831日目・・・2、3日前から大雪のためなのかTVの電源をいれても「E202・受信できません」が出てくるばかり。「エラー・E202」とは?・・・マニュアル本にはアンテナ配線、あるいはアンテナ設置方向の問題、と、あった・・・TVのアンテナの配線接続、あるいは方向のムキが狂っている?・・・兎に角、寒い中玄関の屋根にアルミ製の梯子をカケ、さらにその屋根から二階の屋根へボクが木で造ったお手製の梯子をカケて恐る恐るよじ登ってアンテナを点検してみた。この屋根から足を滑らして又もや転落したらアウト・・・アンテナ線は切

 ・・・四方八方、東西南北・・・十二方位・・・鬼門は東北→「艮」、裏鬼門南西→「坤」。カンジのオンはいずれも「コン」・・・北西は「乾(カン)」、南東は「巽(ソン)」・・・沖は水の中、冲は氷の中、蒸気と湯気は、空の中、「水(氵=シ?)の昜」なんて口ずさみながら「鬼門の方角」を見たけれど、ウシトラ(丑寅)の方角には「度朔山(ドサクサン)」があるそうだが、「鬼の出入り口」である。多分東北「丑寅・艮」は「丑←年次の変わり目の接点の月→寅」である。ポルトガル語の「ドサクサ」は日本語と同じ意味らしい。ドサクサに間切れて「鬼」が出てくるのは「度朔山(ドサクサン)=度(度数)・朔(暗闇・新月)のサン」の磐の洞窟の門からである。来年の「壬辰」の年は「丑月=一月」の後の「壬寅月=二月」の「節入り日」から始まる。変わり目の接点日は「節分三日→立春の四日」の「接点」である、なッ。接点とは関係の遠近で、「衝」とは「冲」で、氷が水、水が氷になる「零点・零度」ではある。固体、液体、気体の温度による水の変化である。中国古代の「周」の正月=年始は「十二月冬至の日」であった。十二月25日のクリスマスもこの「冬至」にキリストの誕生日を重ねたモノだろう。

 正月が「二月=寅月・春分日」から始まったのは「漢の武帝・太初元年丁丑年(紀元前104年)・十一月=建子月・冬至甲子日=朔日元旦」から計算したモノらしい。この歳に「木星=歳星=実星」が存在する干支を「甲子支」としたのである。すなわち、「太初元年」は前年の11・12月を含む実星の木星は時計の右巡回の逆旋の出発点として「甲子年・甲子月・甲子日・甲子時」としたかったのではないか。だが、実際には「甲子」が「年月日時」に並ぶ「干支の組み合わせ法則」はなく、あるとしたら「子支」の年月日時で、「干」は「甲の年-月・甲の日-時」で、「甲-子」としての組み合わせが並ぶ年月日時には無い。すなわち、「甲子支」の四干支の直列は無い。「甲子年→丙子月・戊子年→甲子月」、「甲子日→丙子時・戊子日→甲子時」である。一方、架空の「太歳星」は「丁丑支」にあるとしたのも前年の11・12月を含むものとして時計右巡回の順旋の出発点とした。ならば、「架空の太歳星」が位置する「丁丑年」の前年は「丙子年」である。では「実星=木星=歳星」は「干支」の何処に存在位置していたのか?

 癸亥、あるいは「乙亥」
 ↑逆旋・時計の左回り
 甲子=歳星=実星
 ↑
 太初元年の前年の干支
 ↓太初元年は前年の11・12月を含む
 丙子=太歳星=虚星
 ↓順旋・時計の右回り 
 丁丑

 である。実星である木星=歳星が「甲子年」であるとの「記録」は無いが「歳星=実星=木星=甲」であるならば、天周を「逆旋回=時計左周り」をする「実星=木星=甲」の「出発点=初点=始点」は「甲子年(11、12月を含む)」で、「癸亥」にあるハズだ。
 ここでは「歳星」と「太歳星」とが「子支」で重なり、「歳星」滞在の子支に乗る干は「甲」で、「甲子」。「太歳星」滞在の子支に乗る干は「丙」で、「丙子」となる。
 「太初」の「太」とは「太歳星=架空の星=虚星」の「太(タイ)」である。タイとは替「代・替」で、「対・他意」である。
 「太初元年丁丑年」の「十一月=建子月」とすると、この「建子」とは干支年月の法則から
 「丁壬」年の子月は干支月で「壬-子」の月である。
 「甲-子」の月は「戊」か「癸」の年である。
 「丙子年」ならば子月は「庚-子」の月である。

 歳星在位→
 甲 乙 丙丁戊己庚辛壬癸 甲 乙 丙
 子 亥 戌酉申未午巳辰卯 寅 丑 子
   ◎
 甲 癸 壬辛庚己戊丁丙乙 甲 癸 壬
 子 亥 戌酉申未午巳辰卯 寅 丑 子
 ↓
 太歳星在位→
 丙 丁 戊己庚辛壬癸甲乙 丙 丁 戊
 子 丑 寅卯辰巳午未申酉 戌 亥 子
   ◎

 「武帝・太初元年丁丑年・十一月=建子月・冬至甲子日=朔日元旦」をボクが「翻訳=ホンヤク=本埜句=叛厄=品訳=支那耶(邪)句」すると、

 武(たける)=長・建・健・猛→多人長
       =ブ=分
 帝(みかど)=御門・神門・三門・壬化度
       =テイ=綴=訂=定=貞
 太(おほの)=太(安萬侶)・多人長・多田多根子
       =タイ=鯛・対
 初(はじめ)=創・本・一・始・肇
       =神武天皇・崇仁天皇
 元(もと)=本・摸(模)賭
    ガン=願・含・眼・目・癌・諺・彦・磐
 丁(ひのと)=比の徒(菟→於菟=虎=寅)
    チョウ=調・帖・帳
 丑(うし)=主(ぬし)→あるじ=亜留字・阿流示
   チュウ=中・注・註・柱・駐 
 年(とし)=度史・度詞・度支・屠死
   ネン=撚→よる=捌・夜・選る
 十一月=壱拾壱の通記(解通)
 建子月=建(たける)の子の通記(解通)
 冬至=とうじ=当時・答辞・当字
 甲子=きのえのね=記の重の根
 コウシ=講師・行使・乞うし
 日=ジツ・ニチ=講師示通(似知)・比
 朔日=ついたち
 サクジツ=割く字通・作実・策事通
 元旦=ガンタン=含多夢

 である。この「十一月=建子月」は前年の「紀元前105年」の「子(冬至)」で、これに連続して丑→寅(正月)→卯→辰→巳→午→未→申→酉→戌→亥→子→丑の期間が「太初元年」である。「日の十干」は「殷」の時代から甲骨文字に刻まれているが、「年月日時の60干支」の「循環」が考え出されたのは漢の頃かららしい。すなわち「木星=歳星=実星で全天周期は11.86年(一支30度枠を一年とすると、12年目には「0.14年分」が十二支×30度(一支枠)=360度を超える。82.64年目には一支の枠を飛び越えてしまう)」と、その「架空の太歳星(一支30度枠一年、合計12年に12支枠にズレなく完全に納まる)」の1年間=十二支の一支座位泊期間とされ、各支、合計12年間の巡行サイクルである。この「太初元年」に「太歳星(架空の星)」は右回り巡行順旋の「子支→丑支→*←寅支→卯支→辰支→」にあるモノとして「寅年」とした。実星である「木星」は左回りの逆行逆旋の「寅支→丑支→*←子支→亥→戌→」の「丑支」に存在した。現在の干支年から逆算すると「太初元年」は「丁丑年」である。このことは「太歳星の巡行」を完全な全天12年周期、順旋とし、そのズレも無く一年の座位支、30度に納まるモノとして現代まで連続している。この事は「実星である歳星(木星)の逆旋周期の計算位置の支」は無視され、天周区分「360°÷12ヶ月=30°=一支枠」に納まる「虚星である太歳星の順旋周期の位置計算」とされてきたものである。だから「十二支」の年次計算の「実星である木星の位置する年支との関係」は無関係になってしまった。「実星の木星」がドコに居ようと「各十二支」は単なる十二年周期の一年間の呼称になったのである。兎に角、「木星=実星」の「位置」は「十二支」とは関係ないモノとなってしまった。そして「各陽干(甲丙戊庚壬)」と「各陽十二支(子寅辰午申戌)」の三十の組み合わせと、「各陰干(乙丁己辛癸)」と「各陰十二支(丑卯巳未酉亥)」の三十の組み合わせの「六十干支」で60年間の巡行循環するモノとした。
 国立天文台の「天文学」上のブログでは

 「木星」は「今現在2011年12月初めはおひつじ(牡羊)座にあり、5日には、うお座の領域に入る。明るさはマイナス2.8〜2.6等。日没直後の東の空高くに見える。6日の夜、月のそばに明るい木星が見える」とある。「座」は天体に描かれる星座の位置である。「宮」は黄道獣滞円周360°の30°枠の12区分の1区分である。上の「木星の領域位置」の説明は「白羊宮」から「双魚宮」への移動のコトだろう、なッ。
 「留(りゅう)は、惑星の地心視赤経の時間変化が0となる瞬間です。惑星は恒星の間を運動していきますが、留のときにはその運動がほぼ停止し、
 運動の方向(順行(じゅんこう)、逆行(ぎゃっこう))が入れ替わります。
 「合(ごう)は、太陽と惑星との地心視黄経が等しくなる瞬間で、内惑星(水星、金星)の場合は太陽より近くを通る内合(ないごう)と、太陽より遠くを通る外合(がいごう)があります」
 「衝(しょう)は、太陽と外惑星との地心視黄経の差が180°となる瞬間です」
 と、ある。
 天体観測で実星の「木星」が「2011年12月5日以降」は「お羊座宮」から「うお座宮」に入って、その「座宮」に座位泊するとは、2012年は「うお座宮の年」と言うことだ。
 「西洋の12獣帯宮」と「東洋の十二支宮」の月の区分は異なるが、
 「魚座(326°〜0°区分枠)・双魚宮330°〜0°区分枠」は十二支では「子支(345°〜15°区分枠)」である。干支暦では来年(2012年)は「辰支年」であっても「実星=木星」は天体の「辰支(30°)」には存在しない。月暦の「辰支」は「4月6日頃〜5月5日頃」だから西洋の星座宮の位置では「牡牛座・金牛宮(4月21日)〜双子座・双児宮(6月21日)」の区間となる。木星が「双魚座」にあるとは十二支では「子支(黄道30°区分枠)」にある、という事だ。「辰支(30°区分枠)」には天体に存在しない「太歳星=虚星」が仮に「あるモノ」として「仮定」しているのである。子支から辰支の区間度数は「丑・寅・卯」の「90°」である。実星の木星は「82.64年目で一支枠を超える」であるから三支枠を超えるのは「247.92年目」である。104年+2011年=2115年で、2115年÷82.64=186.64、186.64÷12=15.553・・・15-12=3・・・で、「三支=90°」のズレであるかな・・・思考方法とその計算には自信がないので、興味のあるヒトはその真偽の再確認が必要である。
 1年間の地球から観測した太陽の位置を「冬至(子支月の枠)」→「春分(卯支月の枠)」→「夏至(午支月の枠)」→「秋分(酉支月の枠)」→「冬至」としたのである。一年の始まり日を中国周王朝では「冬至日」とした。「正月元旦」である。
 今年「2011年」の「冬至」は「12月22日」である。干支暦では

 「辛卯年・庚子月・辛亥日・戊子支時(午前0時以後)」

 である。「年干支(30°区分枠)」の12年サイクルは、その「実体」が伴っていない人間が考え出した「恣意的」、「仮想的」なものである。だが、この人間の「恣意的」、「仮想的」なモノこそ「人間と人間諸関係の実践行動」を「感情的、意識的に駆り立て、動かす要因」なのである。
 「恣意的」、「仮想的」とは「人間の経験的コトバの蓄積」と「人間の経験を踏まえたイマジネーション」なくしては有り得ないモノであるからだ。
 個々人の「生き方」、人間のシンじる、シンじない、ワカラナイの「心理的な選択」はコレを前提にしているからである。人間諸個人の「社会的生活」は、結果的なイイ(有利・有理・合理・可)も、ワルイ(不利・無理・非理・不可)もコレなくしては生きていけないのである。「ウラナイ」も「コトバ」と「イマジネーション」での「個々人の認識判断」であるから・・・過去の反省、未来の展望としてアル状況に遭遇した、その時「現在」には必要なのさ・・・
 
 で、その「年-月-日-時の干支の組み合わせ」は「60年干支×60月干支×60日干支×60時干支」の組み合わせは「12960000組」で、ある。

 凍えながらの我が身はカジカンで寒かったデス。春が恋しい・・・

 兎に角、昨夜のTVは映った。観たのは「古代北海道ミステリー」である。奥尻島出土の「翡翠の勾玉」、「阿倍比羅夫蝦夷遠征」、「平安貴族の弓矢は蝦夷ワシの尾羽根の矢羽」、「オホーツク人の土器」、「アイヌ人と元王朝+粛慎(みしはせ)の40年余りの戦争」、「アイヌ人=縄文人とオホーツク人の混血」。「アイヌ人は元史には骨嵬(コツカイ?)と記」等など・・・

 「嵬=山+鬼」は「カイ・グワイ・ゲ・ヱ」と音読みするらしい。訓読みでは「けわしい・たかい・あやしい・ほしいまま・みだり」とあり、熟語の「嵬峨」は「科挙の試験に最高の成績で合格するコト」とあり、「嵬説」は「出鱈目な説」とある。デタラメな説とは・・・「荒唐無稽な説」でもあるな・・・そして「実録物語」と言っても「モノガタリ」だから・・・スベテが「事実」とは言えないし、書き手の説明不足や、読み手の「誤解」、「曲解」もあるのは当たり前である・・・

 出=「山々(やまやま・サンザン)の
 鱈=魚(まな・うお・さかな・ギョ)の
   雨(あめ・ウ)の
   ヨ(ケイがしら・ケイ・針鼠の頭)の
   目(まなこ・メ・眼=ガン)」
     ↓
 「纂纂(サンザン)の
  真名(まな)。
  海人(あめ・あま・海士・海女・海部・阿部)の
  刑頭(ケイがしら・神祖)の
  馬名子(まなこ・ガン・顔=彦+頁→山幸彦、海幸彦のページ)」
   ↑↓
 「蘇我の稲目(いなめ)」の子の名は「蘇我の馬子」→稲目=トウモク=頭目
 「蘇我の馬子(うまこ)」の子の名は「蘇我蝦夷」→馬子=バシ=馬史
 「蘇我蝦夷」の子の名は「蘇我の入鹿」 →蝦夷=カイ=甲斐・海・嵬
 「蘇我の稲目」の孫の名は「蘇我の入鹿」→入鹿=ニュウロク=入録
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 以下は「ウイッキペデア」からの抜粋です・・・ 

 1264年 には樺太に侵入したアイヌ(元朝の文献では「骨嵬」と書かれている)とニヴフ(同じく「吉烈迷」)との間に紛争が勃発した。この戦いにはモンゴル帝国軍が介入し、アイヌからの朝貢を取り付けた(詳細はモンゴルの樺太侵攻を参照)。その後もアイヌは大陸との交易を続けていた。この交易は「山丹交易」と呼ばれ、江戸時代にはアイヌが交易によって清朝などから入手した絹織物や官服が、「蝦夷錦」と呼ばれて日本国内にも流通していった。

 である。「交易」、「山丹交易」とはナニを意味するのか・・・「文のハの易」。「纂(サン)の譚(タン)」、「サンタン=惨憺・賛嘆・讃嘆・参反」で、「耶麻(やま)の爾(に・似・邇)」である。「丹」とは「辰砂・水銀」の「丹色」で「紅(糸(いと)+工(たくみ)」・・・「丹前」とは「どてら・ぬのこ」である。「丹後の国・丹波の国」とは京都の北西の地名で、「単語・タンゴ・譚葉」であるかな黒猫のタンゴ、「アルゼンチン」。「丹前の国」は無い・・・あるとしたら「越前若狭の国」を指すのだろうか、ラン学者・・・カメにノッた浦島太郎、龍宮城にきてみれば、エイにもカケぬ美しさ。鯛の苦難は喉骨に刺さった釣り針、オトヒメさまがくれた玉手箱には老化のケムリ・・・