756日目・・・他人の「日記風の記録やブログ」をみて、アマリ「共感」することはない・・・きっと、自分自身の「経験」や、ソレを前提にした「問題意識」からハズレているからだろうな。「共感」・・・自分自身が孤独に孤立した「初体験」での感激、感動、戦慄、恐怖に慄いたりの「感情」とは違う。同じ経験をしなければ、相手にはソレはなかなか理解されるコトはない。敢えて「理解」しようとしてくれるのは「精神科医」であろう。だが、「共感」としてではなく、「病症事例の一」としてである。・・・「共感」とは、それら「共通体験」を踏ま

 前回は「博愛」と言う漢字の「愛」を考えてみたが。「愛」の「原義」は「食わせること」である。「愛」は「既」+「心」の合字で、
 「既」は「皀+旡」であり、
 「皀(ヒュウ・キュウ・ホウ・コウ・ヒョク・ヒキ・香ばしい・穀物の一粒)」は
 「旨(うまい)」の上下入れ替えの漢字である。
 「既已(すでに)」と訓じる熟語は「既(キ)」も「已(イ)」も一字で「すでに」である。「已」は妊娠している「女性」である。「已」の類字は「己(コ・キ・おのれ)」であり、「巳(シ・ジ・み)」で、「蛇(へび)・蝮(まむし)」であるが、「胎児」や「まもる」の意味がある。
 そして、
 「愛」は「旡+心」であり、「旡」の下に「心」が付く漢字である。類字に「炁」がある。「炁」が「旡」と「烈火=灬(火)」の合字であるならば、「烈火の上でむせているヒトの様子」で、「火炙りの刑」にあっている「魔女・魔男」であろう。あるいは「生き魚か、生きた動物」の「神への生贄」の炎と煙にムセテいるヒトの様子か、魚、動物そのものの身を焦がして膨張ハチキレているいる姿であろう。
 「愛」は元は「旡+心+愛」であった。
 「旡(キ・ケ)」とは「むせぶ・息が詰まる・喉が詰まる」であり、「ヒトがたらふく食って後ろに仰け反っている様子」の意味である。
 己→巳→已→旡→心
「己(自分自身)」であり、「巳」はコトバをかえれば「妊娠させられ(妊娠させて)、腹が大きくなった女性の様子」であろう。「合歓」であるかな・・・
 「旡」の類字の「无(ブ・ム)」は「無の意味」である。「无妄の災」とは「理由なくしての災難」である。「強姦」であるかな・・・
 「博愛(ハク-アイ)」、「九州福岡県の博多(ハカ-タ)」の「博(ハク)」であった・・・「博多(ハカタ)」の同音の地名は愛媛県伯方島の「伯方(はかた)」で、愛媛県今治北西の「波方(なみかた)」とヨムが、「ハかた」とヨメル場所である。
 「博-多(はか-た)」の同音の「はか」は「墓(ボ)」である。「タ」は「多(おおい)」である。「博多」は「博=十+専」で「専」は「叀(かかる・まつわる)」+「寸(スン・すこし・はかる)」である。「博多」とは九州大名の最大貿易港でもあった。戦国時代末期はキリシタン大名の所在地であった「十字架の専ら多い地」とは「キリシタンの墓が多い地」ではないのか・・・古代の古墳遺跡も多いが・・・博多とは「筑前」であった。「筑前(福岡)」と「豊前・豊後」で活躍した人物は「大友宗麟」であった。
 「博打(ばくち)」は「双六遊び・囲碁・勝負を争う遊び」と漢和辞典にあるが、「博多(ハクダ・ハクタ)」ならば「博多」は「博打(ハクダ)」である。
 「博弈=バクエキ=博奕」は「賭博(トバク)」であった。
 「博弈=バクエキ=博奕→賭博」・・・「亦の一の人」とは「古事記」に出てくる「亦の名」の「亦」である。「亦(エキ・ヤク・また・もまた・両脇)の廾(キョウ・ク・捧げる・手をこまねく)」とは何ぞや?・・・「こまねく」とは「腕組みをする」で、「何もしないで、ただジィ〜ッと傍観しているコト」である。
 ・・・「ヤク・エキ」に遭遇して腕組をして考え込んじゃっているヒトの様子だろう・・・「ヤク=厄・訳・薬・妬く」、「エキ=疫・益・娃嬉(恵姫)」 である。
 「弈=エキ=奕」に類字するのは「野蛮・南蛮・蛮族」の「蛮=亦+虫(中・ム)」である。「亦の中のム(私・邪)」である・・・「ヒトの両脇のヨコシマ」である。「横島・横島」と言う地名を探せばその意味も理解できるに違いない。

「博多・博愛」の延長・・・
 大友宗麟・・・調べるのが大変デス。例のごとく・・・「現存・古事記」、「現存・日本書紀」に「姓名・文字」関連させながら・・・漢字の「音訓」を「同音異字」で重ねていきたいのだが・・・?・・・とりあえず、注目したい文字は「?・・・」とした。
 以下は「ウイッキペデア百科事典」からの「参考抜粋」したモノの改作です。
 詳しく調べたい方は「ウイッキペデア百科事典」を開けて調べてみてください。
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 戦国の北九州東部を平定したのが、「?大友宗麟」である。
 当初は禅宗に帰依していたが後に「?キリスト教」への関心を強め、ついに自ら洗礼を受け「?キリシタン大名」としても有名。
 一時は九州6ヶ国を平定し、九州最強の大名であった。
 しかし「?キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には「?豊臣秀吉傘下」の一大名に甘んじて「?豊後」1国を維持するのがやっとというほどまでに衰退した。
 享禄3年1月3日、大友家第20代当主・大友義鑑の嫡男として「?豊後府内」に生まれる。
 義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教信仰を許可した
 毛利氏は「?山陰」の「?尼子(あまこ)」氏を滅ぼすと、再び北九州へ触手を伸ばすようになる。
 「?永禄10年(1567年)」、豊前筑前方面で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起しこれに重臣の「?高橋鑑種」も加わるという事態になったが、宗麟は「立花道雪」らに命じてこれを平定させた。
 また、この毛利氏との戦闘の中で宗麟は宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請し、その理由として自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。
 これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないようにとの手紙を出している。
 永禄12年(1569年)、「?肥前」で勢力を拡大する「?龍造寺隆信」を討伐するため自ら軍勢を率いて肥前に侵攻するが元就が筑前に侵攻してきたため、慌てて撤退する。
 そして重臣の「?吉岡長増」の進言を受けて大内氏の残党である大内輝弘に水軍衆の「?若林鎮興」を付け周防に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を「?安芸」に撤退へと追い込んだ(大内輝弘の乱)。

 「?天正5年(1577年)」、薩摩の島津義久が「?日向侵攻」を開始すると、宗麟も大軍を率いて出陣した。
 しかし天正6年(1578年)に「?耳川の戦い」で島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。
 なお、耳川の戦い直前の7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。
 以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「?府蘭」を用いている。
 天正14年(1586年)、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉大坂城で謁見。
 しかし島津義久はその後も大友領へ侵攻し、天正14年(1586年)12月には島津家久軍が「?戸次川の戦い」で大友方を破って本拠地である豊後国府内を占領してしまった。
 この時、「?丹生島城」に籠城していた宗麟は大砲・「?国崩し(フランキ砲」のこと。その大きな威力からこのように名づけられた)を使って「?臼杵城」を死守し戦国大名としての意地を見せた。
 天正15年(1587年)、秀吉は自ら兵を率いて九州征伐に出陣し各地で島津軍を破っていく。
 宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に「?豊後国津久見」で病死した。58歳。死因は「?チフス」が有力とされる。
 「?墓」は大分県津久見市内と京都市北区の「?龍寶山大徳寺」の塔頭寺院である「?瑞峯院」にある。
 さらに津久見市上宮本町の「?響流山長泉寺」に位牌がある。
 肖像画は「?瑞峯院」に所蔵されている。
 宗麟の死の直後はキリスト教式の葬儀が行われ墓は自邸に設けられたが、後に嫡男・義統が改めて府内の大知寺で仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。
 その後、墓は荒廃したが「?寛政年間(1789〜1801年)」に宗麟の家臣の末裔である「?臼杵城豊}が自費で改葬した。
 津久見市内の現在の墓所は昭和52年(1977年)に当時の大分市長・上田保によって新たにキリスト教式の墓として、従来の場所から移されたものである。

 キリスト教と信仰、「?南蛮文化」キリシタン大名としても知られる義鎮だが、天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルを引見したことがキリスト教との出会いであった。
 27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。
 領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。また博多商人の「?島井宗室」や「?神谷宗湛」らと交友し、日明貿易や日朝貿易も行った。
 しかし実際に明国や朝鮮などとの貿易が利益をもたらしていたのは15世紀後半辺りまでで、「?三浦の乱」を契機に少なくとも明・朝鮮との貿易関係は衰退し、名義上大友氏の看板を利用した対馬の国人や博多の豪商らに実利は移ってしまった。
 また輸入品は食料や武器など経済・軍事的に影響する物は少なく、多くは所謂「奢侈品」であったとされ、それ程実質的な利益は上げていなかったことが外山幹夫の著作などで指摘されている。
 むしろ義鎮時代は有力家臣へ恩賞として与える領土が不足し、寺社領の没収や領地の代わりに「?杏葉紋(大友氏の使用した家紋)」の「?使用権」を与えるなどして代用するなど経済状況は決して良くはなかった。
 天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名らが「?ローマ」へ派遣した「?天正遣欧少年使節」では、「?伊東マンショ」を名代として派遣している(ただし、この件を義鎮本人が関知していなかった可能性が高いという説もある。
 宗麟は領内に、宣教師が伝えた西洋医学の病院を作り、領民は無料で診察を受けることが出来た。これは日本最初の「?総合病院」とも言われる。
 キリシタンになったのは、南蛮の優れた文化を取り入れるためともいわれる。
 しかしキリシタンになったことが大友家臣団の対立にも結びつき、これが宗麟の晩年に国人の蜂起という形で表面化することとなったのは皮肉である。
 また宗麟は、キリスト教信仰に深入りした余り、神社仏閣を徹底的に破壊する、金曜日・土曜日には断食をする、それまで家に伝わっていただるまをも破壊するなどという行為も行なっている。
 後半生にキリスト教に傾倒し寺社仏閣を破壊したという話が知られているが、これは「?日向国侵攻」においてキリスト教国建設を夢見たとされる義鎮が日向国内限定で行った行為であり、本拠である豊後国内で義鎮が寺社仏閣を破壊したことを示す資料は見当たらない。
 しかし、次期当主であった義統は筑後国豊後国内などで積極的に寺社の破壊を行っている。
 これは宗教的な問題からというよりも、大友家の勢力が衰退する中で寺社勢力が非協力的になった為と家臣に所領として与える土地がなくなった為、寺社領を取り上げて家臣に与えるという政治的理由の方が大きかったとされる。
 いずれにせよ、義鎮が積極的に寺社破壊を命じたのは一時的に日向北部を支配した時期だけである。
 若い頃、南蛮人が持ってきた鉄砲が試し撃ちの際に暴発して弟が手に怪我をしたが、その時に進んだ西洋医学による応急処置を見た宗麟は西洋の技術に感銘を受けたといわれる。
 それがきっかけなのか、1557年・府内(現在の大分県庁舎本館のある場所)で日本初の西洋外科手術をポルトガル人医師1名と、助手に日本人医師2名の計3名で手術を行わせた。
 当時の豊後は「?らい病」が風土病になっており、らい病の手術と大分県史に記されている。
 日本人医師2名は杏葉紋・苗字・太刀を宗麟から賜っている。
 現在、大分県庁舎本館前には「日本における西洋外科手術発祥の地」の記念碑が立っている。
 臼杵城に篭城する際に、宗麟はキリスト教徒もそうでない者も城に避難させ、自ら握り飯等を配った。
 宣教師はそうした行いを記録にまとめ、その中で宗麟のことは「王」と記している。
 また信仰を深めるほどに、キリスト教の「汝、殺すなかれ」という教えと、戦の上で殺生は避けられない戦国乱世の現実との間で煩悶していたと伝えている。

 父 大友義鑑
 母 大内義興の娘(異説として公家の娘、家臣の娘)
 兄弟
 女(一条房冬室)
 女(河野通宣室)
 義鎮
 晴英(大内義長)
 親貞
 塩市丸
 妻
 一色夫人
 奈多夫人
 某女
 某女(家臣・一萬田親実の妻)
 子
 義統(吉統、洗礼名「コンスタンチノ」)
 娘(一条兼定室のち清田鎮忠室、洗礼名「ジェスタ」)
 娘(久我三休室)
 親家(洗礼名「ドン・シモン」)
 娘(臼杵統尚室)
 桂姫(小早川秀包室、洗礼名「ドナ・マセンシア」)
 親盛(洗礼名「パンタレアン」)