑
 1917年ロシア革命二月革命
 臨時政府の司法大臣(後、首相)となった
 アレクサンドル・ケレンスキーによって釈放
 刑務所爆破の容疑で
 ペトログラード
 ペトロパヴロフスク要塞に収監
 シベリアのチタでソビエト活動に参加
 停戦や
 ブルジョワ諸政党との
 連立拒否
 などを主張
 ザバイカル州を経て
 ペトログラードで活動
 第1回全露農民ソビエト大会執行委員に選出
 同年
 7月
 臨時政府に反対する兵士の武装デモを支持
 9月
 ペトログラード市議会議員に選出

 社会革命党中央委員会が
 臨時政府との連立、
 戦争継続を支持に反対
 1917年10月
 レーニンボリシェヴィキ
 十月武装蜂起、政権奪取を支持
 第2回ソビエト大会
 ソビエト政権が提出した
 「平和に関する布告」
 「土地に関する布告」に賛成
 同年
 11月
 左翼社会革命党の第1回党大会
 事実上の指導者となる
 左翼社会革命党は
 ボリシェヴィキ
 プロレタリア独裁の点で
 認識を共有
 ボリシェヴィキの暴力的、
 急進的政治戦術に反対
 左翼社会労働党は自らを
 旧農奴層を代表する政党であると規定
 党の綱領で農民に対して
 地主から
 没収した土地の
 分配を要求
 マルクス主義の原理原則から
 都市の勤労者を基礎としていた
 ボリシェヴィキとは
 見解を異にしていた
 1917年12月
 ボリシェヴィキ
 エスエル左派の
 連立政権が成立
 スピリドーノワも入閣候補となるが、
 全露農民ソビエト大会の議長であったことと
 ボリシェヴィキに対する
 懐疑から入閣を固辞
 左翼社会革命党は、
 ブレスト=リトフスク条約の
 締結と
 ボリシェヴィキの農業政策に
 反対
 1918年3月
 ソビエト政府から離脱
 同年7月
 スピリドーノワは、
 第5回ソビエト大会で
 ボリシェヴィキに対する弾劾演説
 左翼社会革命党は
 モスクワ中心部で
 反乱
 鎮圧され
 スピリドーノワ、
 左派エスエルは逮捕、拘束

 スターリン大粛清期
 左翼社会革命党員らとともに逮捕
 ウファに追放
 1937年3月8日
 左翼社会革命党の
 地下活動で
 ヴォロシーロフの
 暗殺を準備したとして
 懲役25年の判決
 ナチスドイツが
 ソ連に侵攻した直後の
 1941年9月11日
 オリョール近郊の
 メドヴェージェフスキーの森で
 NKVDにより
 オリガ・カーメネヴァ
 (レフ・トロツキーの妹で、
  レフ・カーメネフの最初の妻)
 らと共に銃殺
 56歳
 1990年と1992年に名誉回復
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 壮絶・・・スゴイ、オンナの「人生履歴」だった・・・
 これを
 「存在の弁証法
 「認識の弁証法
 として捉え返すとドウなるか・・・
 諸事件の事実諸関係の「起承転結」を「5W」のコトバの「文法」で「過去(現在)完了←分析・分解→履歴の再構築、再構成」をする、と云うことである・・・
 簡単に例えれば、撮った「ビデオ映像記録」はフイルムに写された「存在(始→経過→終)論」である。その「編集」は「巻き戻し(終→逆経過→始)」から始まって、「分析、再構成」される・・・「認識論」である。
 そして、コトバの厳密性があったとしても「認識」されたモノは、「存在」そのモノではない。もちろん、記録された「映像」も「存在」そのモノではない。