827日目・・・いやぁ〜ッ、もう、12月ですか、干支で言えば「子月(ねづき)」で「ねずみ・ネズミ・鼠(ソ)」の月・・・「窮鼠(キュウソ)、ネコを噛む」って、「キュウのソ、ビョウのシ」、「かむ(咬」なら「ビョウのコウ」かな・・・来年は「辰(龍)年」だけれど、親分は「子(鼠)」である。「ねずみの子分」には「申(猿)」も居るんだけれど、「水(壬)の三合会局=申(猿)ー子(鼠)ー辰(龍)」・・・「『至尊紅顔』(しそんこうがん)」は、「則天武后」をテーマにした「2003年製作の中華人民共和国の歴史ドラマ」の「タイ

 至・・・いたる・シ=一+ム+十+一
 尊・・・みこと・ソン=廾+酉+寸=(茜+一+寸)
 紅・・・くれない・コウ=糸+工
 顔・・・かお・ガン=彦+頁

 「日本書紀古事記」の「子孫厚顔」じゃないのカナ、ッ・・・「子孫睾丸(金玉)」か、「子孫抗癌(岩・磐)」、「史巽(選)、乞う元」かも・・・
 以下、「JWord・百科事典」をボクの興味アル「漢字文字」を「先頭」に改行し、「参考改作」した抜粋した記事です。
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 武則天則天武后
 周
 初代皇帝

王朝 周
在位期間 690年10月16日 - 705年2月22日
姓・諱 武曌(武照)
諡号 則天順聖皇后
生年 623年(武徳6年)?
没年 705年12月16日(神龍元年11月26日)
父 武士彠
母 楊夫人
陵墓 乾陵
年号 光宅:684年
垂拱:685年 - 688年
永昌:689年
載初:689年 - 690年
天授:690年 - 692年
如意:692年
長寿:692年 - 694年
延載:694年
証聖:695年
天冊万歳:695年
万歳登封:695年 - 696年
万歳通天:696年 - 697年
神功:697年
聖暦:698年 - 700年
久視:700年 - 701年
大足:701年
長安:701年 - 704年
※「曌」は「照」の則天文字。

 武則天(ぶそくてん、
 諱は
 武照(武曌)、623年(武徳6年)? - 705年12月16日(神龍元年11月26日))は、唐の高宗の皇后。
 中国史上唯一の女帝となり、武周朝を建てた(在位:690年10月16日 - 705年2月22日)。
 日本では則天武后(そくてん ぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。一方最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。
 漢代の
 呂后
 清代の
 西太后とともに「中国三大悪女」の一人に数えられる。

 経歴
 諱は照。
 武照は
 利州都督
 武士彠と
 楊夫人の間に
 次女として
 雨の降る日に生まれた。
 袁天鋼という
 道士が
 武照の相を占い、
 人相を見た
 袁天鋼は必ずや
 天に昇ると述べた。
 父親の
 武士彠はその場にいた者たちにこのことを忘れさせた。
 武士彠はその
 予言を実現すべく高度な教育を与え、幼名を
 媚娘と
 命名

 武照、
 八(8)歳、父が死去。
 媚娘は異母兄弟に虐げられる。
 少女期の武照は
 漆黒の
 長髪、
 特徴的な
 切れ長で
 大きな目、
 雪のような肌、
 桃色の
 唇、
 薔薇色の
 頬、
 大きな
 胸、
 見る者を魅了する
 媚笑、
 聡明な
 頭脳を備えていたと
 史書に記録。

 14歳で
 太宗の
 後宮に入り
 才人(妃の地位。正五品)となった。
 当初は
 太宗の
 寵愛を受けていた。しかし
 「唐三代にして、女王昌」
 「李に代わり武が栄える」と流言があり、
 武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらすことを恐れた
 太宗は次第に武照を疎遠にしていった。
 李君羨という武将が
 「武が栄える」の「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑された事件があったが、太宗は
 李君羨の処刑後もなお、武照がいかに魅惑的であろうとも武照と距離を置き続けた。こうした状況下で
 李治(後の高宗)が
 武照を見出すこととなった。
 太宗に殺害されることを恐れた武照は太宗の子である
 李治を籠絡、
 李治は
 妄信的に
 武照を
 寵愛するようになる。
 この時点で太宗は未だにこの
 媚娘(武照)の
 貞操を犯していなかったという
 噂もあった。

 太宗の崩御にともない出家することとなったが、
 額に焼印を付け
 仏尼になることを避け、
 女性の
 道士(坤道)となり
 道教寺院(道観)で修行することとなった。

 その頃の宮中では、太宗の後を襲った高宗の皇后だった
 王皇后と、
 高宗が寵愛していた
 蕭淑妃が対立し、
 皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃から逸らす為、高宗に武照の入宮を推薦した。
 武照が
 昭儀(後宮における上から5番目の地位)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃から逸れたが、王皇后も疎遠になった。

 立后
 655年(永徽6年)6月、それまで
 昭儀(後宮の位の一つ)だった
 武照を新たに設けた
 宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、
 宰相・
 韓瑗と
 來濟の反対で実現はしなかった。
 同年、
 中書舍人・
 李義府などの側近が
 皇后廃立と武照擁立の意図を
 揣摩し、
 許敬宗、
 崔義玄、
 袁公瑜
 等の大臣が結託し高宗に武照立后の上奏文を送った。
 高宗は王皇后を廃し、
 武照を皇后に立てる事を重臣に下問した。

 この時の朝廷の主な人間は太宗の皇后の兄である
 長孫無忌、
 太宗に信任されて常に直言をしていた
 褚遂良(ちょすいりょう。褚はネ者)、
 高祖李淵と同じ
 北周
 八柱国出身の
 于志寧、
 太宗の下で
 突厥討伐などに戦功を挙げた
 李勣の四人である。
 長孫無忌と
 褚遂良は反対し、
 于志寧は賛成も反対も言わず、
 李勣はこの会議には欠席していた。
 その後、高宗が直々に李勣に下問した所、
 「これは陛下の家庭の事です。なぜ臣下に聞くのですか。」と答え、皇后の廃立に力を与えた。
 後世の史家はこの
 李勣の返答で
 武則天
 専横が止められなくなったと非難するが、後に
 長孫無忌と褚遂良が武則天に殺され、
 沈黙した
 于志寧も
 左遷された。

 10月13日(11月16日)、
 高宗は
 「『陰謀下毒』の罪により
 王皇后と蕭淑妃を
 廃し庶民とし投獄する。
 彼女らの父母兄弟なども
 官位を
 剥奪し嶺南に流す」という詔書を発布した。
 その
 7日後、
 高宗は再び詔書を発布して
 武照を立后すると共に
 諫言した
 褚遂良を
 潭州都督へ
 左遷した。

 11月初旬、皇后になった武則天は監禁されていた
 王氏(前皇后)と
 蕭氏(前淑妃)を
 棍杖で百叩きにした後、
 生き返らないように
 四肢切断の上、
 「骨まで酔わせてやる」と言って
 酒壷に投げ込ませた。王と蕭は酒壷の中で数日間泣き叫んだ後絶命したという。
 更に遺族の
 姓を
 侮蔑的な意味を込めた字である
 「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)と
 「梟」(フクロウ、子が親を食う不孝の鳥とされる)に改称させた。
 蕭氏は死の間際に、
 武則天が生まれ変わったら

 鼠になり、
 自身は
 猫に生まれ変わって
 食い殺してやると

 呪いながら死んだといわれ、
 後年の
 武則天
 宮中で
 猫を飼うのを禁じた。

 垂簾政治
 皇后となった武則天は高宗に代わり
 垂簾政治を行った。
 唐初は
 隋と同じく基本的に貴族政治であり、
 関隴貴族集団と呼ばれる貴族層が権力を握っていた。
 隋代から
 科挙は行われていたが、この頃は科挙官僚は低い役職にしか登用されず、科挙による人材登用と国政運営には限界があった。
 武則天は貴族の積極的支持が無いと理解していたため、権力を維持するべく新しい出身層の人材を積極的に登用した。
 登用された人材としては
 狄仁傑
 姚崇
 宋蓂
 などがいる。これらは
 非貴族身分の出身人物だった。
 武則天はただ単に低い身分に主眼を置いたのではなく、
 その登用には
 才能と武則天への
 忠誠を重視している。
 姚崇と
 宋蓂は後に
 玄宗の下で朝政を行い、
 開元の治を導いた人物である。

 武則天は660年(顕慶5年)に
 新羅の請願を容れ
 百済討伐の軍を起こす。
 百済を滅ぼしたのち、
 倭国(日本)・旧百済連合軍
 と
 唐・新羅の連合軍(羅唐同盟)とが戦った
 白村江の戦い(中国の史書では白江之戦と表記される)にも勝利し、
 その5年後には孤立化した
 高句麗を滅ぼし(麗唐戦争)たが、
 武則天の暴政と
 営州都督・
 趙文翻の
 横暴により
 契丹が大規模な反乱を起こして河北へ侵攻するなど、
 遼東遼西の情勢は却って悪化した。

 出自を問わない才能を発掘する一方で、
 武則天は娘の
 太平公主
 薛懐義
 張易之
 昌宗兄弟といった自身の寵臣、
 武三思
 武承嗣ら親族の
 武氏一族を
 重用し、
 専横を招いた。
 また
 佞臣の
 許敬宗などを任用し、
 密告政治により
 反対者を排除、
 来俊臣
 索元礼
 周興ら
 「酷吏」が反対派を監視する恐怖政治を行った。この状況に高宗は武后の廃后を計画するが、武后は計画を事前に察知し皇帝の権力奪還を許さなかった。
 この時期の事件として、
 高宗が晩年病を得た際、高宗が
 鍼治療を望んだが
 武后がそれを知ると治療を中止させた、
 という
 逸話が伝わる。

 683年(弘道元年)、高宗が死ぬと子の
 中宗が即位するが、中宗の皇后
 韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に、
 太平公主を使って中宗を廃位し
 中宗の
 弟
 睿宗を新皇帝に擁立した。
 睿宗は武后の権勢の下、
 傀儡に甘んじる事を余儀なくされた。

 武則天
 専横に対して皇族が次々と挙兵したが、いずれも打ち破られた。民衆は武則天に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの
 浮戸や
 逃戸を招いたが、農民蜂起が起こる程の情勢ではなかったため、反乱軍に同調する者は少なく大勢力には発展しなかった。

 登位
 宗族の挙兵を打ち破った後、
 武則天
 女帝出現を暗示する
 預言書(仏典中の
 『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また周代に存在したとされる
 「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、
 帝位簒奪の準備を行った。ただし帝位簒奪をいつの時点で企図したのかは研究者の間でも定説がない。

 690年(天授元年)、
 武則天は自ら帝位に就いた。
 国号を
 「周」とし、自らを
 聖神皇帝と称し、
 天授と改元した。
 睿宗は皇太子に格下げされ、
 李の姓に代えて
 武姓を与えられた。この王朝を
 「武周」と呼ぶ。


 奉先寺大仏帝室が
 老子の末裔だとされ
 「道先仏後」だった唐王朝と異なり、
 武則天は仏教を重んじ朝廷での席次を
 「仏先道後」に改めた。
 武則天は諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを
 弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする
 『大雲経』を創り、これを納める
 「大雲経寺」を全国の各州に造らせた。
 これは後の
 日本の
 国分寺制度の元になった。

 洛陽郊外の
 龍門山奉先寺にある高さ17mの
 盧舎那仏の石像は、高宗の発願で造営されたが、
 像の容貌は武則天がモデルといわれる。

 晩年
 晩年の武則天は病床に臥せがちとなった。この状況に唐復活の機運は高まり、
 神龍元年1月24日(705年2月22日)、
 宰相
 張柬之により武則天は退位を迫られて
 中宗が復位、
 国号も
 唐に復した。
 しかし
 武氏の
 眷属は李氏を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築していたため、唐朝再興に伴う粛清は
 太平公主
 武三思などには及ばず命脈を保った。
 皇帝の母である太后でもあるため、
 中宗は退位した
 武照に
 則天大聖皇帝の
 尊号を贈り、その後まもなく武照は死去した。

 706年(神龍2年)5月、
 乾陵に高宗と
 合葬された。

 謚号
 遺詔には
 「帝号を取り去り
 則天大聖皇后と称すべし」
 とあったと謂われる。唐王朝での
 謚号はその後も
 変遷を
 経る。

710年(唐隆元年)、中宗、天后と改める
710年(景雲元年)、睿宗、大聖天后と改める
712年(延和元年)、睿宗、天后聖帝と改める
716年(開元4年)、玄宗、則天皇后と改める
749年(天宝8年)、玄宗、則天順聖皇后の謚を追加する

 改名好き
 武則天は改名を非常に好み、
 660年(顕慶4年)には
 皇帝と皇后をそれぞれ
 「天皇」と「天后」に改名している。
 皇后として国政に
 容喙(ようかい)している実態を、
 両者が
 比肩する
 字義を持つ
 名称に改めさせ
 追認させる狙いがあったといわれる。
 他にも
 洛陽を
 「神都」と改めている。

 武則天
 漢字の改変も行い、
 則天文字と呼ばれる新しい漢字を創っている。その数は20字程度であり、今日使用されることはほとんどない。
 (「圀」の字は日本で徳川光圀と本圀寺の名称に使用されている)これは「國」が国構えの内に
 「惑」を含むことを忌み嫌ったもので、その
 代替として
 国構えの内に
 「八方」をそえたものである。他にも、
 自らの名の
 「照」の
 代替として、
 空の上に日と月を並べた
 「曌」(明+空)を造字しており、いずれも思想的な理由に基づくものだった。

 武則天はまた元号も頻繁に変更した。
 元号に関しては下記の一覧も参照。
 元号
天后時代
光宅 684年
垂拱 685 - 688年
永昌 689年
載初 690年
聖神皇帝時代(武周)
天授 690 - 692年
如意 692年
長寿 692 - 694年
延載 694年
証聖 695年
天冊万歳 695 - 696年
万歳登封 696年
万歳通天 696 - 697年
神功 697年
聖暦 698 - 700年
久視 700年
大足 701年
長安 701 - 704年

 後代
 後世において、武則天の政治経歴や治世に対する評価は否定的である。簒奪を計画し失敗した韋后と並べ
 武韋の禍と呼ばれるため、負のイメージで語られることが多い。しかし漢の武帝と共に「不明というべからず」と表現した
 宋代の
 洪邁や、
 「女中英主」と評価した
 清代の
 趙翼のような例外も存在する。

 毛沢東夫人で文化大革命を指揮した江青は、毛の後継者にならんとする野望を持っていたため、夫の死後、名実ともに国政を握った武則天を自らに重ね、これを称賛する運動を興した。
 江青
 文革は党に否定されたが、
 武則天を主人公とした連続テレビドラマも製作された。

 現在の武則天の評価は、施政した時代に
 浮戸や
 逃戸が増大し、また
 田籍の
 把握が等閑になって
 隠田の増加と
 均田制の
 実施困難を招いた点などから、否定的な評価が下されている。
ーーーーー
  ↑
 則天武后=ネズミ・ねずみ・鼠(ソ)・子(シ)・チュウ
 と
 蕭氏=ネコ・ねこ・猫(ビョウ)・にゃんこ
 の
 あの世から
 転生(輪廻)の変身「ハナシ」を引っ張り出すための参考抜粋でした。
 で、 
 以下は「猫雑学」の「Neco」さんのブログ前文が
     ↓
ーーーーー
 「Necoは動物学者でもなければ、考古学者でもなく、民族学者でも国語学者でもありません。
単なる猫大好きのNecoがここに記す内容はNeco自身の実験・研究・調査の成果でありようがなく、
【参考文献】の欄に記した文献から知り得たことをNeco流にまとめたものにすぎません。
 ですから、すべての文を『…だそうです』と結ばなければならないのですが、読みづらくなると考え、割愛させていただきました。
 興味を持たれた方は、正確を期すために原文にあたってみてください」
   ↑
 とある 
 http://www.necozanmai.com/zatsugaku/zatsugaku.html
ーーーーー
 から「参考改作」したモノです。
 「Neco」さん、断りもなく勝手に抜粋ゴメン、ッ!
   ↑
ーーーーー
   ↓
 「古代エジプト人の猫神、崇拝」は
 「夜、太陽がネコの目を通して下界を見るため」。
 「猫の頭を持つ女神バステト」は、「太陽を神格化」したもの。
 「猫」は、
 「夜になって眠りこんだ太陽」を
 「蛇」から守るために寝ずの番をしている。
 「猫」も「バステト」も「蛇」の天敵。

 紀元前1200年代、
 第19王朝時代の
 「死者の書
 第17章には、
 太陽神ラーの化身である
 聖猫マトゥが、
 悪と暗闇の象徴である
 沼地の
 「蛇」アポピスと闘う図が描かれている。
 神聖視されるようになった猫を殺傷することは、
 故意・過失を問わず、事情のいかんを問わず、犯罪であり、刑罰を受けることによってその罪を償わなければならなかった。

 【猫のミイラ】
 ニューヨーク・ブルックリン博物館蔵
 一方、
 猫が死ねば、
 家人は悲しみを表明する為に
 眉を刷り落とし、
 (ネコの)死体をミイラにして手厚く葬った。
 1890年にイギリスの探検家が
 ベニ・ハッサンで発見した
 猫のミイラは30万個に達したと言われている。

 ギリシアの史家、
 ヘロドトスはその
 著書
 『歴史』の中で、
 火事の際のエジプト人の不思議な行動を記している。
 火事の時は、真っ先に猫を救わなければならず、人は消火には見向きもせず、猫が火の中に飛び込まないよう、一定間隔で立って監視をしていたというのだ。

 また、紀元前525年の
 ペルシアとエジプトの戦いでは、
 ペルシア軍が最前列に
 猫を配したために、
 矢を放つことのできないエジプト軍が大敗したと伝えられている。
ーーーーー

 ことの真偽は別として、猫がいかに神聖視され敬われていたかが伺い知れる伝承である。
 さて、
 女神バステトは
 太陽を神格化したものとされているが、
 牡猫が太陽と
 オシーリスに捧げられているのに対し、
 牝猫は月と
 イーシスに捧げられたようだ。
 猫の瞳の変化を月の満ち欠けになぞらえたもので、謎めいた性格や静電気を帯びる体などとあいまって
 スピンクスとも
 同一視される向きもある。
 また、体を丸めた姿、長時間不動に眠っていられる能力から、エジプトの聖職者は
 猫を
 「内省の象徴」としていたという。
 いずれ
 「ことわざ」のセクションでも紹介するが、
  A cat has nine lives.
(猫には九生ある)という言い回しがある。
 この起源も
 古代エジプトにあるようで、
 猫は
 九つの魂を持ち、
 九度生まれ変わることができると信じられていた。
ーーーーー
  ↑
 「鼠」の漢字は唐時代の景教キリスト教の一派)の碑文に刻まれた「移鼠(イエス・キリスト)」の「鼠」です。文字道理に解釈して漢字を補えば
 「移動」・・・移転
 する
 「鼠」・・・・子・
 です・・・「ネコがネズミをトレばイタチ(鼬)がオドル」・・・「イタチ=医達・李達」・・・「大分(おおいた)のチ」・・・片仮名の「チ」って漢字の「子」に類似、類字、累次しているけれど・・・「ねずみ」は一二支では「子」だし、「干支」の「干」の漢字の縦棒の下が「左に曲がっている字」である。「左曲」は「左」も「曲」も「よこしま(邪)」と訓むんだけれど・・・「海鼠(なまこ)」は「カイソ・うみねずみ」だけれど・・・背骨がない。哺乳類のネズミは「齧歯類」と言われている。「カジル・ハ・タグイ」である・・・
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