901日目・・・昨夜の大雨は突風を伴う「ドシャブリ→怒瀉降り」でした・・・庭の「花々」、「木々」、特に「茎の長い草花」は大変だったようだが「濃い橙色のユリの花」は被害もなく咲いている・・・「花々」、「木々」、「植物」の名前は知らないモノが多い、ナ、ッ。ニワにはバラが二輪咲いているけれど・・・「置維波斯徳利→置=チ・維=イ・波=ハ・斯=シ・徳=トク・利=リ」→「維(新)を置く、波は(名見・言葉)、斯(波)とは斯波(司馬・志波)で(織田家の主家)→置換の波斯はペルシャ=イラン)の詞。徳の同意異字漢字は悳で、

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Siebold/05/0500.html

 ・・・です・・・
 ・・・「同音異字漢字の変換」は、後日、カキ、クワエル予定です・・・あしからず・・・

   長崎出島で
 「鳴滝(瀧)塾」開校の
 「シーボルト(置維波斯徳利)」先生だった
 興味のある人はボクの「家頁」の

http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/kojiki55.htm

 へ、ご渡来ください・・・
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 シーボルト
 初来、滞在→
 江戸時代の
 文政6年(1823)から→
 文政12年(1829)の→
 7年間→
 時代は
 化政年間→
 江戸時代の
 文化的な→
 欄熟期→
 伊能忠敬
 上田秋成
 十返舎一九
 小林一茶
 歌川豊国
 などの文化人が活躍

 享保5年(1720)に
 8代将軍
 吉宗は
 キリスト教以外の
 オランダ書輸入解禁
 
 植物学
 本草学→
 中国の
 明時代に→
 李時珍が著した→
 『本草綱目』→
 『本草綱目』の解説
 類似する
 日本の植物との
 異同を論じた
 『本草綱目啓蒙』の著者
 小野蘭山→
 文化6年(1809)に→
 81歳で死亡→
 蘭山は日本での本草学を完成させた人物
 日本で最初の植物図鑑
 岩崎潅園の
 『本草図譜』
 宇田川榕菴
 文政5年(1822)に
 『菩多尼詞経』を著→
 お経のかたちを借りて
 植物学
 (菩多尼詞=botanica)を→
 概説
 最初の植物学の教科書

 シーボルト肖像画
 ワイマールの→
 Goetheund Schiller Museumに
 所蔵

 オランダ
 1823(文政6)年前後のヨーロッパ
 オランダは
 フランス革命とそれに続く
 ナポレオンの台頭の時代
 フランス
 イギリスに占領
 オランダ国旗が掲揚されていたのは
 長崎の出島だけ

 独立回復
 1814年に日本との貿易を
 独占していた
 オランダ領東インド統治権
 イギリスから売買の形式で譲り受けた
 日本の歴史,国土,社会制度,物産など
 総合的な自然科学的調査を行う方針が検討
 対日貿易の振興に向けての1種の対策
 同時にオランダの日本への文化的貢献
 医学と博物学の振興に力を入れる政策
 日本側の担い手
 出島の→
 オランダ商館に→
 派遣された→
 医師→

 植物情報収集
 シーボルト
 『フロラ・ヤポニカ』→
 フランス語で書いた解説
 植物の
 自生地
 分布
 生育地の状況
 栽培状況
 学名の由来
 日本名→
 その
 由来→
 利用法
 薬理→訳理・訳利・約理(新、旧約聖書
 処方→書法・諸法・諸方・諸邦・初報
 シーボルトは日本の植物を研究するに先立ち
 ケンペルと→懸(県・腱・建・繭・犬)経留
 ツュンベルクの→隼(惷・筍)部留句
 著作を参考
 シーボルト
 本草学者の
 水谷豊文
   ↓
はてなキーワードにある
「水谷豊」ではアリマセン
ーーーーー
   ↓
俳優。歌手。
1952年7月14日、
北海道
芦別市出身。
東京育ち。トライサム所属。
■代表作
傷だらけの天使(アキラ)
影同心II(留吉)
熱中時代(北野広大)
刑事貴族(本城慎太郎)
ザ・刑事(矢島刑事)
探偵左文字進(左文字進)
相棒(杉下右京)
ほか
・・・「水谷豊文」は
ボクと同郷(蝦夷芦別)出身の
「水谷豊」ではアリマセン・・・
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 弟子の
 伊藤圭介や
 大河内存真
 宇田川榕菴
 桂川甫賢などを
 「日本の植物学者」と記録

 サンクト→纂句図
 ペテルブルクにある→部照分(武)留玖(句)
 シーボルト植物画コレクションの多くに
 宇田川
 榕菴の→榕(ヨウ・ユ・あこう・あこぎ)
      =木+容→キを容れる
      =菴=丱・サ(草下)
          +
         奄(エン・あま・おほう=おおう
             にわか・なでる)
 イニシャルである→委似者留
 W. J.
 は榕菴が認めたことを
 意味する一種の
 サイン→左院→差異務→再鵡(武)

 シーボルト
 「鳴滝(瀧)塾」→求漏受苦
 塾生たちの情報収集
 標本を集めるだけでなく
 シーボルトが投げた
 課題についての
 報告を
 シーボルトに提出
 覚え書に
 四国や
 九州南部からの情報が多い

 日本の植物をヨーロッパに移入
 彼地の庭園を豊かにし
 林業の→林のワザ
 活性を図ろうとした
 シーボルト
 緯度が
 オランダやドイツにより近い
 本州東北部や
 北海道の植物にも強い関心
 シーボルト事件に発展した蝦夷の地図
 蝦夷地など→渡り島
 シーボルト
 日本北方に寄せる関心
 蝦夷
 北方の植物の
 情報の大半は
 最上徳内から得たもの
 『フロラ・ヤポニカ』では
 ウラジロモミのところで→裏字賂摸見
 最上徳内の名前をあげ
 情報と資料提供に感謝している
 最上徳内によったと思われる記述は
 カラマツや
 モミなど
 随所に見られる

 『フロラ・ヤポニカ』の
 シーボルト自身の「覚え書」こそは
 日々折々のあらゆる機会に書き留めた
 日本植物についての総決算
 『フロラ・ヤポニカ』として
 出版された
 植物の種数は
 150に満たない
 チャノキなど『日本』に詳細に記載された植物もあるが,未発表のまま残されたメモやノートは相当の量にのぼる
 テイカカズラの標本(東京大学総合研究博物館蔵)
 この標本は
 シーボルト
 2度目の来日時に採集
 未整理のまま放置され
 没後に
 未亡人により→後家・碁笥・呉家・語化
 ロシアに売却
 ロシアの
 コマロフ植物研究所との交換による

 日本の植物への関心
 植物の生きた姿を記録する画家の必要
 ドゥ・ヴィルヌーヴ(Carl Hubert de Villeneuve)
 が来日
 シーボルトは独自に
 長崎
 絵師の
 川原慶賀を→刑臥・(津)軽賀・計画
 見出し
 慶賀はシーボルトが要求するレベルに達する
 植物の
 素描画を
 千点近く描く→地点・先天・線点
 
 帰国後
 シーボルト
 『日本』
 『フロラ・ヤポニカ』
 (Flora Japonica
 『日本植物誌』ともいう)の出版
 分類学的な研究は
 全面的に
 ミュンヘン大学教授の
 ツッカリーニ(Joseph Gerhard Zuccarini)に
 依頼

 シーボルトの帰国後
 日本での収集品の保管
 オランダのライデンに住居
 ライデンの王立植物標本館
 (現在の国立植物学博物館ライデン大学分館)に
 収蔵されたが
 一部の
 重複標本は
 後に
 ボゴール植物園
 ブリュッセル国立植物標本館
 ケンブリッジ大学
 パリの自然史博物館などに送られた
 また
 ツッカリーニが
 『フロラ・ヤポニカ』の研究を行った
 ミュンヘンにも
 シーボルトの標本が一部保管

 シーボルトは日本の植物を園芸へ導入するためにこれをヨーロッパの環境に馴らす作業を開始
 その作業の場となったのが
 ライデン近くの
 ライダードルフに設けた
 馴化植物園→馴(なじむ)化→訓化
 また→俣・亦・股・又・磨太(多・他・蛇)
 日本それに中国の植物を導入するために
 「園芸振興協会」を→演芸振興教会
 設立し
 さらに→
 営利目的の
 「シーボルト商会」を設立

 1844年
 シーボルトが日本から持ち帰った
 植物を掲載した
 販売用の『有用植物リスト』ができ
 球根や
 苗
 種子が
 販売に供せられた
 筆頭は
 カノコユリ
 その球根は
 同じ重さの
 銀と取引きされた
 テッポウユリ
 スカシユリ
 シーボルトによって
 初めてヨーロッパに紹介された
 ギボウシ類などの
 多数の日本植物が
 ヨーロッパでは
 欠かせない園芸植物になった

 『フロラ・ヤポニカ』出版
 シーボルト
 3部作とされる
 『日本』
 『ファウナ・ヤポニカ』
 『フロラ・ヤポニカ』

 『フロラ・ヤポニカ』は
 色刷りの
 図版、図譜の出版物

 シーボルト
 『フロラ・ヤポニカ』を
 完成させることなく
 1866年にミュンヘンで亡くなった
 70歳であった→(㐂=喜寿)→鴇(とき)は
               サギ(鷺)に似た鳥
               サギ=詐欺・詐偽