826日目・・・今日は昼に「ロボコップ」を観ていたら、近所の「K」さんが突然訪ねてきて海で釣ったと言う生魚の「ホッケ(?)」を5匹も貰っちゃった。始めはお断りしたけれど、結局貰った。でっかい「生魚」を捌いたことがないし、どうしよう・・・映画を観た後にはお袋のところへと思っていたのだけれど、兎に角、貰った「生魚」を捌いた後でもイイかなと。で、魚のサバキは簡単ではなく時間はアッと言う間に過ぎて、またもや親不孝・・・ネコのモモとブブが台所の上に登ってくるやら、背中に這い登ってくるやら・・・モモは食いすぎて吐き

 で、夕方に6時に「コロンビア白熱教室」、「ダーウインがきた」、ETVで「“王侯”はどこから来たのか〜南蛮美術の最高傑作を探る〜」の「400年前に日本人によって描かれた「泰西王侯騎馬図屏風」、「甲冑(かっちゅう)武具」のアラビア馬に乗った西洋の当時の王侯たちの絵の紹介番組、そして「サッカーのシリア戦」、NHKの「原発スペシャル」とダブって、ETVの「海への放射能汚染」・・・その後は先週もみたETVの「サードマン現象」・・・意識的にチャンネルを「せんたく・センキョク」したワケではないけれど、ニュースで「大阪の選挙情報」も・・・リモコンをバチバチと・・・これって、「グウゼン」でもないし、「ウンメイ」と言うには大げさすぎる。
 それに「宿→命」と「運→命」は漢字も異なるし、コトバの意味もチガウ。「両親(♂♀)」の行為は「運命」、あるいは「選択」と言えるが、、「セックス=精子×卵子→受精」での結果として母親の胎内に宿って出生してきた「個人」としての「宿命」には「意識的な選択」の余地は無い。
 「偶然」だが「自然界」に於いては「偶然」は無く、あるのは「必然」だけである。「社会的な人間生活」に於いてあらゆる「出来事の関係性」が「必然」と認識できるかどうかには問題があるが、「偶然」とは、ある出来事に「遭遇」し、それを「認識」する人間の「思考・思惟」の問題である。
 「遭遇」の熟語漢字の「遇」も「辶+禺」で、「偶々(たまたま)」、「偶然」、「木偶(でく)」、「偶像」、「偶数」の造りの「禺」が同じである。「太安萬呂」君、君はドウ思うかな?「萬=丱+禺(グ)」を・・・「クサカンムリ」の「禺=尾長猿」・・・「禺+心」は「愚」で「愚図」か・・・「日下、無理なコトを、尾張が、長州を、援るだって!?・・・オロカものメ、ッ」 ・・・「禺=甲+冂+ム」の意味は「わかち・区別・あらわれる・太陽が沈む処」で・・・分解すると「キの兄・まきがまえ(巻きが前)=けいがまえ(経が前)」である。「景(刑)が前」なら「死刑の前の景」は・・・「高橋景保」かも・・・
 英悟では「偶然」って?・・・ハプン・アクシデント・チャンス・ラン-イントウ・・・「空前-絶後」ってコトバもあるなッ・・・
 で、漢和辞典での「禺」の意味説明は、

 尾長猿
 わかち・区別
 あらわれる
 昔、太陽が入ろうとした所(禺谷)
 よせる(偶と同義)」

 とある。「あらわれる」って「洗われる」で、「洗濯される」んだッ・・・「選択」って、選択の余地の無い「ご宣託」・・・?・・・「偶=イ+禺」であるならば「ヒトのわかち(区別)」だろうナッ・・・存在するモノは「自然」で、その存在を認識する人間の「わかち・区別」が「偶然」、と言うことだ。

 以下、NHKのETVブログからの抜粋記事です・・・
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 11月27日(日) 午後6時
 第1回
 「あなたの人生を決めるのは偶然?選択?」

 教授は学生にまずこの質問を投げかける。
 「あなたの人生を決めた、偶然の出来事は何ですか」。
 そして教授はこう続ける。
 「では、あなたの人生を変えた、自らが行った選択は何ですか」。
 確かに人生は、偶然や運命に大きく左右される。性別はもちろん、生まれた環境、人との出会いを自分で選び取ることはできないし、多くの偶発的な出来事が結びついて人生の物語ができるというのは真実だろう。それでもなお教授は、人生において「自分で選択すること」の重要性を強調する。
 両親がインド人でシーク教徒、さらに病気で視力を失ったアイエンガー教授は幼い頃、食べるものから通う学校、将来の職業、結婚相手に至るまで、すべてあらかじめ決められているかのように感じていた。与えられた運命に抵抗する力となったのが、自分の人生は自分で決めるという強い欲求だった。時代に名を残した人々は、その選択の結果、世界をも変えている。スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツ松井秀喜…。偶然や運命に身を任せるのではなく、自分で選択することで彼らはいかに成功を収めてきたのか…。「選択こそ力なり」アイエンガー教授の力強いメッセージを伝える。
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 ・・・「日本人」はその殆どが「責任」も「義務」も「他力本願」だから「センタク以前」の問題であはあるな・・・「選択」に関しては前回も記したけれど「自由な選択の自由」は「商品市場の需要供給の枠内」でのコトだし・・・「決断の自由な選択」と「枠」を絞ってみれば、ヒト様々で切望、希望、志望、願望・待望・・・絶望・・・悪いハナシではないが「選択こそ力なり」は「一般論」ではなく、「特殊個別論」としての結果論であるな・・・