758日目・・・自己判断力の出発点とは「懐疑力」である。「懐疑力」とは「疑う力」と言うことである。「何故・ナゼ・なぜ・ナセ・どうして」と言う自己に対する問いかけである。問いかける「判断能力の無いヒト」も世の中には存在する。アル出来事に遭遇した場合、その「出来事」が何であるのかと、「客観的」な結論を出す「判断力」には「知識(コトバ)の集積」と、それなりの「自己の過去的経験」に照らし合わせた「比較」による出来事の「類似・共通」、出来事の「相異・特異」を知らねばならない。「同じである(=)・異なる(≠)・似て

 ボクの伯父さんと、伯母さんの口癖は「小学校もロクに行けなっかたからなッ、学の無い人間はダマサれるんだョッ。勉強すれョなッ」であった。最近は「学問教養」があってもダマサレル人が多い・・・「ダマサレル根源」も「コトバ(音声・文字)」の操作にあるからだ。視覚による「映像」も「CG」ならば同じである。「ダマシ絵」は昔からあった。ジィ〜ッと見ていれば「何かのモノ」が見えてくる。だが、「記録された文字のダマシ」は見ているだけではダメであるな・・・特に「漢字」はその発生、造型の歴史性、そして、その時の「記録」された背景事情を知っていなければムリである。自然科学も社会科学も「学問」とは「謎解きの理論体系」である。
 で、「事実」をその目で、その耳で「確認」し、それを前提に「事実分析→再構成→結論・判断」をしない「人々の世論」は・・・「情報」によって操られるのだ。「鵜呑み」だから・・・その「情報」が「操作された情報」か、どうかは問題外なのである。自分自身を取り巻く状況が不本意なモノとなっても、その結果の判断は与えられたモノであるから「責任は無い」・・・そして、不思議なことに客観的な判断力があって、その「的確な結論」を得ていても「敢えてダマサレテもイイかな」と言う人もいる・・・この「日米戦争」は物資的にも人材兵力においても、「200対1」の差がある。結果は敗戦である、との戦前の「分析資料」があるらしい・・・「戦争、負けてもヤルだけの価値がある」、って、か・・・
 以下、ウイッキペデア百科事典からの抜粋・・・
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 小村 壽太郎(こむら じゅたろう、安政2年9月16日(1855年10月26日) - 明治44年(1911年)11月26日)は、明治の外交官、政治家。外務大臣貴族院議員などを務めた。侯爵。小村寿太郎とも表記される。初代拓務次官の小村欣一は長男。
 経歴安政2年(1855年)9月16日、日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市のほぼ全域および宮崎市南部)の下級藩士・小村寛平と梅子の長男として生まれる。明治3年(1870年)、大学南校(東京大学の前身)に入学。第1回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学し、法律を学んだ。
 帰国後は司法省に入省し、大審院判事を経て外務省へ転出。陸奥宗光に認められて清国代理公使を務めた。日清戦争の後、駐韓弁理公使や外務次官、駐米・駐露公使を歴任。明治33年(1900年)の義和団の乱では、講和会議全権として事後処理にあたった。
 明治34年(1901年)、第1次桂内閣の外務大臣に就任。明治35年(1902年)、日英同盟を積極的に主張して締結に持ち込む。その功により男爵を授けられる。日露戦争後の明治38年(1905年)、ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印。ただし、その後にアメリカの鉄道王・ハリマンが満洲における鉄道の共同経営を提案(桂・ハリマン協定)したのを首相や元老の反対を押し切って拒否した件については評価が分かれる。日露講和条約締結の功により伯爵に陞爵。
 明治41年(1908年)成立の第2次桂内閣の外務大臣に再任。幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉を行う。明治44年(1911年)に日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。日露協約の締結や韓国併合にも関わり、一貫して日本の大陸政策を進めた。韓国併合の功により侯爵に陞爵。
 同年の桂内閣総辞職に伴い政界を引退するも、同年11月26日、結核療養のために滞在していた葉山町の別荘にて死去。墓所は東京都港区の青山霊園にある。
 エピソード小柄で頭が大きく、貧相な髭を生やした容貌とすばやい行動力から「ねずみ公使」とあだ名された。
 父親による借財のため、生涯を通じて返済に苦労したと伝わる。
 仕事は後世の人間が判断することであるとして一切日記を付けなかったとされる。
 ロシア駐在時、暗い室内で膨大な数の書物を読み込み続けたため医者からは「これ以上目を使い続けると失明する」と忠告されたが学習意欲は衰えず書物を読むことを止めなかった。
 李鴻章と対面した際、巨漢の李に「この宴席で閣下は一番小そうございます。日本人とは皆閣下のように小そうございますか?」と背の低さを揶揄されたのに対して、「残念ながら日本人はみな小そうございます。無論閣下のように大きい者もございます。しかし我が国では『大男 総身に智恵が回りかね』などといい、大事を託さぬ事になっているのでございます」と切り返した。
 「ロイター」「タイムズ」が日本寄りのニュースを送っていたことから明治38年(1905年)のアメリカは日本びいきの世論が醸成されていた。社交界で揉まれたヴィッテは両国間で秘密とされた交渉途中の内容をアメリカの新聞記者に漏らして恩を売るなど世論工作を繰り広げたが壽太郎は国の代表として秘密を守った。しかし裏技を行使しても国益を守るべきとする評価も現在では存在する。
 ポーツマス条約が結ばれた深夜、ホテルの一室から妙な泣き声が聞こえてくるのを不審に思った警備員がその部屋を訪ねると壽太郎が大泣きしていたのを発見した。壽太郎にとってこの条約の調印は苦渋の決断だったと思われる。帰国時には怒り狂う右翼団体からさまざまな罵声を浴びせられ、泣き崩れた壽太郎を両脇から伊藤博文山縣有朋が抱えて首相官邸へ連れて行ったという。
 また、日比谷焼討事件や小村邸への投石など暴徒化した国民の影響で妻のマチは精神的に追い詰められ、壽太郎は家族と別居することを余儀なくされた。
 ・・・・どこかの某TV番組で「カツヤ某」が言っていた「日比谷焼討事件」である・・・月曜日のNHK番組の「スペシャル」は「ラジヲ放送」が「戦争を煽った番組」が放送されていたが「インタヴュー」された人間の言葉には、指導者階級は「日米開戦は否定的」であったが、その「責任」は「戦争は世論の後押しがあった」である・・・ラジヲ報道、新聞報道、「世論」であるな・・・